43.

 電車を降りてホームに降り立つ。私たちが今降りたばかりの電車に乗り込む大学生らしき男女をすれ違いざまに眺めながら、なんだか懐かしい気持ちになった。大学生の頃の寿くんと私もあんな感じだったのかな。
 大学を卒業してから気づけば二年と少し、三月になったらもう三年が経過することになる。大学生活の四年間なんて本当にあっという間で、いつの間にか卒業して、いつの間にか社会人になっていたかのような錯覚を起こしてしまいそうになる。

「またぼーっとしてんぞ、どした?」

 懐かしい気持ちで胸がいっぱいになっていたら、隣にいる寿くんの少し笑いを含んだような声が聞こえてきた。彼の方を向いて「ううん、何でもないよ」と小さく首を振ってみせる。彼は「まあいいけどよ」と言って私の頭を軽くぽんと撫でる。
 私たちが四年間通っていた大学の最寄り駅。ここから十分ほど歩いたところにある学生向けのアパートに入居していたので通学でこの駅を利用することはなかったけれど、駅の反対側にある大学に通うためにほぼ毎日この駅前を歩いていた。
 きょろきょろと辺りを見回してしまっていた私の手を寿くんが引いてくれている。

「あんま余所見してっと危ねえぞ、ちゃんと前見て歩け」

 ただでさえ名前は危なっかしいんだから、と続ける彼。ぐうの音も出ないぐらいごもっともだと思う、ごめんなさい。高校の先生になった寿くんの言葉にはすごく説得力がある。口調は出会った頃のままでちょっぴり乱暴なんだけど、ついつい「はい、先生」と返したくなってしまうのだ。以前に一度そう返事をしてみたら「オレは名前の先生になった覚えはねえぞ」と困ったように鼻の横をかきながら笑っていた。

「ここに住んでたの、もう三年も前になるんだね」
「もうそんな経つんだな」

 年を重ねるごとに、時間の流れはどんどん早くなっていく気がする。
 寿くんと出会ってから何度目かの冬。改札を抜けると駅前は休日だからだろうか、沢山の人で賑わっている。あの頃とほとんど変わらない駅ビル、近づくクリスマスに浮き足立つ人の波、そしてまばゆいイルミネーション。今は夕方の五時過ぎ。あの頃、二人で眺めたものと同じイルミネーションが薄暗くなってきた辺りによく映える。私たちの目的はまさにこれだった。
 今度また大学の近くにでも行ってみようぜ、と寿くんが提案してきたのだ。平日も土日も授業に部活に忙しくしている彼の突然の思いつき。久々に一緒に出掛けられることがうれしくて今日は新しい服をおろしてしまった。
 そんなことを考えていたら、ふと一ヶ月と少しぐらい前の記憶が蘇り、脳内で映像が再生される。彼の部屋でたまたま見つけてしまったあの小さなケースのこと。あの中身が何なのかってことは、女子ならば誰でも容易に想像がつくだろう。何にも見てないと思い込んでみたり、見てしまったこと自体忘れてしまおうと試みたものの、当たり前だがその記憶が頭の中から消えてくれることはなかった。

「なんか前より豪華になってね?」

 そんな私の様子には気づかず、イルミネーションを指差しながら寿くんが言う。
 そうだっけ、と以前の記憶を呼び起こそうと躍起になると、出てくるのはイルミネーションじゃなくてあの頃のちょっとだけ苦い思い出だ。付き合い始めたばかりのころ、ちょっとしたすれ違いが生じてしまったことがあった。自分に自信がなかった私。未だに思い出すたび恥ずかしくて、つい両手で顔を覆いたくなる。
 そういえば、あの駅ビルで寿くんへの初めてのクリスマスプレゼントを買ったなあとか、よくお土産に持ってきてくれたケーキ屋さんはまだあるのだろうかとか、この場所ではたった四年間しか暮らしていないけれど、たくさんの思い出があることに気付く。
 いきなり繋いでいた手がぱっと離れたかと思うと、寿くんは自分のボディバックからペットボトルのお茶を取り出した。そして何を思ったのか、いきなりそれを一気飲みし始める。私はというと、その光景にぎょっとしてぽかんとしたまま、ただただ様子を眺めている。

「……よし、オレはちょっと便所にいってくる」

 大学生の飲み会だったら「一気! 一気!」と掛け声がかかってやるようなレベルの飲みっぷりだった。お茶で良かったと思う。

「うん、けどなんでいきなり一気飲み?」
「んなことはどうでもいいんだよ! いいかフラフラするなよ、ここで座っておとなしく待つこと! あ、そうだ!」

 寿くんは半ば強引に私を近くのベンチに座らせると、自分はきょろきょろと辺りを見回してから見つけた自販機に向かって駆けていく。首を傾げながらその様子を眺めていると、さっさと何かを購入してまたこちらへと駆け足で戻ってきた。

「ほら、これ飲んどけ。さみーからな」

 握らされたのはホットミルクティーのペットボトルだった。そのやさしい心遣いはとってもうれしいのだけど、こんなことしている間にさっさと行って来たらいいのに、と思ってしまう。
 おかしくなって笑っていたら、彼は私の額を小突きながら「なに笑ってんだ」と訝しげに目を細めている。

「じゃあちゃんとここにいろよ! どっかいくんじゃねーぞ!」
「はいはい、気を付けてね」

 そう言って、今度は駅ビルのほうに駆け出していった彼の背中を眺めながら、小さく吐き出した息は白い。年が明けるまでもう何週間もない。彼と出会って、お付き合いすることになって、いろんなイベントごとがあって、来年も二人でいられるかなあなんて思いながら、毎年この時期を過ごしてきた。
 行き交う人とイルミネーションを交互に眺めながら、買ってもらったミルクティーで手のひらを暖める。出会ったのはこんなに寒い時期じゃなくて、まだ汗ばむ夏の終わりだった。
 もうすぐ就活が始まってしまうという焦りとモヤモヤを頭のすみっこに追いやって、そのことに気付いていないフリをして授業を受けていた私。出会った頃の寿くんは今よりも少しだけぶっきらぼうで、そしてちょっとだけうっかりさんだった。
 初めて会った講義の終わり、立ち上がった私に「またな」と声をかけてくれた寿くん。それがなぜだかすごくうれしくて、今思い返したらもうあの時から私の気持ちは始まっていたのかな、なんて思ってしまう。
 真っすぐに、ひたむきに自分の道を進む寿くんが眩しくて魅力的で、最初はただただ憧れた。私もこの人みたいに自分に自信が持てたらいいのに、と思った。そして、いつの間にか彼のことをどうしようもなく好きになってしまっていた。
 そんな寿くんと彼氏と彼女という関係になって、大学を卒業して、就職して、それから同棲を始めてもう二年が経った。
 そういえば、お付き合いをはじめてからしばらくは恥ずかしくて彼のことを名前で呼べなかったっけ。それが不満で、目を細めながら「いつまで三井くんって呼んでんだよ」と口を尖らせていた顔も、教員採用試験の勉強とハードなバスケの練習で疲れ果てて机に突っ伏して眠ってしまった時のあどけない寝顔も、バスケの試合で負けて涙を流す姿だって、どれもこれも私の大好きな彼なのだ。ついついひとりでにこにこしてしまっている事に気付いて、私は首に巻いたマフラーで口元を隠す。

「名前!」

 そう声を掛けられて横を見ると、いつの間にか寿くんが戻ってきていた。
 おかえり、と言ってベンチから立ち上がろうとしたけれど「まあ待て」と左の手のひらを突き出した彼に静止させられる。なんだろう、と小さく首を傾げてみる。いつも以上に眉間に皺を寄せている寿くんは突き出していた手を引っ込めて拳を作り、それを口元にあててゴホンと大げさに咳ばらいをした。

「今日でオレら、付き合って四年だろ?」

 だからよ、と言って彼は後ろ手に持っていたものを私の目の前に差し出す。
 イルミネーションの明るさでキラキラしていた視界に、ぱっと飛び込んできた電飾ではない鮮やかな色。それは大きな花束だった。赤やピンクの花が目の前で急に咲いたかような錯覚をおぼえ、思わず口元を両手で覆う。花束と寿くんを交互に見ながら「え?」と声を漏らした。

「名前がバイトしてた花屋の店長に作ってもらったんだぜ、これ」

 いま走って取りに行ってきた、と寿くんは照れくさそうにこめかみの辺りをポリポリとかきながら、モゴモゴとした口調で言った。照れ屋さんな彼の耳が真っ赤なのは寒さのせいだけじゃないことを、私はよく知っている。何年経っても変わらない、照れているときの彼の表情や様子がかわいらしくて、つい口角が上がってしまう。
 そっか、ここに今日来ようといったのは突然の思い付きじゃなくてちゃんと計画してたことだったんだ。

「わたしのために……?」

 やっと出てきたのはそんな間抜けすぎる言葉だった。だからそう言ってんだろ、といった寿くんが「ホラ」といって私に花束を抱えさせる。
 もう一緒にいて四年も経つことを理解していても、どれだけ時間を過ごしても、この人のことが好きなんだなあって思う気持ちは天井がないんじゃないかって思えてしまう。うそをつくのが下手くそで、サプライズなんか得意じゃないはずの寿くんが、こうして私を驚かそうとしてくれたことがうれしくてたまらない。つい花束を抱える手に力が入ってしまう。

「寿くん……」
「あ! お、おいおい泣くなって、まだはえーぞ!」
「だってうれしくて、ど、どうしよう……」
「ああもう、おまえここに来ると泣くよな」

 そう言って困ったように眉尻を下げた寿くんが、くしゃっと笑いながら私の横に腰を下ろす。

「……オレはよ、名前が傍にいてくれることにすげえ感謝してんだぜ」

 そんなの、私のせりふだ。ただ普通に流れるままに過ごしていただけだった私の大学生活が、そして毎日が、キラキラ輝く素敵なものに変わったのは寿くんと出会ってからだった。
 いつだって、何にだって全力の姿に励まされた。絶対に諦めない意志の強さに背中を押された。自分に自信のなかった私が自分のことを好きになれたのも、私は私なりに頑張ればいいんだって胸を張れるようになったのだって、寿くんが傍にいてくれたからだ。

「だからよ、その、ええとつまり、これからも傍にいてほしいと思ってるっつーことをだな、オレは言いたいわけで」

 そう言うと、寿くんは深呼吸するみたいに深く息を吐いて、そして吸った。真正面に向けられていた彼の顔がこちらを向く。その強い意志を秘めた視線と私の視線がかち合う。

「だから名前、オレと結婚してくれ」

 聞こえていたクリスマスソングや、行き交う人の声やざわめき、車のエンジン音なんかが世界からぱっと消えてしまったかのようだった。
 寿くんの声と、そしてその口から紡がれた不器用な言葉だけがクリアになって、反響するみたいに鳴りながらやっと私の耳に届く。その意味を理解する前に、最初は指先が震えた。それから耳の後ろが熱くなって、鼻の奥ががつーんとして、まぶたの裏がじわじわと痺れる。
 寿くんはジャケットのポケットに手を突っ込み、紺色の小さな箱を取り出した。彼の手のひらに乗っているベルベット調の小さな入れ物、私はそれを知っている。私がこの間見つけてしまったものに違いなかった。

「カッコつけてえと思って、ちゃんと用意したんだぜ」

 彼の手で開かれた箱の中には、キラリと光るリング。私は片方の腕で花束を抱えたまま、思わず空いた手のひらで口を覆っていた。感情は爆発しそうなのに、言葉が全く出てこない。変わりに、壊れてしまった涙腺から涙が溢れてはぼろぼろと落ちていく。
 あーあしょうがねえなあ、と言った寿くんはこうなることを予測をしていたのか、私のショルダーバックをゴソゴソと漁り、取り出したハンドタオルを私の目元に押し付けてきた。
 ぐずぐずになりながら感じることは、うれしくてうれしくてたまらないということ。そしてほっとする気持ちと、うっかり先に目にしてしまっていたことへの罪悪感。寿くんの部屋でその箱を見つけてしまったとき、すぐにピンと来ていた。それでも中身を見る勇気はなくて、見つけてしまったことを告白することなんて出来なかった。

「手、出せ」

 寿くんはそう言うと、私が抱えていた花束をそっと受け取って横に立てかけ左手を取った。こんなに寒い時だって、彼の手はとてもあたたかい。されるがままになっている私の左手の薬指にリングが嵌められる。辺りはすっかり暗くなってしまったけれど、イルミネーションの光が石をキラキラと輝かせる。涙のせいで未だにぼやける視界の中で、それでもまばゆく光るそれは確かに私の薬指に嵌まっている。
 左手が震える。そこから目が離せなくて、呼吸をすることさえ忘れていた。ずっと涙を生産し続ける涙腺だけが、いま私の体の中で唯一稼働している器官なのではないだろうか。
 ピッタリだな、と歯を見せて笑いながらホッとした様子の寿くん。ぎゅっと目を細めたその表情は照れた時に見せる笑顔だ。

「……でよ、答え、聞きてーんだけど」

 そう言われてハッとした。私でよかったらとか、喜んでとか、ふつつかものですがよろしくお願いしますとか、その問いに返事をするための言葉が頭の中をぐるぐると巡り始める。
 断るわけなんかない、決まっている。だけど、だけど。

「……ご、」
「ん?」
「ごめん、なさい……!」

 それなのに、私の口から出てきたのはそんな言葉だった。

「……え!? な、なんでだよ!」

 眉を吊り上げて目を丸くして、あたふたと動揺しながら私の肩をガッと掴んできた寿くんの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。ふるふると首を振り「そういう意味じゃないの、聞いて」と震える喉を必死に制御して、それだけをやっと吐き出すように言った。

「……実はちょっと前にこの箱、寿くんの部屋で見つけちゃってたの」

 私の肩を掴んだままの寿くんは「は?」と口をあんぐりと開けたまま、呆気に取られた様子だ。いつもより深く眉間に皺が刻まれてから、彼は右手で自分の顔を覆った。マジかよ、と吐きだすように出てきた言葉は声というよりも吐息に近い。

「マジか! あーあ、何やってんだよオレ! つーか名前も大概ウソつけねえよな」

 急に笑い始めた寿くんは、おなかを抱えてヒーヒー言いながらひとしきり笑ったあとで「まあオレもだけどよ」と大きなため息をついて、もう一度頭を抱えてしまった。

「あのね、中身は気になっちゃったけど見てないの、私にだったんだっていまわかって、うれしいのとほっとしたので頭のなかぐっちゃぐちゃで」

 まだ震えている左手を抑えるように自分の右手でそっと握りしめながら、ただぽつぽつと言葉を吐きだす。
 本当のことは言わない方がよかったんじゃないか、ずっと抱えていればよかったのでは、と急に後悔の念が押し寄せてくる。それでも寿くんの言う通り、私には演技で驚くなんてことは出来なかった。オレがおまえ以外の誰に指輪渡すんだよ、と低い声でごちる寿くん。

「で、その……結局どうなんだよ」

 顔を上げた寿くんはそう言ってぎゅっと口を結んだ。答えなんてとっくに決まっている。

「私でよければ、これからもよろしくお願いします」

 嵌めてもらったリングに触れる。私のために寿くんが用意してくれたそれは、こちらに向かってキラキラと輝き続けている。

「おい、ちょっとその手でオレの頬っぺた引っぱれ」
「へ……? あ、はい」

 言われるがまま、寿くんのほっぺたとぎゅっとつねってみる。見た目のわりに柔らかいほっぺたなんだよなあ、なんて思っていたら「いひゃい!」と彼が叫ぶ。ぱっと手を離すと「いてえってことは、現実だよな」とぼそりと呟いている。
 はー、と白い息を吐いて胸の辺りを抑えている彼は、空を仰いでゆっくりと目を閉じた。 

「私、これ見つけてからほんとはちょっとだけ不安で辛かった」
「……ツメが甘ぇよなあ、オレって奴は」
「でも、今はすごくすごくすごーくうれしい!」

 大好きな寿くんが私のことをずっと傍においときたいな、って選んでくれたんだもんね。そう口に出して言ってみたら、じわじわと実感が湧いてくる。もう一度、確認するみたいに自分の左手に視線を移してみたら、キラキラ輝くリングは確かにちゃんとそこにある。
 やっと心に余裕が出てきて、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中も整理できてきた。ついニヤニヤと緩んでしまう口元にきゅっと力をいれる。
 すると、次の瞬間、寿くんに力強く抱きすくめられていた。

「え、なになに? どうしたの?」
「わかんねーならおまえは黙って抱きしめられてりゃいーの!」

 心当たりがなさすぎてきょとんとしてしまったけれど、最早そんなことは些細なことでしかない。今はこうして、大好きな人に抱きしめられていることが幸せで幸せで仕方ないのだから。
 そっと彼の背中に腕を回したら、もっと力を入れて抱きしめられて苦しかった。けれど、耳元で「ぜってえ幸せにしてやるから安心しとけ」なんて言われてしまっては、もう胸がいっぱいで息苦しさなんかどうでもよくなってしまう。
 相も変わらず子どもみたいに体温の高い彼のぬくもりを感じながら、まだ潤んでいる視界にはイルミネーションの瞬きがチカチカと眩しかった。


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