3.


 自宅に着いて鍵を開け、玄関でしゃがんでしまいたいのをなんとか堪えながら、立ったままスニーカーを脱ぐ。そんな横着をしたのは、今ここでしゃがみこんだら立てなくなってしまうことがわかっていたからだ。
 よたよたと廊下を歩き、半開きになっていた奥の部屋──もとい自室へと入ると、担いでいたカメラバッグをゆっくりと下へ降ろした。

「あー、つっかれたぁ……」

 そのままの勢いで自分のベッドへうつ伏せに倒れ込む。地面から離れ、重力の圧から解き放たれた足の裏がじんわりと熱い。
 もう一ミリだって動きたくないという気持ちと、それと相反するように靴下も服も下着も全てこの場で脱ぎ捨ててしまいたい気持ちが私の中でせめぎ合っている。
 動きたくない、このままここに沈んでいたい。だけど仕事をこなしてきた私はたっぷり汗をかいているし、このまま寝落ちてしまうわけにはいかない。なぜならば、同居人のために夕食の準備をしなくてはいけないからだ。
 とりあえずシャワーを浴びなくちゃ、と頭では思っているのに、体力を限界まで使い切った体はそれすらも億劫なようで、その体を起こそうとする気配すらない。他人事のように状況報告を連ねているが、これは自分自身の話である。
 五人家族のファミリーフォト撮影の仕事は、昼すぎからの二時間程度だった。それにしても、無尽蔵の体力を持つ二歳、四歳、六歳の三兄弟はそりゃあもう動きっぱなしの暴れっぱなしで、カメラを構えながらそれを追いかけ、回り込み、うまい具合に撮影すべく頭と体を酷使し続けた二時間は、私にとって相当な激務だった。
 正直へとへとだし、もう動けない、しんじゃうって思ったし、今だってそう思っている。けれど、しあわせそうな依頼主たちを画角におさめ、人差し指でシャッターを切っている最中は、私までしあわせのお裾分けをもらっているような気分になった。
 これだからこの仕事が好きで離れられないのだ。止まらなくて止められなくて、まだまだいける! やれる! って結局いつも全身全霊を注ぎ突き詰めてしまう。
 その甲斐もあってか、今日はなかなかいい感じに撮影が出来た気がする。っていうか、そうでなきゃこの疲労に見合わない。
 早くパソコンの画面越しにデータを確認したり、現像作業を進めたいと思いながらも、電池が切れてしまっている体はこのとおりベッドに沈んでいる。
 履いているジーンズのポケットに入れたままにしていたスマートフォンが聞き慣れた着信音を鳴らしたのはそんな時だった。低く呻きながら緩慢な動きでポケットからスマートフォンを引っ張り出して、なんとか通話のマークをタップした。

「あ、名前! いまだいじょうぶ?」

 聞こえてきたその声は、三週間前にこの部屋を出て、新居に引っ越していった幼なじみ兼親友の声に違いなかった。
 今までほとんど生活音のように感じていた千夜子の声にほっとしながら「だいじょうぶだよぉ」と返事をすれば、電話の向こう側にいる彼女が「あはは、全然だいじょうぶじゃなさそうな声だけど」と小さく笑うのが聞こえた。

「出張撮影? その感じは子ども関連とみた」
「あたりー、五人家族の三兄弟! もうすんごいパワフルだったよ、世の中のお母さんたちってほんとすごい」
「そりゃ大変だ、お疲れさま」
「ありがと! でもすんごい楽しかったよ! すんごいつかれたけど」

 ごろんと寝返りをうって、天井を見上げながら通話を続ける。
 さすが千夜子だ、今までも私が仕事でへとへとになって帰宅して、ベッドの上で溶けている様を何度も、それこそ何十回も目撃しているだけある。きっと、彼女には今の私の状態がありありと想像出来ているにちがいない。

「ところでさ、そろそろ近況聞かせなさいよ」

 あんた何にも報告してこないんだもん、上手くやれてんの?
 そう続けられた千夜子の言葉が、何を指しているのかはすぐにわかった。ぽん、と頭の中に浮かんだのはこの間から同居人となった男、みっちゃんこと三井寿の顔。
 みっちゃんは、なんていうか一言でいってしまえばへんなひとだと思う。
 プロのスポーツ選手だっていうのに盗撮まがいのことをされても「別にいい」で済ませてしまうし、人のスマートフォンのケースに勝手に自分のサインを書いてしまう強引な非常識さも、ストレートにへんだと思う。しかし、一緒に暮らし始めて一週間が経過した今も、困っていることは特にない。
 みっちゃんは現在シーズンオフで遠征に出ておらず、自分で提案した通り、この家で寝食をする間はゴミ捨てや掃除をやってくれている。ごはんを食べるときにはしっかりと両手を合わせて「いただきます」と言い、食べ終わると「ごちそうさま」を言い、私の目を見ながら「ありがとな」と毎回ちゃんと言ってくれる。そう、彼はへんなところとまともなところがちぐはぐに同居している不思議な男なのである。
 それをなんと伝えたものか。悩みながら「うーん……えっとねえ」と言い淀んでいると、千夜子が「え、もしかしてとんでもない人来ちゃったの? やっぱ無理そう?」と心配そうな声音で問うてくる。

「んーん、ぜんぜん問題ない。……問題ないんだけどさ」
「だけどなによ、含んだ言い方するじゃない」

 言うか、言うまいか。いや、言わないという選択肢がないことは既にわかっている。えっとねえ、と前置きをしてから意を決し、すう、と息を吸い込んだ。

「オーナーのおじいちゃんが連れてきたルームシェアの相手ってお孫さんでさ、ついでに男の人だったんだよね」

 それから、通話が切れたのかと思うぐらいの時間が経過してから「はぁ!?」という大音量の、言葉になりきれていない、単語でもない声が持っているスマートフォンを通して私の耳元で弾けた。まあそうなるよね、わかる。わかるけど、そのボリュームはしばらく耳鳴りが止まないぐらい大きくて、私は思わずスマートフォンを耳から遠ざけていた。

「お、男と住んでるゥ!?」
「うん」
「な……! うんってあんた、その、つまりそういう感じなの!? この短期間で!?」
「へ? そういう感じ……? えっと、ただのルームシェアだけど」

 千夜子と一緒に住んでたのと全く変わらないよ、と続けると、間髪を容れずに「ちがうわよ! ほんとにあんたって子は!」と母親みたいなセリフが勢いよく飛んできた。
 きっと、通話の向こう側に居る千夜子は立ち上がって前のめりになっているに違いない。容易に想像することが出来る。

「付き合ってんのかって話!」
「えー、あはは! そんなわけないじゃん、ルームシェアの相手が男の人だったよ、ってだけなんだってば」
「いい歳の男女がひとつ屋根の下で住んでるっていうのに、それがただのルームシェアで済むもんですか! ていうかその男、大丈夫なの!? ああ、私が結婚なんてしなきゃこんなことには……!」
「こらこらおやめなさいな、旦那が泣いちゃうよ」

 小心者だけどとっても優しい、千夜子の旦那さんであるダイちゃんがしょんぼりと眉毛を下げる姿を頭の中に浮かべながら嗜める。
 というかそもそもみっちゃんは、この部屋を訪れてルームシェアの相手が異性の私であると知った時「おまえは女でオレは男だろ?」と渋るような反応を見せていた。
 それをほとんど強引に引き留めたのは、この一年を何事も無く過ごし終えれば引っ越しも無しで家賃半額、という破格の交渉に目が眩んでいた私の方だったわけで。
 みっちゃんのことを「へんなひと」だと表現してしまったけれど、それを言うなら私も相当「へんなひと」であると、さすがに認めざるを得ない。意図せず自嘲を含んだ苦笑をしてしまった。

「……あたしはさ、名前のこと家族みたいに思ってるから心配なのよ」

 口うるさくてごめんね、と続けた千夜子の気持ちはとてもうれしかったし、何よりそれはわざわざ口にされなくてもよくわかっていたので「ううん、私がこんなんだから千夜子が気になっちゃうのわかってるし」と返事をした。

「で、オーナーのおじいちゃんの孫だったって?」
「うん、そうなの!」
「それさあ、完全にそういうつもりで充てがわれてるじゃない」

 充てがわれてる、の意味はすぐにわかった。なぜならば、みっちゃん自身もあの場でそれを指摘していたし、みっちゃんの祖父でオーナーのおじいちゃんもそれを否定することはしなかったからだ。
 つまるところ、私はおじいちゃんに相当気に入られているらしく、こうして孫とのロマンスを期待され、その結果この状況になっているというわけである。
 まあ、期待されていたとしても彼と私がそういう風になるビジョンは現在まで一切、微塵も、これっぽっちも見えてこないので、思惑を外れてしまい申し訳ありませんという気持ちしかないのだけど。

「……まあ、それはそうっぽい。けど、そんな上手くいくわけないよねって」

 みっちゃんとも話しててさ、と続けると、千夜子が「なに? みっちゃん?」とすかさず口を挟んできた。

「あ! あー、同居人のことそう呼んでるの。三井寿って名前だからみっちゃん」
「へえ。で、そのみっちゃんは何やってる人なの?」
「プロバスケットボール選手」
「ふーん。……は!? なんかすごくない!?」

 めちゃくちゃいい物件なにおいがするんですけど! と何故か興奮し始めた千夜子の声を聞きながら「物件て言い方はどうなの」と思わずツッコミを入れてしまう。
 彼女は少しだけ静かになったかと思うと「いま三井寿って調べてみたんだけどさ……」と前置きを口にしてから、一呼吸置くように間を空けた。どうやら、静かになっていた間に検索をかけていたらしい。

「写真見つけたけど、なかなかの男前じゃん!」
「そうなんだよね、男前ではあるんですよね」

 まあその男前な見てくれと性格の間にはめちゃくちゃギャップありまくりなんだけどね、ということは、みっちゃんの名誉の為に口をつぐんでおくことにした。

「えっ、いいじゃん。本当にありえないわけ?」
「付き合うとかどーだとかの話? ないない、ありえない」
「なんで言い切れるのよ、わかんないでしょ」

 そう言われて「確かに、なんでありえないって言い切っちゃってるんだろう」と自分でも思ったけれど、実際に今のところみっちゃんに対してそのような感情が生まれてくる気配は一切ない。
 というか、彼の身内にそういう風に発展していくのを期待してお膳立てされているこの状況が、良くない意味でむずがゆくてたまらない。ハッキリ言ってしまえば、あんまりいい気持ちとは言えないのである。
 大体、私が盗撮まがいのことをしてしまったのが初対面だったし、そもそもみっちゃんは先ほど自分で口に出して伝えた通り、プロのスポーツ選手なのだ。一緒に住んでいるとはいえこの状況は一時的なもので、そもそも生きる世界が違う。ついでに、私のかわいい甥っ子は彼の大ファンである。今は、それを秘密にしているこの状況が正直なところいちばん心苦しかったりする。
 改めて、今の私の状況ってとんでもないことになってるんだなあ、と他人事のように思ってしまった。

「まあ、うまくやってるならいいわ。けどなんかあったらちゃんと連絡してよ?」

 っていうかなくても連絡してね、さびしいから、とほんのり気恥ずかしそうに言った姉御肌な幼なじみにほっこりしながら「うん」と返事をする。
 じゃあね、と通話が切れて、持っていたスマートフォンを放り出すようにベッドの上に置く。大好きな親友の声を聞いて、今までと変わらない気の置けないやりとりをしたら、疲れ果ててはたらくことを放棄していた頭と体が少しずつ動こうとする気力を取り戻してきたのを感じる。
 そろそろごはんの支度もしなくちゃだし、さっさとシャワーを浴びちゃおう。腹筋に力を入れて「よいしょお!」と声を出しながら上体起こしをするように勢いよく起き上がり、くたくたの体に鞭を打って脱衣所へ向かうことにした。
 ぽいぽいと衣服を脱ぎ捨て、下着も何もかもを洗濯カゴにぽん、と投げ入れてから、下着の上に脱ぎ捨てた衣服をそっと重ねて隠した。
 今までは同性で、しかも幼なじみの千夜子と一緒に住んでいたからあまり気にしていなかったけれど、現在の同居人は男性である。
 そういうところにはちゃんと気を配る必要があるので、みっちゃんの目に入るかもしれないところに自分の下着を置いたり干したりすることは避け、彼が意図せず目にしてしまうことがないように一応は気を使っているつもりだ。
 幸い、洗濯とそれを取り込むのは私の担当としているので、今のところはなんとかなっている。たぶん、彼もそれを察して私に洗濯を任せてくれているのだろう。
 逆に、何も考えずに彼の下着を洗って干し、畳んで手渡したら「名前はその……あんまこういうのに抵抗ねえんだな」と驚かれてしまった。
 そういえばそうだな、と思ったけれど、私と彼の関係はやはり単なるルームシェア相手で、それ以上でも以下でもない。あえていうならば、きょうだいみたいなものだろう。いつの間にか、私の中ではしっかりとそのような線引きが出来ているらしかった。
 正直なことを言えば、男の人のボクサーパンツを洗って干しているときは不思議な気持ちになった。それは同棲中の彼氏のパンツを洗濯した彼女の気持ちというよりも、息子のパンツを洗って干している母親の気持ちに近かったような気がするけれど。
 浴室に入り、蛇口を捻る。手にとったクレンジングを小鼻や眉間、顎のあたりにくるくると馴染ませ、ぬるま湯で洗い流す。洗顔料を泡立てネットに出して揉み込み、作った泡で入念に洗顔をして流したら、思わず「ふう」という息が漏れた。
 へとへとに疲弊して帰宅し、お風呂が面倒で仕方ないと感じるときって決して少なくないけれど、実際は入浴して後悔したことなど一度もない。それなのに、どうして毎度面倒くさくなっちゃうのかなあ。
 頭と体を勝手に洗って拭いて乾かして、スキンケアまでしてくれる全自動の機械があったら最高なのに、と頭の悪いことを考えながら、ごしごしと頭を洗い、シャンプーを流してトリートメントを馴染ませる。
 シーズンオフだが、昼過ぎから練習に出ていったみっちゃんは夜には戻ると言っていた。
 私が帰宅したのが十七時過ぎで、それから少しぐだぐだしながら千夜子と電話をしたりしていたから、帰宅してから軽く一時間以上は経過しているだろう。
 みっちゃんはきっとお腹を空かせて帰ってくるだろうし、お風呂から出たらさっさと晩御飯を作り始めなくては、と考えながらトリートメントを流す。
 シャワーを浴びながら体をこすっていると、汗だくだった体がさっぱりしていくのがわかる。ボディーソープで全身を洗い、泡を流してシャワーを終える。暑い夏はシャワーだけで済ませてしまうが、冬はこの後すこしだけ長めに半身浴するのが楽しくて、洗面台の下にはストックしてある入浴剤がたらふく眠っている。
 きゅ、と蛇口を閉じ、浴室用の椅子から立ち上がって扉を開ける。洗濯機の上にあるラックに並んだタオルを手に取り、それで顔を拭ったら、つい「んー、すっきりした!」とひとりごとを言ってしまった。
 突然脱衣所の引き戸が開いたのはそんな時で。

「え……?」

 タオルから顔を離して、その場所に立っている人物をじっと見据える。そこには、ついこの間ルームメイトとなった同居人──三井寿、その人の姿があった。

「お? ……ふーん、ほお」

 ええと、この状況っていったいどういうことですかね。
 まだ拭っていない髪からぽたりと落ちた雫が胸元を滑る。顎に手を当てながら眉間にシワを寄せ、じっとこちらを見据えているみっちゃんの視線を感じながら、私はぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した。

「……あの」
「おう、どした」
「そろそろ閉めてくれますか? 私これお風呂上がり、全裸、わかる?」
「あー、ワリワリ。いま帰ってきてよ」

 頭が働いてくれないせいで動けない私をじっと見据えたままのみっちゃんは「手洗おうと思ってたんだけどまあいいわ、キッチンで洗う」とか言いながら引き戸を閉め、何事も無かったかのようにその場所からいなくなった。
 私は顔を拭ったその位置で硬直したまま握りしめていたタオルに視線を落とす。混乱している脳みそをなんとか早急に再起動させるべく、小さく唱えるように「えっと、つまり今のは……?」と眉間にシワを寄せながら呟く。
 ぎゅう、と力を込めて目を閉じて、それをぱっと開いてからその視線を彼がいなくなった引き戸へと移した瞬間、ブワッと汗が噴き出してきた。
 え、いまめちゃくちゃ普通にガン見されてたよね? っていうか、上から下まできっちり観察されてた、間違いなくじっくり見られてた。

「えええ……なにあの男……」

 っていうか女の裸を凝視しておいてあのうっすい反応、謎すぎなんですけど。こっちはめちゃくちゃ見られて普通に恥ずかしかったんですけど。それで、私はこのあとどんな顔をしてリビングに現れたらいいわけ?
 不可抗力とはいえ、生まれたままの姿を見られてしまったことに湧き上がってくるのは極大の羞恥心。しかし、それよりもあの軽い感じになんだか無性に腹が立った。
 いや、だからって別に動揺してほしかったとかそういうことでもないんだけどさ!
 寧ろ、彼の分まで動揺しまくっていることが悔しくてたまらない。もういいや、無かったことにしちゃうしかない。あっちだって「何も見てませんよ」みたいな感じでいなくなってくれたわけだし。たぶんみっちゃんなりに気を遣ってくれたんだよね、めっちゃ見てたけど、すんごい見られたけど!
 ガシガシと頭と体をぬぐい、化粧水を手のひらに出してからピシャリと頬を叩く。こんなことなら、もうちょっと早くダイエットに取り組んでおくんだった。
 スキンケアを終え、ボディクリームをいつもより雑に体に塗りたくり、頭を乾かしてから何事もなかったかのように振る舞ってリビングに戻る。
 リビングの中、二人掛けのカウチソファーに座っているみっちゃんの姿を視界にとらえながら、キッチンにある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
 みっちゃんからのあからさまな視線を感じつつも、それに気づいていないフリをして食器棚から適当に引っ掴んだコップに水を注いでいると、いつの間にか横に移動して来ていた彼が「あー……その、なんだ」と声を掛けてきた。

「う、わっ! なに、瞬間移動!? びっくりしたあ……!」

 驚いたせいで手元が狂い、ほんの少しコップからこぼれてしまった水をその場にあった布巾で拭う。すると、みっちゃんは何やらモゴモゴと「だから、わりぃことしたとは思ってんだよ」とか言いながら心許なく後頭部をガシガシと掻いた。

「名前はえーと、着痩せ……? っつーの、するタイプなんだな?」
「それは太ってるという意味ですか? もういいから、そんなのは自分がいちばんわかってるから! スポーツ選手から見たらそりゃだらしない体ですよ、だからその話は」
「いや、そうじゃなくてよ」

 布巾を握ったまま首を傾げる。
 そうじゃなくてよ、ってなんだそれ。もう脱衣所でのバッタリハプニングから「なんだそれ」以外の感想が出て来なくなっている。
 っていうか、私は何もなかったことにしちゃおうと決め込み、意を決してリビングに来たわけだが、どうやらこの男はまだその話の続きをしたいようだ。出来ればもう、知り合ったばかりのプロスポーツ選手にだらしない体を見られてしまった心の傷はそっとしておいてほしいというのに。
 すると、みっちゃんは「こっちが」とか言いながら胸の前で丸を描いて見せた。そのジェスチャーの意味がわからず、私は無意識のうちに目を細め、眉を顰めていた。
 しかし、次の瞬間にはたと気づく。神妙な面持ちで、そして至極真面目な表情でそんな動きをしてみせたみっちゃんの顔をじっと見据え「それって」と静かに声を発した。

「もしかしてだけど、おっぱいの話してる?」
「それ、正直に言ったら怒らねえ?」
「怒りません」
「おっぱいの話してる」

 おい! この男、やっぱめちゃくちゃ見てんじゃん!
 っていうかあのあとでわざわざそんな感想を述べてくるだなんて、いったい誰が予想出来ただろうか。相手が何も言ってこないのでなかったことにする、もしくは一言だけ謝るのどちらでもなく、まさか「それとなく謝ってから更に感想を言う」だなんて、そんなパターン有りですか?
 しかし、目の前にいるみっちゃんが選んだ行動はそれだったわけで、つまり彼の中では有りだったのだろう。とはいえ、私はこれ以上の我慢を重ねることは出来なかった。
 ニヤけるわけでも、申し訳なさそうに頭を下げるわけでもないみっちゃんにすっと近寄ると、彼は「どうした?」とか言いながら小さく首を傾げる。その悔しいほどに男前な顔面をキッと見据え、手に持っていた布巾で彼の横っ面をべしん! とはたいてやった。

「ってーな! 怒らねーって言ったじゃねーか! ウソつきやがったな!」
「えっち! すけべ! へんたい! デリカシー無し男!」
「なんだよ! おまえが聞いてきたんだろ! つーか男はみんなスケベだ!」
「開き直った! 最低! ていうか人のハダカみた感想伝えてくるってなに!?」
「ウソつくよかいいだろが!」

 一旦は封じ込めたというのに再び甦らされてしまった羞恥心と、どこまでも真っ直ぐで、真っ直ぐすぎてもはや読めなさすぎるこの同居人への消化不良なやるせなさにより、言葉を吐き出し終えた私は息を切らし肩を上下させていた。
 売り言葉に買い言葉。加えて語彙力のない低レベルな言い争い。それは、私が心を落ち着ける為に深く息を吐き出したことで一旦収束することとなった。

「なんか、怒ってる私が間違ってるような気がしてきた……」

 力なくそう言ってからみっちゃんに背を向け、水を注いだコップを手に取ってそのふちに口を付ける。そんな私の行動を、相も変わらずじっと見つめている彼の不躾な視線を感じつつ、水を一気に飲み干してからグイッと乱暴に口元を拭い、再び彼に向き直る。

「あのねえ! みっちゃん、これはあなたのこれからの為に言わせてもらうんですけど」

 そう言いながら体当たりをする勢いで歩み寄り、作った拳を軽めにトン、とみっちゃんの胸に当てる。すると彼は呆気にとられた様子で「な、なんだよ」とほんの少し構えるようなリアクションを見せた。

「声掛けなしで閉まってる脱衣所を開けるのはNGです! これ、今後みっちゃんに彼女とかが出来て同棲始めます、ってことになってからもぜったい気をつけなくちゃいけないことだからね! フラれちゃうよ!」

 言い聞かせるつもりだったのに、いつの間にか早口で捲し立ててしまっていた。だけど、間違ったことは言っていないはずだ、たぶん。
 ──って、何でわざわざ私がこんなことを教えなくちゃいけないのだろう。もういいや、人生の徳を積んだことにしよう。ちっちゃくてもいいからいいことがありますように。具体的に言えば、棒アイスで当たりが出るとか、そういう些細なものでいいです。

「お、おう……」
「よし、じゃあこの話は終わり! これから私はスポーツマンに合わせた高タンパク低糖質メシを作るのでちょっとだけ待っててね」

 みっちゃんに合わせたご飯作るとダイエットになるから私も助かるよ、と自虐的に続けたひとりごとは、どうやら彼の耳にも届いたらしい。

「だからよぉ、名前は別に太ってねーって。さっき見たけど……あ」

 昨日の晩に解凍しようと冷凍庫から冷蔵庫へ移しておいた鶏胸肉のパックを引っ掴みながら「その話、まだします?」と目を細めて低い声で言えば、彼は弾かれたように深々と頭を下げて「スンマセンした!」と声を張る。
 きっちり九十度に体を曲げているその姿が可笑しくて、ちょっとだけ愉快な気持ちになってしまった。この男、ほんと得な性格してるよなあ、と思いつつ、無意識のうちについつい笑ってしまう自分がいて、やっぱり悔しい気持ちになった。


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