13-1.


 あの夜、しばらく経ってからみっちゃんが家を出ていく音がした。
 静かに閉められた玄関のドアと、それに鍵が掛けられる短い音。それがきっかけとなってぼろぼろと涙がこぼれ、張り詰めていた心が痛みを思い出す。堪えきれずにぐすぐすとすすり泣きながら、この時ばかりは彼が家の中に居なくて良かったと本気で思った。
 どうすればよかったのだろう。なんと言えばよかったのだろう。頭の中で繰り返されるのは、答えの出ない堂々巡り。腫れたように熱い脳みそを仕事モードに戻せるわけもなく、崩れるようにベッドに飛び込んでもしばらく眠ることが出来なかった。
 あのゴタゴタがあってから、もう何日経ったんだっけ。
 カメラを抱えて仕事に行って、打ち合わせをして、撮影が終わったら現像作業。こんな不安定な心持ちであっても、時間というものがこちらに寄り添ってくれることはなく、ただひたすらに直進してゆくだけ。
 何日経ってもみっちゃんが帰宅することはなく、私の不在時に戻ってきている様子もない。もう一度ちゃんと向き合って話をしたいと思うけれど、ではなにを話したいのかと問われれば、ハッキリ言い切ることは難しい。
 思い出すのは、みっちゃんが部屋を出ていく寸前に発した「オレの気持ちなんかなんもしらねーくせに」というセリフ。その意味はやっぱりわからないままで、考えれば考えるほど頭の中はぐちゃぐちゃになり、思考は泥沼へと嵌まる。
 そんなのわかるわけないじゃん、とぼやきながらデスクに突っ伏す。
 あの言葉を言う前、みっちゃんは何かを発するのをためらい、堪えるように唇を噛み締めたように見えた。でもそれは「ちょっと早いがルームシェアを止めよう」とか「これ以上一緒にいてもお互いのためによくない」とか、そういう類のものだったに違いない。
 はあ、と重たいため息を吐き出すと、デスクの上に放置していたスマートフォンの画面がぱっと明るくなった。それと同時に、着信を告げる聞き慣れた音が私の鼓膜を揺らす。
 気だるい動作で引っ掴んだ画面に浮かぶ文字を確認すれば、着信の相手は姉であることがわかった。

「あっ、いま大丈夫? 仕事中?」
「んー大丈夫、家にいた。仕事は……してるけどぼんやりしてた」
「根詰めすぎてない? なんか声が疲れてるよ」

 姉も千夜子も、私の周りには私よりも私のことをわかっている人間が多すぎると思う。まあ、単に私がわかりやすいというだけなのかもしれないけれど。
 原因は明白だけど、近頃は睡眠の質がすこぶる悪い。起床しても「よく寝た」と思えることがないので「ちょっと睡眠不足っぽいんだよね」と簡潔に返すと、姉は「時にはぜんぶほっぽって寝ちゃうのも大事だよ、名前は昔っからのほほんとしてそうで考えすぎるタイプだから」と穏やかな口調で言った。さすが身内、さすが我が姉である。

「そうそう、明日って現地に応援行ったりする?」

 おそらく、それがこの電話の目的だったのだろう。
 明日、現地。並べられた単語の意味が分からず、スマートフォンを耳に当てたまま首を傾げてしまう。

「明日……? 現地ってなに?」
「なにって日本代表の試合でしょ! 三井選手が選ばれてたし、もう舜斗がわくわくしちゃってたいへん」

 地上波で放送してくれるからありがたいよね、と電話口の向こう側で続く姉の声を聞きながら、私は何かに導かれるようにスマートフォンを持って立ち上がる。自室を出てふらふら向かった先は、リビングに掛けられたカレンダーの前だった。
 カレンダー上にある明日の日付は、みっちゃんによって大きな丸で何重にも囲われており「代表戦!」と書き記されていた。そっか、もう明日が試合なんだ。
 みっちゃんの、私が好きになった人の目標のひとつ。彼は明日、満を持して日の丸を背負い、ついに世界と戦う舞台に立つのだ。

「……ううん、私は行かないよ」
「あら、そうなの? だったら、うち来て一緒に観ない? 名前が来てくれたらあの子も喜ぶし」

 予定があるなら大丈夫だからね、と続けた姉の声を聞きながら、ぐっと唇を噛み締める。
 そんなの、観たいに決まっているじゃないか。そもそも、どうして今の今までそのことを忘れてしまっていたのだろう。これ以上自分が傷つかないように、無意識のうちに彼に関する情報をシャットアウトするフィルターでも掛けてしまっていたのだろうか。
 家でひとり、最後まで観戦していられる自信はない。きっとそれどころではなくなってしまうだろう。だったらいっそ、賑やかな場所で誰かと一緒に観ていた方が気が紛れるに違いない。

「……うん、じゃあお邪魔しようかな」

 ひとりで観てたらドキドキしちゃいそうだし、と付け足せば「そうだよねえ」という姉の声。おそらく、私の「ドキドキしちゃいそうだし」というセリフを同居人の晴れ舞台だからとか、そういうポジティブな意味で受け取っているのだろう。
 明日は外に出る予定は無い。日中は自分の怠慢のせいで溜まりに溜まった現像作業を崩し、少しでも様々な罪悪感を薄めてから夜を迎えられるようにしよう。
 じゃあ明日待ってるね、と言った姉に「うん、よろしく」と返して通話を切る。
 ふう、と息を吐き出して、目の前のカレンダーに書かれた大きな赤い円を指先でなぞる。楽しみだけど、どうしようもなく怖い。そんな複雑な感情は今までに味わったことがなくて、どう昇華すればいいのかわからない。というか、そもそも昇華なんて出来るのだろうか。
 手のひらにあるスマートフォンが再び着信音を鳴らしたのはそんな時だった。お姉ちゃん、なんか言い忘れたことでもあったのかな。
 画面に視線を落とした私は、思わず「えっ!?」と声を漏らしていた。そこに浮かんだ「みっちゃん」という文字が信じられず、指先の力が抜けそうになる。わたわたと慌てる私を急かすように鳴り続ける着信音を無視出来ず、意を決して通話をタップした。

「もしもし、みっちゃん……?」
「おう。……その、元気か?」

 みっちゃんの声だ。彼の声を聞いた、たったそれだけで泣きそうになってしまうなんて。
 こちらの意思などまるで無視して、喉の奥が窄まりそうになるのを堪えながら「うん、元気だよ」と努めて気丈に返事をすると、電話口の向こうにいる彼は「そのワリにゃあ声ちっせーな」といつもの調子で言った。
 それを言うならみっちゃんもわかりやすく声小さいけどね、と返そうとしたのに、声を聞けたうれしさのせいか、胸がいっぱいになりすぎていてそんな軽い調子の言葉が出てきてくれることはなかった。

「その、こないだは悪かった。どうしたらいいかわかんなくて、テンパって逃げちまって」
「いいの! 私もその……驚いちゃって、ごめんね」

 こないだ──つまりそれは、あの夜に起きたことを指しているのだろう。
 あの時はもちろんみっちゃんの行動に動揺したけれど、うれしいと感じてしまったことも事実だ。でも、それはやはり彼にとって恋愛感情とは異なったもので、別の場所に存在する重圧によって齎された自分でも意図していなかった行為だったのだろう。
 なんでこんなことをしてしまったんだろう、と自分でも信じられない様子で目を泳がせていたみっちゃんの表情は、忘れたくても忘れられない。こんなことするつもりじゃ、という言葉から、衝動的なものであったことも確定している。

「そんでよ……明日の試合終わったらそっち帰るから、ちゃんと話する時間もらえねえか?」

 ほら、やっぱり。
 何事も無かったかのように、あの件についてなにも言及せずに終わるということは無いと思っていた。なぜって、私はもうみっちゃんがどこまでもまっすぐで、嘘をつけなくて、苦しいところにいてもそこから背中を向けて逃げてしまうような人ではないことを知っているからだ。
 だからこそ、余計に心が苦しくなる。私はすぐゆらゆら揺らいでしまうし、心だってつよくない。自分の気持ちに嘘をついて、覆い隠してしまい込もうとしてしまうし、いやなことに向き合いたくなんてない。
 三井寿という人が誠実であればあるほど、眩しく感じれば感じるほどに、自分のダメさが際立つ。

「……うん、待ってる。みっちゃんのこと、ちゃんと待ってるよ」

 私は、ここでようやく自分の腹が決まるのを感じていた。
 やはり、私たちのルームシェアは期限より少し早めに終わるのだ。だから、最後ぐらいはしっかりと向き合って、彼と並び立てる自分でありたいと思う。
 みっちゃんのことを好きだということ。毎日が楽しかったこと。バスケをしているみっちゃんが綺麗でカッコよくてドキドキしてしまったこと。千夜子の結婚式の二次会に迎えにきてくれた時、図らずもときめいてしまったこと。
 出会った公園のバスケットコートへ二人で行った時、自分の気持ちを自覚した。みっちゃんのおかげで自分の写真に自信を持てるようになった。キラキラした気持ちをたくさんくれた感謝を伝えたい。
 この間のハグもキスも本当はうれしかったんだよって伝えたら、優しいみっちゃんは困ったようにぎこちなく笑むに違いない。だめだ、やっぱりそれだけは言えないや。

「ん。……じゃあ、まあそういうことで」
「待って! まだ切っちゃダメ!」
「どした?」
「私、舜斗の……甥っ子の家で試合観てるから、精一杯応援の念飛ばすから、だからえっと……とにかく頑張って!」

 勢いのまま伝えた拙い言葉。とにかく頑張ってなんて、プロのスポーツ選手に掛けるような言葉ではない。恥ずかしさで顔が沸騰しているのを感じながら、耐えられなくなった私は崩れ落ちてしゃがみ込み、空いた手で顔を覆っていた。
 すると数秒後、電話口の向こうで小さく笑うような彼の声が聞こえた気がした。

「言われねーでもそのつもりだっつの、覚悟して待ってろよ」

 それは、字面とは真逆に動揺してしまうほどやさしい声音で発されたものだった。
 胸がぎゅうっと締め付けられて、私はどう足掻いてもこのひとのことが好きなのだと思い知らされる。瞬く間に感情が溢れて、決壊しそうになるのをグッと堪えながら、なんとか「うん」とこもるような声で返事をする。その数秒後、彼の「じゃあな」という言葉を最後に通話が切れた。

「……ほんとはまだいっしょにいたいなんて、わがまますぎるよね」

 覚悟なんて、わざわざ言われる前からとっくに決まっていたはずなのに。
 フローリングの床に落ちていった言葉は、私しかいないリビングルームの中で溶けるように沈んでいった。


 ***


 舜斗は、部活から帰るなり猛スピードで入浴を終え、大急ぎで用意された夕食を平げ、今か今かと目を血走らせんばかりの形相でテレビの前に居座っている。
 彼が身に纏っているのは見慣れた真朱のソルバーンズTシャツ。背中に刻まれた14という数字と、ローマ字で記されたMITSUIの文字。その下にある少しだけ掠れた黒い筆跡は、間違いなくみっちゃんのサインだ。
 今試合で代表戦初デビューとなるみっちゃんのユニフォームやTシャツは、現地での購入が最速で手に入れられる唯一の方法らしく、通販は後日になるようだ。今度私が買ってあげるね、と伝えると、彼は「ほんと!? またミッチー選手にサインもらいに行かなきゃ!」とうれしそうに声を弾ませていた。
 そうこうしているうちに、いよいよ地上波での同時放送が始まった。
 レーザーのような赤と白の光が、アリーナを所狭しと駆け巡る。アリーナ中央に天吊りされている四面のディスプレイに映る選手たちの顔。チーム内でも背負う14という数字と一緒に映されたみっちゃんの写真を見た瞬間、私の中に巻き起こった感情はなんと表現したら良いのかわからないほど混ぜこぜになっていた。
 いつだって高みを目指し続けているあの人は、ついにここまで来たのだ。
 口をあんぐりを開けながらテレビを凝視している舜斗と同じように、私もかなり感極まっている。それを諌めるようにそっと胸に手を当てた直後、私は真横から向けられている視線にようやく気がついた。

「……ちょっと、なんですか?」
「んー? ふふ、べつになんでもないですよ?」

 寝入っている姪っ子を抱きながらどこか楽しそうに、そして含むように笑っている姉の表情の意図は、白状させずともわかっていた。なぜならば、似たようなニヤニヤを千夜子から向けられたことが記憶に新しかったからだ。
 姉はそれ以上追及してくることもなく、私は心を乱された敗北感を感じながら再び視線をテレビへと戻した。
 スターティングファイブが発表されて、両チームの選手たちがコートへ出てくる。一瞬映った日本側のベンチには、代表のTシャツを着用しているみっちゃんの姿があった。
 試合は1クォーター、2クォーター共に相手へリードを許してしまい、常に数ポイントを追い続ける展開が続いた。点差が開いては縮める、再び開いては追う。苦しい時間が続く中でも、赤いユニフォームを纏う選手たちに諦めや妥協は一切見えず、必死に食らいついていた。
 そして、3クォーターめ。ハーフタイムを終えて登場したのは、今試合が代表戦デビューとなる三井寿、その人だった。
 ぎゅう、と両手を握りしめて力をこめていなければ、意識なんてあっという間にどこかへ飛んでいってしまいそうだった。一際大きな声援を受けてコートに立ったみっちゃんの表情に、気負った様子は微塵もない。
 だけど、実は緊張しいのみっちゃんのことだから、試合が始まる直前までは青い顔をしていたかもしれない。お手洗いにこもってしまっていたかもしれない。
 リーグ初戦のあの日、私に「なあ、オレいまどんなツラしてる?」と問うてきたことを思い出す。もしかしたら、代表チームのメンバーにも同じ問いかけをしたのだろうか。そんなことを想像しながらくすっとしてしまった。
 この試合が終わったら、やっぱり自分の気持ちを伝えよう。今の生活が終わってしまうことは変わらないのだから、あなたのことが好きだと、ちゃんと目を見てまっすぐに言いたい。
 さびしい気持ちもかなしい気持ちもあるけれど、吹っ切れたように心が軽くなったのは、自国を背負ってあのコートに立っている彼の姿があまりにもかっこよかったからだ。

「こちらには、三井選手が来てくださっています!」

 画面に表示された「日本代表、勝利!」の文字。時間はあっという間に過ぎ、力みながら前のめりに観入っているうちに試合は終了していた。
 3クォーターから出てきたみっちゃんは、コートに入るなり回ってきたボールを速攻で放ち、初っ端に3ポイントを決めた。しかし、代表初得点に感動する間もなく試合は進んでいく。
 チームスポーツには、あるタイミングで流れというものがやってくるらしい。そのまま連続三本のスリーを沈めたみっちゃんの活躍を皮切りに、流れを引き寄せ掴んだ日本代表チームは一気に勢い付いた。縮めては引き離されていた点差がものすごい勢いで縮まっていき、4クォーター半ばにはついにそれを覆していた。
 残り一分となっても両チームの攻防は目まぐるしく展開し、握りしめた手のひらには爪が食い込んでいた。
 みっちゃんがボールを受けたエリアはスリーポイントのラインよりも遠い。中に切り込むようにフェイントをかけた彼は、その位置からボールを放つ。その瞬間、ゾクゾクとしたなにかが私の背筋を震わせて、思わず両手で口元を抑えていた。
 コンディションのいい日もあれば悪い日もある。だから、せめてその悪い日とか、悪い時間帯が少なくなるように練習を積むのだと、以前彼が言っていた。そしておそらく、今日はとんでもなくコンディションのいい日だったのだろう。
 ゴールリングをクルクルと回ってネットを揺らしたボール。決まった点はもちろん三点。フォロースルー後、親指と人差し指を繋げて輪を作ったみっちゃんは、それを掲げながらニヤリと笑む。そのままポジションに戻っていく彼の体を、選手たちが鼓舞するように叩いていた。

「三井選手は今回が代表デビューでしたが、追いつけそうで追いつけない苦しい展開が続く中、試合の流れを完全に変えてくれました!」

 画面に映るみっちゃんは、額から噴き出すように流れ出た汗をユニフォームの襟元で乱暴に拭っている。

「出るからにはやってやろうと思ってました。絶対決めてやる、絶対勝ってやるという気持ちしかなかったです。まあ、試合ン時はいつもそうですけど」

 自信に満ち満ちた表情と言葉。そこにハリボテの感情なんか微塵もなくて、日々の努力に裏付けされた結果がこれなのだとハッキリわかった。
 みっちゃんがどれだけバスケットボールに真剣に向き合っていたのか。それはきっと彼の家族やチームメイトにスタッフたち、代表のメンバーらが一番よく知っているだろう。
 でもここ一年弱の話だけならば、その次ぐらいに彼の努力を近くで見ていたのはおそらく私に違いない。
 
「鮮烈なデビュー戦でしたね! 最後のディープスリーに痺れたファンも大勢いるんじゃないでしょうか!?」
「あー、あれは正直自分でもよく打ったなと思うし、よく決まったなと思ってます。……いや、決まると思ってましたよ、200パー決まると思って打ちました」

 彼らしい言葉に、会場がドッと湧く。テレビに食いついたままの舜斗が「やっぱミッチー選手、かっこよすぎ……」とまさしく脳からそのまま口から飛び出てきたであろう言葉をしみじみと呟くのを聞きながら、私も無意識のうちに頷いてしまっていた。
 至極真面目な表情で言ったみっちゃんの肩を、同じ代表チーム選手がツッコミを入れるように拳で小突き、彼の頭をぐしゃぐしゃにしてから通り過ぎていく。

「では最後に、会場と、テレビの前で応援してくれていた日本の皆さんにメッセージをお願いします!」

 みっちゃんは、再度向けられたマイクに一度視線を落とし、一呼吸置いてからその視線を上げる。その瞳に映る強い意志は、試合後だというのに色を伴って鮮やかに赤く、メラメラと燃えていた。

「期待……してもらえてたかはわかんないんですけど、与えられた役割を全う出来て良かったと思います。二年後のワールドカップは自国開催ですし、まずは来年からのアジア地区予選でも代表に選出されることを目標にしたいです。今日は応援にすごい力をもらいました、本当にありがとうございました!」

 そう言って、体を折るように勢いよく頭を下げたみっちゃんは、勢いづきすぎて画面下へとフェードアウトしてしまう。ふふ、と吹き出してしまいそうになった次の瞬間、バッと体ごと顔を上げた彼は、どこか挑発するようにニッと口角を上げると、画面に向かって人指し指を突きつけた。

「……つーわけで、首洗って待ってろ!」

 ミッチー選手、ワールドカップ行く気満々だね! とうれしそうに舜斗が言った。
 私はというと、最後の言葉に、画面に向かって向けられた人差し指に、そしていつもどおりの彼の口調に、空いた口が塞がらなくなっていた。
 もちろん、その「待ってろ」にはワールドカップに向けて、という意味合いも大いに含まれていただろう。だけどそれだけじゃないことを、そのもうひとつの意味がわかったのはこの世界でおそらく私ただひとり。
 思い出される昨日の電話。リフレインするように脳裏に浮かんだのは、通話の最後に告げられた言葉。確か、いまと同じ言葉では無かっただろうか?
 いっそ思い過ごしであったらいい。そんなふうに考えてしまうのは調子が良すぎるということも、勘違いしてはいけないということもよくわかっていた。
 だけど、どうしてだろう。彼の言葉と向けられた指先には、間違いなく私へのメッセージが混ぜられていたと思わずにはいられなかったのだ。

「……私、帰らなきゃ」

 観戦の余韻で力はすっかり抜けきっており、覚束ない体を支えながらふらふらと立ち上がる。熱にうかされたような言葉と、それを発した私の声は掠れていた。

「待ってるって約束したの。ドタバタしてごめんね、おじゃましました!」

 不思議そうにこちらを見上げる舜斗と姉に小さく頭を下げて、家を後にする。
 私がいなくなった後で「お母さん、名前ちゃんのいってたことわかる?」「なんとなくね」なんて会話が交わされていたことを私が知ったのは、このドタバタがある程度落ち着いたあとの話だ。
 こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう。急いで帰る必要なんてない。彼が──みっちゃんが帰ってくるのはきっともっと全然あと。そんなことは分かっているのに、急く気持ちが止まってくれない。
 これから迎える時間は、この気持ちを自覚してからずっと迎えたくないと思っていたおわりのいちばん最初。でもきっと、ここでやっと全てを吐き出せる。ぜんぶ伝えることが出来る。
 駅に入って勢いのまま階段を駆け下り、ちょうど到着した電車に駆け込む。
 ゼェゼェと息を切らせながら肩を上下させている私に、ワイシャツ姿の男性の視線が突き刺さっている。はっとしてそれに背を向け、いつの間にか瞳に浮かび上がっていた涙を乱暴に拭い、閉まった扉の外に視線を向ける。
 インタビューを受けるみっちゃんの姿を見て、自分の中にある気持ちがようやく固まるのを感じた。いつだって前を向き続けていたみっちゃんが進む夢の先。それはきっと、どこまでも続いていく。
 そんな人の努力を間近で見ることのできたこの一年は、私の人生でいちばんキラキラ輝く時間になった。忘れられない鮮烈な記憶で彩られていたこの日常を忘れない。それをくれた彼に、ようやく抱え続けていた「だいすき」を伝えることが出来る。
 開放感に近いうれしい気持ちと、胃が竦むような張り詰めた緊張。それに加えて感じているのは、これからやってくることが確定している喪失感。
 それを抱えながら息を吐いても、疲れ果てた表情の人々が乗り合っている電車内ではまぎれるように霞み、煙みたいに消えていった。


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