1−2.


「名前ちゃんはこの中でだれがいちばんかっこいーと思う!?」

 たくさんの顔が並んでいる大判の雑誌を開き、それをこちらに押し付けてくるのは甥っ子の舜斗である。目をキラキラと輝かせながら私を見上げる彼の真っ直ぐな瞳に少々たじろぎつつ「うーん」と言いながら視線を誌面に走らせる。
 その冊子はいわゆる選手名鑑というもので、Bリーグ──日本に於けるプロバスケットボールリーグに登録されている全選手の情報が網羅されているらしい。
 小学三年生の舜斗が言う「かっこいー」の定義が、ただ単に顔良し悪しを示しているのか、もしくは私の好みを問うているのかわからず、見たこともない人間のバストアップ写真ばかりが並ぶページを指先でぺらりと捲りながら「そうだなあ……」と頭を悩ませる。

「あ、私この人好みかも! ツーブロって好きなんだよねぇ」
「宮城選手だ! この人あんまりデッカくないんだけどさ、すげーはやくてめっちゃドリブル上手いんだよ!」

 みやぎせんしゅ、と舜斗が教えてくれた選手の名前をオウム返しのように唱えながら、ぼんやりとあてもなく誌面を眺める。生年月日、身長、体重、ポジションらしきローマ字、前所属チーム、好きな言葉なんかまで書かれているそれは、いわゆるファン必携の書というやつなのだろう。

「名前、ほんとにありがとね」

 そう声を掛けてきたのは、実の姉である。彼女は半年前に生まれたばかりのふわふわの乳児を抱きながら、眉尻を下げて私に向かってそう言った。

「いやいや、暇人ですから」

 私が自宅から電車で三十分ほどの場所にある姉の家を訪れ、こうして甥っ子にBリーグの選手名鑑を見せられているのには理由がある。
 この地域をホームタウンとするプロバスケットボールチーム──湘南ソルバーンズ。舜斗はそのチームの大ファンなのだ。更に、小学校三年生になってミニバスケットボール部に入部した彼は、すっかりバスケにのめり込んでいる。そしてこの通り、観戦への熱量も変わっていない。
 そんな今日、ちょうど一ヶ月後にリーグの開幕を控えた舜斗の推しチームでは、ファンクラブ会員限定の感謝祭なるイベントが開催される。
 生後半年の赤子を抱えた姉が約半日もイベントに付き添うことは難しく、旦那である義兄はドンピシャで地方への出張中。そんなこんなで駆り出されたのが、Bリーグどころかバスケットボールすらミリしらレベル以下の私だった。
 既に鮮やかな真朱のチームロゴTシャツに身を包み、公式から発売されているオフィシャルキャップを被って臨戦態勢の舜斗は、しきりに部屋の時計を確認しながら「もうそろそろ行く!?」と目を爛々とさせている。

「そだね、そろそろ出よっか」
「名前ちゃん、ソルバーンズの選手の名前おぼえた!?」
「いや、さすがにこの短時間じゃ無理だよ。みんなおんなじユニフォーム着てるし、全員おんなじ顔に見えたもん」

 そんなわけないじゃん! と声を荒げる舜斗をどうどう、と嗜めながら、開いていた選手名鑑を閉じ「よっこいせ」と立ち上がる。
 地域密着型のこのチームは、駅前の商店街で行われる歩行者天国だとか、毎年開催される七夕祭りなどでもミニトークショーを開いたりと、選手が場の盛り上げに顔を出すこともあるそうだ。
 湘南ソルバーンズは、駅前商店街を通り抜けた先にある複合型のアリーナをホームとしており、その施設はこの場所から歩いて十分ほどの場所にある。
 開場は十一時過ぎだが、プログラムは十四時から始まるようだ。スポンサーや協賛によるフードトラックが出ていたり、来シーズンから発売されるグッズを先行で購入出来るまたとない機会でもあるようで、舜斗は今年のお正月に手に入れたお年玉を今日という日のために半年間温めていたのだと、鼻息を荒くしていた。

「じゃあお母さん、行ってきます!」
「うん、いってらっしゃい。名前に迷惑掛けないのよ」
「はーい!」

 舜斗から私に視線を移した姉が「悪いけどよろしくね」と声を掛けてくる。りょうかいでーす、と軽い返事をしつつ、スニーカーを履いてトントンと爪先で床を鳴らす。
 バスケのこともプロリーグのことも何ひとつどころかこれっぽっち知らないけれど、とりあえずは舜斗の気の向くままに行動させて、私はそれに着いていけばいい。これも大好きな姉と甥っ子の為だ。
 最近の私といったら、仕事がない時は家でぼんやりしたり、カメラを持って外に出ても目的なくフラフラと近所を散歩をする程度だし、千夜子とのルームシェアを解消してからはそれが更に顕著になった。些か不健康すぎる気がしていたし、活気ある場所に顔を出すのはプラスにしか成り得ないはずだ。
 そんなことを考えながら、そういえば、と思い出したのはこの間の公園での出来事。やたら男前だったあの人がバスケットボールを巧みに操る姿はあまりにも魅力的で、うっかり盗撮紛い──否、明確な盗撮行為をしてしまったのはつい先週のこと。
 ちょっぴり苦い気持ちを思い出して無意識に顔を顰めていたら、私の半歩先を歩く舜斗に「名前ちゃん、おなかいたい?」と心配されてしまった。それに「ううん! はちゃめちゃ元気! 屋台のアメリカンドッグのこと考えてるぐらいだよ!」と返事をしたら、彼は「オレはフライドチキンのこと考えてる!」と笑った。
 バスケットボールに一切興味がなく、本当にただ付き添いに来ただけの私が一番関心を持ったのは、出店予定の出店やフードトラックのラインナップだった。時刻はもうすぐ昼の十二時。私も舜斗も、本日のお昼は会場の出店で済ませることにしている。

「さっき名前ちゃんがかっこいーって言ってた宮城選手、会えたらサインもらう?」
「私はいいよ、ファンってわけでもないし。それよりも、舜斗の好きな……えっとだれ選手だっけ?」
「ミッチー選手! みついひさし!」
「あーそれそれ、その選手のところに行く方が大事でしょ?」

 うん! と大きく頷いた舜斗は、今日被っている帽子のつばにサインを入れてもらうのだと意気込んでいる。ちなみに、本日彼が着用しているロゴTシャツは、去年の感謝祭に義兄と参戦した際、その推し選手にサインを施してもらった品である。

「ミッチー選手ってすげーんだ! スリーポイントたくさん決めるし、それだけじゃなくてなんでもできちゃうし!」
「スリーポイント?」
「遠くからシュート決めると二点じゃなくて三点になるんだよ」
「へー、よくわかんないけど、そのミッチー選手とやらはシュートが上手いんだね?」

 違うって、だからぜんぶ上手いんだって! と拳を握りながら言う舜斗。
 舜斗が今年ミニバスケットボール部に入部したのも、姉曰く、そのミッチー選手に対する憧れからくる部分が大きいらしい。果たして、ミッチー選手というのはどんな人物なのだろう。スポーツ選手って子どもに夢を与えられる素晴らしい職業なのだな、と思うのと同時に、その影響力の大きさに怯みそうになる。
 舜斗と会話をしながら歩いていると、いつの間にかアリーナ付近に近づいてきていた。ちらほらと見えるオレンジ寄りの鮮やかな赤を纏った人たちが、ブースターというものであることはすぐにわかった。
 横を歩く舜斗も思いっきりそんな感じだが、付き添いの私はなんの変哲もないシンプルなクロップド丈のリブTシャツにスキニージーンズといういで立ちである。うーん、せめてチームカラーっぽい何かを身につけてくるべきだったかもしれない。
 私がそんな気後れをしていることなど露知らず、舜斗は「名前ちゃん、早く!」と私の腕を引っ掴んでずんずん進んでいく。そんな彼の好きに対する猪突猛進さに救われつつ、苦笑いをしながら熱気あふれる人波に飛び込んだ。
 プログラムが催されるのは十四時からなので、それまではまったりお腹を満たしてグッズを購入し、サイン列に並んで、時間が余るようならば展示や昨シーズンの写真パネルなどを眺める、というスケジュールだ。
 ここはこの名前ちゃんに任せなさいな、と親指を立てながら財布を出す。かわいい甥っ子が今日のために貯めてきたお年玉を屋台メシに使わせるわけにはいかない。買ってきた豚角煮丼やフライドチキン、アメリカンドックを分け合って、最後はクレープで締めた。
 満腹になった私はしばらく動けず、飲食エリアのイートインスペースでぼんやりとしていたのだが、バイタリティに溢れた小学生男子が「もうすぐ物販整理券の時間!」とジタバタし始めたので、気怠い体に鞭を打って立ち上がった。
 物販にて、推し選手であるミッチー選手のユニフォーム型キーホルダーと、今期のマフラータオルを手に入れた彼は、ご満悦な様子で早速それらを身につける。すると、ポージングを決めながら撮影を要求してきたので、私のスマートフォンで何枚か写真を撮って姉に送信した。
 そんなこんなしていると、そこここで人が密集した団子が出来ていることに気づく。どうやらそれは、ゲリラ的に練り歩いている選手たちがサインに応じているためらしい。
 途中、選手名鑑で「このツーブロの人かっこいいかも」と目を留めた宮城選手がサインに応じている場面に遭遇し、舜斗が「名前ちゃん、宮城選手にサインもらう!?」と服を引っ張ってきた。しかし、ガチ勢の皆さんの中に私のような付き添いに来ただけの人間が入っていくのは失礼すぎる行いであると理解していたので、それはもう一度丁重にお断りをさせて頂いた。
 同じく人垣を作っていた中心部には、淡いパープル色をしたウサギのような着ぐるみの姿があった。どこか生意気そうな表情をしている彼の片耳には、赤々と燃える炎があしらわれている。舜斗曰く、彼こそが湘南ソルバーンズのマスコットキャラで、名はソウルくんというらしい。
 そんな時だった。一際大きい歓声が上がったエリアに、これまた人による団子が出来上がっている。それをすぐさま察知した舜斗は、私の手を強引に引っ掴んで走り出す。人波に囲まれたそこからひとつ飛び出て見えるそれが、名も知らぬ選手の頭部であることはすぐにわかった。

「あれ、ミッチー選手だ!」
「お、ラッキーじゃん! サインもらわなきゃね!」

 あっという間に列が出来上がり、私たちもそれに倣うように並ぶ。被っているキャップにサインをもらうべく、ボディバッグから油性マジックを取り出した舜斗は、あからさまに緊張した面持ちで真っ直ぐに前を見つめている。そんなかわいらしい甥っ子の様子を微笑ましい気持ちで見つつ、少し前でサインに応じるミッチー選手の顔を拝むべくひょっこりと顔を覗かせてみた。
 その瞬間、私の口からは「え……!?」という声が勝手に漏れ出ていた。
 なぜならば、腰を屈めながら朗らかな笑みをその口元に浮かべているその人は、あのバスケットコートでボールを操っていた彼に間違いなかったからだ。
 うそでしょ、と吐き出すように呟いて、直立不動のまま呆けてしまう。硬直したまま動けず、狼狽しながらぎゅう、と胸のあたりで拳を握りしめる。
 ちょっと待って、つまり舜斗が好きな三井選手って、ミッチー選手って、あの時のあの人だったってこと? えっ、現実?

「名前ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「へ、あ、あ! うん! 平気! なんでもないから!」

 動揺を悟られないよう必死に取り繕ってはみたものの、明らかに平気ではないことを、年齢の割に聞き分けが良くて聡いこの甥っ子には気づかれてしまっているかもしれない。いや、でもそれはそれとして、こんなことが現実に起こり得ちゃうわけ?
 心臓がいやな感じに鼓動するのを感じつつ、意識してなんとか呼吸を整える。大丈夫大丈夫、あっちが私の顔なんか覚えてるはずないし、動揺を悟られないようにしれっとしていれば問題ない。うん、大丈夫。大丈夫!
 そう自分に言い聞かせながら、隣で自分の番が近づいてくるごとにソワソワを大きくしている舜斗を見やり、なんとか平常心を取り戻そうと躍起になる。そんなことをしているうちに、あっという間に私たち──もとい舜斗の番が回ってきた。

「み、ミッチー選手! こんにちは!」

 緊張気味に、しかし元気よくしっかりと挨拶をした舜斗に対し、ミッチー選手こと三井選手は視線を合わせるようにしゃがみ込む。彼はその大きな手のひらをぽん、と舜斗の頭の上に乗せると「おう、良く来たな! サインどこにする?」と問いかけ、爽やかに歯を見せながら笑った。
 完璧に子どもの扱いを心得ている上、これ以上ないってぐらいの爽やかスマイル。加えて、そこにわざとらしさが全くない。思わず心の中で賞賛の拍手を送ってしまった。

「オレの帽子のつばにお願いします!」
「オッケー、んじゃちょっと失礼」

 三井選手は舜斗の差し出した油性マジックを手に取ると、サラサラと帽子のつばにサインをしていく。私はというと、未だに信じられない気持ちでしゃがみこんだその人のつむじを凝視している。

「よし、出来たぜ! ……で、そっちのオネーサンは? ……っておまえ」

 油性マジックを握ってしゃがみこんでいた三井選手の視線が、私の顔ではたと止まる。そして、その顔に浮かんだのはわかりやすすぎる驚愕の表情だった。
 なんてこった、この人明らかに私のこと覚えてるじゃん。他人のフリをするとか、とぼけてみるといった選択肢がないこともなかったが、それはさすがに大人気なさすぎる。とりあえず笑顔でも浮かべておこう、とぎこちなく口角を上げつつ「ど、どうも……」と頭を下げてみた。

「なんだよ、オレのファンだったのか? そういうのは言えよな!」

 勢いよく立ち上がり、何故かうれしそうに私の背中をバン! と叩いてきた三井選手。容赦のないゼロ距離フレンドリー攻撃に「痛ったい!」と反射的に悲鳴を上げたが、目の前にいる彼はそんなことを気にする様子もなくガハハと楽しそうに笑っている。

「ち、違います! あれは本当に偶然で、今日もこの子の……甥っ子の付き添いで」
「恥ずかしがってんのか? そこはファンです! でいいだろ。で、サインどうする?」

 うわあ、この人ぜんぜんこっちの話聞いてくれない。
 なんだこれ、みたいな表情で私たち二人を交互に見ている舜斗の視線には気づいていないフリをしながら、油性マジックを構えている三井選手に向かっていやいやいや、と顔の前で手を振って見せる。

「いや、いいです、遠慮します、ファンでもないのにサインもらうとか失礼だし」
「ここで断る方が失礼だっつの! おら、いいからそのスマホ寄越せ!」

 そういうと、あっという間に私の手の中にあったスマートフォンを引ったくった三井選手は、眉間にシワを寄せながらスマートフォンの裏にサラサラと油性ペンを滑らせていく。その光景をぽかんと眺めている私の表情は、さぞ間抜けなものに違いなかっただろう。
 ほらよ、と私の手に戻されたスマートフォン。もといそのケースの裏には、舜斗の帽子のつばに書かれたものと変わらないサインが書き記されていた。

「え……? あああああ! わ、私のスマホケース!」
「御利益あるぜ、なんてったってこの三井寿がサインを施したんだからな!」
「私のスマホケースにしらない人のサインが施されてしまった……」
「んだコラ! しらねー人とはなんだ!」

 しってる人だろが! となかなかに迫力ある表情で距離を詰められたが、そんなことよりも目の前にいるプロバスケットボール選手の突飛な行動に開いた口が塞がらない。ただただ呆然としてしまっていたが、とにかく今は列を離れなくては、と度重なる衝撃によって強制シャットダウンしかけていた思考を無理矢理に叩き起こす。
 応援してます! と最後に元気よく声援を送った舜斗に「おう! あんがとな!」と返した三井選手は、私に向けていた威圧するようなガラの悪い表情をあっという間に引っ込め、屈託も飾り気もない爽やかな笑顔でそれに対応してくれた。
 予期せぬ再会に動揺が収まらない。更に予期せず三井選手のサイン入りとなってしまった自分のスマートフォンの裏をまじまじと眺めていたら「名前ちゃん、ミッチー選手と知り合いだったの!?」と今度は舜斗が詰め寄ってきた。

「違う違う! そういうんじゃなくて、ちょっとまあ以前いろいろと……」
「いろいろ?」
「そ、いろいろ! 以上!」

 時刻は十三時過ぎ。もうそろそろプログラムが始まる頃だ。話を終わらせるために舜斗の背中をぽん、と軽く叩き「ほら、もうそろそろ中入っとこうよ!」と声を掛ける。忘れかけていたが、このあとの催しがメインイベントなのである。
 まあしかし、予想なんか出来るわけが無かったエンカウントと、それに伴うあれとかそれとかにより、私のヒットポイントは既にもうジリ貧になっていた。


  ◇


 イベント後は、舜斗と一緒に姉夫婦の家へ戻り、夕飯をご馳走になってから帰宅した。
 選手たちによるミニ運動会のような催しを大層楽しんだ舜斗は、その仔細を興奮した様子で母親である私の姉に報告し、推している三井選手に施されたサイン入りのキャップを嬉しそうに見せていた。
 そして、姉夫婦の家から自分の部屋に帰宅した私はというと、ソファーに倒れ込むとそこから起き上がることすら億劫になってしまっていた。お風呂に入らなきゃ、となんとか自分を奮い立たせたのは、なんと帰宅してから一時間以上が経過したあと。舜斗と一緒に居た時はあまり感じていなかったけれど、想定していなかった色々なことが起きたせいで思った以上に疲弊しきっていたようだ。
 湯船に浸かると「はああ……」という声が漏れて、うっかりそのまま寝落ちしそうになった。お風呂から上がり、気だるい体に鞭を打って寝支度を整え、ベッドに入ったのは日付が変わる少し前。そのまま気絶するように、あっという間に私は意識を手放していた。
 そんな私の意識を呼び覚ましたのは「ピンポーン」という聞き慣れたインターホンの音だった。驚いてベッドから飛び起き、ドタバタと慌てながら玄関に出て対応をすると、届いたのは新しい同居人の荷物らしき段ボールだった。それらは、とりあえず玄関を上がってすぐのところに置いてもらうことにした。
 家具は揃っているから必要ないとはいえ、届いた段ボールが六箱程度ととても少なかったので、あまり物を多く持たない人なのかしら、と勝手な人物像を膨らませていく。
 なにとなく壁に掛けられた時計に視線を向けると、時刻は午前十一時を過ぎている。盛大なあくびを堪えることもせず、なんとなくテレビの電源を入れて観たいわけでもないバラエティ番組を眺める。日曜日のこの時間帯に放送されているのはそんな番組ばかりだ。
 自分で言うのもなんだが、仕事柄初対面の人とでも問題なくコミュニケーションを取れるし、なんなら得意としている方だと思う。けれど、このあとに待つのが一年間一緒に暮らす相手との初対面イベントともなれば、さすがに緊張してしまうのを避けられない。
 トーストした食パンを齧り、どこか味気なく感じるそれを口の中で咀嚼しながら、いつもより時間のかかった適当すぎる朝兼昼食を終える。
 どんな人が来るんだろう。ちゃんと仲良くやっていけるかな。一年にも満たない期間だけど、出来れば気の合う人だといい。オーナーのおじいちゃんの知り合いって話だから、悪い人ではない筈だ。新しいルームメイトと仲良くなって、あからさまに心配していた千夜子を安心させてあげたい。
 身支度を整えて掃除機を掛け終わった頃、ピンポン、と本日二度目のインターホンが鳴った。私の荷物が届く予定は無いので、たぶん──いや、十中八九新しいルームメイトのご到着だろう。
 片付けそびれていた皿をキッチンのシンクに置き、呼吸を整えてから玄関に向かう。慌てすぎてインターホンに応答するのを忘れてしまったけれど、まあいっか。すごい待ち構えていたみたいで恥ずかしいが、もう玄関まで来てしまったし仕方がない。

「こんにちは! いらっしゃい……ま、せ……?」

 扉を開けた私が言葉を詰まらせてしまったのには、もちろん理由がある。
 自分と同じ高さに向けていた視線の先には顔ではなく上半身があって、あれ? と思いながら見上げた先にあったのは男性の顔。

「え……なんで……?」

 頭のてっぺんから足の先まで、舐め回すように何往復も彼の体に視線を流しても何も言われなかったのは、目の前にいる彼も信じられないといった表情で同じように私のことを凝視していたからだろう。
 その男性は、先週近所の公園でバスケットボールを巧みに操り、昨日は私のスマホケースに強引にサインを施してきた甥っ子の推しているプロバスケットボール選手──三井寿その人に間違いなかった。
 えっと、つまり結局どういうこと? と、昨日と同じような言葉が頭の中に浮かぶ。一瞬にして混乱の極地に至り、ぐちゃぐちゃになってしまった脳みそでは思考などまとまるわけがない。

「お、おう、こないだと昨日ぶりだな……で、えーと、405号室っつーのは……」

 硬直していた三井選手は、私に話しかけているというよりもほぼひとりごとのように呟くと、目を泳がせながら壁の斜め上にある表札と部屋番号に留める。そして、部屋が間違っているわけではないことを確認すると「マジか……」と天を仰いでしまった。

「あの、私が聞いてた新しい同居人って女性の名前だったんですけど……」
「あー、多分それ、契約諸々請け負ってくれたチームの事務方の名前だな……。オレの名前はこっち……ってさすがにそれは知ってるか?」

 そう言うと、彼は私の背後に置かれた段ボールを指差した。
 振り返り、その側面に走り書きされている「405ミツイ」という文字をようやく確認した私は「ミツイさん……」と改めて呼びかけてみる。彼は眉尻を下げ、困ったように苦笑いをすると、肯定を示すようにひとつ頷いて見せた。これが届いたときは思いっきり寝ぼけていたから、段ボールに書かれた名前なんかに気を留めていなかったのだ。
 聞くに、彼はチームが管理している独身寮に入居していたらしいが、建物の老朽化によるフルリノベーションの為にその間のルームシェアを提案されたらしい。

「公園で会って、昨日も会って、おまけにそれがルームシェアの相手ってよ……。どうなってんだよ、すげえ確率とかいうレベルじゃねえだろ」

 その事実を受け止めるために、わざわざ言葉にして吐き出されたような彼のセリフ。それに同意するように、私は半ば無意識にこくんと頷き返していた。
 というか、再会云々の前にそもそも女の人が来るものだと思っていたし、彼だってまさかチームから斡旋されたルームシェアの相手が女だなんて思ってもいなかっただろう。
 オーナーであるおじいちゃんの人の良さそうな笑顔を思い出しながら、思わず深く息を吐き出す。契約とか手続きをしたのは事務方の人って言ってたから、勘違いでもしちゃってたのかな。それにしても、この場合って結局のところどうするのが正しいのだろう。

「にしても、参ったな……。しゃーねーから今晩は適当にホテルでも取るわ。ワリィけど、届いてる荷物はまた引き取りに来るから置かせといてくれ」

 彼の提案が最適解であることはわかっていた。しかし、ギュルギュルという音が鳴るほどに脳みそをフル可動させていた私は、踵を返そうとする彼の服を咄嗟に引っ掴み「ちょっと待って!」と声を張って引き留めていた。
 ルームシェアが出来なくなったら、やっぱり引っ越すしかなくなっちゃうじゃん。こんな場面においてもひょっこりと顔を出してきた面倒くさがりの自分が「そんなの、めちゃくちゃ困るよね?」と静かに囁いてきた。

「っていうか、私はそれだと困るんです!」
「あ? 困るって……」

 これから新居を探すのには骨が折れる。しかも、ましてやそこそこ広くて快適な部屋に今までは家賃折半で暮らしていたのだ。加えて、駅まで出ればわりかし何処へでもいけてしまう好立地。治安だって悪くない。それに、同価格帯でこれ以上にいい物件が見つかるとは到底思えない。

「たった一年ですし、このままルームシェアしちゃいませんか!? お試しして、どうしても無理だったら解消すればいいですし」
「そうじゃなくてよ、おまえは女でオレは男だろ? ……っつーのはわかってるよな?」
「わかってます。三井選手、勝手に人のスマホの裏にサインしちゃうぐらい常識外れな人だけど、男前で得してますよね。ご両親に感謝した方がいいですよ」
「あんだとコラ! そっちだって、盗撮してきた上にこのオレのサインがいらねーとか抜かす失礼女だろうが!」

 お互いに思っているまま勢いで本音を口に出したら、彼──もとい三井選手は眉間に深いシワを寄せ、その場でぎゅう、と目を閉じて腕を組み沈黙してしまった。
 それからしばらくして、ゴホン、とわざとらしく咳払いをした彼は、閉じていた目を開いてじっと私のことを見据えながら「……そうだよな」と決意したように、まるで自分に言い聞かせるかのように静かな声音で言った。

「わかった、正直オレも助かる。けどよ、それにしたって健全じゃねえよな……」
「そこは大丈夫だと思います、私も三井選手もいい大人ですし」
「そりゃそうだけど、なんで言い切れんだよ……」

 健全じゃないなんて、そんなのはもちろん私だって思っている。しかし、これはたった一年の期限付きルームシェア。リビングやキッチン、トイレとお風呂は共用だけど、お互いのパーソナルスペースとなる自室だってちゃんとある。
 これから新しい取り決めだってしなくちゃいけないけれど、何をするかわからない三井選手だって一応はちゃんとした大人であることが、先ほどの彼のあからさまな葛藤の末に発された言葉から察することが出来た。そして何より、私は公園の一件によって彼が大らかでそこそこに懐の深い人物であることを知っている。

「つーか敬語じゃなくていいぜ? その……一緒に住むのに気ィ使うのは変だろ。もともと住んでんのはそっちなわけだし」
「あー……じゃあハイ、わかりました。いや、わかったです!」
「それタメ口になってねーって。……じゃあ改めて、三井寿。よろしく」
「苗字名前です、こちらこそ宜しくお願いします」

 差し出された三井選手の右手。それが握手を促しているのだと察して、私は彼と同じく自分の右手を差し出した。
 想像通りに体温の高い彼の手のひらの温度を感じながら、かくして私の新しいルームシェア生活はハプニングと、大いなる不安を孕みながら開幕したのである。


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