4−1.


 鼻をぷぴぷぴと鳴らして眠っているかわいい姪っ子を横抱きしながら、姉が出してくれたアイスティーの入っているコップを掴む。
 コップ周りに付着した水滴が私の腕の中で眠る姪っ子の上に落ちないように細心の注意を払いつつ、口を付けて喉を潤せば「ふう……」という息が漏れてしまった。

「ごめんね、仕事おわりに寄ってくれたのにミルクとか任せちゃって」
「ううん! 私がやりたいって言ったんだもん。それにしても赤ちゃんってほんとにかわいいねえ」

 すやすやと眠るちいさい命は、この世に爆誕してからまだ半年とすこししか経っていない。乳児特有のふわふわとした、ミルクのようななんとも例え難いかぐわしい香りをかぎたい欲求に耐えられなくなった私は、とうとう眠る彼女の頬に鼻を寄せてしまったのだが、寝入っている姪っ子が目を覚ます様子はない。

「仕事で赤ちゃん撮ることあるし、保育士さんとか写真スタジオのスタッフさんの次ぐらいには赤ちゃんと触れ合ってると思うんだけど、こうして触ったりかいだりできるのは血族の特権だよね」
「舜斗が赤ちゃんだったのも、もう八年ぐらい前だもんね。名前はあの時まだ高校生だったっけ?」
「うん。お姉ちゃんが里帰りしてきてくれたの、うれしかったなー」

 甥っ子と姪っ子と同じく、私たち姉妹も八つ歳が離れている。私が物心ついた幼児の頃に姉はもう中学生で、大きなお姉ちゃんがいるということがちょっぴり自慢だった。
 歳が離れていたせいか喧嘩をすることもなく、姉は私のことをとてもかわいがってくれたし、それは今も変わらない。私が大学に進学するために実家を出て、仕事を持ち自立した現在は、姉妹というよりも友人同士のような関係性を築いている。
 そして、あの素直で快活で齢八歳にして既に大人へ気を遣うことのできる甥っ子がもう小学三年生。時の流れていく早さをひしひしと感じながら、ふと時計に目をやる。時刻は十五時過ぎ、きっと彼は現在夢中になっているミニバスケットボール部の練習に全力で勤しんでいるに違いない。
 そこで思い出してしまった。かわいくて大好きな甥っ子に、私はいま秘密にしていることがあるのだ。

「今日練習のあとに動画の撮影するらしくてよ、それでちょっと遅くなると思う」

 昨日の晩、私が作った晩ごはんをバクバクと口に運び、いつものように綺麗に平らげた同居人──もといみっちゃんは「ごっそさん!」と手を合わせてからそう言った。
 それに「うん、りょーかいです」と返事をして、一緒に食事を始めたのにまだ食べ終わっていない自分の分の食事に視線を落とす。
 みっちゃんはテキパキと自分のお皿を重ねてキッチンのシンクに置くと「便所」とひとこと言い、リビングからいなくなった。いやトイレにいく報告なんか別にいらんし、と思いながらも、毎度食後にはちゃんとお皿を片付けてくれる彼の自然な行動に育ちの良さを感じる。
 今までずっとスポーツ、というかバスケまっしぐらな人生だったんだろうな。こないだの脱衣所での件しかり「それはだめでしょ!」みたいなことも、まあちょいちょいあったりするんだけど。
 そう、私のルームシェア相手であるみっちゃんこと三井寿はプロバスケットボール選手で、彼は姉夫婦の住む地域をホームタウンとするチームに所属しており、更に甥っ子に多大なる影響を与えている人物なのである。
 私ね、実は今あんたの大好きなミッチー選手と一緒に住んでるんだよ。なんて、やっぱり舜斗には言えるわけないよなあ。
 嫉妬されるだろうとかそういう意味ではなく、みっちゃんの選手的な活動に支障が出るであろうことは想像に容易い。伝えてしまえば、そうならないために舜斗に口止めをしなくてはいけなくて、彼がいくら聞き分けのいい子どもであっても小学三年生の男子がそれを黙っていられるとは思えないのだ。

「で、どうなの? 新しいルームシェアの人とは。千夜ちゃん出てってからもう一ヶ月以上経つでしょう?」
「へあ!? あ、あー、うん! 順調!」
「ほんとにぃ?」

 テーブルに肘をつき、手のひらに顔を乗せ頬杖をついている姉の表情はどこか訝しげだ。しかし、そんな彼女の顔に滲む感情は不安だとか心配だとかではなく「なんか面白そうな感じがする」という方向に大きく傾いていることを察するのは容易だった。
 舜斗には言えないけれど、姉ならば──というか、姉には寧ろ知っておいてほしいかもしれない。万が一何かがあった時に、事情を知っていて頼れる身内は居た方がいい。とはいえ、その何かは自分でもわかっていないし、今のところみっちゃんと私が一年間という期限付きルームシェアを送っていく支障や弊害はあまり思いつかないのだけど。

「お姉ちゃん、あのさ……びっくりしないで聞いてね」
「やだ、なぁにその前置き。びっくりしなかったら罰ゲーム受けてもらうからね」

 そうだ、この人はそういう人だったな、と思いながら思わず苦笑を漏らす。たぶん千夜子に話した時のように「えっ!? それ大丈夫なの!? いいの!? 平気なの!?」みたいな大騒ぎにはならないだろう。

「今ルームシェアしてる人、お世話になってるマンションのオーナーのおじいちゃんのお孫さんなんだけどさ」
「そういう感じになってたの? 信頼得てるんだ、よかったねえ」
「うん、まあそれはいいとして」

 今朝、目が覚めて自室を出ると、既に起床しランニングを終えたらしいシャワー後の装いのみっちゃんが、ソファーに座ってくつろいでいた。
 こちらを振り返り、開いたドアの向こう側で目を擦っている私の姿を視認した彼の「おはよ……ってハハ! すげー寝癖! 眉毛もどっかに置いてきちまったのか?」とよくいえば屈託のない、悪くいえばデリカシー皆無の発言が思い出される。
 みっちゃんって男子校出身とかだっけ。男前だし見てくれがいいから相当モテていただろうし、現在進行形でモテているのだろうけれど、女性の扱いというものをなにひとつわかっていない。
 そんなことを思いながら「私の眉毛はお母さんのおなかのなかに置いてきたの」と返せば「じゃあその眉毛は今も名前の母ちゃんの腹ン中で元気に生えてんだな」なんて間髪を容れずに面白いセリフで切り返してくる。
 そんなことぐらいで、起きがけ早々に投げられた配慮かけらもない無遠慮発言を「まあいいか」と思えてしまったので、みっちゃんは本当に得な性格をしていると思う。
 そんな朝のトンチキエピソードを思い出す。私の膝の上で、おなかを上下させながら眠る姪っ子のふわふわとした頭に触れながら「実はさ」とようやく話を切り出した。

「その相手ってのが、舜斗がだーいすきなミッチー選手なんだよね」

 目の前で頬杖をついていた姉は、その顔に浮かべていたニヤニヤ笑いを封印すると、目を丸くして、ぱちくり、という擬音がつきそうな程スローなまばたきをした。

「えっ、ええと……ちょっとまってね、お姉ちゃんいま頭が混乱してるんだけど、それってつまり……え、どういうこと?」

 どういうこともなにも、いま言った通りだよ、と続ける。
 普段からマイペースで、おっとりしていてあまり物事に動じることのない姉ですら、さすがに動揺しているようだ。びっくりさせられなかったら罰ゲーム、という理不尽ルールは、どうやら回避出来そうである。
 しかし、そんな言葉では満足出来ず、びっくりのタームを大いに超えた様子の姉は「なにそれすごい! もっと聞かせて!」のシーケンスへ突入してしまっている。
 千夜子が新居に引っ越していったあの日、実はマンション近くにある公園のバスケットコートで出会っていたこと。でもその人がプロ選手だなんて知らなかったから、感謝祭では舜斗の付き添いでサイン列に並び、お互いに顔を合わせた時はとても驚いたこと。更にその次の日、うちのインターホンを鳴らしたのが三井寿選手その人であったこと。
 みっちゃんが舜斗の帽子へのサインを終え、ついでのように「おまえは?」と問うてきたとき、それを断った私のスマートフォンを引っ掴んで裏に強引なサインを施してきたことは、ファン感謝祭から帰宅したあと、姉にも伝えてあった。
 それを姉は「三井選手って行動読めないよね、チームの動画とかライブ配信でも見てくれからは想像できないぐらい天然って感じだし。試合の時はかっこいいのに」と話していたことを思い出す。その時はまさか、こんなことになるなんて思ってもいなかった。

「……そんなかんじでして」

 みっちゃんと暮らし始めて一ヶ月、いまのところは問題なく過ごせていることを伝える。
 それは嘘偽りのない真実だ。カラッとしていて自分を取り繕うことをせず、脳から直接発言男である彼との生活は、知り合ったばかりとはいえそれほど苦ではない。自分の生活リズムやペースを崩されることなくお互いの生活を保っているので、ルームシェアの利点を大いに活用しながら、とても上手くいっているといえるだろう。
 このあいだ脱衣所で起こったあれそれだとか、思ったことをすべて口に出すせいで「それを女子に言うのはどう考えてもアウトじゃない!?」と思わざるを得ない数多の発言のことはまあ、言わないでいいだろうという結論に達する。
 私の話をうんうん、と頷きながら聞いていた姉は「ふーん、なるほど」と小さく漏らしてから、ふふ、と笑った。

「そっか、確かに舜斗には言わないほうがいいね。でも私個人の感情の話をすれば、名前がそういう状況にいるの、なんだかうれしい」
「え? どういうこと?」
 姉が発した「そういう状況」というのが、私がいまルームシェアをしているのがプロバスケットボール選手の三井寿であるこの状況を指していることはすぐにわかった。けれど、うれしいというのはどういう意味だろう。
「私と名前って歳が離れてるし、実家にいた頃は恋バナとかしなかったでしょ? でも、もしかしたら今になってできるのかなって思って」

 それを聞いて、そういえばそうだな、と視線を斜め上にやりながら考えてみた。
 ん? いや、ちょっとまって。恋バナしたことなかったよねー、じゃなくて、それってつまり私とみっちゃんでそういうことが起こるって、そういう感じになるって、この人までそんな風に思っているという意味に相違ないわけで。

「だから! そういう感じじゃないんだってば!」
「でも、わかんないでしょう? いい歳した男女が共同生活って少女漫画みたい! キュンキュンしちゃう」

 そういうドラマがこないだまでやっててちょうど観てたんだもん、最近よくテレビに出てる女優さんが主演してたやつ、と続ける姉を見遣る私が、右眉と左眉の眉根がひっつくのではないかと思うほど極限まで眉間にシワを寄せていたって、目の前に座る姉が気にする様子は微塵も無さそうだ。
 千夜子も姉も、私が男の人と住んでいるというだけでこうも盛り上がれるのは何故なのか。そう考えてから「何故なのか」という自問自答みたいな答えはすぐに出た。
 それは、私が大学生であった時代以降男っ気なんかからっきしで、ゴーイングマイウェイを邁進し続けているからだろう。正直なことを言ってしまえば、誰かとそういう関係になるのがめちゃくちゃに面倒くさいのだ。
 まず第一に、今は自分のことで精一杯だし、そんな感じなのに相手のことも考えて生活をしていくだなんて、私のキャパシティを大いに超越してしまう。加えて、私はどうやら面倒くさい男性に好かれてしまう星の元に生まれついているに違いないことを、過去の経験から学んでいた。
 付き合う以前は「オレ、連絡とかマメじゃないタイプなんだよね」とか言っていた男性が、じゃあお付き合いしましょうか、って流れになった途端「今どこ、誰といんの、なんで連絡返してくんないの」と束縛男化していくというパターンが何度も何度も続いてしまい「はい、もういいです、私に彼氏はいりません」状態になってから今日まで、そういうスイッチは切ってしまっている。
 そしてこれからも、私が生涯を終えるその時までオンになる予定はない。

「私は結婚して旦那も子どももいるし、もう自分以外のそういう話でしかときめきを得られないのよ」
「まったく、外野は好き勝手言えるよなあ」

 千夜子もそんなかんじだったよ、とボソリと呟けば、姉は柔らかく目を細めながら「千夜ちゃんは名前のこと心配してるんだよ」と言った。私より千夜ちゃんのが名前のお姉さんっぽいよねえ、と続けた彼女は、私の目の前でケラケラと楽しそうに笑っている。
 頑固で天邪鬼な私は、周りから言われれば言われるほど、ただひたすらに「みっちゃんのことそんな風に意識するわけないじゃん」という気持ちが強まっていくばかりで。
 そう、みっちゃん──三井寿選手と私の関係は、どこまでいっても一年という期限付きのルームメイトであり、それ以上にはなり得ないのだ。



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