7−2.


 遠征を終えて帰宅したのは、ちょうど日付を跨いだ頃だった。
 履いていたスニーカーを脱ぎ、スポーツバッグを担いだまま洗面所へと向かう。手洗いとうがいを手早く済ませ、スポーツバッグの中から取り出した使用済みの練習着やらなんやらを洗濯カゴに入れながら、そういえば妙に家の中が静かなことに気づく。
 同居人である苗字名前の仕事はフリーランスのカメラマンで、しかもそこそこ仕事が立て込んでいるらしく、毎日あっちゃこっちゃへと撮影に出向いている様子だ。そんな彼女は毎晩遅くまで自室のパソコンに向かい、あーでもないこーでもないと頭を悩ませながら写真の現像とやらをしている。
 作業中の名前がうるさいというわけではなく、起きている時は部屋の扉が閉められていてもなんとなく「仕事をしているのだろう」という雰囲気を感じとることができる。しかし、今はそれを感じなかった。
 遠征に出ているオレが戻るのは大体次の日であることが多い。たまたま昨日今日の対戦相手が県をひとつ跨いだだけだったので、こうしてその日のうちに帰宅出来たのだが、名前はおそらく今日もオレが戻らないものだと思っていたにちがいない。彼女はオレが戻ると分かっている時、自室に引きこもっていてもリビングと玄関の電気を消さずにいてくれるのに、今日はその全てが消されていたからだ。
 例の幼なじみで元同居人である友人の家にでも泊まっているのか、はたまた誰かと食事にでも出ているのか。
 そこで、オレはぎゅう、と目を瞑り、勢いに任せてぶるぶると首を振った。名前がどこで何をしていようと、誰と会っていようと、そんなことはオレが気にしたり、干渉するようなことではない。
 同居を初めて半年が経過するが、オレたちの関係は決して同棲だとか、そういう甘ったるいものではない。友達というのもどこかしっくり来ない、単なる知り合いで、単なる同居人である。そして、同じ部屋で生活を共にするのもあと半年で終わってしまうのだ。
 そんなことを考えていたオレは「ん……?」と声を出しながら首を傾げていた。それは、自分が「あと半年で終わってしまう=vと、その確定事項を残念に思っていることを、うっすらと自覚してしまったからだ。
 チッ、と小さく舌打ちをして、開けっ放しにしてあった物の少ない自室にスポーツバックを放り投げる。その足で名前の部屋の前に立ち、そっとドアノブを捻った。

「……なんだよ、居んじゃねえか」

 常夜灯に設定された薄暗い部屋の中、自分のベッドの上ですやすやと眠る名前の姿がそこにあった。自分がどうしようもなくほっとしていることに再びモヤモヤとした違和感を感じつつ、眠る彼女にゆっくりと近寄ってベッドの前にしゃがみ込む。
 すうすう、と静かに寝息を立てている彼女は、枕に頬を寄せて柔らかくまぶたを閉じている。血色の良いサーモンピンクの唇と、化粧っ気のない顔はやはりどこかあどけなく、実年齢よりもかなり幼く見える。手を伸ばして顔にかかっている髪の毛を耳に掛けてやれば、彼女は「んむ……」とか言いながら小さく身じろぎをした。
 そのまま手のひらで頬をなぞったら、意図せず自分の口元が緩んでいることに気がついた。胸の奥でぶわっと拡がった得体の知れない感情に眉を顰め、その場で天井を見上げながら腕を組む。しかし、その正体には終ぞ辿り着けないまま、オレは履いているジャージのポケットに入れっぱなしにしていたスマートフォンを取り出していた。
 カメラアプリを起動して、それを目の前で眠る名前に向ける。

「子どもみてーなツラして寝るんだな、おまえ」

 そんなひとりごとを漏らしながら、シャッターをタップする。撮影したデータを眺め、もう一度目の前で眠る名前へと視線を移動させる。はあ、と息を吐き出して立ち上がり、腰を屈めて彼女の頭をひと撫でしてから、その部屋を後にした。
 寝顔を写真に収めたことを知ったら、きっと名前は「それは絶対ナシだから!」とか言って怒るに違いない。言うか言うまいか、彼女の反応を予想しながら、心なしか軽い足取りで脱衣所へと向かった。


  ◇


 毎朝の日課になっているジョギングを終えて家に戻ると、名前はちょうど起床したところだったようだ。
 時刻は朝の七時過ぎ。台所で小さめの握り飯を頬張っていた彼女は、現れたオレの姿を見とめると、その瞳を丸くかっ開いて「はれ!? ふぃっひゃん!? なんれ!?」と驚愕の声を上げた。それに対して「なんつってっかわかんねーよ、ちゃんと飲み込んでからしゃべれ」と返すと、彼女は慌てた様子で咀嚼をして「いつ帰ってきたの?」と問うてきた。

「昨日の夜遅く。けど、おまえもう寝てたし」

 その流れで、昨日勝手に撮影させていただいた子どものような寝顔の写真を見せつけてやったら、名前は狼狽しながら「ばかあ! これはどう考えてもナシ!」と予想通りの反応を見せてくれた。
 あどけなくて無防備なその寝顔に対して「かわいらしい」という感想を抱いたのは確かな事実。嘘偽りなくそう感じたことを素直に伝えたら、今度は目を白黒させながら動揺するというわかりやすすぎる反応を見ることが出来た。
 そんなやりとりの最中、名前が「これは女子と住む上でアウトなやつだから! みっちゃんが今後彼女と同棲する、とかになっても普通の女子はイヤがることだからね!」と人差し指を立てながら早口で捲し立ててきた。
 オレが昨日、名前の寝顔を写真データとして収めたのは、同じチームの宮城が体幹トレーニングしているのを煽りながら眺めて撮影するのだとか、よくわからない哲学のような新書を持っていた深津を激写するのとか、そんなのとさして変わりなかったはずだ。
 それなのに、指摘された言葉にムッとして「他の女となんか住まねーよ」と返しそうになったのはどうしてだろう。咄嗟の判断でそれを飲み込んで、モヤっとした不愉快な気持ちに蓋をする。

「あ、オレこれからボール持ってコート行くけど、おまえも来るか?」

 得体の知れない妙な気持ち悪さは、ボールに触れて発散するのが一番である。名前はぱちくり、と何度かまばたきを繰り返したのち「え、いいの!?」とその目をキラキラと輝かせた。
 写真を撮らせてほしい、とにじり寄ってきた彼女に「おう、別にいいぜ。ただし、めちゃくちゃカッコよく撮ること」なんて冗談めかして伝えれば、彼女は朗らかに笑いながら「それは大丈夫だよ、だってみっちゃんは」と発し、その後の言葉を澱ませた。
 なんだよ、と顔を覗き込んだら、名前はあからさまに「なんでもない!」と何かを言い淀んだ様子で飲み込み、身支度を整えるため自室に引っ込んでしまった。その背中を見送ったオレは、取り急ぎ汗だくになったTシャツを取り替えるべく、自室へと戻った。

「ごめん! おまたせ」

 そう言いながらラフな格好でリビングに現れた名前は、宣言通りに仕事道具である一眼レフカメラを肩から下げていた。
 家を出て、差し障りない中身の薄い会話を交わしながら向かう先は、出会ったあの公園である。公園内にあるバスケットコートでオレと名前は出会い、再会し、更に現在進行形で同居までしているのだから、人生には何が起こるかわからない。
 辿り着いたバスケットコートの中、二基あるうちのひとつのゴールは大学生と思しきグループが三対三の真っ最中である。白熱した様子のそれを横目に眺めながら、もう一基あるゴールのスリーポイントラインへと軽めにドリブルをしながら進んでいく。
 さりげなく名前の方へ視線をやれば、彼女はその視線をカメラのディスプレイへと落としており、設定の真っ最中らしいことがわかった。
 トントントン、と辺りに響くドリブルの音は、屋内の床を叩く音とはまるきり違う。オレの人生のうちで、このボールに触れているのはどのぐらいの時間を締めているのだろう。今まで何回ボールを放って、それは何回リングを抜けたのだろう。
 小学生の時にミニバスケットボールを始めて、夢中になって四六時中バスケのことを考えるようになって、中学に入り、高校に入って、それから──。そこまで考えて、オレはその思考を振り払うようにボールを掲げ、リングに向けて放った。
 ボールが右手を離れるか離れないか、コンマ数秒もない瞬間に五、六メートルほど離れた場所からカシャン、とシャッターの下りる小切れの良い音がした。それに続くように、パシュ、という気持ちの良い音を立ててゴールリングを抜けたボールが地面を転がっていく。ふう、と息を吐き出して、軽い駆け足でボールを拾いに向かう。
 その位置から一番近いスリーポイントラインまで下がり、放つ。それをまた拾って、放つ。それを繰り返しているうちは、雑念など思惑通りに脳内から消え失せていた。

「で、撮れ高はどーよ?」

 向けられているレンズの上から覗き込めば、名前は「わっ、な、近っ!」とか言いながら一歩後ずさりをした。

「えっと……見る?」

 向けられたカメラのディスプレイに視線を落とし「たりめーだろ」と返事をする。彼女の身長に合わせるように腰をかがめながら画面を覗き込むと「近いってば」とか言われたような気がしたが、一緒に暮らすことで彼女の仕事道具であるカメラの大切さ重々承知していた。自らの手でそれを持つことに憂慮を感じていたオレは、抱えていたボールを脚の間に挟み、カメラのディスプレイに映る写真に視線を向ける。
 名前の撮る写真の雰囲気は、それこそあの日あの時あの場所でもデータを見せてもらったので知っていた。
 チームの宣材写真でも、試合でもインタビューでも、カメラを向けられる機会が多いせいか、自分の写真を見ることに真新しさは感じない。それなのに、気恥ずかしく思ってしまったのは何故だろう。それと同時に、試合中の写真とは違う、シュートを放った手だったり、地面を蹴った足元だったり、汗を拭う口元だったり、そんなのを切り取る画角の独特さに、オレはいつの間にか魅入られていた。

「すげーじゃん、さすがプロだわ」

 忖度のない素直な感想を口にする。それは飾り気なんて一切ない、頭で考えるよりも先に口から飛び出していた賞賛の言葉に違いなかった。
 顔を上げると、ぽかん、とオレを見つめながら固まっていた名前が、その唇をぶるぶると震わせていることに気づく。

「おい、どうした?」

 少々潤んでいるように見えるその瞳をじっと覗き込めば、名前はふるふると首を振ってから「ありがと」と小さな声を発した。それが決してマイナスの反応ではないことを、オレは感じ取っていた。
 彼女の瞳にありありと浮かんだその感情の名前には心当たりがあって、もちろんオレも知っていた。それは、自分の技術を賞賛された時に見せる人間の表情に違いなかった。
 んだよ、素直に言えんじゃねーか。
 かわいらしい反応に口元がゆるんで、目の前にある彼女の頭に手を伸ばしそうになった瞬間、耳に届いたのは「あの……ソルバーンズの三井選手ですよね?」という声だった。
 オレと名前は、同じタイミングで声のした方向に顔を向けていた。そこに立っていたのは、もう一基あったほうのゴールを使っていた大学生の集団だった。オレのことを知っているのかと問えば、返されたのは「シューティング見てすぐわかりました!」という興奮気味なセリフ。すっかり気分を良くしたオレが一対一を提案すると、その集団は食い気味に「いいんですか!?」とその表情を綻ばせた。
 始まった一対一の途中、二人目を相手する間にちらりと名前の方へ視線をやれば、大学生の集団のひとりとなにやら会話が盛り上がっているようだった。その様子を観察していると、彼女がその大学生に自分のカメラを預けるのを見た。ディスプレイに視線を落としているところを見ると、そいつは彼女の撮影したデータに興味があったに違いない。
 しかし、その光景を見た瞬間、オレの腹の奥で芽生えたものは心地の悪い謎の感情で。咄嗟に「ワリ、ちょっとタイムな」と対峙している学生に声を掛け、大股になりながら二人の方へと近寄っていく。
 二人のやりとりを遮るように、名前の足元に置いていたペットボトルの水を引っ掴み、それを一気に流し込む。キョトンとした表情でこちらを見上げていた彼女は「見事な飲みっぷりだね」などと言い、こちらの気なんか一切気にしている様子はない。
 そりゃおまえの大事な商売道具だろうが、という言葉をぐっと飲み込んで名前を見下ろせば、彼女は「なに? ……もしかして私、どっかに虫でもついてる!?」と的外れなことを言い出す始末。体の中を渦巻いている妙なものの正体がわからないまま、それを言葉にすることができなくて「なんでもねえ」と濁す。

「えー? なんでそこで言い淀むの? 気になるじゃん」
「だーもう、うっせえ! なんでもねーって言ってんだろ! しつけー女だな!」
「なにその言い方! やなかんじ!」

 売り言葉に買い言葉で始まってしまったやりとり。そこへ向けられている大学生たちの視線を感じながら「チッ」と舌打ちをして戦線を離脱する。

「んじゃ、ビシバシいくぞ!」

 待たせていた大学生にそう声を掛けながらコートへ戻っても、モヤモヤとした謎の感情はしばらくオレの中に居座り続けたままだった。


 ◇


「あの人って、三井さんのカノジョさんですか?」

 そう問われたのは、何人との一対一を終えた頃だっただろう。
 カノジョ、カノジョなあ。カノジョって……彼女!? オレが脳内でその単語を繰り返したのは、おそらく一秒にも満たない時間だったに違いない。

「はあ!? いや……ちげーよ、知り合いのカメラマン!」

 弾かれたように否定をすれば「そうなんですか」というリアクションが返される。しかし、そいつの顔に浮かんだ表情を見れば、それ以上の追求はしないが半信半疑なことがすぐにわかった。当人である名前は、まさかそんな会話がこちら側でなされているなどとは露知らずといった様子でファインダーを覗き込み、熱心にあっちこっちと動き回りシャッターを切っている。
 大学生との一対一六人斬りを終え、帰宅してシャワーを浴び、ストレッチをしてからソファーに腰を落ち着ける。ついさっき言われた「あの人って、三井さんのカノジョさんですか?」という言葉が脳内で反響するように繰り返され、つい「だー、もう!」と声を発しながらガシガシと頭を掻いてしまった。
 はあ、と息を吐き出してからソファーの背に体を預け、天井を見上げる。

「みっちゃん……?」
「おわあっ!?」

 突然視界に入り込んできたのは、オレが懊悩している原因に違いなく。驚き過ぎてソファーの上で跳ねてしまったし、心臓はドッドッドッと大きく鼓動している。

「なんだよ! いきなりうしろから声掛けられたら驚くだろが! 心臓破裂してたらおまえのせいだかんな!」
「ごめん! でも、そんなに驚くとは思わなかったんだもん……」

 申し訳なさそうに、わかりやすく肩を下げながら小さくなってしまった名前に「まあいいけどよ、破裂してねーから許す」と返せば、彼女は眉をハの字に歪めながら「それで、あのね」と意を決した表情で言葉を紡ぎ始める。

「最初に会った時の……その、私が勝手に撮っちゃった写真データ、いる?」

 さっきのはまだだけど、このデータだけはこっそり現像とレタッチ進めてたんだ、と付け足した名前は、オレの様子を窺うように小さく首を傾げながら問うてきた。

「マジか!? もらうもらう! こういうのってSNSとかに載せてもいいのか? オレあんま更新しねーからさ、上からもっと更新しろって言われてんだよ」
「え、みっちゃんアカウントあるの? 見たい!」
「検索してみ、たぶん出てくる」

 そう伝えると、手に持っていたスマートフォンを操作し始めた名前が「あっ、これかな? 見つけたかも!」と発しながらその視線を画面に滑らせ始める。

「……チームメイトとごはんの写真ばっかり。みっちゃんのことフォローしてる人はね、みっちゃんの写真が見たいんだよ。しかも最終更新、三ヶ月前だし」
「しょーがねーだろ、オレこういうのよくわかんねーんだよ」
「でも、なんかみっちゃんぽい」

 名前は「SNSが得意な三井選手はなんかイメージと違うもんね」とアゴに手を当てながら、勝手に納得した様子でうんうんと頷いている。その言葉にどこかナメられているようなニュアンスを感じながら「おい、そりゃどういう意味だ」と問えば、いたずらっぽく笑んだ彼女は「ひみつ!」と口の前に人差し指を当てながらニッと歯を見せた。
 それにつられたオレは「なんだそれ」と無意識のうちに破顔していた。こんな些細なやりとりの最中に感じたあたたかいそれがなんなのかは結局わからないままだが、表情豊かな彼女の顔を眺めていると、なんだか全てがどうでもよくなってきてしまう。

「あ! 写真使ってもらうのはすっごく光栄だし全然いいんだけど、私の名前は伏せてもらえる? 恥ずかしいし、周りにみっちゃんとの関わり聞かれても答えにくいし」
「恥ずかしかねーだろ、すげーのに。……ま、そういう都合もわかってっからいいけど」

 じゃあ送るね、とスマートフォンを手に持っていた名前が指を画面に滑らせると、ソファーの上に投げ置いていたオレのスマートフォンがポポポン、と連続的に通知音を鳴らした。それを手に取って画面に視線をやれば、彼女がメッセージアプリを通して画像を転送してくれたことがわかった。
 送られた十数枚の写真。それは、半年前のオレの姿に違いなかった。これから住むことになるマンションの周りをブラついて、見つけた近所の公園の中にあったバスケットコート。あの瞬間、オレを見つけた彼女が切り取った世界を、データを通して知る。

「なあ」
「ん?」
「オレよ、これとかすげー好きだぜ」

 って自分の写真に言うのも変な感じすっけどよ、と付け足せば、名前は一瞬だけ驚いたように目を丸くしてから、嬉しさを滲ませるようにその目を細めた。
 きゅう、と結ばれていた彼女のコーラルピンクの唇は、抑えきれない嬉しさを表現するように控えめな弧を描く。堪えきれずに頬を綻ばせながら、彼女が小さな声で発したのは「ありがと、うれしい」という言葉。紡がれた言葉は照れを孕みつつも、その声音には隠しきれない感情がこもっていた。
 そして、そんな彼女の表情に視線を縫いとめられてしまったオレの顔は、さぞ間抜けなものだったに違いない。

「……え、どしたの? みっちゃん、すんごい顔してるけど」

 それどういう感情なの? と言いながら、怪訝そうに首を傾げた名前の声にハッとする。ぎゅう、と無意識のうちに握りしめていた拳のやり場に困って、アゴのあたりをさすりながら「あー、いや……なんもねーよ」と返し、スマートフォンへと視線を戻す。
 なんだ? このドクン、ってやつは。
 先ほど、突然現れた名前に驚いた時のものとは違う。彼女の笑顔を見た瞬間、胸の奥が一際大きく鼓動した時に感じた違和感。体の奥の方に謎の存在が棲みついているような、何とも例え難い窮屈さを感じながらアゴに添えていた手を胸に当てる。オレの体、なんともねえよな?
 ちらりと背後を確認すれば、座っているソファーの後ろに立っていた名前はいつの間にか再び自室に引っ込んでいた。ふう、と勝手に飛び出てきたため息の中に何故か混じっていた安堵感に眉を顰め、首を傾げる。
 落とした視線の先、自分のスマートフォンに表示されている名前から送られてきた写真を眺めながら、じわじわと気恥ずかしいような、言葉にするのが難しい感情に耳のあたりが熱を持ち始めているのをハッキリと感じていた。





 十四時過ぎから始まった練習は、試合の翌日ということもあって軽い調整メニューのみとなっていた。二時間程度のそれが終わり、本日二度目のシャワーを浴びてロッカールームで一息つく。

「みーついさん」
「……なんだよ、イヤな予感しかしねえ」

 声を掛けてきた宮城は、手に持っているスマートフォンの画面にすい、と指を滑らせてから「これ」とこちらに画面を向けてきた。それは、オレが昼間上げた投稿に間違いない。

「めちゃくちゃおしゃれな写真あげてんじゃん」

 どしたんスかこれ、と問うてくる宮城に「オレが洒落た写真あげてわりーかよ」と簡潔に返し、顔ごと視線を逸らす。
 つい数時間前、ソファーの上で名前から送られてきたデータ眺めながらなんだかむず痒い気持ちになったことを思い出す。あの時のうれしいような、でもどこか恥ずかしいような、今までに感じたことのない感情の正体は一体なんだったのだろう。
 いや、この件についてこれ以上考え込むのは良くない。本能的にそう感じて、思考を切り離すように首から下げていたタオルでまだ濡れている髪をガシガシと乱暴に拭う。

「……撮ったのはその、例の同居人」
「名前さん、だっけ? え、カメラやってんの?」
「あいつ一応プロだぜ、プロカメラマン」
「なるほどね、どうりでいい写真なわけだ」

 宮城のしつこい視線に根負けして、もう一度頭を拭って立ち上がる。これ以上ここに留まっているのは良くないという予感がするし、今日はもうさっさと退散してしまおう。

「で、どうなんスか。その名前さんとの同居生活は」

 そんなことを考えていたのに、振られた投げかけに対して、オレはつい「……別に、可もなく不可もねーよ」と返事をしてしまっていた。

「ふーん。オレ、結構恋バナとか好きなタイプだよ」
「だァからそういうんじゃねーっつってんだろ!」

 脳内で「あの人って、三井さんのカノジョさんですか?」と問うてきた大学生の言葉がリフレインする。それがきっかけになったみたいに、一気に溢れ出したのは半年間の名前とのやりとりだった。
 もちろん恋人ではないし、友達とも違う。ただの知り合いなのに近くて遠くて、そんななんとも言えない関係と距離感に、オレはいつから疑問を抱いていたのだろう。
 思ったことを屈託なく口にするところも、真面目で一生懸命なところも、仕事に一途で熱心なところも、一緒にいる居心地の良さも。認めてしまえば全てが繋がり、辿り着いた答えはその感情でしかないわけで。
 ムッとしながら「ばか!」と眉を顰める表情も、堪えきれない嬉しさに「ありがと」と照れ笑いを浮かべて頬を綻ばせる表情も、人差し指を口元に当てながら「ひみつ!」と無邪気に笑んだ表情も、彼女を形作る表情のすべてが愛おしくて、それに見惚れるようになったのはいつからだったのか。それを明確にすることは、たぶんもう出来ない。
 なぜならば、オレはきっと自分でも気づけないほどにゆっくりと少しずつ、そして確実に、彼女に惹かれていっていたに違いないからだ。

「三井」

 オレの名前を呼んだのは、いつの間にか隣にいた深津だった。何を考えているのかわからないその視線に怯まず「んだよ」と短い返事をしてやる。

「顔、赤いピョン」
「……っせーな! シャワー浴びたばっかであちーからだよ!」

 ほっとけ! と手で払うような仕草をすれば、深津は眉ひとつ動かさずにオレをじっと見据え、数秒後にはその視線を自分のロッカーへと戻していた。
 半年をかけて、知らず知らずのうちに沸々と大きくなっていた感情の名前。それをついに認知してしまったオレは、一体どんな顔をしてあの家に帰ればいいのだろう。

「チクショウ、マジかよ……」

 口に押し当てたタオルに向けて吐き出した掠れた声は、宮城にも深津にも届いていないと信じたい。



[*前] | [次#]

- ナノ -