7−1.


 三井寿という男について、たぶん私はある一定の距離感を保って接していたのだろう。だろう、というのは、自分が無意識にそうしていたことにようやく気づいたからだ。
 男の人と同居していることを知った周りの人間たちから「大丈夫なの?」とか「そういう感じなの?」と聞かれるたびに「ちがうから! ただのルームシェアだよ」と答えていたのは、そう自ら口にして予防線を張るためだったのかもしれない。
 高い身長とかガタイの良さとか、男らしくてパーツに恵まれた顔つきとか、スポーツが人並み以上に出来てしまうどころか、プロとして活躍しているレベルなところとか。あの男は女性が惹かれてしまう男性的な魅力を、そりゃあもうたらふく有しているのである。
 とはいえ、あの通り内面はガサツで大雑把で気を遣えないし、言葉遣いだって乱暴だ。だからまあ「私にとっては全くもってそういう対象ではないですよ」とハッキリキッパリ言い切ることが出来ていた。
 しかし、この間の一件によってその印象はまるっきり塗り替えられてしまっている。
 先週催されたダイちゃんと千代子の結婚式。その時の写真データを現像しているのにみっちゃんのことを考えてしまっていたのには、もちろん理由がある。
 それは、あの二次会後のお迎えの件である。疲労のピークに達していた私を迎えに来てくれたみっちゃんは、千夜子とダイちゃんの前まで行って挨拶までしっかりとこなす完璧な仕事っぷりを見せたのだ。
 試合後である筈の彼は「帰り道すがら通りがかっただけだし気にすんな」と言っていたけれど、それがとってもわかりやすいごまかしであると、私はすぐに気づいていた。
 これ以上追求するのは野暮だとわかっていたし、ほんのりと気恥ずかしそうにしている彼をみとめて口をつぐむことにした。結果的にそうしてよかったと思うのは、私の心の中に「なんだよ、この男ふつうにカッコいいじゃん」という複雑すぎる感情が確かに生まれてしまっていたからだ。
 ガサツで大雑把で気を遣えなくて、言葉遣いも乱暴なその男の不器用な優しさに、うっすらと気づきながらもスルーしていた。けれど、その攻撃をノーガードでボディに食らってしまい、さすがに「このままじゃちょっとヤバいかも」と思い始めているわけで。
 いやいやいやいや、そんな考察しなくていいし! そんな場合じゃないし!
 脳内で考察──もとい言い訳を論じてしまっていたせいで、いつの間にか現像を進める手が止まっていた。頭の中を無理矢理切り替えるべく、ふるふると首を振ってから目の前のディスプレイへと意識を戻す。
 千夜子の結婚式のデータを現像しながら、煮詰まりすぎて無意識に開いていたのはみっちゃんと最初に出会った時のデータが入っているフォルダだった。なんなら、このフォルダを開くのはデータを取り込んで以来初めてだ。あの時私がした行為は間違いなく盗撮だったので、未だに罪悪感が残っていてデータを確認することが出来ずにいた。
 でもまあ、みっちゃんは本当に気にしていなさそうだし、あの時は結構いい感じに撮れていた気がするし。自分で自分に言い訳をするような言葉を脳内で繰り返しながら、写真のデータをダブルクリックする。
 真横から抜いたみっちゃんの横顔。こめかみにうっすらと浮かんで光る汗と、真っ直ぐに向けられた視線の行方は斜め上空にあるバスケットのゴール。ボールを放った瞬間を切り取ったデータには、彼の手元を離れるボールも一緒に写っていた。絞りを開放することでぼやけた彼の背景で、木々の隙間から漏れる光が瞬いている。

「あー……くそぅ、認めますよ、カッコいいですよ!」

 バスケットボールに触れている時の彼のカッコよさは、なんなら初対面だったこの瞬間からわかっていた。だから無意識のうちにファインダーを覗き、ピントを合わせ、シャッターを切ってしまっていたのだから。
 声に出してぼやいてみても、当人は現在遠征に出ておりこの家には居ない。だから、こんなひとりごとを発してしまっても問題はない。というか、本人がいる時にこのフォルダを開いてデータを確認するなんて迂闊なことはまず絶対にしない。
 なぜならば、あの男は相も変わらず「あのよぉ」とか言いながら伺いも立てず部屋に侵入してきて「ちょっと! またノック忘れてる!」と私が眉を吊り上げても「あー、ワリワリ! そんでよぉ」と、気にするどころか改善する姿勢すら見せないのだ。
 そういうどうしようもないところだって、もうたくさん知っているというのに。しかし、それ以上に優しいところとか、実はそこそこちゃんとしているところとか、そんな部分を私はもう身をもって知ってしまっている。
 そういえばあの男、この間は「そちら、彼氏さん?」と問われ、否定しようとする私の言葉を遮りながら「そんなようなモンです」とか返していた気がする。そんなようなモンですってつまり、問われた言葉を肯定してるようなものじゃないか。あの時はみっちゃんが現れた驚きでスルーしてしまったけれど、今更になって肝が冷えてきた。
 私は決して彼の「そんなようなモン」とかではない。全く、なんちゅうことを言ってくれたんだあの男は! あの場でそれはいらなかったでしょうに!
 べたん、と支えを失くしたように勢いよくデスクに突っ伏す。心なしか頬が熱い気がするし、なんなら顔全体が熱を持っている。ああもうだめだ、すごくモヤモヤする。今日の作業は終わりにしてさっさと寝てしまおう。
 ディスプレイに表示されている時刻を確認すれば、いつの間にか日付を超えていた。作業が捗っているならまだしも、集中力が家出をしているこの現状でこれ以上粘っていても無駄に時間を浪費してしまうだけだということを、私はよく知っている。
 ぐーっとその場で伸びをして、はあ、と吐き出したため息は思った以上に重苦しく。その質量の内訳を明確にしてしまえば、たぶん私は今晩の──否、今後しばらく安眠を得られないことを察していた。彼について思考を巡らせるのは、パソコンを閉じるのと一緒にシャットダウンしてしまおう。
 明日の仕事は午後からの撮影、明日の仕事は午後からの撮影!
 頭を切り替えるように何度も何度も念じ、最後にもう一度だけ「明日の仕事は午後からの撮影!」と声に出してから立ち上がり、歯磨きをすべく洗面所に向かうことにした。


  ◇


 連日撮影の仕事が続いていたせいで、現像しなければならないデータが溜まりに溜まっている。明日は家に引きこもって作業を進めようと、昨晩は早めに床に就いていた。
 カーテンの隙間から漏れる朝日が瞼の上でチカチカと揺れて、ゆっくりと意識が覚醒していく。目を開き、ベッドサイドの充電ケーブルに繋いでおいたスマートフォンの画面をタップすると、時刻は朝の七時前。なんだか久々に熟睡した気がする。体を横たえたまま小さく呻いて体を伸ばせば、大きなあくびが声を伴って飛び出してきた。
 なんか、すっごいお腹空いてる気がする。
 空腹を感じてからの私の行動はとんでもなく早く、腹筋運動よろしくものすごい勢いで上体を起こし、とととん、と軽快なリズムで足音を鳴らしながら自室を出た。
 冷凍庫内で保存していた冷ご飯をレンジに放り込み、ボタンを押して回り始めたのを確認してから洗面所へと向かう。冷水で顔を洗えば、その冷たさによって残っていた微かな眠気が根こそぎぶっ飛んでいく。タオルで顔を抑えるように拭い、手早く化粧水と乳液をつけてキッチンに戻ると、ちょうどレンジが温めの終了を知らせてくれた。
 解凍された白米の真ん中に冷蔵庫から引っ張り出した梅干しを埋め込んで、それをラップの上から三角に握り、周りにごま塩をまぶす。キャビネットの棚から取り出したコップに注いだミネラルウォーターは、一気に半分飲み干してしまった。
 キッチンの中でラップを開き、その場でおにぎりを一口頬張ると、口の中に程よい塩味が拡がっていく。手軽にサクッと食べられるパンも好きだし、お茶碗に盛った納豆ご飯も好き。日本人は和洋を楽しめて最高だなあ、なんて考えながらもぐもぐと口を動かしていたら、横から「そこでメシ食ってんのかよ、行儀わりぃぞ」という声が掛けられた。
 え? と視線を動かすと、そこに立っていたのはトレーニングウェア姿のみっちゃんで。彼は、昨日まで遠征に出ていた筈だ。いつもは次の日のお昼過ぎに帰ってくるのに、今の彼は思いっきり朝のジョギング後の姿である。

「はれ!? ふぃっひゃん!? なんれ!?」
「あ? なんつってっかわかんねーよ、ちゃんと飲み込んでからしゃべれ」
「っ、いつ帰ってきたの!?」
「昨日の夜遅く。けど、おまえもう寝てたし」

 そうなんだ、と返事をして、いつものようにプロテインを作り始める彼を見ながら先程の発言の違和感に気づく。いや、でもこの男ならやりかねない。

「……寝てたし、ってどういう意味?」

 どうか当たっていませんように、と願いつつ、半分残ったおにぎりを手で握ったまま恐る恐る問うてみる。すると、振り終えたシェイカーからプロテインを摂取していたみっちゃんは「部屋ン中覗いたらよ、子どもみてーにスヤスヤ寝てたぜ」と悪びれる様子など一切なしに言い切った。
 絶句している私をよそに、みっちゃんは自身の二の腕に取り付けていたランニング用のポーチからスマートフォンを外し、その画面にすい、と指を滑らせた。

「ほらよ」

 そう言いながらずい、とこちら向けられたのは、彼のスマートフォン画面。目を細めながら目の前に差し出された画面を覗き込めば、そこには客観的に見ることなどない自分の寝顔が映っていたわけで。
 その画面と、何故かドヤ顔でこちらを見下ろしているみっちゃんとを交互に眺めるのを何往復か繰り返したのち、私の喉からこぼれ出たのは「な、な……!?」という言葉になりきれない鳴き声のような音だった。

「ばかあ! これはどう考えてもナシ!」
「へーえ? オレぁ初対面のとき同じようなことされたような気がすっけどなァ?」
「ぐっ……! それを持ち出されたらなんも言えないというのに……!」

 ぎゅう、と胸の前で両手を握りしめて歯を食いしばる私を、みっちゃんは相も変わらずどこか勝ち誇ったような表情で見下ろしている。

「おまえ、いっつも遅くまでパソコンと睨み合ってんのになんか静かだからよ、どっか出かけてんのかと思って部屋覗いたんだよ。そしたら寝てっから撮っといた」

 いや、寝てたからって普通の人はなら彼女でもない女子の寝顔を写真に収めないですよね! でもこの男普通とはちょっと違いますからね! 仕方ないですよね! ……って仕方ないで済むかい!
 私が心の中でそんなノリツッコミを披露していると「おまえ、こういう顔して寝るんだな」と続けたみっちゃんが、その腕に取りつけていたスマートフォンポーチをベリッと剥がすように外した。
 三井寿という男の思考回路と行動原理は、やはり私の想像出来うる範疇には無いらしい。改めてそれがハッキリとわかった。
 そうだよね、ルームシェアしてる同居人って、そんなのもう同性とかきょうだいみたいなものだもんね。寝顔撮っちゃうのも家族が「おっ、寝てる、写真撮っとくか!」みたいな軽いノリだよね。──とでも思っていないと、とてもじゃないがやっていられない。

「……はぁ、とりあえず消しといてね。さっきの……その、私の写真」
「なんでだよ。いいじゃねーか、かわいかったんだし」
「はあ!? え……か、かわ!?」
「おう、ガキんちょみてーなツラして寝てっから癒されたぜ」

 褒めているのか貶しているのか。いや、この言い方はどう考えても後者だ。それよりも「かわいい」というワードに反応してしまったことが悔しくてたまらなかった。みっちゃんが、そういう言葉をなんの気になしに口にするなんてこと、とっくに知っているのに。

「……とにかく! これも女子と住む上で絶対アウトなやつだから! みっちゃんが今後彼女と同棲する、とかになっても普通の女子はイヤがることだからね!」

 そういえば、以前も同じようなことを言った気がする。なぜだか胸の奥がちくんとして、私はその違和感に眉を顰め、思わず首を傾げていた。なんだろう、これ。前に同じセリフで彼を咎めた時は、こんな風にきもちのわるい不愉快さは感じなかった筈だ。

「あ、オレこれからボール持ってコート行くけど、おまえも来るか?」

 言語化出来ない悔しさと、かすかに芽生えている理解の及ばない感情との間で葛藤していた私は「へ……?」と間抜けな声を発しながら顔を上げる。すると、みっちゃんはその場でシュートを打つジェスチャーをしながらニッと笑った。

「え、いいの!? あ……あの、写真撮ってもいい!?」
「おう、別にいいぜ。ただし、めちゃくちゃカッコよく撮ること。これ絶対条件な」
「あはは、それは大丈夫だよ。だってみっちゃんは……」

 そこまで言ってから、自分が何を続けようとした言葉に気付き、すんでのところで口をつぐむ。ひやり、と背筋がつめたくなって、一瞬だけドッと大きく心臓が鳴った。

「ん? なんだよ」
「……なんでもない! 着替えして日焼け止め塗って眉毛描いてくる、急ぐね!」

 訝しげに目を細めたみっちゃんの顔をこれ以上見ていられず、取り繕うように大袈裟なジェスチャーをしてみせる。
 行儀が悪いことはわかっていたけれど、その場で押し込むようにおにぎりをかっこんだ私に対して「おーおー、豪快な食べっぷりで」なんて言いながら愉快そうに口の端を吊り上げるみっちゃん。そんな彼を無視して残った水を流し込み、そのコップをシンクに置いてからぱたぱたと慌ただしく自室へ戻る。
 ドアを閉めて真正面にあるデスクまで辿り着いた私は、その上に両手をついて背中を丸め、大きく深呼吸をしてから右手を自分の胸に当てた。
 ひとつ、ハッキリとわかったことがある。それは、私の中にいつの間にかうまれてしまっていたらしい感情の名前を、その存在を、これ以上意識するのは絶対に避けなくてはならない、ということだ。
 そういうのじゃない、そういう段階じゃない、大丈夫。男っ気が無さすぎてちょっとグラグラしちゃっただけで、世の中にありふれたなんてことない些細なときめきに違いない。ぱちん、と軽く頬を叩き「大丈夫」と念じるように呟く。
 メイクポーチの中にあった日焼け止めを乱暴に手に取り、それを顔に塗りたくってからパウダーをはたき、手早く眉を描く。適当に引っ張りだした長袖のTシャツに軽めのジャケットを羽織り、手櫛で髪をとかしてからキャップを被る。重くない単焦点レンズを愛機に取り付け、それを肩に掛けた。
 クローゼットの横に設置してある姿見に映る自分をちらりと一瞥してから「平常心、平常心よ」と、心の中で小さく唱える。これ以上みっちゃんを待たせるわけにはいかない。

「……ごめん! おまたせ」
「おう、んじゃ行くか」

 部屋から出てきた私を見留めたみっちゃんは、既にその腕にバスケットボールを抱えていた。くるりと進行方向を玄関へ定めた大きくて逞しい背中をまじまじと眺めながら、小さく息を吐き出してふるふると小刻みに首を振る。
 外用のバッシュを履くみっちゃんを横目に、履き慣れたスニーカーに足を突っ込んで爪先で玄関の床を軽く叩いた。
 エレベーターに乗ってエントランスを出ると、眩しい朝日に思わず目を細めてしまった。澄んだ朝の空気は少しだけ冷たいけれど、日差しの暖かさでちょうどいい心地だ。

「んー、いい陽気!」

 こんなにいい天気なら、みっちゃんの練習を見学した後にモーニングでもしたかったなあ、とひとりごとのように呟けば、みっちゃんから「オレぁ汗だくだし、一旦帰ってシャワー浴びてえ」という予想もしていなかったレスポンスが帰ってきた。

「一緒に行くってこと?」
「なんだよ、ダメかよ」
「いや、ダメってことはないけど……でもほら、私おにぎり食べちゃったし」
「あー、じゃあまた次の機会だな」

 次の機会。つまり、またこうやってランニングを終えたみっちゃんの個人練習を見学して、それから彼がシャワーを浴びるのを待って、一緒にモーニングに行く。彼は、それのことを「次の機会」と言ったのだ。
 そんなの、どう考えても同棲してるカップルの動きじゃん。
 なんの気なしにも程があるだろ、と絶句している私をよそに、隣を歩く男は機嫌良く鼻歌などを歌っている。私も来世で高身長且つ男前なスポーツ選手になれたなら、この男のように女子の気持ちを露ほども気にしないで手の上で転がし、弄んでみたいものだ。
 みっちゃんはアウェーでの二試合を終え、昨日こっちへ戻ってきたばかりだというのに朝からランニングをこなし、イヤというほど触っているであろうボールをこれからまた操るのだという。
 物好きだなあ、だからそれを仕事にしちゃうぐらいなんだろうけど、と最近よく聴く曲を口ずさむみっちゃんを横目に眺める。そこで、いま思った全ての言葉が自身にも言える特大ブーメランであることに気づいてしまった。そう、かくいう私も好きなことを仕事にしているし、さらに仕事でもなんでもない同居人の個人練習に付き添い、相棒のカメラを持ち出している始末なのだ。
 みっちゃんの鼻歌を聞きつつ、時々他愛もない会話を交わしているうちに、私たちがはじめて出会ったあの公園に辿り着いていた。二人でこの公園を訪れるのは、ルームシェア開始以降初めてだ。

「なあ、オレのこと盗撮したカメラもそれか?」
「……はいそうです、すみませんねその節は本当に」
「すげーよなあ、そんでいま一緒に住んでんだもんな」

 みっちゃんは「人生、なにがあるかわかんねーもんだわ」と、小脇に抱えていたボールを両手で捏ね回しながらひとりごとのように言った。
 一緒に住んでいるとはいっても、私たちは友達でも恋人でもない、つい何ヶ月か前に知り合ったばかりの他人同士である。しかも、これは一年間という期限付き。
 自分がその渦中にいるから流れるままに身を任せていたけれど、改めて私たちの現状を整理してみたら、姉や千夜子が変な方向に盛り上がっている気持ちがわからなくもない。というか、私だって当事者でなければ「少女漫画みたい!」とか言っていたに違いない。
 夏より少しだけ優しくなった短い秋の日差しを感じながら、木漏れ日の中を並んで歩く。青青と茂っていた木の葉の色はじわじわと黄味を増し、舗装された道にぱらぱらと落ちている。冬の足音を感じる風を頬に受けているうちに、私たちが出会ったバスケットコートに到着していた。
 コートの半面では、大学生らしき男子たちが三対三の真っ最中のようだ。みっちゃんはそれを眺めながら軽くドリブルをしつつ、もう片方のゴール付近へと歩いていく。
 てん、てん、てん、とビートを刻むように聞こえてくる音は、アリーナという屋内で聞こえる弾けて反響するようなものとは全くの別物だ。
 ファインダーを覗き込み、彼の姿を画角に収める。空気に混じって溶けていくような乾いたドリブルの音を聞きながら、それに合わせるように人差し指でシャッターを切る。私にとっての聞き慣れた音はこのシャッター音だ。
 スリーポイントのラインに立ち、しばらくその場所で軽めにドリブルをしていたみっちゃんが、突然カメラに向かってビッと人差し指を突きつけてきた。そんなジャスチャーに首を傾げれば、次の瞬間、両手を掲げたみっちゃんの手元からボールが放たれるのを見た。
 すっと挙がった右手と、それに添えられた左手。真っ直ぐにゴールを射抜く視線、彼の手から放たれたオレンジ色のボール。澄んだ空に浮かんだそれが言葉に出来ないぐらいよく映えて、私は思わずファインダーから目を離してしまっていた。

「きれい……」

 とっさに出たその言葉は、果たして何に向けて発されたものだったのだろう。
 空気の澄んだ朝の秋空に? くるくると回転を掛けながら弧を描いてゴールを抜けたバスケットボールに? それとも、それを放ったプロバスケットボール選手の同居人に?
 みっちゃんがボールを放ち、それがゴールを抜けるまではほんの一秒、なんなら一秒にすら満たない、限りなく一瞬に近い時間だったに違いない。
 転がるボールを数秒眺めてから視線をみっちゃんへと戻せば、勢いよく首をこちらに向けた彼は掲げたままだった右手の親指と人差し指で輪を作り、アゴをしゃくらせながらこれ以上ないってぐらいのドヤ顔でスリーポイントポーズをキメていた。
 思わず笑いをこぼしながら、うんうんと頷いて見せれば、みっちゃんは歯を見せながらニカッと笑って転がったボールを取りに行く。
 いい大人のくせに、少年みたいな顔で笑うじゃん。
 咄嗟に構え直したカメラのシャッターを切る。それは「切る」というよりも「切らされていた」という表現の方が近かった気がする。自身の得意技であるスリーポイントシュートを何度も放ち始めた彼を、ひたすらに追う。骨張っていて大きいけれど、とても繊細なシュートを放つ指先からボールが離れた瞬間、その間を差した光が逆光になる。
 楽しいと、素直にそう思った。初めて彼と出会ったあの時だって、私は無意識のうちにファインダーを覗き、シャッターを切らされていたのだ。
 カシャ、と愛機のシャッターが下りる音と、興奮で高鳴る胸の音が重なる。普段は大観衆の中、巻き起こる歓声の渦中でボールを操る彼を、いま私は特等席で眺めている。こんなVIP待遇、長年のファンの皆さんに申し訳ないな、と思いつつ、感じてしまったのは密やかな優越感。スポーツ選手の体づくりを助ける食事を意識して提供しているので、それのご褒美ということでひとつ許していただきたい。
 逆光の中でちらりと見えたみっちゃんの表情は、普段よりも子どもっぽくてキラキラと輝いていた。試合の時のギラギラしているのとは違う、リラックスしていて、例えるならばボールと対話しているかのようで。
 やわらかい日差しの下、地面にはゴールと向き合う彼の影が伸びていて、まるで太陽に祝福されてるみたいだな、なんてらしくないクサい例えが頭の中に浮かんでしまい、無性に恥ずかしくなった。

「……で、撮れ高はどーよ?」

 目の前に戻ってきていたみっちゃんが、いつの間にか至近距離でこちらを覗きこんでいた。それに全く気づいていなかった私は、ヒュッと息をのんでから「わっ、な、近っ!」と一歩後退りをする。

「なーにボケっとしてんだよ、この三井のシュート練を撮ってなかったってのか?」
「撮ってたよ! えっと……見る?」

 たりめーだろ、と大きく頷いたみっちゃんが、私に合わせるようにして腰を屈める。愛機ごと手渡すべく、肩からストラップを外そうとしたら「そのままでいい」と言った彼は遠慮なくこちらに顔を寄せてきた。再び漏れた「だから近いってば……」という私の言葉を無視した彼は、はやく見せろとばかりに液晶を指差しアゴをしゃくらせている。
 はあ、とこぼれたため息は些か深いものだったけれど、この男がそんなことに気を留める筈もなく。液晶に映し出された写真をみっちゃんの方へ向けると、彼は足の間にバスケットボールを挟み、腕を組んで食い入るように画面に見入った。

「前も言ったけど、このボタン押すと次いけるから」
「おう。……なあ、名前」
「ん、なに?」
「おまえ、スポーツ撮らねえっつってたけど全然撮れてるじゃねえか」

 その言葉に称賛を込められているのだと気づくまで、数秒の時間を要してしまった。すげーじゃん、さすがプロだわ、と続けながらデータを確認していくみっちゃん。私はというと、目の前で腰を屈め、前のめりになりながら愛機の画面を覗き込んでいる同居人のつむじをただひたすらに見つめていた。
 あれ、どうしよう。なんかすっごいうれしいかも。
 じわじわと顔が熱くなって、なんだか目の奥まで熱くなってくる。思わずぐっと奥歯を噛み締めていたら「どうした?」と顔を上げたみっちゃんと思いっきり視線がかち合って、私は慌てながらふるふると首を横に振った。

「……ありがと。でも、仕事にするってなったらそう簡単じゃないよ。ほら、試合の時のカメラマンってバスケのゴール裏に座ってバズーカみたいなレンズくっつけたカメラ構えてるでしょ?」
「あー、そういやいるな」
「競技スポーツを仕事でガチ撮りする! ってなったらああいうのも必要になるし」

 ふーん、と言いながら再び液晶画面に視線を戻したみっちゃんが、アゴにある傷を親指でなぞりながら「たしかにバズーカみてーなの構えてるわ」とこぼす。

「すんごい重たいし、値段もとんでもないよ」
「マジで? やべーなカメラって」
「本体よりもレンズ揃える方が高くなるし、周辺機器もなかなかかかるし、メンテナンスも必要だし」
「名前の部屋にあるちっさい冷蔵庫みてーなやつもか?」
「防湿庫ね。カメラは湿気に弱いから」

 何度も私の部屋に侵入しているみっちゃんは、防湿庫の存在を認識していたらしい。それにツッコミをいれる体力は温存することにした。

「あの……ソルバーンズの三井選手ですよね?」

 その声は、みっちゃんの後ろから掛けられたものだった。
 ん? とほぼ同時に顔を上げたみっちゃんと私は、その声のした方向へと視線を向ける。するとそこには、もう一基あったゴールを使って軽いミニゲームをしていた集団が、こちらの様子を窺うように立っていた。

「お? なんだ、オレのこと知ってんのか?」
「めっちゃ知ってます! 似てるなって思って、シューティング見てわかりました!」
「プライベートですよね? 声掛けようか悩んだんですけど、こんな機会ないと思って」

 その言葉の後で、複数の控えめな視線が私の方へ向けられた。プライベートですよね、という言葉の意味を察し、咄嗟に「そういう関係じゃないですよ!」の意を込めて顔の前で手を横に振ってみたが、果たしてその意図は彼らに伝わったのだろうか。
 目の前にいる彼らの瞳に浮かぶ感情は、みっちゃんに対する明確な尊敬に間違いない。みっちゃんもそれに気づいたのだろう。彼は、足の間にボールを挟んだまま腰に手を当てて「ワハハ! そりゃあなあ、分かっちまうよなあ!」と大口を開けて笑い、目の前にいる男子学生の肩をぽんぽんと些か強めに叩いた。

「よォし、じゃあワンオンでもすっか?」
「え……!? い、いいんですか!」
「おう、オレもひとりじゃシューティングしか出来ねーからな」

 ただし、学生相手だろうと手加減は出来ねーぜ、と目を細めながらニヤリと笑んだみっちゃんの表情は、悔しいけれど私までドキリとしてしまうようなものだった。それはいわゆるプロのオーラ、というやつに違いない。
 何人かと連れ立って再びコートへと戻っていくみっちゃん。その背中を眺めながら、無意識のうちにカメラを支える手のひらに力が入るのがわかった。

「あの、カメラマンやってるんスか?」
「私? うん、ファミリーフォトとかそういうのばっかりだけど」

 みっちゃんとのワンオン待ちをしている学生に話しかけられ「みっちゃ……えと、三井選手とはちょっとした知り合いで、そのよしみで写真撮らせてもらってるだけなの」と慌てて続ければ、彼からは「そうなんスね」という簡潔なレスポンスが返ってきた。
 みっちゃんと私の関係を勘違いさせてしまうのはよくないと少なからず焦りを感じていたが、どうやらさほど気にされてはいないようだ。

「あの、どんな写真撮ってるのか見せてもらったりとかは……」
「うん! もちろん!」

 そう言って、肩から下げていたストラップを外してカメラを彼に手渡す。すると、おっかなびっくりした様子でそれを受け取った彼が「重いですね、落とさないようにマジで気をつけます」とものすごく神妙な面持ちで言った。
 うん、と頷いてから顔を上げると、みっちゃんがこっちを見ていることに気づく。そんな彼に向かって「どうしたの?」の意を込めて小さく首を傾げてみせたら、彼がこちらを見据えたまま数秒硬直するのがわかった。

「ワリ、ちょっとタイムな」

 ちょうど対面していた学生にハンドサインで「T」の字を示したみっちゃんは、グイッと額の汗を乱暴に腕で拭い、こちらに向かってどすどすと大股で歩いてきた。
 みっちゃんは、私の足元に置きっぱなしにしていたペットボトルの水を引っ掴み、それをゴクゴクと勢いよく飲み始める。景気の良い一気飲みに「見事な飲みっぷりだね」と声を掛ければ、ペットボトルの蓋を閉めた彼は、先ほどと同じようななんともいえない視線をこちらに向けながら再び停止してしまった。

「なに? ……もしかして私、どっかに虫でもついてる!?」
「いや、ちげーけどよ。……なんつーか」
「なんつーか?」
「……いや、いい。なんでもねえ」
「えー? なんでそこで言い淀むの? 気になるじゃん」
「だーもう、うっせえ! なんでもねーって言ってんだろ! しつけー女だな!」
「なにその言い方! やなかんじ!」

 チッ、と舌打ちをして空になったペットボトルを地面に置いたみっちゃんは、再びドスドスと足を踏み鳴らしながらゴールの前で待っている学生の方へと戻っていく。
 なんだあの男、と思いながらも、なぜか憎めないと思ってしまう私のこの感情は、絆されてしまっているせいなのか。それとも、と考えて、その場でふるふると首を振る。
 私のカメラの液晶を覗き込んでいる男子学生に「この写真、ショットの瞬間捉えててめっちゃカッコイイですね」と横から声を掛けられるまで、私の視線は「んじゃ、ビシバシいくぞ!」と先ほど以上に声を張るみっちゃんに縫い留められたままになっていた。

「そ、そう? ありがとう!」

 そう返事をしてから、彼の示した画面を覗き込む。
 横に切り取られた画角の中で、斜め上にあるゴールリングに向けられている視線。それを横から捉えた長方形の世界の中で、こめかみで光る汗がチカッと瞬いた気がした。
 それは間違いなく私が撮影した写真。みっちゃんがバスケットボールに触れている瞬間を、プレーしているその時を切り取ったデータの中で、ありありと透けて見えてしまったその奥にあるものはおそらく、私にしかわからない。けれど、それを撮影した私だけは、ついに気づいてしまったのだ。
 この胸がドキン、とわかりやすく鼓動するのは何度目だろう。頭の中で同じような葛藤をしたのは何度目だろう。おずおずと顔を上げて目の前で行われている一対一に視線をやれば、腰を低くしながらドリブルをし、対峙している学生を一気に抜いてジャンプシュートを放つ彼の姿があった。

「なんだ、もう写真に出ちゃってるじゃん……」

 意図せず口からこぼれたセリフは、目の前で学生から一本を決めて「ワッハッハ! 見たか! プロ舐めんなよ!」と大人気なく胸を逸らし、ふんぞり返っているその男の大きな声に掻き消されていた。



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