12. 「え、なんスかその荷物」 空港に向かう為のバスに乗り込む前、宮城はオレの転がしているカートを顎で示しながら「家出でもしたんかよ」と俄かに目を細めた。 「よくぞ気づいた、視野が広い、ポイントガードの資質がある」 「おちょくってんの? 本当になに?」 「つーわけで、遠征終わったら合宿までの二、三日はオメーんとこ泊まらせてもらうわ」 「泊まらせてもらうわ……?」 先ほど、同じようなことを深津に言ったら「いやピョン」とこれ以上ないってぐらい有無を言わさぬ無の表情で突っぱねられてしまった。なんでだよ、いいだろちょっとぐらい、と引かずににじり寄ってみたが、ヤツは「いやピョン」「むりピョン」「だめピョン」を繰り返すばかり。最終的には「貞操の危機を感じるピョン」なんて言い出す始末で話にならなかった。 しかし、深津のことなので無理矢理ついて行ったとしても本気でオレを家に上げず、締め出しを食らう可能性は大いにあったし、想像をするのも容易だった。 というわけで、同学年のチームメイトの家に数日間転がりこむことが叶わなくなった今、他のチームメイトを当たる前にオレが白羽の矢を立てたのは、高校時代からの腐れ縁である宮城リョータだった。 「いや話わかんなすぎ、一旦家帰りゃいいでしょ」 「もう担いで来ちまってんだよ、入れろよオメーん家に」 「完全にヒモ男がする発言だよ。それにもうちょっとこう、人にものを頼む態度っつーのがあるっしょ。……っていうか」 もしかして、例の名前さんとなんかあったの? ドンピシャすぎるその指摘に、オレの顔にはあからさまな「ギクリ」という表情が浮かんでいたに違いない。よくぞ気づいた、視野が広い、ポイントガードの資質がある、と先ほど発した言葉を脳内でもう一度繰り返しながらも、敢えて口には出さないことにして、その代わりに「うっせえな、関係ねーだろがよ」という言葉を返す。 「なるほどね、わっかりやす」 「……なにがだよ」 「けど、いいんすか? ケンカしたなら謝るのは早い方がいんじゃないの?」 「ケンカなんかしてねーよ!」 いや、むしろ諍いであった方が解決策が明確でよかったのではないだろうか。現在、自分が解決の糸口すら見つからない泥沼のようなところに身を置いていることは間違いないのだ。 「ルームシェア、早く終わっちゃえばいいのにな。ずーっとつらいまんまだよ」 そう発した名前の言葉と声音を忘れてしまいたいと、聞かなかったことにしたいと思うのに、鮮明にリピート出来てしまうことがどうしようもなくつらい。ズキンとした鋭い痛みが胸の辺りを襲うのを感じながら、その不快さに顔を顰める。 いっそルームシェアという形でなければ、違う形で出会っていればこんなジレンマを抱える必要もなかったのではないか。でも、それがなければ彼女の人となりを知ることもなくて、惹かれるきっかけすら無かったかもしれない。 名前のことをどうしようもなく愛しく思う気持ちと、堪えるしかない欲まみれの衝動を抱えて最後まで過ごしていくぐらいならば、いっそ全てを吐き出して楽になりたい。そんな自分本位すぎることを考えながら、じっとこちらを見据えている宮城の視線から逃れるように顔を背ける。 言葉にせずとも伝わってくる「理由も言わずにただ泊めてくれ、なんてのが罷り通るわけねーっしょ」みたいな視線に根負けしたオレは、観念しながら深い息を吐き出した。 「……あいつ、オレとルームシェアしてんのつれーんだとよ」 昨日たまたま聞いてしまった通話の内容。衝動的に抱き寄せる、なんて行動をしてしまった次の日の朝のセリフは、悪い意味でオレにクリティカルヒットしていた。その極大ダメージは、つい二十四時間ほど前に受けたばかりである。 そんなことを言っていたくせに、昨日も今日も名前の態度は普段通りで。あの言葉通りに彼女がオレのことを疎んでいるような雰囲気はなぜか感じられず、それが余計に違和感だった。 一緒に過ごすことが心地よくて、練習や試合から帰れば名前がいて、お互いに他愛もない報告や会話を交わす。じゃれ合うような冗談を投げ合う。いつの間にかそんな日常を愛おしく思うようになっていた。 しかし、名前は違う。彼女の心のうちを知ってしまったオレには、素知らぬ振りをしながら、何事も無かったかのように生活を続けていく器用さはない。 思いを伝えることで心地の良い距離感を崩してしまう可能性と、吐き出して自分が楽になることを天秤に掛けると、どうしたって前者の方が重くなる。しかし、そもそも彼女はこの生活すら文字通りこなしていただけだったのだ。 「だから昨日の練習んとき、静かだったしシュート入んなかったんスね。けどプロなんだから、明日明後日は切り替えてしっかりやってくださいよ」 しゃーねーから泊めてあげるけどさ、とその声音にありありと面倒くささを滲ませている後輩に「サンキュ、今度なんか礼すっからよ」という言葉を返すと、宮城は何故かキョトンとした表情で目を丸くした。大方「オメーに言われねーでもキッチリ仕事するわ! ナメんだよ!」とか、そういう言葉が返ってくるもんだと思っていたからに違いない。 すっかりしおらしくなってしまっている自分に呆れながら息を吐けば、喉の奥から漏れたのは自嘲混じりのらしくない苦笑いだった。 「……あんなん聞いちまったらよ、好きだなんて余計に言えねーし、でもあと残りの何ヶ月かを何もしねーで過ごせる自信もねえんだよ」 一緒に住んでいる弊害──もとい、触れたいと思う衝動は、名前への感情を認めて以降、日に日にその存在感を増し続けている。 暗いリビングの中、ソファーの上で小さくなりながらぼんやりしていた彼女に声を掛け、そっと抱き寄せた体温と肌の柔らかさ、ふわりとした香り。細い髪を梳くように撫でながら、あのままもうしばらくそうしていたら「おまえのことが好きだ」とポロッと白状してしまっていたかもしれない。 このまま一緒に過ごしていたら、それが大きくなっていくばかりなのは明白だ。気持ちを伝え合った恋人同士にしか許されないふれあいを求めてしまう卑しい己の性に、募るものは自己嫌悪だけ。 だからこそ、複雑にこんがらがったぐちゃぐちゃな状態でこのまま過ごしているのはよくないと、何かを間違える前に早急に頭を冷やす必要性に駆られたのだ。アウェーの連戦を終えてから、そのまま家には戻らずに合宿へ行くという選択をし、それを名前に伝え、一旦距離を置くことを決めた。 「はは、めちゃくちゃ好きなんじゃん」 「……あー好きだよ! わりーかよ!」 「わるいなんて言ってないっしょ。恋してるアンタめっちゃ面白いなーとは思ってるけど」 「こ、恋とかいうんじゃねえ!」 じゃあなんつったらいいんだよ、と投げ返された宮城の言葉に、オレが打ち返せるセリフはどこを探したって見つからない。 恋、それは漢字にすれば一文字、声に出したらたった二文字の単語。オレには長らく縁のなかったものだ。 いわゆる男女的な関わりが今まで無かったわけではないが、情けなくなるぐらい心が苦しくて、どうしようもないほど傍に居たいし触れたいと、そんな風に思える相手に出会い、その衝動に抗う苦くも甘い感情を抱えるのはいつぶりだろう。 「今からオレが言うことは、お節介のひとりごとなんで聞き流してもらっていいんスけど」 聞き流して、とか言いながら思いっきりオレに話しかけてんじゃねえかよ。そんな野暮なセリフはグッと堪えるように飲み込んで、首は動かさずに視線だけを宮城へ向ける。 「名前さんの言うつらいってさ、なんか三井さんが受け取ったニュアンスじゃない気がすんだよね」 あ? と思わず声を漏らしていた。オレが受け取ったニュアンスじゃないとは、つまりどういうことなのだろう。 「単純にいっしょに住んでることがつらいなら、そもそもその相手のために時間作って試合観に来たりなんかしないと思いますけどね」 それに名前さん、アンタが点決めた時めちゃくちゃうれしそうにしてたよ。 そう続けられた宮城の言葉に、縋りたくなるような情けない感情が湧き上がってきてしまう。 「ま、これは外野のひとりごとなんで」 そう言った宮城は、ボトムスのポケットに手を突っ込んで己のスマートフォンを取り出し、その画面に視線を落として指を滑らせながら到着したチームのバスに乗り込んでいった。 *** アウェーでの試合に臨む前日、支度を整えたみっちゃんは普段の大きな遠征用バックではなく、キャリーケースを抱えながら自室から出てきた。 「あれ? 遠征して、こっち戻って来てから合宿……じゃなかったっけ?」 「おう。……まあなんつーか一旦家帰ってくんの手間だからよ、戻んねーでそのまま合宿行くことにした。それに、そのが名前も」 「え、私?」 「……いや、なんでもねえ。んじゃ行ってくるわ」 その時のみっちゃんの表情はどこか覇気がなく、彼らしいポジティブな意味での騒がしさがなりを潜めてしまっているようだった。いってらっしゃい、がんばってね、とこちらを向いていない彼の背中に、いつもどおりの見送りの言葉を掛けた。 アウェーでのリーグ二連戦を終えたら、そのまま一週間程度の代表合宿。それが終わって一旦こちらに戻ってきて、数日後には代表戦があるのだそうだ。 三井寿という男がどこまでも真面目でストイックで、一途にバスケットボールという競技に向き合っていることは一緒に暮らし始めたこの数ヶ月で痛いほどに存じている。 数秒前まで目の前に見えていた彼の背中を惜しむように、閉められた玄関のドアをぼんやりと眺めながら、ようやく「よし」と私が動き出したのはどれぐらい後のことだったのか。 「ただいまー……」 夜間ポートレートの撮影依頼を終え、帰宅したのは二十一時過ぎ。 誰もいない家の中から返事が返ってくるわけもなく、ぽつりと「そうだよねえ」とこぼしながら立ったまま履いていたスニーカーを脱ぐ。暗いリビングの明かりを点けて、担いでいたカメラバッグを自室で下ろしてから洗面所に向かう。 手洗いとうがいを済ませてから、なんとなく覗き込んでしまった同居人──もとい、みっちゃんの部屋。開け放された扉からそっと中を覗きこんでみても、もちろん彼の姿はない。 廊下の明かりがうっすら感じられる程度の暗がりの中、入り込んだ彼の部屋の生活感の無さに苦笑いをしながら、その場にゆっくりしゃがみ込む。 じわりじわりと姿をあらわしはじめていた感情。いま現在私が覚えているそれがさびしさであることを認めながら、いい大人がなんてこった、と呆れてしまう。 みっちゃんはたった十日程度家を空けているだけ、ただそれだけだ。息を吐き出すように「明日帰ってくるんだっけ……?」とこぼして、物の少ない部屋の中を見回してから脱力するように膝の間に頭をうずめて小さくなる。 みっちゃんのことを好きだと認めてから、その気持ちが本人と相対した際の行動や発言に表れていないかと日々戦々恐々しながら生活していた。だから、彼が不在の日々は気を張らずに過ごせるので少しだけほっとする──はずだったのに。 みっちゃんが家を出てから何日かが経過した現在、困ったことにさびしいという感情の方が今やそれを大いに上回っている始末。 賑やかで、もっというなら騒々しくて、でもどこか憎めなくて、まるでおひさまの擬人化みたいな彼がいないだけで、家の中の静けさを恐ろしいもののように感じてしまう。 でも、もうあと少しでそれが普通になるのだ。みっちゃんがいないことが当たり前になってすべてが元に戻る。 ルームシェアが終わったらみっちゃん自身も、彼がここで生活していたことを示すものも、全てが家の中からはけていく。プロテインのストック、洗って水切りに置かれているシェイカー、二人分の洗濯物、カレンダーに書かれた存在感のある赤い文字。 最後の最後に気持ちを伝えるぐらいは許されるだろうか。 答えをもらいたいわけじゃなくて、ただ私の抱えている気持ちと、苦くも楽しかった日々の感謝を伝えて「それじゃあね、これからも応援してる」と伝えさせてほしい。なんて、そんなのは自分を救済するためだけのエゴでワガママだ。 近くにいて、一緒に生活をして、彼の人となりを知る機会が増えたことが重なったことでこの気持ちが芽生えたことは間違いない。 だけどきっと、それだけじゃない。だって、私はこの生活が始まる以前から彼に魅了されてしまっていたのだと、今なら素直に認めることが出来るのだ。 思うように写真が撮れないフラストレーションを抱えていたあの頃。公園で彼がボールを放つ姿を目撃したときの、心がざわつくようなむずがゆくてどうしようもない気持ちと、否が応でもそれをファインダーに収めたかった熱く滾るような衝動は、今だって鮮明に思い出せる。 粗暴で大袈裟で騒がしいし、あーだのこうだのとやたら干渉してくるし、部屋に入る時はノックしてほしいことを何度伝えたって覚えてくれない。でももう、そんなことはどうだっていい。不器用なあの人の優しさや、子どもみたいにぽかぽかとあたたかい手のひらのぬくもりがくるおしいほど愛おしい。数日前の夜半過ぎの出来事を思い出すたび、猛烈に顔が熱くなって心臓の鼓動が早くなる。 これ以上、無自覚の行いで私を乱さないでほしい。そう思うのに、好きな人から向けられるあたたかい心遣いを突っぱねることなど、私のような恋愛弱者に出来るわけがないのだ。 *** パソコンに向き合っていた私は些か集中しすぎていたらしく、コンコン、と部屋の扉をノックされる音に思わずびくりと肩を震わせてしまった。 私が振り返るのとほぼ同時に扉を開けて入ってきたのは、十日ぶりに会う同居人、三井寿の姿だった。 まだ「どうぞ」と言ってないのに部屋に入ってきたことなんかどうでもよく思えてしまうほど、胸の中でぶわっと拡がったのは純度100パーセントのうれしい気持ち。それを必死に隠しながら「お、おかえりなさい!」と掛けた声は、あからさまに上擦ってしまって恥ずかしかった。 「ごめんね、帰ってきてたの全然気づかなくて……」 「いや、今帰ってきたとこ。仕事してたのにわりィな」 私たちの間を流れるぎこちない雰囲気を払拭するように「試合も合宿もお疲れさま」と努めて明るく言えば、みっちゃんはどことなくこわばっているような表情を緩ませながら「正直、さすがのオレもヘトヘトだわ」と気が抜けた様子でふにゃりと笑んだ。 「みっちゃんがここまで長く家開けるの初めてだったから、なんか家の中が静かでヘンだったよ」 そう言うと、みっちゃんは少しだけ驚いたように目を丸くして、腕を組みながらうんうん、と頷くような仕草を見せた。 ちょっとさびしくなっちゃった、と続けそうになったのをすんでのところで堪えたら、ニヤリと口角を上げたみっちゃんは冗談めかすような調子で「そーかそーか、オレがいなくてさびしかったか」と、見透かすようなセリフを投げてきた。 「あたり、さびしかった」 「は……? マジで?」 「マジで」 せっかく堪えた本音だったけど、もういいや。これぐらいならへんな追求はされないだろう。一緒に住んでいる人が長く家を空けていたからさびしく感じてしまったってことぐらい、そういう関係ではなくても抱いてしまう感情に違いない。 やっぱり私は浮かれているのだろう。飼い主が帰ってきたことに大喜びして尻尾を降りまくる犬の気持ちがわかるかも、なんて考えながら、それを誤魔化すように笑んで見せる。 「でもよ、その……名前はこないだ……」 目力のあるみっちゃんの瞳に浮かんでいる感情は、私にもわかるほど明確に揺らいでいた。彼が発した言葉はそこで止まり、続く言葉を待ちながら軽く首を傾げてみたが、どうやら言葉を続ける様子はなさそうだ。 「……不思議だよね。あの公園で出会って、再会して、そんでもって一緒に住んでて。何事もなくただ過ごせばいいやって思ってた日常が、いつの間にか当たり前になっちゃうんだもん」 あれ? と思っている間に、自分の口からぽろぽろとこぼれていく言葉。それは飾り気など無いまっさらで素直なそのままの気持ちだった。 これ以上の感情を吐露するのは避けなきゃと思うのに、壊れた蛇口から流れ出る気持ちは制御が効かなくなっている。 「みっちゃんの騒がしさが恋しくなっちゃうぐらいだったから、帰ってきてくれてほっとしちゃった」 いや、これはギリギリアウトでしょう! サアッと血の気が引いて、目の前に立っているみっちゃんの表情を真正面から見ることが出来ずに顔を伏せる。取り繕うように「あ、えと、いまのはね」と発した次の瞬間、私はあたたかい体温に包まれていた。 へ……? と素っ頓狂な声を上げた私は、ただひたすらにまばたきを繰り返す。直接感じるぽかぽかとしたあたたかさを、後頭部にある手のひらの熱を、そしてこの香りを、私はもう知っている。ただし、こんなに近くでここまで密着するのははじめてだったけれど。 みっちゃんに抱きすくめられているのだと気づくのに、幾許の時間を要してしまったのか。ぎゅう、と込められる力に息苦しさを覚えながらも、頭の中が混乱しすぎているせいで全く状況を把握出来ない。 「みっちゃん……!?」 「オレにこうされてんの、イヤか?」 「い、イヤじゃないよ! ……けどでも、なんで」 「んだよ、わかんねーのか? おまえのせいだかんな」 バクバクと、このあいだよりももっと大きく激しく稼働している私の心臓の音は、ぴったりとくっついているみっちゃんに届いてしまっているに違いない。抱きしめられていることに加えて、重なるように押し寄せてくる羞恥心で意図せず涙が出そうになる。 待って、だめだ、このままじゃぜったいに心臓が破裂しちゃう。 どうしてこんなことになっているんだっけ、と沸騰しそうな脳みそで必死に考える。どうしよう、ぜんぜんわからない。だって、脳内にドバドバと溢れ出てくる何かが思考の全てを阻害しているのだ。 込められた力が緩んで、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。ぴったりと密着していた体が離れて、視線がぱちんとかち合った。私の肩に添えられていたみっちゃんの右手が、すっと頬に伸びてくる。彼の手は心なしかこの間よりも熱く感じて、それに比例するようにひりつくほど熱がこもった視線が射抜くように私を捉えている。 みっちゃん、と思わずこぼした声の最後は飲み込まれてしまっていた。窄まるように小さくなり、くぐもった声の行方。重なった唇の間から出てくることのなくなった言葉は、食べられてしまい消え失せていた。 みっちゃんの唇の感触。頬に感じる手のひらの熱。耳まで届く自分の心臓の音。すこしカサついた彼の唇を感じながら、既に混乱の極地へ至っている頭の中は思考を停止してしまっている。 硬直したまま動けない私の耳に添えられたみっちゃんの指先が耳たぶをふに、と摘んだ瞬間、なにかが背筋を駆け抜けた。ぞくりとした感覚に息が漏れて、喉の奥から出てきた声のせいで恥ずかしさが沸騰し、じわりと涙が滲む。 はたと動きを止めたみっちゃんの唇が離れて、歪んだ視界の中で彼の頬がわかりやすく紅潮しているのを見た。肩を上下させている彼は、その唇をわなわなと震わせている。 「っ、わりィ……! こんなことするつもりじゃ」 みっちゃんの発した言葉と表情から、全てを察した。抱き合ったことも、たった今してしまったキスも衝動的なもので、私のように感情が伴ったものでは無かったのだろう。 アウェーの二連戦と代表合宿をこなし、数日後には日の丸を背負って初の代表戦に臨むプロスポーツ選手のメンタルにかかる重圧。それは、私なんかの想像を絶するレベルのものに違いない。 「……ううん! わかってる、大丈夫! いやあ、こんなこともあるよね! えっーと……代表戦に向けての景気付けに! ……はならないか、手元が狂っちゃった? みたいなかんじだよね!」 「おい、名前」 「だいじょうぶ、ちゃんと忘れるから! ね!」 キスのせいで滲んでしまった涙をさりげなく拭い、努めて明るく振る舞う。なにも無かった、なにも起こっていない。浮かれてしまいそうだった気持ちがスッと冷めていく。 ストレスの中に身を置き続けるスポーツ選手という仕事の中で、発散しきれないフラストレーションだってあるだろう。それに、私だっていやな気持ちじゃなかった。好きな人に触れられたことによって、抱えきれないほどのしあわせを感じてしまったことは認めるしかなくて。 みっちゃんは、そういうつもりで私に触れたんじゃないって、さっきの言葉と目の前に立ち尽くしている彼の表情でハッキリわかったはずなのに。 「話聞けって!」 その声は明確に怒りを孕んでいた。向けられた強い感情に思わず体を震わせてしまう。私の肩を掴んでいるみっちゃんの手に力がこめられた瞬間、感じたのは鈍い痛みだった。 「みっちゃん、痛い……!」 「一回だけだから、忘れちまうのか?」 「え……?」 「もっかいしたら忘れねーでいてくれんのかよ」 一度離れた距離をもう一度詰められながら、反射的に身をすくめる。腰を屈めたみっちゃんに近距離から見下ろされ、逃げ道を塞ぐように肩を押さえつけられる。見上げた彼の表情は今までに見たことのないもので、怒りや悲しみを交えた複雑なそれに感じたものは、彼に対してはじめて覚える恐怖に違いなかった。 「もっかいって、なに言って……」 「無かったことにすんじゃねえって言ってんだよ」 その言葉の意味を、みっちゃんの発した「もっかい」がなにを示しているのかを理解できる程度には、思考回路の麻痺は回復し始めていた。ふるふると首を振り、じわりと溢れてくる涙を必死に堪えながら、手を伸ばして拒否を示す。 「や、やだ……っ!」 今度は、みっちゃんが体を強張らせる番だった。ピタリと動きを止めた彼の顔をおそるおそる覗き込む。普段は凛々しく吊り上がった意志の強さを感じさせる眉は弱々しく顰められ、泳ぐ視線は隠しきれない動揺を滲ませている。 「みっちゃん、おかしいよ!? 大事な試合の前だからかもしれないけど、たぶんそれはいま近くにいた女が私だったからってだけで」 言葉を発するほどに、それがナイフの如く己に突き刺さっていくのがわかった。掴まれた肩なんかよりよっぽど痛くて、堪えていたものが目からぼろりとこぼれ落ちる。 何かを言おうと口を開けたみっちゃんが、堪えるように唇を噛み締めて口をつぐむ。震えながら拳を握った彼は、その視線を斜め下へと向けると、小さな声で「……そーかよ」と呟いた。 「……景気付けってなんだよ、オレの気持ちなんかなんもしらねーくせに」 今までに聞いたことがないほどか細い声でそう言ったみっちゃんは、身を翻して部屋を出ていく。しん、と静まり帰った自室の中、緊張しきりで強張っていた体は軋んで痛む。 みっちゃんが背を向けるその直前、彼の瞳の奥に一瞬だけ見えた濃い悲しみが、責め立てるように私の胸の中へ冷たい色を落としていた。 [*前] | [次#] |