10. 平日に行われるナイトゲームは十九時過ぎにティップ・オフとなる。試合が終わってもすぐに帰宅、となるわけではなく、試合後の取材に応じ、軽いミーティングをして、体のメンテナンスを受けてからとなると、必然的に帰宅時間は遅くなる。 そんなわけで、今晩の夕飯についてオレの分は要らないということを伝えるべく、本日は朝から自室に引きこもり、パソコン画面と睨み合いながら写真の現像とやらに向き合っているらしい名前の部屋を訪れていた。 「……んだこれ、なんで深津?」 思わずこぼした言葉。 オレの視線は、名前が向き合っているディスプレイの下に置かれている透明の立体物──いわゆるアクリルスタンドと呼ばれているものに注がれていた。 「こないだの試合の時ね、運試し! と思って引いてみたら深津選手が出たの。このポーズ、独特でいいよね。ビームとか出そう」 「……ふーん」 っていうかみっちゃん、またノックなしで侵入してきたでしょ、とむくれている名前を無視して、置かれている深津のアクリルスタンドを手に取る。十センチ足らずの高さのそれは、チームで販売されているものに違いない。 そういや、そういう商品が出るから写真撮りますって言われて、撮影されたような覚えがある。が、その際に自分がどのようなポージングをしたのかは覚えていないし、実際に実物を手に取ったのも今この瞬間が初めてだ。 何を考えているのか一切読み取ることの出来ない司令塔の無表情をじっと見据えながら、得体の知れないモヤモヤとした感情で己の中が圧迫されているのを感じる。 得体の知れない、と言ってみたものの、感じる不快さの正体を、オレはもう既に悔しいほど存じ上げている。 「なんで深津を飾ってんだよ」 「え? なんでって出たからだけど……? こういうのって飾るもので、しまい込むようなものじゃないでしょ?」 それになんかいいことありそうだし、とオレの手元から引ったくった深津のアクリルスタンドをデスクに戻した彼女は、再び視線をパソコンのディスプレイへと向ける。 そいつより、オレを持ってた方がぜってーいいことあるぜ、という言葉はさすがに大人気なさすぎる自覚があったのでグッと堪えて飲み込んだ。 「オレ、今日試合ナイトゲームだから帰り遅くなる。メシいらねーから」 「了解! 頑張ってね」 観に行けないけどパソコンに向かいながら勝利を祈ってます、と拳を握った名前に笑いかけて「あんがとな」と言ったオレの手は、無意識のうちに彼女の頭に伸びていた。ぽん、とその頭頂部に手のひらを乗せ、彼女の柔らかい髪の質感を感じた瞬間、ようやく自分の仕出かした行為に気づいたオレの背筋を、冷や汗がたらりと伝った。 口を半開きにして目をぱちくりさせている名前から視線を逸らし、なんとか平静を装って「いや、いい位置に頭があったからよ」なんて言いながら、それ以降の彼女の反応を遮るべく、後ろ手を振ってその空間から退散する。 名前の部屋を出て、その足で自室へ駆け込んだオレは、小さく呻きながらしゃがみ込んだ。頭を抱えた数秒後、深く重いため息を吐き出してから、己の手のひらをまじまじと眺める。 「なにやってんだオレは……」 以前も、というか、名前に向ける自分の感情の正体を認めるまでは、何の気無しに彼女の頭を撫でるという行為をしたことがある。しかし、今となっては状況が違う。彼女を愛しいと思う感情が、先ほどのやりとりの中で滲み出したりしていなかっただろうか? ふるふると首を振って、再び頭を抱える。気づかれてはいない、そうであると思いたい。なにせあいつはちょっと抜けているところがあるし、そういうことに鈍そうだ。加えて、どう考えてもオレという人間のことをルームメイトとしか思っていないことは、日常の中で痛いほどに感じている。 「あーあ、ったくよー……」 報われねえ、とこぼれた言葉と一緒に漏れ出したのは、抱え切れないほどに膨らんでいた感情。気にしなければいい、忘れてしまえばいい、なかったことにして無視を決め込めばいいというレベルを既に超えているそれを、吐き出せる場所など何処にも無く、文字通りの手詰まりを感じていた。 運命に振り回されるがままに始まった同居生活は、もうあと数ヶ月ののちに終わる。 この気持ちを伝えたら、アイツはどう思うだろう。 その答えには、深く考え込まずとも容易に辿り着ける。行動に移してしまうことで、残り少ない同居生活が気まずいものとなることはわかりきっている。そもそも、自分にそういう感情を抱いている男がひとつ屋根の下で一緒に暮らしているだなんて、恐ろしいことこの上ないだろう。 終わらなければいいのに、と思う自分と、さっさとルームシェアを解消する日がやって来て、このどうにもできない感情に諦めをつけてしまいたいと思う自分。相反する感情に振り回されることに嫌気が差して、勢いに任せて両手のひらで思いっきり自分の頬を叩く。 「ってー……!」 ピリッと頬に走った鋭い痛み。そのせいで、悶々とした脳内が少しだけクリアになった。 オレはプロのバスケットボール選手で、今日だって試合がある。プライベートのあれそれで頭を抱えている場合ではない。 まだ家を出るには早いが、ここに居たってどうせまた不毛なことで頭を抱えてしまうに決まっている。もうさっさと試合会場に向かうことにしよう。 意識を無理矢理に切り替えて立ち上がり、床に放置していたスポーツバッグにインナーやら何やらを感情のままに放り込んだ。 *** 「うわ、なんスかそれ……。ほっぺ、赤ちゃんみたいに赤くなってるけど」 あ? と返事をして顔を上げれば、横のロッカーに腰を掛けている宮城がこちらを覗き込んでいた。ほっぺ、と言われ、何を指摘されたのかはすぐに察した。 「あー、気合入れるために自分でやった」 「なんだ、何かやらかして名前さんに引っ叩かれたんじゃないんスね」 「ちげーよ。つーか慣れ慣れしんだよ、おめーにもやってやろうか?」 オレのビンタは効くぜぇ、と目を細め、わざとらしく歯を見せながらニヤリと笑ってみせると、宮城は「完全に悪役のツラだよ……」とか言いながら何故かめちゃくちゃ引いたリアクションを寄越してきた。 「ま、やる気十分って感じで安心したよ」 「オレぁいつだってやる気十分だわ、毎時毎分毎秒漲ってるわ」 「はいはい、ムラありまくりだけどね」 「うっせーな!」 結び途中だったバッシュの紐を結び終えて立ち上がると、座ったままの宮城から「どこ行くんスか?」と声を掛けられる。背を向けたままちらりと背後を振り返って「便所」とだけ言い、練習着のボトムスに両手を突っ込んで歩き始める。 排泄欲があるわけではない、ただなんとなく、コートに出る前に一度は便所に寄っておきたい。こんな風になったのは、バスケットボールから離れていた二年間を終え、競技に復帰した高校三年の時からだ。下腹部に感じる違和感は緊張に伴うそれであったことを、今ならば素直に認められる。 試合のたび、まるでルーティーンのようにもよおすそれは不愉快極まりなかったけれど、大学生活も二年を終える頃には徐々に薄れていっていた。とはいえ、それは未だに全く無くなったわけではなく、用を足すと気持ちが少しだけ落ち着くことは間違いない。 ロッカールーム近くのトイレから出ると、ちょうど入ってくる深津とすれ違った。視線を交わしてから「それ、引っ叩かれたピョン?」「気合い入れるために自分でやったんだよ」というさっきも違う人間と投げ合った会話を繰り返し、先にその場所を去る。 そこでオレは思い出した。つい数時間前、家を出てくる直前に名前の部屋で見かけたユニフォーム姿の深津のアクリルスタンド。チッ、と小さく舌打ちをしたオレは、通路の真ん中で立ち止まり、アゴに手を添えて考える。 おそらく、立ち止まっていた時間は数秒にも満たなかった筈だ。踵を返したオレは、前のめりに、そして足早にその通路を抜けた先のアリーナ外のコンコースを目指していた。 コンコースに出ると、視線を下げ、身を縮めていても刺さる視線たちは容赦がない。ざわつく周囲の声に軽めに手を振って、精一杯の笑顔を作りながら、オレの中の最速歩行でたどり着いたのは物販ブースである。 その場所に陳列されている銀色の袋に包まれた平たいトレーディング商品を手に取る。 三か……いや、四か? 運試しに、と言っていた名前の言葉を思い出しながら「じゃあ何が出たら運がいいってことになんだよ」とぼそりとごちる。 横に立っていたブースターからの視線を感じながら、中身の見えない袋を四つほどむんずと掴み、大股でレジに並んで「すんません、これお願いします」とぼそぼそと言った。 レジの店員は数秒硬直したままオレをじっと見つめていたが「あ、は、はい!」と弾かれたように動き出し、慌ててバーコードをスキャンし始めた。ショッパーは必要ないことを伝えて代金を支払い、中身のわからないそれを引っ掴んで物販ブースから離れた隅にしゃがみ込む。 未だに感じる遠巻きな視線たちににへらと愛想笑いを返しながら、乱暴に封を剥がして中身を取り出す。すると、小脇にバスケットボールを抱えている見知った歪んだ眉毛の男が、交戦的な表情で片眉を上げながらこちらを見据えていた。 ぐ、と己の眉間にシワが寄るのを感じながら、続けて二包めを開封する。続いて出て来たのはまた別のチームメイト、その次は宮城、更に最後の四包めも宮城であった。 「っだよオイ! 宮城、おめー三人目だぞ!? オレのこと好きすぎか!? かわいいヤツめ、急にデレやがって……」 そんな言葉が、意図せず口から飛び出していた。けど今じゃねんだよ! と弾かれたように立ち上がり、勢いのまま物販ブースへ舞い戻る。 オレを見守るようなブースターたちの視線はどれも控えめだったが、寧ろどこかあたたかさすら感じられた。そんな中、トレーディング商品を購入し、開封しながらあーでもないこーでもないとブツクサいっている自分の姿を俯瞰して、オレの中にはようやく羞恥心というものが膨らみ始めていた。 とはいえ、既に四つ購入したあと。引くに引けない戦いはとうに始まってしまっているし、ここで求めていたものを得ずに醜態だけを晒して戻るのでは男が廃る。 「すんません、もう二個追加で」 「あ、はい! 袋は……」 「いらねっす、ありがとうございます」 二度目ともなれば、トレーディング商品を掴んでレジに持っていき、支払いを終えるまでのムーブに滞りはなくスムーズだ。 先ほどしゃがみ込んでいた場所に戻り、指先で封をつまんで開封する。 出ろ、出てこい三井寿。ここで出てこなきゃ男じゃねーぞ! そんな言葉を脳内で繰り返しながら、意を決して取り出したアクリルスタンドのひとつめ。それは、つい先ほど彼女の部屋で手に取り、まじまじと観察したばかりの深津であった。 チッ! と盛大にしてしまった舌打ちで、周囲から小さい笑い声が沸く。もういい、引かなきゃダメだのなんだの言ってたけど、これで最後にしよう。全く、オレはなんちゅうもんに躍起になってんだ。 ほとんど諦めモードに突入しながら、最後のひとつを開封する。すると、出て来たのは鏡の中で毎朝見ている顔──つまり、オレ自身のものに違いなかった。 掴んだバスケットボールを顔の横で掲げ、腰に手を当てながらアゴをしゃくらせているオレの表情は、自分でいうのもなんだか少々小憎たらしさを感じさせる。 「……っしゃあ! やっとオレが出たぜ!」 思わず立ち上がってグッと拳を突き上げたら、周囲からパチパチと小さな拍手を送られる。お騒がせしてスミマセン、の意味を込めて頭を下げながら、いそいそとロッカールームのある通路へと捌ける。 今更ながら、こんな衝動的な行動を起こさずとも、フロントの誰かに購入したい旨を伝えるだけでよかったのでは、という至極当たり前なことにようやく思い至ったが、時すでに遅し。もう行動してしまったあとである。いわゆるあとの祭り、というものを感じながら、つい先ほど得たばかりのトレーディング商品たちを掴んだままロッカールームへと戻る。 「お騒がせ野郎が帰ってきたピョン」 「なげー便所だったっスね。アンタさあ、見なよコレ」 宮城がずいっと差し出してきたスマートフォン。そこにはSNSの画面が表示されており、目を細めて覗き込めば「なんかミッチー選手が物販にいるんだけど……!?」「めっちゃ縮こまってるけど思いっきりバレてる」「三井選手、自分のアクスタが出て喜んでた! かわいい」「リョーちん三人も出たっぽい、キレてる」などの文字が並んでいた。 「えー、えっとだな……おめーらも出たんだぜ!? 要るか!?」 「いらねーよ!」 家まで大事に持って帰って大事に飾ってくださいよ、と発した宮城に続き、ぽん、とオレの肩に手を乗せてきた深津が「たくさんかわいがってくれピョン」といつもの表情のまま言った。 *** 試合の次の日、前日に得たアクリルスタンドのオレと宮城を差し出すと、名前は「どうしたの、これ……」となんともいえない表情でオレを見上げていた。 なんとなく引いたら出たから深津と一緒に並べとけよ、とモゴモゴ言うと、彼女はふっと破顔してから「ん、そうする」とやわらかく笑んだ。 「その、これ引いた時の運試しってよ」 「運試し……? あー、うん」 「……いや、なんでもねえ。んじゃ、オレ練習行くわ」 足早にリビングを立ち去る。自分が問おうとした答えを知るのが怖くなったという情けない事実は、オレだけが知っていればいい。 そんなやりとりを思い返しながら、練習場所であるアリーナへ入る。すると、背後からとん、と背中を叩かれた。いつの間にか横に立っていたヘッドコーチに「あ、お疲れっス」と小さく頭を下げ、その人の含むような表情に軽く首を傾げる。 「おまえ、強化試合の代表選出されたぞ」 「マジすか……!?」 合宿には度々呼ばれることもあったが、ロスターに登録をされるのは初めてだ。 自国開催されるワールドカップは、もう二年後に迫っている。これは、その代表に選ばれるためにアピールをするまたとない機会だ。プロになり、バスケットボールを生業としている選手の中で、代表に選ばれることを目標としていない者は居ない筈だ。そしてそれはバスケに限った話ではなく、どの競技であってもだろう。 目標としていたそれを告げられ、オレの時間が止まっていたのはどれぐらいだったのか。口をぽかんと開けたまま硬直しているオレを見据えながら、ぷっと吹き出したヘッドコーチは「なんちゅう顔してんだ、ちゃんと活躍してこいよ」と拳で軽めにオレの胸を叩く。 代表に選ばれたい、という目標は国際試合のコートに立ちたい、という目標に変わったかと思えば、世界の舞台で結果を残したい、と瞬く間に壮大なものへ変化していた。 ただひたすら走り続けた道の先に、いままで見えなかったものがどんどん姿を表している。このまま無我夢中になって進んだらきっと、今まで見たことのない景色が見られるに違いない。 プライベートな事情でモヤついていた心の中に、ふっと蘇るのは煮えたぎるような熱い感情。 それはわかりやすくガソリンとなって、その後の練習で見事なまでの可燃剤として調子を上げてくれた。淀みなく噴き出してくるモチベーションが背中を押してくれているせいか、やたらと体が軽い。視野も広くなった気がして、シュートの決定率も凄まじく高かった。 両親と、じいちゃん、学生時代の仲間たち、そして同居人である名前にこの報告をしたら、きっと誰しもが喜んでくれるに違いない。 アドレナリンに似た何かがガンガンに湧き出ていたせいか、普段と変わらない練習時間が極端に短く感じて、いっそ物足りなさすら感じていた。 「それ、切れたあとつらいっスよ」 「そうなんだけどよ、なんかこう……とにかく動き足りねーんだよ」 「気持ちはわかるけど、さっさと家帰って風呂入って寝たほうがいいよ。ビビらせるつもりないけど、そういう時にハメはずして怪我でもしたらどうすんの」 今日のアンタ目ぇギラギラしすぎてんもん、とオレを諭す宮城の言葉の中には、珍しく気遣うような優しさを感じた。 目の前にいるヤツから、ほとんど向けられたことのないそれに驚いて「おい……おまえ、ホントに宮城か? なかにちげーヤツ入ってんじゃねーの?」と目を細めて訝しげに問えば、宮城は不愉快さを隠すこともなく「いま決めました。オレは今日以降、この生涯を終えるまでもう二度とアンタのこと気遣ったりしねえ」と吐き捨てた。 「わ、わるかったって! 怒んなよ! だっておめーがオレに優しいとかよお……こえーよ」 「素直にオメデトーって思ってんすよ。……正直言うと、先越されてスッゲー悔しいけどね」 まあオレも二年後には代表ロスター定着してる予定なんで、と宮城が口にした言葉には、その口調の軽々しさとは全く正反対の揺るぎない決意がこもっている。 「はは、いーぜ! んじゃ、三井先輩は先に日の丸背負って待っててやんよ」 「うっわ、ムカつく。ちょっと殴っていいスか? 前歯のあたりでいいんで」 「やめとけよ、歯抜けのみっちゃん再来しちまうだろ」 「はは、なつかしーね、それ」 過去の過ちを笑いのネタとして昇華できるようになったのは、まだ最近のことだ。腐れ縁という言葉では括れないこの関係性は違和感を覚えるような奇妙なものだけれど、オレがこいつに対して「気が置けない」と感じているように、きっとヤツも同じものを感じていることは間違いないだろう。 じゃあリョータくんに言われたとーりにしますかね、と燻る身体をなんとか諫め、シャワーを浴びて全身を冷ますことにした。 ぬるめのシャワーを頭から被れば、急く気持ちがゆっくりと落ち着いていく。練習後のシャワーなど、普段はささっと済ませてしまうのだが、入念に頭と体を洗って身なりを整えたら、ロッカールームを出るのはオレが最後になってしまっていた。 時刻は十七時過ぎ。日が長くなってきたこの頃はまだそれが落ちる様子はない。じめっとした不快な空気を感じつつ、少しだけ周り道をして駅を目指すことにした。 確か、練習場兼ホームアリーナであるこの近くには、家の近所にあるのと同じような屋外のバスケットコートがあったような気がする。日が延びたといっても平日のこの時間である。小学生なんかも、そろそろ家に帰っている頃合いだろう。 宮城の言葉を思い出しながら、心の中で「何本かシュート打つぐらい許せよな」と言い訳を携える。スポーツバッグの中にあるバスケットボールの感触を確かめたオレは、その足でバスケットコートを目指すことにした。 辿り着いたバスケットコートは、園内と並ぶように併設されている。歩道から剥き出しになっているその場所は金網で仕切られており、その中では、上背から推察するに小学校中学年ぐらいの男児が一人でシュート練習をしているのが見て取れた。 そういや、オレもあんぐらいの時にバスケ始めたんだっけな、と小学生時代の自分に思いを馳せる。 三学年になると、ミニバスケットボール部、もしくはサッカー部への入部が許可される。試しにやってみたサッカーはどうもしっくりこなくて、ただただ「慣れていない脚でボールいじくるよりも、手でやったほうが楽しそうだ」という軽すぎる理由でバスケットボールを選んだ。 そんな気持ちで始めた競技が、三井寿という人間たらしめるレベルで必要不可欠なものとなり、今となっては生活を支える基盤で、生業にまでなっている。そりゃあ、思い出したくないほど苦しくてしんどくてどうしようもない事だってあったけれど、それを経てなお、こうして離れられずにいるわけで。 夢中になってシュートを放り、外すたびに駆け足でボールを拾いに行く小学生を眺めながら、引っ掛けていたスポーツバッグをコートの隅に下ろしたオレは、ほとんど無意識のうちに練習している小さな背中に近寄っていた。 「利き手、右か? そしたら、右の手のひらはボールにつけたらダメだぜ」 中腰になり、背丈を合わせるようにしてから声を掛けた。背後から突然話しかけられた小学生は、もちろん「えっ?」と驚いたような声を上げたが、それがアドバイスであることに気づくと「はい!」と言ってもう一度ゴールを見据えた。 「指先と指の付け根でボールを掴むようなイメージ。そうそう、 指でボールを支えっとコントロールしやすくなるからよ、 人差し指と中指の間がボールの真ん中付近に来るように置く。したらボールに力が伝わりやすくなるから」 上肢の力で上半身を支える。体が前傾したり、横にぶれない様に注意する。ボールはリングに対しループを描くように放つ。そして、放つ際には手首のスナップを効かせる。最後に、すべてを整えた上で体から無駄な力を抜くこと。 オレがシュートを放つその瞬間、コンマ数秒もないその時間に脳内を巡るそれを、声に出してひとつずつゆっくりと伝えていく。 それをひとつひとつ確認せずとも、瞬間的にシュートを放てるようになったのはいつ頃だっただろう。シュートを放つのが楽しいからと外からの技術を磨き、己の武器が飛び道具であると胸を張って言えるようになったのはたぶん、中学に入ってからだ。 何度も何度も繰り返して、繰り返して沁み込ませて、沁み込ませたそれを試合で成功させる。なんてことないシンプルな成功体験と、それを遥かに超える失敗が、今のオレを形作っている。 「よーし、いいぜ。それで放ってみろ」 「はい!」 そう言うと、彼の手から離されたボールが弧を描いてゴールに向かう。軽くゴールリングに当たったものの、その内円をくるくると回ってから吸い込まれたボールは地面に落ち、てんてん、と小さな音を立てて転がった。 うん、と頷いてから「いいシュートじゃねえか」と声を掛けたら、勢いよく振り返った小学生がオレの姿を捉えたのち、驚愕した様子でその目を丸く見開いた。 「ミッチー選手!? え、な……なんで!?」 「おっ? オレのこと知ってんの?」 「試合、観に行ってます! あと、えっと、感謝祭のときは帽子にサインももらってて、そのときはおねえちゃん……おかあさんの妹といっしょにいて」 おぼえてないとおもいますけど、と視線を下げながら言った小学生の顔には、なぜか見覚えがあった。 帽子にサイン。そう言われてハッとする。あいつの──名前の姉夫婦とその息子、つまり彼女の甥っ子はこのホームタウンに住んでいて、更にうちのチームのブースターではなかったか? そして、たしかその名前は──。 「あ、ありがとな! えっと、名前……教えてくれっか?」 「舜斗です! 橘舜斗!」 その瞬間、脳内に現れていたパズルのピースが、ものの見事にぱちんと嵌まった。 目の前にいる小学生が名乗った名前を、オレは聞いたことがある。名前との会話の中で何度も出て来たその名前。彼の傍に置かれているバスケットボールケースに、我がチームのマスコットであるウサギのソウルのマスコットがくっついているのを見遣る。これはもう、間違いない。 「そ、そうか! えーっと……応援してくれてありがとな!」 「僕、ミッチー選手に、えっと、三井選手がすっごいかっこいいからバスケはじめて、ミッチー……じゃなかった、三井選手みたいになりたくて」 「焦んなって、ちゃんと聞いてっからゆっくり喋れ」 腰を屈めたまま視線を合わせ、息を弾ませながら一生懸命言葉を紡ごうとしている目の前の小学生──もとい、同居人の甥っ子である舜斗の頭に手を添えて「つーかミッチーでいいぜ」と言ってやれば、彼は嬉しそうに頬を綻ばせた。 「でも、なんでここにいるんですか!?」 「いや、練習終わって散歩でもしてー気分でよ。なんとなくコート覗いたらシュート練してんの見えて」 「ミッチー選手にシュートおしえてもらったこと、明日学校でじまんしてもいいですか!?」 「おうよ、しこたま自慢しろ!」 やったあ! と拳を突き上げる無邪気な様子に、ありとあらゆる事象が押し寄せまくってきていたせいでぐちゃぐちゃになっていた体の中のなにかを、少しずつ溶かされていく。 これが癒されるってやつか、としみじみ思いながら、裏のない純朴な無邪気さに血筋を感じる。まあ、小学生と成人女性を並べて「無邪気」などとまとめて括ってしまえば、それがポジティブな意味であると伝えても、あいつは「小学生とおなじ……」としょげたり、わかりやすくむくれたりするに違いない。 「あの……へんなこときいてもいいですか?」 へんなこと? とそのワードを復唱してから、首を傾げつつこくんと頷く。すると舜斗は、意を決したようにわかりやすくゴクン、と息を飲んだ。 「こないだミッチー選手が動画で言ってたおべんとうつくってくれるひとって、カノジョさんですか!?」 「はあ!?」 咄嗟に飛び出て来たオレの言葉に臆する様子もなく「どうなんですか!」とにじり寄ってくる小学生。 なんだよ、さっきまでモジモジしてたくせに、めちゃくちゃ突っ込んだ質問してくるじゃねえか! そして、悲しいことだが「カノジョさんですか」の質問の答えはもちろんNOだ。 頭の中に同居人の顔を思い浮かべながら「そうだったらめちゃくちゃ最高なんだけどな」という言葉をすんでのところでぐっと堪え、なんとか飲み込んだ。 「……いや、そういうんじゃねーよ」 マジでただの同居人、と取り繕うようなセリフを念じるように続けたせいで、己で己に結構なダメージを与えてしまった。 友達ではない。そして、一緒に住んでいるからといって恋人だとか、それに準ずる関係というわけでもない。なんとも表現しにくい関係性のオレたちのことを、同居人以外のワードで例えることは極めて難しい。 進展することのない関係は、オレからの一方的な矢印が存在しているだけ。加えて、それをあいつに伝えちまったら終わり。まさしくジ・エンドである。 まったく、なんつー状況に放り込んでくれたんだ、うちの家族は。 「そっかあ! そしたら名前ちゃんのこと、ミッチー選手に紹介できたらいいのになあ。ミッチー選手と名前ちゃんがなかよくなってくれたら最高なのに」 舜斗の口から発された彼女の名前で、ほとんど九割方固まっていたそれが正解であったことを認める。 紹介するとかしないとか以前に、その「ミッチー選手と名前ちゃん」はすでに十ヶ月近く一緒に住んでんだぜ。なんなら、オレのほうは仲良くなるを軽く超越しておまえのねーちゃんのこと、すげー好きになっちまってんだけどな、なんて言えるわけもなく。 無邪気すぎる舜斗の言葉を苦笑いでなんとか躱しながら「おまえ、そのねーちゃんのことすげー好きなんだな」と言ってやると、彼は「うん!」と大きく頷いてみせた。 「すごい好きだよ! やさしいし、写真うまいし……あ、名前ちゃん、カメラマンなんです!」 それも知ってる、と言いそうになって、慌てて咳払いをして言葉を濁す。 あいつにしか切り取ることのできない四角い空間のなか、納められた自分の姿に感動を覚えたことは記憶に新しい。 せっつかれながらSNSを更新したって、送られた反応などほとんど気にしたことがなかった。けれど、彼女に撮影された自分の写真が評価されるのは誇らしくて、そして無性にうれしかった。 真面目で頑固なところも、ちょっとズレているところも、繕わない態度と屈託のないさっぱりしたところも、身内を大切にしていて自分を持っているところも、警戒心が薄くて危うげなところも、もはや彼女という人となりを形作る全てに愛おしさを感じている始末である。 もう、そんな風に思うところまで来てしまっていたことにハッとして、急激に気恥ずかしさを覚えてしまう。 『五時三十分になりました。子どもたちは、気を付けておうちに帰りましょう。地域の皆さん、子どもたちの見守りをお願いいたします』 流れ始めた市内放送は、まるで助け舟のようにすら感じられた。 なぜならば、このまま目の前にいる舜斗少年と会話をし続けていれば、オレがボロを出さずにいられる保証などもうどこにも無かったからだ。 ふう、と気付かれない程度に、極めて控えめに息を吐き出し、向き直ってもう一度舜斗の頭を撫でてやる。 「ほら、鐘鳴ったぜ。そろそろ帰んねーと母ちゃん心配すっぞ」 「うん。……ミッチー選手、また会えたらいっしょにバスケしてくれる?」 「あったりめーだ! それまでにシュート磨いて、また会ったときに成長したとこ見せてくれよ」 楽しみにしてんぜ、と拳を突き出せば、舜斗は目をキラキラ輝かせながら拳を合わせてくれた。抱えていたバスケットボールをケースにしまった彼が、それを肩に背負って大きく手を振っている。 「気をつけて帰れよ! 母ちゃんのうめーメシ食って、風呂入って、たらふく寝んだぞ!」 「うん! ミッチー選手も試合がんばってください!」 そう言って駆け出していく背中を見送り、彼の肩から下げられたボールケースで揺れる自チームのマスコットにふと笑みをこぼす。 「……んじゃ、オレも名前ねーちゃんの待ってる家に帰りますかね」 伸びた自分の影を踏んで歩き始めたら、急に湧いてきた空腹感に胃がきゅう、とか細く鳴いた。 [*前] | [次#] |