11.


 なんと、みっちゃんが日本代表に選ばれたらしい。
 そもそも今までも年代ごとの代表に選出されることはあったし、合宿に呼ばれてもいたらしいけれど、今回はベンチに入るロスター、つまるところ国際試合に臨む代表選手として選出されたのだという。

「あ、これまだ公式で出てねーから名前ンとこの甥っ子には言うなよ?」
「そんな機密情報をホイホイ漏らしたりしないよ! そもそもなんで知ってるの? ってなっちゃうし。でもあの子、それ知ったらすっごい喜ぶと思う」

 みっちゃんが日本代表に選ばれたなんてことを知ったら、舜斗は文字通り飛び跳ねて喜ぶに違いない。おそらく制作されるであろう三井寿選手の代表レプリカユニフォームだとか、ネーム入りTシャツを私からのプレゼントとして捧げる算段を立てながら、こっそり自分用の確保もしなくちゃ、と企てる。
 みっちゃんが言うには、来週からのリーグ休止期間中に一週間ほど代表合宿があって、そのままアジアカップという国際試合が行われるのだという。

「あー……そいえばさっき、練習終わったあとによ」
「うん、なに?」

 みっちゃんは言いかけた言葉をはたと止め、何かを思い出したかのように顎に手を当てながら視線を右斜め上に動かす。彼はそのまま首を傾げる私を見遣って数秒停止したのち「いや、やっぱなんでもねーわ」と自分の部屋に引っ込んでしまった。
 なんだったんだろう、と思いながら、その背中が部屋の奥に消えていくのを見送る。ソファーの上に脚を乗せて膝を抱え込み、さながら体育座りのような体制で膝に顔を埋めて小さくなったら、思わず「うー……」と声が漏れた。
 みっちゃんがすごい選手なのは知っていた。普段一緒に暮らしていると、ガサツで適当で大雑把な面ばかり見えてしまいがちだけれど、バスケットボールに触れている時の彼はどこまでも真面目でまっすぐで、そのプレーは繊細でクレバーだ。
 しなやかで長い指から放たれるシュートの精密さとフォームの美しさは、競技に精通していない私ですら息を呑んでしまうほど。
 彼がスリーポイントラインからボールを放つ瞬間に齎される時間の流れがゆっくりになってしまったかのような不思議な感覚には、未だに慣れることはない。慄きと感動で背筋がゾクゾクして、込み上げてくる表し難い感情は私の涙腺に容赦のない攻撃を与えてくる。
 その一瞬に、彼がどれぐらいの時間を掛けたのか。そこに辿り着くまで計り知れないほどの努力の積み重ねがあったことは想像に難くない。
 だから、みっちゃんが代表に選ばれて世界と戦うと聞かされたとき、自分のことのようにうれしかった。彼と私はたった数ヶ月足らずの関係でしかないけれど、そんな私ですらそう感じてしまうのだから、今まで彼を支えて来た家族やチームメイト、関係者たちの感動はひと塩だろう。
 ひょんなことからルームメイトになった三井寿という男は、やっぱりすごい人なのだ。
 住む世界が違う、なんてことは今までだってずっと感じていたことで、とっくにわかっていたことだ。そんなことよりも、彼が帰宅してすぐ目をキラキラさせながら私に報告をしてくれたことが、そりゃあもうとんでもなくうれしかった。うれしくてうれしくて、当人でもない私がうっかり泣きそうになってしまったぐらいだ。
 一緒に住んでいるのだから、報告をされるのは当たり前のことなのかもしれないけれど、彼がその気持ちを私に共有してくれたことが、計り知れないほどにうれしかったのだ。
 だけど、それはいつまでも続くことではない。その事実が、心のなかにモヤとして居座り続けている。
 私がみっちゃんを好きだってこと、本人に言ったらどうなっちゃうんだろう。
 絶対に気まずくなって、気を使わせてしまうことになるのは明白だ。私がスッキリしたいなんていう自己中心的すぎる理由だけで、プロスポーツ選手のモチベーションやコンディションにノイズを与えるような行動は絶対に出来ないし、したくない。
 だからこそ、やっぱりこの気持ちは最後の最後──つまりBリーグのシーズンが終わって、ルームシェアを解消するその日まで己の中でひっそりと抱え、否が応でも隠し通していくしかない。本人に伝えたって、得をする人間は誰ひとりだっていないのだ。
 小さく息を吐いてから、目の前のローテーブルに置いてあるマグカップを手に取る。口を付けると、入っているミルクティーはもう完全に冷めきっていた。
 壁に掛けてある時計へと視線を移せば、時刻はもう深夜一時を回っていた。私、どんだけ長い時間ここでうじうじしてるんだろう。みっちゃんが練習から帰宅して部屋に引っ込んでから、とっくに二時間以上が経過していることに驚きつつ、膝を抱えて天井を仰ぐ。
 オンラインではあるが、明日は朝から少し重めの撮影の打ち合わせがある。自室に戻り、せめてベッドに潜った方がいいことはわかっているけれど、考えすぎによって稼働しまくりの脳みそが即座に入眠タームへ移行してくれるとは思えない。
 リビングでこうしていても眠気がやってくることはないが、それは自室に戻ったってどうせ同じだ。もういっそ、このまま眠らず朝の打ち合わせまで細かい事務仕事なんかをこなしていることにしようか。そういうことをしていた方が、不毛で何にも成り得ない雑念を紛らわせられるかもしれない。

「どした? 眠れねーの?」

 突如耳元で聞こえた声に、びくりと大袈裟に肩を揺らす。ひあっ!? と素っ頓狂な声を上げて、まるで猫のように体を跳ねさせてしまった私は、勢い余ってソファーから下のラグへと転げ落ちていた。

「ドッキリ番組出られるぜ、そのリアクション」
「い、いたの!? っていうか寝たんじゃ、いや、そうじゃなくて、ええと……! ごめんね、私うるさかった!?」
「いんや、オレもなんか寝付けなくて」

 ほらよ、と言って私の腕を掴んだみっちゃんは、呆けた私を立ち上がらせると、そのまま肩を掴んで些か強引にソファーへと座らせてきた。胸のあたりを抑えながら、先程の驚きによって未だバクバクと鳴っている心臓を諌めていたら、彼は「どっこいしょ」とか言いながら、そのまま隣に座ってきた。

「どうした? 仕事でなんかあったか?」
「え……っと、仕事? う、ううん! なんにもないよ、順調です」

 リピートしてくれているお客さんだっているし、仕事の方は全くもって順風満帆だ。そう返事をすると、みっちゃんはじっとこちらを見据えたまま納得のいかない表情で「そーかよ」と小さく漏らし、唇を尖らせてしまった。

「……言いたくねーってことなら別にいいけどよ」
「違うの! ほんとに何もなくて……その、みっちゃんはほんとにすごいなあって考えてたの」

 どうやら、みっちゃんは「私が仕事で悩んでいるけれど、自分には打ち明けてくれない」という勘違いをしているようだ。そういうことではないと誤解を解いておきたいところだが、じゃあどうしたんだと返されてしまう可能性がある。だからといって正直なことを暴露するわけにもいかないし、うまい言い訳が見当たらなくて言葉を紡ぐことができなかった。
 なんとか「私もがんばらなきゃなあ」と付け足して、再び膝を抱えて縮こまる。みっちゃんが私の懊悩している理由を察している様子はなく、自分の心の内がバレていないことにほっとした。
 みっちゃんはプロのバスケットボール選手で、ステージは違えど私だって今の仕事にプロとしての誇りを持っている。ありがたいことに、子どもの頃から憧れていたこの仕事で生活していくことだって出来ている。仕事という点だけでいうならば、みっちゃんは向上心を焚き付けてくれるし、モチベーションを齎してくれる貴重な存在でもある。

「名前、オレのアカウント見たか?」
「あ、うん。写真、使ってくれたんだね」
「オレぁよ、おまえが撮ってくれた写真にリアクション来んのすげーうれしかったんだぜ」

 だから自信持て、な? と言ってこちらを覗き込みながら、私の肩を些か強めに叩いたみっちゃん。そういうことじゃないんだけどなあ、と苦笑しつつ、不器用なみっちゃんの優しさがうれしくて「うん、ありがとう」と返事をする。
 心の中がぽかぽかして、彼に対するおもばゆくて複雑な感情が嘘ではないことを再確認させられてしまう。気にかけてもらえてうれしいとか、不器用な手のひらのぬくもりが愛おしいとか、頭の中でふわふわなお花畑が拡がっていくことに密かに顔を顰めながら、バレないようにそっと顔を隠す。

「……なあ、ちょっと頭貸してみ」
「頭? え……?」
「今からオレがすること、嫌だったら突っぱねろよ」

 ブレることのない射抜くような視線がこちらに向けられていた。強い意志を持ったそれに抗うことは出来なくて、なにをされるんだろうという思考を巡らせる暇もなく、訳もわからないまま小さく頷いてしまう。
 それを見とめたみっちゃんはぎゅう、と口を真一文字に結んだかと思うと、次の瞬間こちらに向かってにゅっと手を伸ばしてきた。私が驚愕の声を上げるよりも早く感じたのは、直に伝わってくる彼の体温だった。

「なんだ、その……えっとな、人の心臓の音聞いてっとよ、安心できるらしいぜ」

 だれか、だれか頼むからこの状況を整理して、客観的に説明していただけませんでしょうか。
 私を引き寄せたみっちゃんの手のひらは頭に添えられていて、私の顔がくっついているのはみっちゃんの胸で、つまり抱き寄せられている状態で──ええと、何でこんなことになってるんだっけ?
 体の自由がきかない。動揺と緊張のせいで石になってしまったかのように動かない体は自分のものではないみたいで、でも確かに感じるみっちゃんの温もりによってこれが現実であることは認めるしかなくて、心臓だけが爆速で働き続けている。
 お願いだから落ち着いて、と思えば思うほど、意識するほどビートは軽快に、そしてけたたましく鳴り続けてしまうし、顔だって臨界を突破したのではないかと思うほどに熱い。

「そ、そうなんだ!? えーと、なに知識!?」
「なんかどっかで聞いた、いつだっけかな」

 とにもかくにも距離が近い。いや、くっついているのだから近いなんてもんじゃない。
 私の頭を優しく撫でるみっちゃんの手のひらの温もりを感じるたび、口から呻き声が漏れそうになる。だめだ、好きな人にこんなことをされて、こんな風に気遣われて、ときめかない女なんてきっとこの世に存在しない。
 勘違いはあれど、思い悩む同居人を励まそうとしてくれている彼の優しい気持ちに涙が出そうになる。これ以上この想いを大きくしたくないのに、こんなことされたら大好きがもっと膨らんでしまうに決まっているのに。
 それと同時に感じたのは、処理の出来ない切なさだった。
 みっちゃんがこんな行動を起こしたのは、私に対して何の意識もしていないからであることは明白だ。なぜならば、そういう対象だったらもうすこし触れることに躊躇いがあっていいはずだし、私ならば自らスキンシップに及ぶなどとてもじゃないが出来ないからだ。
 きっと私は、ルームシェアを解消したあともしばらくこの気持ちを引きずってしまうだろう。想いを伝えて玉砕するよりも、伝えられなくて抱え続けていることがこんなにもつらくて苦しいだなんて知らなかった。
 大好きな人の体のあたたかさと、やさしさに比例する大きさの手のひらに育てられていくのは報われない一方通行な気持ち。それを伝えてしまったら、みっちゃんはきっと「マジかよ」なんて言って困った顔をするだろうに、なんて罪深いことをしてくれたんだろう。

「……おまえ、結構いい匂いすんのな」
「ヘンタイ」
「うるせー」

 とくん、とくんと聞こえてくるみっちゃんの心臓の鼓動。鍛えられた厚い胸板の奥から、確かに彼がここにいて、生きていることを教えてくれる音が聞こえてくる。
 どきどきし過ぎて悔しくて、心臓を鷲掴みにされているのではと錯覚するほど苦しいのに、体の奥から生まれてきたあたたかくてぽかぽかした感情が全身をゆっくり巡っていく。例えられないほど大きなそれがいわゆる幸福感というものであることに気づきながら、その感情に身を委ねてしまえば、確実に決められている終着点で大いなる追加ダメージを喰らうことが決定づけられてしまう。
 みっちゃんのことを大好きな気持ちを抱え続けていることがつらい。それが続くのならば、今すぐにでもこのルームシェアが終わってしまえばいいのに。
 そんなことを考えながらも、されるがまま体を委ねてみっちゃんの優しさに甘えきってしまっている自分の愚かさ。なんだかなあ、と思いながら、彼にはバレないようにそっと苦笑いをした。


 ***


 クライアントとの打ち合わせをなんとか終えて一息つく。
 眠れなくなってリビングでぼんやりしていた昨晩の出来事は、恐れていた通りにみっちゃんに対する私の気持ちを膨らませる原因になってしまっていた。大きすぎるエネルギーを得た恋愛感情は自分ひとりで抱え込めるキャパシティを超過している。
 そして、いよいよ爆発しそうになっていた私の状態を見計らったかのようなタイミングでの着信は、千夜子からのものだった。

「母方の田舎から大量に野菜もらっちゃったから、名前のところに送ってもいい? あんたんとこ、スポーツ選手が居るんだし食べるでしょ」

 直接持って行きたいんだけどかなり量あるんだよね、と続けた親友の声に、そして予告無く振られたみっちゃんの話に、張り詰めていた糸がプツンと切れる。

「……千夜子、どうしよう」
「は? どうしようって、野菜送るだけでなにをどうするのよ」
「ちがうの、あのね、私みっちゃんのことすごく好きになっちゃったみたいで」

 意を決して吐き出した声は、泣きたくなるほど情けなく震えていた。それに対して数秒の間を開けたあとで「まあ、そうだろうと思ってたけどね」と穏やかな口調で返されたレスポンス。電話口の向こう側にいる千夜子の声音は私を揶揄うようなものではなく、寧ろどこかほっとしているかのような雰囲気すらあった。

「言ったでしょ? 踏ん切りがついて誰かに話したいってなった時はあたしが一番に聞きたいって」

 だからなんかうれしくなっちゃった、と小さく笑う千夜子の声に安堵しつつ、ほんのりと頬が熱くなるのを感じる。
 自分の心の中で留め置いておけば、その気持ちが気のせいであると思い込むことだって出来たかもしれない。けれどもう、それでは立ち行かないほど、誰かに吐き出さなければ思いも寄らないところで爆発する危険性を孕むほどに、私の気持ちは大きくなってしまっていた。
 みっちゃんが毎日家にいるわけではなくてよかったと心底思う。もう完全に彼のことが好きなのだと認めてしまった今、何食わぬ顔で接するのにも限界がある。
 ましてや、あの罪深い男のこと。今後も何の気なしに乙女の心を無意識に揺さぶる行動を起こすことだって大いにあり得る。そうなった瞬間、例えば私の感情が弾けて意図せず泣いちゃったりなんかして、勢い余って自分の感情を吐き出してしまう──といった恐ろしすぎる展開も想像に易い。
 だから、このタイミングで一番近しい気の置けない相手に気持ちを共有できたことは、予定に無かったがナイスな選択であったと思うことにしたい。

「こういうのって、人に話すとそうなんだって認めることになっちゃうでしょ? 自分のこと騙していられなくなるっていうか」
「そうね。……でもさ、あんたたちはいずれそうなるんじゃないかなって、あたしは結婚式の二次会の時から思ってたけどね」
「あんたたちって、今話してるのは私がそうなっちゃったって話だから」
「……ふふ、はいはい、そうですね」

 どこか含んだように笑う親友の声に顔を顰めたら、堪えきれないあくびが漏れた。あのまま、私はどれだけみっちゃんに甘やかされていたんだっけ。
 体をくっつけていた時間がどのぐらいだったのかなんて感覚はほとんどなくて「ごめんね、もうそろそろ部屋に戻って寝られるようにがんばってみるよ」と何とか平静を装って伝えたら、頭の上から「ん、ならよかった」と穏やかな声音で言われた。
 その声にはちっとも「ったく、時間取らせやがって」みたいなニュアンスは含まれていなかった。それにより、今までの行動の全てが完全に彼の善意によるものなのだと分かったら、余計に胸が苦しくなった。
 それじゃあおやすみ、と言葉を交わしてお互いの自室に引っ込んだ。寝坊しないように携帯のアラームをセットして、未だギンギンに冴えきった脳みそを無理矢理シャットダウンするかのようにぎゅう、と目を瞑ったら、いつの間にか寝落ちていた。
 アラームに起床を促され、睡眠不足によって重たくなった瞼を擦りながら洗面所に向かう。玄関には既にみっちゃんのスニーカーは無く、とっくに朝のジョギングか、もしくは練習に向かったらしいことがわかった。
 なんとまあストイックなものだなあ、と思いながら、プロスポーツ選手の貴重な睡眠時間を私のせいで削ってしまった罪悪感できゅう、と心が痛んだ。
 そんなわけで、何とか身支度を整えてリモートでの打ち合わせに臨んだ直後、仕事をまとめていたところで掛かって来たのが千夜子からの電話だったのだ。
 打ち合わせでは気を張っていたからなんとかなったけれど、いろんな意味で疲れているし、さらに追い討ちを掛けるように眠気が襲ってくる。今日は外に出る予定はないし、この通話を切ったら軽く一眠りしてしまおう。

「ルームシェア、早く終わっちゃえばいいのにな。ずーっとつらいまんまだよ」

 本心じゃないクセに何言ってんだか、と呆れた様子の千夜子の声を聞きながら、ぼすんとベッドに飛び込む。
 終わってほしいだなんて、もちろん心の底では思っていない。けれど、このまま耐え切れないほどに苦しくて、堪え切れないぐらい切ない日々が続いていくだけならばいっそ。そんな風に思って、ヤケクソのように漏らした本心ではない弱音。
 誰かを好きになることって、こんなにくるしくなることだったっけ。
 奇跡の連続で成り立っている関係性と、戻ることも進むことも出来ない現状に対して私が漏らしたため息は、思った以上に重苦しかった。


 ***


 眠る時間が遅くなっても、結局いつもどおりの時間に目が覚めるのだから不思議だ。
 練習は今日も昼過ぎからなので、まだ時間にも余裕がある。しかし、だからといってゴロゴロしているのもなんだか落ち着かず、結局毎朝のルーティーンであるジョギングに出ることにした。
 ぶっちゃけてしまうと、昨晩は全く寝た気がしなかった。そもそも代表に選ばれた興奮で寝付けず、体の火照りを治めようと自室を出たら、名前が帰宅した時と変わらない体制のままソファーの上で呆けていたのだ。
 暗い部屋の中で微動だにしない名前を放っておくことが出来ずに声を掛けたら、彼女は大袈裟に驚いた挙句、その勢いのままソファーから転げ落ちてしまった。
 何があったのならば、せめて聞き役ぐらいにはなってやりたい。しかし、無理矢理聞き出そうとするのも違う気がする。
 でもでもだってと巡り続ける思考に嫌気が差して、ラグの上で目をぱちくりさせている名前を助け起こし、そのままソファーに並んで座ったオレは「人の心臓の音聞いてっとよ、安心するらしいぜ」とか何とか言いながら、彼女のことを抱き寄せていた。

「なんちゅーことをしちまったんだオレは……!」

 ジョギングの最中にも昨日のあらましが脳内でリフレインされて、思わず声を上げながらしゃがみ込んで頭を抱えてしまった。
 嫌なら突っぱねろとは言ったけれども、それ以前に抱き寄せるなんていうのはどう考えても行き過ぎた行為だったと、冷静になった今は心の底から思う。
 しかし、名前は何故か抵抗することなどなく、抱き寄せられるがままになっていた。彼女の髪を梳くように撫でながら、その体の何とも言えないやわらかさと、顔に近い場所で香る例え難い甘い香りに、つい脳直で「おまえ、結構いい匂いすんのな」なんて発してしまう始末。
 やべえ、声に出しちまってた! と焦るオレをよそに、名前はオレにぺったりとくっついたまま「ヘンタイ」と平坦な調子で、いつもと変わらないテンションで言った。叱責するわけでもなく、茶化すような普段どおりの返球にそっと胸を撫で下ろしながら「うるせー」と返したら、彼女が小さく笑うのがわかった。
 つーか、なんであいつはあんなにされるがままだったのだろう。そういう関係でもない男に抱き寄せられたら、抵抗するのが普通なのではないか?
 そこでたどり着いたのは「自分がそういう対象ではないから」というなんてことのない答えだったわけで。それならば、抵抗を示さなかったことにも納得ができる。
 一緒に暮らしているきょうだいだとか、そういう風に思われているのだろうという自覚はあった。名前がオレに対して抱いているものは異性だなんだではなく、友情とか親愛に近い何かなのだろう。
 なるほどな、だから拒否されなかったわけか。
 改めて、それをハッキリ突きつけられながら、自分がわかりやすくショックを受けていることに何とも言えない笑いがこぼれた。
 もう、これ以上この気持ちを抑えつけているのにも限界が迫っている。いっそ全て打ち明けてしまいたいのに、それによってこの関係が崩れていくことに対する恐れがその選択の邪魔をする。
 モヤモヤを晴らすように、かなりのハイペースでマンションへの帰路を駆ける。すっかり陽が昇った往来には人の姿も増え、息を切らせながら全速力で駆け抜ける自分に視線を向けられているのを感じる。
 マンションのエントランスを抜け、エレベーターの中で膝に手をつきながら荒い呼吸に肩を上下させる。名前も、そろそろ起きた頃だろうか?
 まだ寝ている可能性も考慮しつつ静かに部屋の鍵を開けると、静まり返った部屋の中から微かに人の声が聞こえてきた。その声は確かに同居人である名前のもので、漏れ聞こえる口調の丁寧さから取引先との打ち合わせ中であることを察する。勤勉なこって、と無意識に笑みをこぼしながら、その足で脱衣所へ向かうことにした。
 今日の練習が終わったら、明日はアウェーへの移動日で、そのまま二連戦だ。それが終わったらリーグはアジアカップのための中断期間──いわゆるバイ・ウィークに入るのだが、こっちに帰って来ても次の日にはもうそれに伴う合宿への参加が決まっている。
 怒涛だな、と思いながらも、その忙しなさに幸せを感じている自分もいるわけで。
 オレのバスケットボール人生の中に明確なゴールというものは無いのかもしれないが、目標としていたもののひとつに手が届くところまで来ている。リーグ優勝だとか、レギュラーシーズンの最優秀選手賞だとか、そういうものの中に「代表に選出されて世界と戦う」というものも含まれていた。
 着ていたジョギング用の衣服を脱ぎ捨て、洗濯カゴへ放り込む。汗まみれの体を熱いシャワーで流すと、昨晩衝動的に仕出かしてしまった名前へのスキンシップに対するモヤモヤもほんの少しだけ流れていってくれたような気がした。
 名前の体を抱き寄せ、その頭を撫でながら感じていた生理的な衝動の理由を、オレはハッキリと認識していた。
 自分よりも遥かに華奢なその体を両腕で抱きしめて、白い首筋に顔を押し付けて胸いっぱいに息を吸い込んでみたい。さすがにそれは理性が働いてくれたおかげで踏みとどまることが出来たが、オレの中に生まれていた欲望は当たり前に抑えなければいけないものであるという理解もしていた。
 もし万が一、あいつもオレと同じ気持ちでいてくれたり──……なんて、そんな都合のよすぎることは、やっぱりねえよなあ。
 そんなことを考えながら、ガシガシと頭を洗って体を流す。
 らしくない感情に平常心を揺らがされていることが悔しくて、そしてなんとなくむずがゆい。こんな状態でチームに合流したら、そういうのを突っつくのが上手いあいつらにバカにされるに決まっている。
 よし、と気持ちを切り替えるように言ってから、シャワーの蛇口をひねって止める。雑念がある時はボールを触るに限る。今日も早めに家を出て、シュート練でもしておくか。
 バスタオルで頭を拭い、手早く衣服を身につける。熱気のこもった脱衣所を出てキッチンを目指すと、名前の部屋からは未だに話し声が聞こえていたので、なるべく物音を立てないように気を使いながらプロテインの大袋とシェイカーを手に取った。
 微かに聞こえてくる名前の声に先ほどのような畏まった雰囲気はなくて、漏れ聞こえてくる会話からも口調が砕けているのがわかる。おそらく、親しい人間と通話をしているのだろう。
 盗み聞きしてんのはよくねーよな、と思い、手早くプロテインの粉をシェイカーにぶちこんで、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを流し入れる。

「ルームシェア、早く終わっちゃえばいいのにな。ずーっとつらいまんまだよ」

 そのセリフはそこまで大きなボリュームではなかったのに、どうしてこんなにもハッキリと聞こえたのだろう。
 握っていたシェイカーの蓋をぎゅ、とキツく締めながら思う。なんだよ、と勝手に漏れ出た自分の声は普段よりもかなり低く、そしてその中に混じったものは感じたことが無い程に苦くて、どこにも向けられない怒りにも似た何か。
 突きつけられた現実に、情けなく肩が落ちるのがわかった。
 そりゃそうだ、あいつは巻き込まれてこの状況に置かれているだけなのだ。一年という期限付きのこの同居生活を、こなすつもりでこの送っていたに過ぎない。
 力も抑揚も無い声で発された名前のセリフが、反響するみたいに頭の中で鳴り続ける。それを振り払うように、勢いのまま自室に戻る。
 閉めたドアに背中をつけて、奥歯を噛み締めながら滑り落ちるようにしゃがみ込む。

「ずっとこうしてられたらいいのに、なんて思ってたのはオレだけっつーことかよ」

 そりゃそうだよな、と自分に言い聞かせるように続けたら、喉の奥からこみ上げてきたのは乾いた自嘲気味な笑いだけだった。


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