44.

(宮城視点)

「それにしても、あの三井が結婚かぁ……」

 感慨深いなぁ、とひとりごとのように言いながら目を閉じてウンウン頷いている木暮さん。
 チャペルの中へ案内されて、新郎側の席に着いているオレが思い出したのは高校時代の頃の事だ。高校一年の冬、屋上にオレを呼び出して囲ってきた不良グループの首謀者こそが三井さんだった。ついでに、そのうちの何人かはまだ式が始まってもいないのに後ろの席でグスグスと鼻をすすっている始末。イカつい成りしてるくせに女々しいったらない。
 イキってるくせに腕っぷしがそんなに強いわけでもなく、ケンカが得意なわけでもない三井さんをボコボコにしてノックダウンしてやったら、案の定今度はオレが周りの奴らにメッタメタにされた。それで二人仲良く病院送り。
 そもそも多勢に無勢だったし、前歯まで折ってやったし、あの時の勝者は三井さんじゃなくてオレだったよな絶対、とか考えながら、もしかしてこれが木暮さんの言った「感慨深い」っていうやつなのではないか、ということに気がついた。
 それからちょっと、いや結構な大事件を起こしたあとでバスケ部に復帰してきた三井さんは、荒れていた二年間を取り戻すようにバスケに没頭した。
 夏のインターハイが終わって、赤木さんや木暮さんは受験勉強の為に部を引退したけれど、三井さんだけは大学へのバスケ推薦を取るために三年でただ一人残った。三井さんは「オレぁよ、そんなに頭悪いわけじゃなかったんだぜ」と言い訳みたいにボソリと言っていた。
 そんなこんなで運良く推薦もぎ取って、無事現役で大学生になったあの人は当時「まあオレは持ってる男だからな!」とか高笑いしてたけど、声が掛かるまでかなりヒヤヒヤしていた事をオレは知っている。
 それで何の因果かオレも同じ大学に声を掛けてもらい、進学して結局高校大学と五年間も一緒のチームでプレイしたというわけだ。

「……まあ、今日だけはめちゃくちゃ祝ってやるつもりッスよ」

 そう言ってからもう一度「今日だけね」と付け足したら、木暮さんに「素直じゃないな、宮城は!」と肩を叩かれる。なんとなくこっ恥ずかしくて鼻の下を指で触ったら、後ろから聞こえてきた「三っちゃん、ほんとに、良かったなあ……!」という野太いすすり泣きのせいでそんなノスタルジックな気持ちは一瞬にして吹き飛ばされた。
 やってくれるぜ堀田番長。


***


(三井視点)

 椅子に座り、膝の上に置かれた自分の手のひらを眺める。何度か指を開いたり閉じたりしてみても、じっとりとした手汗は消えないままだ。
 昨日の夜は全然眠れなかった。早めにベッドに入ったはずなのに、目を閉じても眠りにつけないまま、何度かトイレとベッドを行き来していたらいつの間にか朝だった。それなのに、頭の中は驚くほどにクリアだ。
 試合前みたいに鼓動を打つ心臓、ドクンドクンという音が脳内にまで響いてきて、思わず目をギュッと閉じてぶんぶんと頭を横に振る。そして、それを意識したらなんだかまた下腹部に違和感を感じ始めてしまった。
 高校でバスケ部に復帰してから、試合前に緊張すると必ず腹痛を覚えるようになった。つまり、いまも同じような状況というわけだ。こんな日まで情けない。
 ガチガチになっている自分に心の中で唾を吐きかけながら、手のひらでグレーのスラックスに包まれた自分の腿をバシンと叩いて立ち上がる。しゃーねえ、もういっぺん行っとこう。
 控室のドアノブに手を掛けた時、その向こう側からコンコンとノック音が聞こえた。失礼します、という声に慌てて返事をして扉を開けると、そこには式場のスタッフが立っていた。

「新婦さまのお仕度、整いました」

 そう言われて、今まで感じていた下腹部の違和感が何故かすっと消えていった。じっとりとかいていた手汗が止まって、オレはおもちゃみたいにこくこくと頷きながら「ありがとうございます」とだけ返す。ぺこりと頭を下げて去っていくスタッフの背中をぼんやり見送って、その姿が見えなくなってからようやく思考を取り戻した。
 この部屋の隣の控室には名前がいる。無意識に足が動いて、今まで自分が居た部屋を出ていた。歩数にすると十歩もかからない隣の部屋の前に立ち、思わずごくんと喉を鳴らしてしまう。ここいちばんという場面でやたらと自分が緊張してしまうタチなのだと気づいたのは、そういえば十代の後半の頃だ。
 またじっとりと手汗が滲み始めた右手で拳を作る。ぐっと握ったそれで、目の前の白い扉を二度ほどノックする。
 はい、という思いのほか軽やかな調子の聞き慣れた声が部屋の中から返ってくる。

「あ、えーと、名前、オ、オレだけど」

 なにどもってんだ、と恥ずかしさに思わず頭を掻きむしりたくなったが、すでに髪をセット済みなことを思い出してぐっと堪える。

「寿くん? うん、どうぞ」

 なんでこいつはこんなに余裕そうなんだ。肝が据わってるというか、マイペースというか。やっぱりどっかニブいんだよな、なんて考えつつ、彼女の分まで緊張しているのではないかと思うほどバクバクと脈打つ胸の辺りをぎゅっと抑えて深呼吸。息を吸って、深く吐く。ドアノブに手をかけて捻り、ゆっくりと開く。
 鏡台の前に座る名前は「どうも」と少しだけぎこちなく笑っていた。ゆるく巻いた髪をアップにして、ベールが掛けられている。二人で選んだ白いドレスに身を包んだ彼女は、はにかんだように笑みながら「なんかちょっと恥ずかしいね」と言った。部屋に入る外光で、視界の中にあるすべてがキラキラと輝いているように感じる。

「すげえな」

 ぼろっと零れたひとことめ。「ん?」と目をぱちくりさせながら小首を傾げた彼女。オレのぽかんと開いた口からはただただ言葉が溢れてくる。

「めちゃくちゃ綺麗だ」

 口からこぼれたその言葉に飾り気などはなにもない。どこまでもストレートな感想だった。それが妙に恥ずかしくて、はっと我にかえってから思わず手の甲で口元を覆う。
 彼女はオレのことをじっと見つめながら二、三度まばたきすると、困ったように眉根を寄せてゆっくりと目を伏せた。ふるふると震えるまつげの影がゆらりと頬に影を落とす。なんとなく彼女の頬の赤みが増したような気がしたけれど、それは頬に乗せているチークのせいか、もしくは彼女が照れているからだろうか。

「ちょっと褒めすぎ」

 ぱたぱたと手のひらで自分の首元を扇ぐような動作をする彼女は、いつもより鮮やかな色で彩られた唇をぎゅっと結んでいる。

「オレの奥さんがこんなにキレイで、なんか幸せすぎてしにそうだ」
「もう、あんまり照れるようなことばっかり言わないでってば」

 名前はそう言ってから、胸の辺りに右手を添えて柔らかく目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。それからぱちりと目を開けて、その視線をオレに合わせると小さな声で「でも、ありがとう」と照れくさそうに言った。

「ハハ、なんだよおまえ緊張してんの?」
「そりゃするよ! ってうわあ、寿くんなにこれ、手のひらすごくじっとりしてる! そっちこそ緊張してるじゃん」
「うるせえ! 余裕しゃくしゃくよりいーだろが!」

 勢いに任せてそう言ったら、名前は小さく笑った。本当はいつだってカッコつけた姿だけを見せていたいし、余裕を持って支えてやりたいと思っている。だけど、こいつと出会ってから今まで、そんな姿よりも情けない自分の方がたくさん晒してしまっているのは明らかだ。
 オレという人間は、プライドが高くて負けず嫌いで妥協が出来なくて、認めたくはないが日々の生活において柔軟性があるかといったらそうではないことをうっすらと自覚していた。世間一般的にとても器用とはいえないこの性格を、オレの事を好きになってくれたのが目の前にいる彼女なのだ。どうせもう、ここまできたら取り繕う意味などない。

「……あのよ、改めてこれからもよろしくしてくれたらうれしい」

 一瞬丸く目を見開いた彼女は、ぱちりとひとつ瞬きをしてからその目を柔らかく細めた。

「ふふ、何その言い方。ヘンなの」
「バカ、意味は伝わってんだろーが、茶化すなっての」

 楽しそうに笑う彼女の額をいつもみたいに軽く小突きながら、思わずつられて笑っていた。

「こちらこそ、ずっと傍に居させてください」

 私を選んでくれてありがとう、と付け足した彼女の言葉に、喉の奥がコクンと小さく鳴る。胸の奥が揺さぶられて、ぎゅっと心臓を掴まれるようなたまらない気持ちになった。思わずその肩に触れて、顔を近づける。

「あ、ま、まって! キスはその、まだダメでしょ! 口紅ついちゃうし!」
「お、おお! そっか、そうだよな!」

 無意識にいつもの調子で触れようとしてしまっていた。慌てて体を離し、視線をあちらこちらに泳がせていたら、名前が小さく肩を震わせながら笑い始める。

「ふふ、おっかしい。今まですごく緊張してたのに」

 彼女に言われて気付く、いつの間にか手汗はすっかり引いていた。
 オレたちが出会ったあの日は、夏の終わりと秋の始まりが混ざったような不思議な日差しだった。今日はあの時と同じくよく晴れていて、そのせいかもう何年も前のあの時の光景がついこの間のように脳裏によみがえる。
 オレがあの時ペンケースまるごと忘れるなんてポカをやらかしてなかったら、名前と会話することもなかったんじゃないだろうか。その日に寝坊をして家を飛び出していなかったら、前日の夜に居残り自主練をしてヘトヘトになってぶっ倒れるみたいに寝落ちしてなかったら、そもそもあの講義を取っていなかったら。それでも、きっといつかどこかでオレと彼女は出会って、こうして今に至っただろう。そんな謎の確信がある。

「新郎様、新婦様、そろそろお時間になります」

 コンコンというノックのあと、聞こえてきたその声にオレたちは目を見合わせて笑い合った。立ち上がろうとする名前の手のひらを取る。オレの手なんかよりひとまわりもふたまわりも小さなその手に、今まで何度救われただろう。

「寿くんの手、すごく好き」

 大きくていつも守って助けてくれて、ちょっと力加減がへたくそで、それでもシュートは魔法みたいにぽんぽん決めちゃうすごい手だよね。照れくさくなって「あたりめーだ、オレを誰だと思ってやがる」と返したら、いつもの調子出てきたじゃん、と隣で彼女が笑う。
 あの時、学生だったオレたちは悩んで、流れていく時間の早さに抵抗するみたいに自分の未来を模索して、手探りで不器用に道を探して、いつの間にかここまで来ていた。思えばあっという間だったような気がする。
 初めて手を握った時、その体を抱きしめた時、お互いの思いを通わせた時、少しだけすれ違ってしまった時。何かある度に一緒にいる未来が、そのビジョンが明確になっていった。

「名前はボーッとして危なっかしいから、オレがいねーと困るよな」
「寿くんだって私がいないと寝坊するし、さびしくなっちゃうくせに」

 ああそうだ、おまえがいないとオレはもうダメだろうな、という言葉は悔しいので口には出さないでおく。挫折して自暴自棄になった時も、投げやりだった毎日も、人目もはばからずに流した涙も、がむしゃらに走り抜けた日々も、全部全部繋がっている。
 逃げ出していた頃の苦すぎた思い出と、目が覚めたあとの短くて濃かった最後の高校生活。バスケしかなかったオレにだっていろんな道があるってことにやっと気づけた大学生活。繋いだ手をじっと見つめて固まっていたオレに「どうしたの? もう行かないと」と声が掛けられる。そうだな、と返事をして手を繋いだまま控室を出る。
 またここからスタートだ。よっしゃ、と気合を入れるみたいに声に出して、隣にいる名前に歯を見せてニッと笑って見せたら、彼女は頷くようにやわらかくまばたきをした。
 繋いだこの手を離さない。たぶんもう、とっくの昔にオレの中では決まっていたのだ。名前に出会って、自分のこれからを考えて、それから今があって。ずっとこいつと歩んでいく。それはもうすぐ、覚悟ではなく誓いになる。


(end.)


...Thank you for a lot of love.
And, thanks a lot to all of you.


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