1−1.


「ホントに大丈夫? 私もう行くけど……」
「もー、そのセリフお母さんみたいだよ!」

 七年暮らした部屋の玄関で、荷物を抱えた親友は私に向かってあからさまに心配そうな視線を投げている。それに気づいていないフリをしながら「寂しくはなるけど、いつだって会えるじゃん!」と努めて明るく続ける。
 私こと苗字名前と、親友の遠山千夜子はいわゆる幼なじみという関係である。
 家が近所で同い年、尚且つ女同士ともなれば親しくならないわけがなく。性格は正反対だし、様々なものの好みも違うけれど、何故かものすごく波長が合う。これこそ「馬が合う」とか「気が置けない」ということなのだろう。
 小中高と同じ学校へ通い、それぞれ違う大学を選んだけれど、進学を機にルームシェアを始めた。幼なじみとか親友を通り越して、たぶんこういうのをソウルメイトって呼ぶんじゃないかなあ、と思う。前世は生涯添い遂げた恋人同士だったのかもね、なんて話をしたこともある。
 そんな彼女が、高校時代から付き合っている彼氏との結婚を決めたのはつい半年前のこと。そして今日が長く続いたルームシェアの解消日というわけだ。

「何かあったらすぐ連絡してね、新しいルームシェアの人と合わなかったりとか……」
「はいはい! わかってるって大丈夫だから! 下でダイちゃん待たせてるんでしょ、はやく行ったげて!」

 ダイちゃんというのは、千夜子の旦那さんとなる人の名前だ。ちなみに、私が彼女にダイちゃんを紹介したのがこの二人の始まりである。今世での徳を積みまくってしまった。
 ほら、行った行った! と背中を押すと、千夜子は苦笑しながら「もっと寂しがってくれると思ってたのに」と冗談めかすように言った。
 寂しくないわけがない。だって、物心ついた頃からいつも二人で行動するのが当たり前だったのだから。けれど、今日からはそれが当たり前ではなくなる。とはいえ、実際はそれ以上に大好きな親友の新しい門出がうれしいし、私だっていつまでも心配されているばかりではいられないわけで。

「結婚式、楽しみにしてる!」

 そんな私に対して「あんたこそ、ちゃんと友人代表挨拶考えといてよね」と言いながらエレベーターの中へと消えていった千夜子を見送り、彼女の姿が見えなくなってから玄関のドアを閉める。
 玄関から一番近くの扉の奥は、ついさっきまで千夜子の部屋だった空間がある。しかし、今やその部屋の中には何もなく、すっからかんのまっさらだ。
 千夜子の結婚が決まった時、私もいよいよ一人暮らしかあ、と早々に部屋探しを始めるつもりだった。
 そんな私を引き止めたのは、このマンションのオーナーであるおじいちゃんの「スポーツ関係の仕事をしている知り合いが部屋を探していて、一年間だけルームシェアをしてもらうことはできないか」という言葉だった。ちなみに、おじいちゃんと呼んでいるだけで本当の祖父ではない。
 普通だったら、知りもしない人とルームシェアなんてありえない! と速攻でお断わりをするに決まっている。しかし、このおじいちゃんには入居時からずっとよくしてもらっているし、面倒くさがりな私が部屋探しプラス引っ越しの手間と、新しいルームメイトとやっていく心労を天秤に乗せて比べてみた結果、前者の方がよっぽど重かったわけで。
 もちろん、千夜子には「あんた、ちゃんと考えてないでしょ!?」と怒られてしまった。とはいえ、おじいちゃんにはもう「それでお願いします!」と返事をしていた手前「やっぱり出て行きまーす!」などとは言い出せなくなっていた。
 たった一年の我慢ができないほど合わないな、と思う相手であれば、もう観念して私が出て行けばいい。それに、ルームシェアが無事に経過して解消となり、再びひとりになったら、なんと部屋代を半額にしてくれるという。そんなわけで、私はほとんど二つ返事でその提案を承諾したのだ。
 女二人で気兼ねなく過ごしていたこの部屋に、今は自分ひとりだけ。とんでもなく広く感じる2LDKのリビングルーム。ソファーにだらしなく腰掛けて、何を見るわけでもなく天井を仰いだら、ほんのすこしだけ感傷的な気持ちになってしまった。
 そんなわけで、いても立ってもいられなくなった私は仕事道具であるカメラを引っ掴んで家を飛び出していた。
 カメラを生業にしたいと思ったのは、地域に根ざした小さなフォトスタジオを営んでいた祖父の影響からだった。七五三や入園入学祝い、誕生日やなにかの記念日にフォトスタジオを訪れる人々を、私は物心つく前から幾度となく目にしていた。
 もともと祖父は自分の代でスタジオを閉めるつもりだったようで、私の父もフォトスタジオを継ぐなんてことを意識せず、普通のサラリーマンとして会社勤めをしていた。
 昔から、瞬きをするよりも短い、一瞬にも満たない刹那に見えるキラキラした表情に眩しさと、例え難い魅力を感じていた。それに真っ直ぐ向き合いながら丁寧に切り撮る祖父の姿と、流れていくだけだったはずの時間を形として残す仕事に、私が憧れを抱くことは必然だったように思う。
 そんなわけで私はこうしてカメラを握り、ファインダーを覗き、シャッターを切っている。まあ、まだ全然ぺーぺーのフリーカメラマンなのだけど。それでも、子どもたちの遠足や運動会、学生たちの修学旅行なんかについていって、瞬間を切り取れた時の達成感と幸福感はとんでもないものだ。
 いつか私にしか見えない、私にしか撮れない瞬間を収めることができたらいいなあ、なんて漠然とした、そして途方もない夢を抱きながら、日々こうして相棒であるカメラと一心同体のような生活を送っている。
 そんな私だが、なんというか最近はファインダーを覗いても「これ!」という瞬間を捉えられないことに悩まされていたりする。
 ありがたいことに、不自由なく生活を送ることが出来る程度の仕事は頂けているけれど、納得のいくような撮影が出来ているかと問われたら、答えは「NO」だ。今だ! という瞬間を逃しがち、と表現するのが一番近いように思う。
 こういうの、才能がある人たちは「スランプ」って呼ぶらしいけれど、私はそういう部類の人間ではない。つまるところ単純に実力不足で、そしてセンスの問題である。それを認めると悲しくなってしまうけれど、実際にその通りなのだから仕方がない。
 春が過ぎて、夏の気配が感じられるようになってきた平日午前中の公園。砂場や遊具には、色のついた帽子を被った保育園児らしき子どもたちが群がっている。ちょうどお散歩の時間なのだろう。
 すれ違ったベビーカーの中ですやすやと眠る赤ちゃんに癒されつつ、足元でゆらゆら揺れる影に気づいて頭上を見上げると、葉の間から差してくる日差しがキラキラと眩しい。
 なんとなく、そしてあてもなく歩きながら、気になった風景にレンズを向けてファインダーを覗き込み、指を押し込むようにシャッターを切る。それでもやっぱり気が乗らないのは、私が人の見せる表情や仕草に魅了されてカメラマンという仕事に憧れを抱き、生業としているからだろう。無機物を撮影することには、正直言って昔から気乗りしない。
 何かが地面を叩くような不規則なリズムの音が聞こえてきたのは、ちょうど集中力を切らした時だった。何の音だろう、と耳を澄ませながら、その音だけを辿って公園の奥へと進んでいく。
 割と大きなこの公園にはバスケットボールのコートが有って、平日の夕方や休日はとても賑わう場所である。
 しかし、今は平日の午前中。普段このコートを使っている小中高生なんかは授業の真っ最中だろうし、いつもこの時間帯は閑散としていたはずだ。そんな事を考えながらも、私の足は音に誘われるように自然とその方向へ向かっていた。
 拓けた視界の先、人の姿が無いだけでとんでもなく広く感じるバスケットボールコートの中に、ひとりの男性の姿があった。
 一定のリズムでドリブルをしていた彼は、見上げた視線の先にあるゴールへと予備動作無くボールを放つ。そしてそのボールは、それがさも当然であるかのように綺麗にゴールを抜け、地面に落ちて何度かバウンドした。
 その瞬間、私は首に掛けていた一眼レフを無意識のうちに構え、咄嗟にファインダーを覗き込みながらシャッターを切っていた。
 彼は転がったボールを拾うと、軽いステップを踏みながらドリブルをし、流れるような動きで再びボールを放つ。それもまた華麗に決まり、思わず「すっご……」なんて声を漏らした私は、もうとっくにファインダーから目を離せなくなっていた。
 彼の首がこちらに向けられて、カメラ越しに視線がかち合った気がしたのはそんな時だった。トントン、と軽快にドリブルをする彼の進行方向は、間違いなく私だった。
 え、と思いながらファインダーから視線を外すと、いつの間にか中腰の彼が目の前にいて、驚きのあまり「うわ!」と声を上げてしまった。こちらを覗き込んでいる彼の表情から今どんな感情を抱いているのか、何を考えているのかを読みとることは出来ない。
 ていうかこの人、めちゃくちゃ男前じゃん。どっかの芸能事務所に所属してます、って言われても信じてしまう。高身長で、はっきりとした目鼻立ち、キリッとした眉が印象深い精悍な顔つき。
 呑気に、そして不躾にまじまじと観察しながら、彼のこめかみから流れた一筋の汗をぼんやりと眺めていたら、形のいい眉が怪訝そうに顰められる。私は、そこでようやく自分が呆けてしまっていたことに気がついた。

「おい、盗撮女」
「は、はい!」
「なんだよ、言い返してこいよ。盗撮って認めちまってんじゃねーか」
「いや、っていうか実際盗撮だし……とにかく申し訳ありませんでした! でも、かっこよすぎて無意識にシャッター切っちゃってて、悪気はなくて」

 咄嗟に出てきたそのセリフの言い訳がましさったらなくて、意図せずに冷や汗が滲む。そんな私の言葉を聞いた彼は、顰めていた眉を緩めると、その丸い瞳をぱちくりとさせたのち、どこか楽しそうに「へえ」と息を吐き出すような声を漏らした。

「で? ちゃんと男前に撮れてんだろうな? この三井寿を撮っといて撮れ高良くねーなんて許されねえぞ」
「へ……?」

 彼はニッと歯を見せながら目を細め、人懐こそうな笑顔を浮かべると、私が手に持っているカメラを指差した。
 咎められると思っていたのに、っていうか声を掛けられた時は怒られると思っていたのに、なんだかそういう雰囲気ではない。っていうか、思いのほか──どころではなく、かなりグイグイくるな、この人。
 当たり前だが、自分でもデータの確認は出来ていない。無意識にシャッター切ってしまっていたので、ピントだって合っているかわからない。しかし、この状況で確認なんかしている余裕はないし、盗撮まがいの事をしてしまった私にそんな猶予など無い。
 それじゃあ、と言いながら背面にあるディスプレイを彼に向け、撮影したばかりの写真を映してみせる。ちゃんと撮れているかもわからないデータは、果たして彼の瞳にどう映るのだろう。
 じーっとディスプレイを見つめている彼に「このボタンで他の写真も見られるので」と伝えると、彼はこくんと頷いてデータの確認を始めた。
 抱えていたバスケットボールを下ろし、足の間に挟んだままカメラのディスプレイを覗き込む表情を見るに、先ほど彼が発した言葉の通り、憤りだとかそういう類の感情はなぜかちっとも見えてこない。
 なんだろうこれ、未だかつてないほどに緊張する。それにしても、正面から見ても、横顔も、俯いているところもサマになるってどういうことだろう。さっきの言動から察するに、やっぱり俳優さんとかモデルさんなのかな。バスケは気晴らしの趣味とか?
 そんな事を考えながら彼の顔をじっと観察していたら、その視線が突然私の方へ向けられた。アイスティーみたいな色をした色素の薄い瞳に真正面から見つめられ、はからずもドキンとしてしまう。

「腕いいじゃねえか! プロなのか? スポーツ撮ってんの?」
「まあ、一応フリーで……。いろんな撮影してますけど、競技撮影の経験はないです」
「ふーん、そっちも向いてんじゃねーの? やってみれば?」

 オレが意見するようなもんでもねーけどよ、と付け足した彼は、再びその場でドリブルを始め、ゴールの方へ向き直る。

「……えっ!? 怒らないんですか!?」
「あ? そういうつもりで撮ったんじゃねえって今の写真見てわかったし」

 いや、それでいいのかイケメンよ。
 言葉が出てこない私を見遣った彼が「どうした?」とでも言いたげに首を傾げる。いやいや首を傾げたいのは私の方なんですけど、と思いつつも、とりあえずは己のしでかしてしまった衝動的な行動を咎められなかったことに安堵する。

「あの! もちろん変なことに使ったりとかは絶対にいたしませんのでご安心を!」

 っていうか、消せって言われたら今この場で消します! と勢いのままに付け足すと、彼は一瞬だけキョトンとした表情を見せてから朗らかに笑い「そんなに気にしねーでいいっての」と爽やかに言った。
 そのまま、再びバスケットゴールの方へと向かっていく彼の背中をぼんやりと眺める。本当に俳優とかモデルさんとか、そういうプロの方だったらどうしよう。そうだとしたら、っていうかそうじゃなくてもこのデータは絶対に私の中だけで済ませなくちゃ。
 許してもらえたことを心の底から感謝しながら、彼の背中に向かって深々と頭を下げ、小さな声で「よし」と呟いて踵を返す。
 背後から聞こえてくるボールが地面をつく音にほんの少しだけ後ろ髪を引かれながら、それを振り払うかのように軽く首を振って公園の出口を目指す。ほんの少しだけど、そして己の衝動にヒヤッとしたけれど、まあまあいい気分転換が出来た気がする。
 新しいルームメイトが部屋を訪れるのは来週の週末。とりあえず、今の部屋の綺麗さをキープしたまま迎えることが出来るように心がけて日々を過ごそう。
 空に向かって腕を伸ばしながらぐーっと背伸びをしたら、木陰から漏れた太陽の光が眩しくて思わず目を細めてしまった。


[次#]

- ナノ -