9.

 これを着る機会がこんなにもあるとは思わなかったな、と苦笑しつつ、取り出した鮮やかな赤いTシャツに袖を通す。
 湘南ソルバーンズのチームカラーであるそれの上から、カジュアルめのブルゾンを羽織る。ボトムスはボーイズライクのストレートデニム。これにスニーカーを合わせれば、ブースターへの擬態は申し分ないはずだ。
 よし、そろそろ行きますか! と自室の姿見を覗き込み、財布にスマートフォンなどの必要最低限なものだけを詰めた小さなショルダーバッグを肩から下げる。少しだけ悩んだが、愛機は留守番をさせることにした。
 今、私の内側にある状況について、千夜子にだけは話しておいた方がいいのかな。その踏ん切りがつかないまま、今日という日を迎えてしまった。
 認めてしまった同居人であるみっちゃんへの気持ち。でも、それを言葉にして他人に伝えてしまえば、その気持ちが明確に大きく、そしてその輪郭をハッキリさせてしまうであろうことは容易に想像がついた。
 進展させたいとか、いつか気持ちを伝えたいとか、そういう意思があるのならば言ってしまってもいいかもしれないけれど、私の場合はそうではない。だめだ、やっぱりなんとかこの気持ちへの意識を逸らして、自分を騙しながら残りの半年をやりすごすのが適当な気がする。
 悶々とした気持ちを振り払うように、小さく頭を振って玄関へと向かう。出しておいたスニーカーに足をつっこんで、つま先でトントンと地面を叩く。
 鍵を掛けて、乗り込んだエレベーターの中で吐き出したため息はなかなかに重く、これからわざわざ自分の気持ちを追い詰めにいくのだな、と思ったら自嘲気味な笑いが漏れた。
 素直であけすけで、悪く言えばバカ正直で。わかりやすくてなんでも顔に出ちゃうちょっと残念なみっちゃんの、飛び抜けてかっこいい姿を見届けに行くのである。
 惚れた弱みなのかもしれないけれど、ギャップというものはとんでもない破壊力を擁している。騒々しくてガサツなあの男は、コートの上だとか、バスケットボールを手に持っている時だけは人が違うみたいに聡明に、且つとんでもなくカッコよくなってしまう。
 それを見たくないわけではない。ただ、これ以上好きという気持ちを募らせて、大きく育ってしまうことがこわいのだ。
 自虐的すぎる、と呆れながら、半ば諦めるように天井を見上げ、開いた扉から一階に降りる。千夜子との待ち合わせは、アリーナの最寄駅を指定している。

「名前ちゃん、お出かけかい?」

 そう声を掛けられて振り向けば、管理人室から手を振っているおじいちゃん──もとい、マンションのオーナーでありみっちゃんの祖父がにこやかに笑んでいるのが見えた。

「あ、はい。なんかお久しぶりな気がしますね」
「最近は息子に管理を任せていたからね」

 そういえば、最近は管理人さんとはまた別の男性を管理人室で見かけることがあった。ということは、あの人がおじいちゃんの息子さんで、みっちゃんの叔父さんってことになるのだろう。

「うちの孫はどうかな? 君に迷惑は掛けていないかい?」
「えーと……。はい、ちゃんと暮らせてます」

 このルームシェア生活の中で、みっちゃんと私の間に問題らしい問題はない。リーグのシーズンが始まってからは、そもそもみっちゃんがあまり家にいないというのも理由としてあるかもしれないけれど、適度な距離を保って上手くやれていると思う。
 ただし、私の中に生まれてしまった難儀な感情を除けば、なのだけど。

「それならよかった。……その、申し訳ないことをしてしまったと思っていてね」

 申し訳ないこと? と、おじいちゃんの発した言葉をオウム返しのように繰り返すと、その人は目を伏せながら「君にも寿にも、身内のエゴを押し付けてしまったから」と囁くような小さな声で続けた。
 確かになあ、とは思う。もしかして、この「身内のエゴ」とやらに巻き込まれず、千夜子が出て行くのと一緒に私もこのマンションを出て、どこかで一人暮らしを始めていたとしたら、三井寿という男との出会いは無かっただろう。
 いっそ、その方がよかったのかな、なんて考えが一瞬頭の中に浮かんだけれど、それと同時に感じたのは確かな寂しさだった。
 現在進行形で感じているもどかしい切なさとか、想いを封じ込めていないといけない苦しさを耐え忍ぶよりも、彼に出会えなかったルートを想像する方が今となっては悲しくて苦しい。そう感じている私は、自分で把握している以上に彼と言う人間にのめり込んでしまっているらしい。
 あーあ、悔しいったらないや。

「……正直、最初から言っといてください! とは思いました。けど、けっこう楽しんでます」

 それでもって私の気持ちはおじいちゃんの思惑通りになっちゃってますよ、っていうのは、さすがに白状出来ないけれど。
 うそをつく必要はない。意識して「きっと大丈夫」と念じながら始めたルームシェアを、いまでは楽しいと心の底から思える。近頃は切なくてたまらなくなることだってあるけれど、それを凌駕するほどの生活の潤い、なんてものすら感じているのだから、私も大概現金なヤツだと思う。

「あと半年もないけど、うちの孫をよろしくね」
「……はい! というか私は今後ともよろしくお願いします」

 まだまだ住まわせてもらう気満々ですから! と努めて明るく振る舞う。
 みっちゃんとのルームシェア生活には終わりがあることを認めながら、そこから目を逸らしたくなってしまう気持ち。このルームシェアが終わったら、あの人はチームの用意した新しい社宅へと戻るのだ。
 もしかしたら、今後も連絡を取り合うことぐらいはあるかもしれないけれど、同居人という繋がりは解消になる。そうなった以降も、舜斗伝いに彼の情報を見聞きすることになるだろう。チームが勝ったとか負けたとか、例えば移籍をするとか、代表で試合に出たとか、海外に遠征したとか、それと、プライベートな発表とか。
 そこまで考えて、私の胸は手のひらで思いっきり圧迫されたようにわかりやすく窮屈になって、意図して深呼吸をしなければ耐えきれなくなるほどに苦しくなっていた。
 出来れば、そういうニュースが私の耳に入るのはルームシェアを解消してしばらく経ってからにしていただきたい。離れてしまえば「そうだよね、違う世界の人だもんね」って納得出来るし諦められる。
 時間が経てばこの気持ちも風化していくだろう、なんて自分に都合のいいことを考えながら、陰鬱とした感情によって飛び出してきそうな重たいため息を必死に堪えた。

「……あ! 実はこれから千夜子と一緒にちょうどみっちゃん……じゃなかった、寿さんの試合を観にいくんです」
「はは、その格好を見てわかってたよ。楽しんでおいで、千夜ちゃんにもよろしく」
「おじいちゃんの分まで応援してきます!」

 ネガティブな気持ちを隠すように明るく、大袈裟に力こぶを作るようなジェスチャーをしてみせる。なんとか繕った笑顔は、貼り付けただけのいびつな作り物になっていなかったことを祈る。
 おじいちゃんにぺこりと頭を下げ、胸の前で小さく手を振る。それから、頭のまわりをぐるぐると廻り漂う暗い気持ちを振り払うべく、ぱたぱたと駆け出してマンションのエントランスを抜ける。
 どうして、こんなにも泣きたい気持ちになるのだろう。
 マンションを離れてから足を止め、ブルゾンの下に着用している彼の所属チームのカラーであるオレンジ寄りの赤いTシャツを見下ろす。
 込み上げてきたなんともいえない感情を堪えるように空を仰げば、厚い雲がかかった灰色の空はまるで私の心を表しているかのようだった。思わずこぼれた苦笑いを最後に、複雑すぎてどうにもできない気持ちにはキッチリ蓋をしてしまおう。
 メッセージアプリを開き『いま家出たから、待ち合わせ通りに着くよ!』と千夜子宛てに連絡を入れる。
 よーし、と無理やりに気合いを入れるべく、低い声で呟いてゆっくり深呼吸をする。気持ちを切り替えるように小さくこくんと頷いてから、ほんのすこし早足で駅へと急ぐことにした。


 ***


 自宅の最寄駅から電車に乗って、そのまま三十分。その駅は、姉家族の住む家の最寄りでもあるので訪れる機会が多い。しかし今日はそちらではなく、駅から歩いて十五分ほどのアリーナでバスケットボールのプロリーグを観戦するのが目的である。
 改札を抜けると、先に到着していた幼なじみ兼親友の姿をすぐに見つけることが出来た。

「千夜子!」

 ぱたぱたと駆け寄りながら名前を呼ぶと、スマートフォンに視線を落としていた千夜子の視線がぱっと上がる。私の姿を認めた彼女は、横長の目を柔らかく細めながら小さく手を上げた。

「ごめん! 待たせちゃった!?」
「ううん、名前より一本前ぐらいので着いたばっかり。にしても、あたし今日かなり楽しみにしてたんだから!」

 プロバスケ観戦なんて初めてだもん、と私のTシャツを指差しながら言った千夜子の声音にも表情にも嘘は無く、心の底からわくわくしているらしいことが伝わってくる。
 チケットもらったから、よかったら観に行かない? と連絡を取ったとき、彼女は私が日程を伝える前に「行くに決まってるじゃん、そんなの絶対楽しいもん!」と食い気味に、そして前のめり過ぎる勢いで声を上擦らせていた。
 千夜子の発した「絶対楽しいもん」に含まれるものが、単にバスケットボールの試合を観戦することに対してだけではないことをうっすらと察しつつ、とりあえずはみっちゃんから押し付けられたチケットが無駄にならなかったことに安堵した。
 んじゃ行こっか、と合流をした私たちは並んで歩き始める。
 千夜子が結婚して、ルームシェアをしていたあの部屋を出て、結婚式があって。結婚式の前に新しい家の荷解きを手伝いに行ったり、ちょこっとお茶をする機会はあったし、連絡も割と頻繁に取っていたけれど、こうして目的を持って二人で出かけるのは久々だ。

「新婚生活はどう?」
「たぶん名前の想像通りよ。あの人、あんな感じでおっとりしてるでしょ? もうすんごい平和」

 そんな千夜子に笑いかけながら「想像つく」と返せば、彼女は唇をすぼめながら「それを言うなら、あたしも聞きたいこと山盛りなんだけど」と声を顰めて言った。

「聞きたいこと……?」
「……まあいっか。無理やり聞き出すなんて野暮だもんね」

 あたしが突っつかなくても、今日は名前がぽろっとこぼしちゃうタイミングなんてたらふくありそうだし。
 いたずらっぽい表情で千夜子が発した言葉の意味。さすがの私も、それがわからないほどに愚鈍ではない。
 思い出したのは、ダイちゃんと千夜子の結婚式。千夜子とみっちゃんがはじめて顔を合わせたのは、その二次会のあとだった。たった二ヶ月ぽっち前のことなのに、かなり前の出来事のような気がしてしまう。
 あの日、わざわざ迎えに来てくれたみっちゃんに対して私が感じていたのは、ときめきよりも「マジっすか」みたいな驚きの方が確実に優っていた。けれど、自分の気持ちを認めてしまった今となれば、彼の行動の大胆さに大いなる気恥ずかしさを感じている。
 気配りなんかちっとも出来ないくせに、実はあんなムーブまでかませてしまえるなんて罪作りすぎるでしょ。
 あの時の私は、まだみっちゃんへ向かう自分の気持ちに気がついていなかった。というか、ハッキリした形にすらなっていなかったと思う。それでも、芽吹くかわからないまま撒かれていた種が、あの時を境に少しずつ大きくなっていったことは間違いない。
 ……って、わざとらしく客観的な考察なんかしちゃっている言い訳をさせてほしい。
 それは、他人事のように俯瞰して物事を推察しなければ、とてもじゃないが残りの共同生活で「ルームシェアをしているだけ」という今までの認識と態度を貫ける自信がなかったからだ。
 みっちゃんのことが好きなのだと、真正面から受け止めてハッキリと認めてしまえば、私が彼へ向ける態度は如実に変わってしまうだろう。自分の不器用さは自分がいちばん理解している。
 だから今まで通りに、ルームシェアが終わる最後まで、何事もなかったかのように乗り切る。それが正しくて、彼にも迷惑を掛けず、そして自分も傷付かない選択であるに違いない。
 それなのにいま、余計にその気持ちが膨らんじゃうような行動をしているのだから笑えてくる。
 そりゃ見たいですよ、好きな男のカッコいいところなんて見たいに決まってるでしょ!

「あー! 名前ちゃんと千夜ちゃんだ!」

 千夜子と並んで歩きながら、矛盾しすぎている自分の思考と行動に悶々としていた私は、聞き慣れたその声にハッとして顔を上げる。
 数メートル先には、アリーナへ続く横断歩道で信号待ちをしている甥っ子と義兄の姿があった。ぶんぶんと手を振っている舜斗に気づいた千夜子が「おー、久しぶり!」と手を振り返している。

「舜斗少年は相変わらず元気ね! バスケはどう? なんか背伸びてない? もしかして好きな子出来た?」
「で、できてないし! っていうか質問多すぎ!」

 義兄と軽く挨拶を交わしてから、青になった信号を四人で渡る。義兄曰く、夜中に大暴れした姪っ子と姉はほぼ不眠らしく、今日は家で二人並んで爆睡を決め込んでいるらしい。
 徐々に増え始めたブースターたちに紛れながら歩みを進めていくと、久々に感じる高揚感に胸がざわざわしてくるのを感じた。わくわくとかドキドキとか、試合観戦に向けて昂まっていく感情の中にマイナスな気持ちなんて一切なく、私の個人的すぎるモヤモヤも辺りを漂うポジティブで熱量の高い雰囲気に当てられて少しずつ霧散していく。
 うん、今日はもう全部忘れちゃったことにして、全力で試合観戦に集中しよう。みっちゃんに半ば無理やり予定を突っ込まれてしまった今日だけど、思いっきり入り込んじゃうのが最適解に違いない。

「名前ちゃん、千夜ちゃん、じゃあね!」

 ホーム側のスタンド席へ向かう義兄と舜斗とは入場口で別れ、前回の観戦と同じく関係者席の方向に向かって歩いていく。

「舜斗の推しってさ、名前の同居人なんでしょ?」

 千夜子が発した静かな声に、意識がフードブースから漂う芳しい香りに向いていた私は「そうなの、すごい巡り合わせだよね」と簡潔にレスポンスをする。
 甥っ子である舜斗が、小学校のミニバスケットボール部に入ったキッカケは地元のプロバスケットボールチームに所属しているみっちゃんで、そのみっちゃんが近所のバスケットゴールでシュート練習してるのを見かけて、ファン感謝祭に付き添ったら再会しちゃって、さらに後日同居することになるのだから、人生は先が読めなすぎる。
 すごいこともあるもんだ、と運命の女神様の過剰すぎるお戯れのターゲットになっていることを客観的な視点に置き換えてみるけれど、その渦中に自分がいることには未だに違和感を感じ得ない。

「なら、一緒に住んでるだなんて口が裂けても言えないわね」

 付き合ってるわけでもないし、あんたたちの関係性って説明しにくいもんね、と千夜子が顎に手を当てながら静かに言う。
 確かに、そういう関係であったならまだしも、小学生である甥っ子に「彼氏と彼女じゃないけどあれそれがあって一年間だけ一緒に住んでて、でも今シーズンが終わったらみっちゃんは出ていくんだよ!」なんて説明をしても彼の脳内を掻き乱して混乱させる以外の結末はないだろう。やはり、どうあってもこの状況は隠していくしかなさそうだ。
 改めて、みっちゃんと私の置かれている環境と関係性の歪さにため息が飛び出てくる。それでも、それが終わらなければいいのに、とか思ってしまう私も私なのだけど。
 席の入り口でもう一度チケットの半券を見せ、指定された座席を目指す。半券に印字された席と設置されている席のアルファベットと数字を照らし合わせ「あ、ここみたい」と振り返って千夜子に言えば、彼女は私の背後で立ち尽くしたまま、目をぱちくりさせながらアリーナのバスケットコートにその視線を縫い止めていた。

「すっごい熱量……」
「でしょ? 私も最初に観に来たとき驚いた」

 へえ、と驚嘆を交えた声を漏らしながら座席に座る千夜子。まだ選手の現れていないコートの外では、会場スタッフらしい人らが忙しなく動き回っている。
 チームのベンチ裏というブースターならば誰でも座りたいであろう最高の席で、カメラを覗き込んで設定をしているらしいブースターたちの姿を眺めながら、私も愛機を持ってくればよかったかな、と家を出る時にほんの少しだけ後ろ髪を引かれていたことを思い出す。
 でもまあ、この席からじゃちゃんとは撮れないだろうし、関係者席で思いっきりカメラを構えてたら目立ちそうだし、今日はやっぱり無しで良かったということにしておこう。
 そんなブースターたちが俄かに湧き立ち歓声を挙げたのは、ホームである湘南ソルバーンズの面々がコートに現れたからだった。
 跳ねるような軽い駆け足でコートに入ってくる選手、マイペースにゆっくり歩きながら首を回している選手、掛けられる声援に大きく手を振ってリアクションを返す朗らかな外国籍選手。それに続いて出てきたのは、口元に笑みを浮かべて会話をしつつ、大股でずんずんと歩くみっちゃんと宮城選手の姿だった。
 なにとなく調べてみるまで知らなかったのだが、宮城選手とみっちゃんは高校時代に同じチームでプレーをしていたらしい。そのことを知って「すごい繋がりだね」と言ったら、彼は「まあ……腐れ縁っつーやつだな」とどこか気恥ずかしそうに鼻の横を掻きながらボソボソと返してきた。
 へえ、仲良しなんだ、と呟けば、そんな小さな呟きすら拾ったみっちゃんは「ちっげーよ! 誰と誰が仲良しだって!? 勘違いすんじゃねーぞ!」と結構な剣幕で捲し立ててきた。いや、やっぱりどうみても仲良しじゃん、と入場してきた二人の様子を眺める私の口元には、意図せず笑みが浮かぶ。

「あ、三井寿じゃん! マジでプロなのね……」
「そうなんだよねえ」

 声を顰めながら交わす私たちの会話は、場内で流れる音楽やら、DJやブースターたちの声に紛れてかき消される。

「そうなんだよねって、あんたの同居人でしょ」
「なんかそういう実感無くて。未だにプロのバスケ選手の三井寿っていう認識、薄いんだよね」

 出会った場所が近所の公園だったからかもしれない。世間一般的には「プロバスケットボール選手」というのが肩書きとして頭につくのだろうけれど、私にはそうではない。日常の、選手ではないみっちゃんの方が身近で、よく知っているからだろう。
 ……って、なんかこれものすごい周りにマウント取ってるみたいな思考かもしれない、ちょっとヤな感じだ。薄ら寒い自己嫌悪を感じつつ、それを振り払うように小さく首を振ってコート内でアップをし始めた選手たちへと意識を向ける。
 いつの間にか相手チームの選手たちもコートに現れており、両チームの選手らがじゃれあう姿もそこここで確認することが出来た。そんなほっこりする光景を拝めたおかげで、ふとした瞬間に顔を出してくる暗くて湿度の高い自分の気持ちを追いやることは容易だった。

「……あのさ、あたしの気のせいだったらあれなんだけど」
「ん?」
「三井寿って、結構わかりやすいタイプ?」
「あー、うんまあ。色々残念なぐらい真っ直ぐだし、隠し事とかヘタ」

 なんか、すっごいこっちをチラチラ見てる気がするんだよね。
 そう言われて、他へ飛ばしていた視線を馴染みのある同居人へと向ける。瞬間、バチンと音が鳴るぐらいに目があって、みっちゃんが嬉しそうに口の端を上げるのを見た。
 弧を描き、歯だけがチラリと見えたその口元は言葉を発してはいないようだったけれど、満足げに背を向けた彼の表情を見てすぐにわかった。良く来たな、とでも言いたげな──というか、そうとしか受け取ることの出来ないほどにわかりやすい視線だった。
 だからもう、そういうのいいんだってば!
 たぶんきっと、それはほんの一瞬の出来事だった。数秒にも満たない、周りから見たら集まっているブースターたちの様子を眺め、その観衆に向けて笑顔を向けたようにしか見えなかっただろう。
 自意識過剰かもしれないと、寧ろ思い違いだったらよかったのに、とすら思う。けれど、いま彼が向けたそれは、私に向けられたものに違いなかった。

「わかっかりやすー、ていうか大丈夫なの? いまのとか」
「しらないよ! もーあの男のことぜんっぜんわかんない……」

 そう言って顔を覆いながらため息をつけば、横にいる千夜子が小さく笑いをこぼすのがわかった。

「……なに?」
「ううん、名前がかーわいいカオしてるなあと思って」
「からかわないでよ」
「えー? んふふ」
「その笑い方やだ」

 おそらく、というか十中八九、既に千夜子には察されているのだろう。なぜならば、私たちは姉妹のように育ち、思春期を越え、実家を出て一緒に暮らし、学生から社会人になるタイミングまで一緒に経験してきたのだ。
 ほとんど自分の半身のような存在である彼女には、私が必死に押し殺した感情ですら筒抜けであっても不思議はない。まあ、私が彼女の前では気が緩んでしまっているっていうのも大いにあるだろうけれど。

「あたしはさ、こないだあんたのこと迎えに来てくれた三井寿のことしか知らないけど、それでもあの男が気のいいヤツだってのはわかったよ」

 察しているだろうに、ハッキリとは口に出さない千夜子の優しさがありがたくもあり、むず痒くもあって。複雑すぎて言葉にするのが怖いなんて情けないことを吐露しても、きっと彼女は受け止めてくれるのだろう。

「名前の中でいろいろな踏ん切りがついて、それで誰かに話したいってなった時、最初に話をするのはあたしだといいなって思ってることは知っといてね」

 千夜子の言葉に対して、ぼそぼそと「うん、ありがと」と返事をする。そんな彼女が「それで、話変わるんだけど」と口元に手を添えながら顔を寄せてきたので、私は「ん?」と伏せていた顔を上げる。

「あたしの勘違いじゃなければ、4番と7番の選手もこっち見てる気がするのよね」

 え、と漏らして視線を動かせば、今度は4番の深津選手と7番の宮城選手と目が合ってしまった。その瞬間、宮城選手の片眉がほんの少しだけ上に上がって、二人が微かに頭を下げる。それは、意識をしていなければ気づけないほどに微かなリアクションだったけれど、間違いない。
 二人に倣うように控えめに、ぺこりと会釈を返しながら思う。たぶん、あの二人は知っているのだろう。みっちゃん、なんでもかんでも喋ってそうだからなあ。
 なんとも言えない気持ちで口元を引き攣らせていると、いつの間にか二人の背後に現れたみっちゃんが、小脇にボールを抱えながら宮城選手の後頭部をスパン! とはたくのが見えた。
 声までは聞こえなかったが、おそらく「いってーな!」とかなんとか言いながら叩かれた後頭部を押さえる宮城選手と、続けて放たれた自分への攻撃をひょい、と軽く、表情筋をぴくりとも動かさずに躱す深津選手。悔しげに深津選手を睨むみっちゃんのお尻に、宮城選手からの蹴りが入る。
 その反撃にギャン! と吠えたみっちゃんは、たぶん「なにしやがる!」とか言ったのだろう。いや、あんたからしかけたんでしょーが、と心の中でツッコミを入れる。
 視線の先で行われたそれは、まるで中学生男子が交わすようなやりとりで。おとなが三人集まってなにやってんだか、と不覚にも吹き出してしまっていた。


 ***


 試合は、接戦の末になんとか勝ち点を重ねることが出来た。そして、明日もホームでの試合が続く。今日は勝てたが、明日は対策を練って背水の陣で挑んでくるであろう相手チームは、今日以上に手強いに違いない。シーズンを通してだが、気を抜くことなど微塵も出来ない。
 とはいえ、些か強引ではあったが名前を試合に呼んだ手前、今日はある程度活躍するところを見せられて良かったと思う。

「三井の好みがわかったピョン」

 試合後のロッカールーム。オレの耳元でぼそりとそんなことを呟いてきたのは深津だった。それに対して吐き捨てるように「ほっとけよ」と返したオレの声は情けないほどモゴモゴとくぐもっていて、決まりの悪さに舌打ちをしてしまった。
 シャワーは浴びたが、明日も試合があるので出来ればゆっくり湯船に浸かり、軽めにストレッチをしてから床に就きたい。
 時刻は夜の二十一時過ぎ。家に着く頃には二十二時を回るだろう。
 十六時過ぎに始まった試合が終わったのは十八時過ぎで、それから明日に向けてのミーティングや、アスレティックトレーナーによる体のメンテを施され、チームメイトと軽めにメシを食ってから解散した。
 あいつ──名前は、自室にこもって仕事でも崩しているのだろうか。時間も時間だし、次の日は撮影予定があると言っていたので早めに寝ている可能性もある。
 起きているとして「今日の試合、どうだったよ?」とさらりと聞くならば違和感はないだろうか。ストレートに「勝ったぜ! 観にきて良かったろ!?」と言ってしまうのは、さすがに幼稚すぎるかもしれない。
 彼女は、今日の試合を観て何を感じたのだろう。それを聞きたくて、うずうずする気持ちが燃料を追加するかの如くオレの歩調を早めていく。

「っくし! っあー……寒くなったなチクショウ……」

 飛び出してきたくしゃみにぶるりと身を震わせ、背を丸める。
 現在の住まいである自宅マンションにようやく辿り着き、オートロックを解除して、誰もいない管理人室の前を抜ける。エレベーターに乗り込んで行先階を押下し、ふう、と息を吐き出した。
 ボトムスのポケットに手を突っ込み、キーケースを引っ掴む。エレベーターを降りて部屋の鍵穴を回せば、ガチャリという音を立てて鍵が開いた。
 玄関から顔を覗かせたら、リビングが明るいことを視認出来た。とはいえ、名前はオレが帰ってくることがわかっている時はリビングの明かりを灯したままにしているので、彼女がそこにいるという確証にはならない。
 リビングにおらず、自室で仕事に勤しんでいるようであれば、帰ってきたことと、試合を観に来てくれたことに対する感謝だけを伝える。リビングに居るのなら、帰りを待ってくれていたのだと受け取ることにして、今日の試合について触れることにしよう。
 脳内でそんな計画を練りながら、履いていたスニーカーを脱ぐ。スポーツバッグを引っ掛けたまま洗面所で手を洗い、軽めに口をすすいでからリビングを覗く。

「……んだよ、いねーのか?」

 リビングに彼女の姿は無く、無意識のうちにそんなことをぼやいてしまったオレの声音には、恥ずかしいほど如実に残念なニュアンスが含まれていた。
 踵を返して名前の部屋を覗こうとしたが、半開きになった扉の奥は暗いまま。彼女は眠る際に常夜灯を設定するので、真っ暗ということは自室で眠っているわけでもないようだ。
 洗面所とくっついている風呂も暗かった。となると、彼女はどこに居るのだろう。
 アゴに手を当てながら、自室に戻ってスポーツバッグを下ろす。その中から使用した汗まみれのインナーやらを引っ張り出して、眉を顰めて思案に耽りながら脱衣所の洗濯カゴへと放り込む。
 そのままリビングへ向かい、キッチンにある食器棚から適当なコップを取り出して、冷蔵庫の中に常備してあるミネラルウォーターを注ぐ。それに口をつけながらソファーに向かって歩き出したオレは、思わず「うおっ!?」と素頓狂な声を上げてしまった。

「……はは、こんなとこに居たのかよ」

 ソファーの上には、部屋着のまま崩れるように横になっている名前の姿があった。リビングの入り口からでは姿が見えなかったわけだ。ようやく合点がいって、安堵の息を漏らす。
 音を立てないように意識しながら手に持っていたコップをローテーブルに置き、寝落ちている彼女の真正面にしゃがみこむ。
 化粧っ気のないあどけない寝顔に癒されつつも、警戒心など微塵も感じられない無防備な姿に複雑な感情を覚える。相反するそれにモヤモヤしながら、はあ、と息を吐き出して頭をガシガシと掻いた。
 なんでこいつはこんな無防備なんだよ。男と住んでるって自覚がねーのか?
 あからさまに「男性という認識をしていませんよ」とか「そういう対象としては見ていませんよ」という事実を突きつけられてしまったようで、なんとも言えないモヤモヤとした仄暗い感情がオレの中で渦巻いてゆく。
 そういう風に思っちまうってことは、やっぱりオレはコイツのことが好きなんだよな。
 自分が彼女に向けている感情の正体を認めてから、今後どのように接していくべきなのかを考えてみた。とはいえ、明確な正解があるわけではない。
 期間限定のルームシェア、期限付きの同居人。いってしまえばたったそれだけで、シーズンが終わればこの距離感は失われるのだ。繋がりが切れるわけではないが「知り合い」程度の関係性に後退してしまうことは確定事項である。
 なあ、オレがおまえのことを好きだっつったら、メーワクに思うか?
 目の前ですやすやと眠る彼女の寝顔に向かって、心の中で問うてみる。答えはカンタンで「あのねえ、そういう冗談はよくないよ!」とか言ってひらりと躱されてしまう光景が容易く想像出来てしまう。
 無意識のうちに、ほんのり色づいた桃色の頬に手を伸ばしていた。 

「あ、れ? みっちゃん……?」

 ぱち、と眠たげに目を開けた名前が、ぱちぱちと何度かまばたきを繰り返したのち、くあっと小さなあくびをする。
 もうほんの数センチで触れてしまう、というすんでのところで我に返って手を引っ込めたオレは、動揺を必死に隠し、取り繕いながら「うお、わりぃ! 起こしちまったか……!?」と上擦った声をあげた。

「ううん、違うの! みっちゃんが帰ってくるの待ってようと思ってたのに寝ちゃって……。お疲れさまと、チケットありがとうってちゃんと言いたくて」

 どうやら、触れようとしていたことには気づかれてはいないようだ。鳩尾のあたりがヒンヤリしているのを感じつつ「こんなとこで寝てっと風邪引くぜ?」と平静を装ってみせる。

「つーか、明日仕事あんだろ? そんなん気にしねーで寝てりゃいいのに……。けどまあ、あんがとな」

 まだどこかぽやぽやした調子で「千夜子も……あ、一緒に行った幼なじみもありがとって言ってたよ」と続けた名前は次の瞬間、何かを思い出したかのようにふにゃりとした笑顔をはっとしたものへ変え、そのまま硬直させた。
 どうした? とその顔を覗き込めば、少しだけ険しい表情をした彼女が「ところで、話変わるんだけど」と声を顰めながらこちらを覗き込んできた。

「みっちゃん、アップしてる時こっち見すぎ。すごく目が合った気がする」
「そりゃ見んだろ、ちゃんとオレのやったチケット無駄にしてねーかって確認したんだよ」

 名前は「なにそれ」と納得がいかない表情でごちている。
 正直に白状すると「マジかよ、そんなあからさまだったか?」と少しだけ焦ったし、なんなら苦しすぎる言い訳をしてしまった自覚もあった。けれど、今日は宮城と深津も思いっきりこいつのこと見てたし、まあおあいこだろ。

「……あのよ。今日のオレ、カッコよかったか?」
「うん! だってあれ……スリーポイント! ひょいひょい決めてたよね! ヒーローインタビューまでされちゃってたし」

 あれって、今日のMVPってことだよね!? と珍しく熱くなっている名前の圧におされつつ「ま、まあそうっちゃそうだな……」と気恥ずかしさを感じながら返事をすれば、彼女は「やっぱり! すんごいカッコよかったもん!」と手を打ち、うれしそうにその目を細めた。
 心がざわめく音があるとして、今この瞬間に揺れたその音を擬音にするならば、間違いなく「キュン」だったに違いない。
 それぐらいかわいらしくて屈託のない笑顔は、試合後の疲弊した体にそりゃあもう思いっきりヒットしていた。

「一番か? 宮城よりもカッコよかったか?」
「え、うん……? でもなんで宮城選手?」
「いや、だって名前、前にアイツが好みだって言ってたろ」

 好きな女から与えられた大きすぎるポジティブなダメージに、オレの思考回路は麻痺して、こどもっぽい言葉をぽろぽろとこぼしてしまう。待て、ちょっと待て、大人気ないにもほどがある、と頭ではわかっているのに、それを留めておくことが出来ない。
 きょとんとしていた名前が、じっとオレを見つめながら、不意にくすっと吹き出した。それから、眉尻を下げて「えっとね」と静かに口を開く。

「……今日は、みっちゃんがいっちばんカッコよかったよ」

 はにかみながら、ほんの少しの照れを添えて告げられた言葉はとても静かで、そしてどこまでもシンプルなものだった。飾り気がなくて、だからこそ心を震わされたのだと思う。
 目の前にいる彼女が、愛しいと思う存在が、自分の存在理由を認めてくれたことに込み上げるようなものを感じながら、腹に力を入れてなんとか堪える。

「ん、ならいい。……おいちょっと待て、今日はってなんだよ」
「もー、しつこいなあ! そこは流してよ」

 緩んだ空気の中で、一呼吸置いて続けられた「けどね」という言葉。焦点を名前の顔に合わせれば、どこか迷うように、逡巡するように斜め下を泳いでいた彼女の視線がゆるゆるとオレに向けられる。

「みっちゃんのことは、今日だけじゃなくて、初めてあの公園で会った時からずっとかっこいいって思ってるよ」

 いや、これはさすがに反則だろ。
 ドン、と全力で胸を押されたかのような衝撃は、大袈裟ではなく呼吸するのを忘れるレベルのものだった。声を発することが出来ず、時が止まったように口があんぐりと開く。
 顔が熱い。飲み込めない、咀嚼すら叶わない破壊力のそれに当てられた思考は、もう既に停止を決め込んでいる。

「……ええと、ごめん。そのポーズなに?」

 え、と声を漏らしたオレは、自分が上げた両手を名前の方へ伸ばしていることに気づいた。その言葉を掛けられていなければ、おそらくオレはそのままの勢いで彼女を抱きしめていたに違いない。
 そんなことをしようものなら──と、想像し、尋常ではない脂汗が額に滲む。目を細め、訝しげな表情を浮かべている名前に対して、しどろもどろになりながら脳みそをフル回転させ「こ、これはだな」と苦し紛れの言い訳を考える。

「か、カーネルサンダースのマネだ」
「えっ!? なんで今!?」

 あはは! と弾けるように吹き出した名前が口元に手を当てながらブルブルと震えている。苦しすぎる言い訳には違いなかったが、とりあえず窮地は脱したらしい。……まあ、己の羞恥心を犠牲に、ではあるが。
 とんでもない恥ずかしさを感じつつも、それと同時に胸の中でぶわっと拡がっていくようななにか。名前と一緒にいるだけで、向き合って会話をしているだけで癒されるような、そして満たされていくような、オレにとってはプラスにしかなり得ないものが体の中に沁みていく。
 ずっとこんな毎日が続いていけばいいのに。こいつと一緒に、こうして他愛もないことで笑いながら過ごせていけたなら。
 そんならしくもないことを考えながら、はたと我に返る。それももう、あと半年足らずで終わることが決まっている。そして突然やってくる終わりでは無く、はじめから決まっていた終わりなのである。

「……このまま、終わんなきゃいいのにな」
「終わんなきゃってなにが? あ、リーグ戦のこと?」

 うお、また声に出しちまってた。なんだよ、オレってこいつの前じゃボロ出まくりじゃねえか。
 最早取り繕うことすら面倒になって、苦笑しながら「いや、こっちの話」と話を切る。
 へんなみっちゃん、と笑う名前の柔らかい表情を眺めながら、心臓をやさしく鷲掴みにされるような矛盾した感覚を覚える。
 やわらかく、穏やかな期間限定の雰囲気の中で、言葉に出来ず、伝えることの出来ない感情は狂おしいほどにオレの中で膨らんでいた。


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