42.

 目が覚めて、部屋に掛けられた時計に目をやる。時刻は六時を少しすぎた頃。ゆっくりと起き上がり、その場でぐーっと背伸びをしてからまだ眠っている寿くんの横をすっと抜け出す。
 今日は土曜日。秋口に雨の日が集中していたから、カーテンを開けて広がっていたすっきりと晴れた外の様子がうれしくて、思わずひとりでニッコリしてしまった。
 顔を洗って着替えをして、とりあえず自分の身なりを整える。洗濯機を回したのち、朝食を作りつつ「そろそろ起きないと遅刻だよ」と今日も朝から部活の顧問として一日忙しく過ごす予定の彼の肩を揺する。
 それでも寿くんは「ウーン」と唸りながらしばらくモゾモゾとやっていたので、ムッとして剥き出しのおでこをピシャリと叩いたら、寝起きでまだ腫れぼったいその目がやっと開いた。向けられた不機嫌な視線に知らんぷりを決め込んで、私は朝食とお弁当作りに戻る。
 大きなあくびをしながら起きてきた寿くんは、腰のあたりをポリポリと掻きながらボサボサの頭で洗面所の方へと向かっていった。これで五分もしたらシャッキリと整った姿でリビングに現れるのだから不思議である。
 平日は授業、放課後にはバスケ部の顧問。毎週火曜日だけは体育館使用の都合でお休みだけど、基本的に土曜日は練習で日曜日は練習試合があったり練習だったり、お休みは時々ある程度。とんでもなく忙しくていつもヘトヘトになっているけれど、寿くんは毎日楽しそうだ。
 いつの間にか身支度を整えていた寿くんと朝のニュースを見ながら並んで朝食を食べる。チーズトーストとベーコンエッグ、それから剥いたリンゴを二切れ。最後に牛乳をコップ一杯飲み干すと彼は立ち上がった。
 今日も頑張って、とお弁当を渡すと「いつもサンキュな」とさっきまでの寝ぼけた様子はどこへやら、もうすっかり三井先生モードになっている。歯を見せて爽やかに笑むその表情。今日も今日とて悔しいぐらい凛々しくて男前だ。立ち上げた前髪のせいで惜しげもなく見える額はさっき私にピシャリと叩かれていたというのに。

「名前」

 玄関でスニーカーを履いた寿くんはすっと立ち上がると、くるりとこちらに向き直り私の名前を呼びながら「ほら」と両手を広げた。

「へ?」
「バカ、わかれっての」

 そう言うと、寿くんは私の腕を乱暴に引っ掴んで自分の方へと引き寄せ、強い力で抱きしめてきた。くるしい! と背中をバシバシ叩いてみたけれど、彼にはまったく効いていない様子だ。プロレスの締め技かなにかではないのかと思うほど強烈なハグ攻撃。うれしいよりも、どちらかというとやっぱりくるしい気持ちの方がつよい。先生になってから毎日体育の授業と部活で動き回っているせいか、学生の頃よりも寿くんの体はより逞しくなった気がする。

「チャージ完了、じゃあ行ってくる」

 ようやく私を解放してくれた寿くんは、満足した様子でニッと笑って出て行った。私はというと、抵抗したせいですっかりヘトヘトになってしまっていた。それでもそれを心の底からイヤだと思っているわけではない私がいるわけで。全く、自分で自分に呆れるばかりだ。あんなに強くしないで、もっとふわっとした感じにしてくれたらいいのに、とは思うのだけど。
 窓を開けて掃除機をかけて、回していた洗濯機から衣服を取り出してカゴに入れる。湿度の低いカラッと晴れた秋らしい気候がうれしくて、ベランダで大きく伸びをしながら深呼吸をしたらとても気持ちがよかった。洗濯物を干しながら、次はあれをして、そのあとこれをして、と頭の中で家事の順番を整理してみる。
 一週間仕事をしてから目覚めた土曜日の朝がこんなに素敵な天気だと、心も晴れやかになって充実した一日を過ごさなきゃ! という気持ちが強くなる。
 そうだ、せっかくだからシーツとタオルケットも洗おう。そう思い立ち、洗濯カゴを抱えてもういちど洗濯機を回すべくベランダから寝室に向かおうとした時だった。ちょうどリビングのテーブルの上に放りっぱなしだった携帯電話が鳴っている。画面には「寿くん」の文字。いったいどうしたのだろう。

「ワリィんだけど、今日持ってく予定だった書類忘れちまってよ。いまから戻るから出しといてくんねーかな」

 しょうがないなあ、と返事をすると「頼んだ! サンキューな!」と切羽詰まったような声が返ってくる。事故起こしたらイヤだから安全運転で戻って来てね、と声を掛けて通話を切る。彼が出て行ってから十五分くらいだから、それぐらいで到着するだろう。
 机の上にA4の茶封筒がある、と寿くんは言っていた。彼の自室に入ると、一番最初に目に入ったのは煩雑な仕事用机だった。書類やらバスケットの雑誌やらが積まれ、ハンガーラックからはジャージがずり落ちている始末。
 家に仕事を持ち帰ることも多いから、なるべく気を散らさないように彼の部屋にはあまり手をつけないようにしてるけれど、さすがにこれは整えたいとうずうずする気持ちが抑えきれなかった。そうだ、このジャージもまとめて洗濯しちゃおう。かかってるスーツもクリーニングに出しちゃっていいかもしれない。どうせ彼は授業参観の後の懇親会や教員の研修、部活の公式戦などでしかスーツを着用することはない。今にもハンガーから外れてずり落ちそうになっているスラックスを持ち上げて、手でパンパンと小さな埃を払いながら、目に入って来たのはそのスラックスの下にあった小さな紙袋だった。
 なんだろう、これ。黒いしっかりした作りの紙袋。金色の箔押しの文字。ちらりと中をのぞいてみると、白い封筒と紺色の小さなベルベット調のケース。
 目を細め、顎に手をあてながらその紙袋の文字を読む。洋風で、それでいてシンプルなその店名はどこかで目にしたことがある気がする。そこではたと気付く。そして中に入っている紺色のケースの正体。さすがの私にだってそれが一体なんなのか、紙袋に入っているそのケースの意味が、そしてその中に入っているであろうものが容易に予想できてしまった。

「えっと、えええ……!?」

 全てが繋がって、思わず口から声が漏れ出ていた。急に力が抜けてしまい、しゃがみこんで体育座りをしながら膝に頭を埋めて頭を抱える。
 どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。これは絶対に見つけちゃいけないし、見ちゃダメなものだった。でもスラックスをあんな風にクッタリ掛けてたらシワになっちゃうし、寿くんも隠す気があるならもう少しちゃんと隠してほしいし、っていうかクローゼットとかそういうところに入れておけばいいのに!
 いやいやいやいや、違う。なんで彼に非を押し付けているんだ。そもそも私が勝手に片付けてしまおうとかいらないおせっかいを焼いちゃったから見つけてしまったわけであって。そう思ったら、申し訳なさと不安で目の奥がじわっと熱くなってきた。私、なにやってるんだろう。こんなことぐらいで泣きそうになっている自分が情けない。

「名前!」
「わひゃあ!」

 放心していたところで聞こえてきたのは私の名前を呼ぶ彼の声。思わず変な声を上げてすっ飛んでしまった。破裂しそうなほどバクバクしている胸の辺りをおさえながら、急いで茶封筒を引っ掴んで玄関へと向かう。

「どした、なんかヘンな顔してっけど。つーか目赤いぞ?」
「し、してないよ!? えーと、掃除機! 掃除機かけてたらホコリでむせちゃって!」

 寿くんは訝しげな表情で「気をつけろよ」と言いながら茶封筒を受け取ると、私の頭にポンと触れてまた出て行ってしまった。その背中にもう一度小さく「いってらっしゃい」と声を掛けながら、閉まったドアに私の吐いたため息がぶつかる。
 ごめんなさいの気持ちと、得体の知れない複雑な感情で心の中がいっぱいいっぱいで、さっきまでやる気満々だった家事へのモチベーションはすっかり消え失せてしまっていた。
 

 ***


「指輪見つけちゃったぁ!?」

 そう声を上げた彩子ちゃんに「し、しずかに!」と言ってみたけれど、ここは私の家の中なので多少声が大きかろうと誰も気にしないことがすっかり頭から抜け落ちていた。
 あの紙袋と小さなケースを見つけてしまってから一週間。ずっと心にモヤモヤを抱えていたけれど我慢できなくて、ちょうどうちに遊びに来てくれていた彩子ちゃんにその話を伝えてみたのだ。意を決してカミングアウトしたせいか、ぎゅっと組んだ指の間と手のひらにじっとり手汗が滲む。

「三井先輩ほんっとダメですね、ツメ甘すぎでしょ」
「ううん違うの、私がいらないことして見つけちゃったから」
「まあとにもかくにも、それ十中八九エンゲージリングですよ」

 真正面からストレートに言われて、私は思わず「うっ」と呻いて下を向いた。落ち着かなくてアイスティーの入ったグラスをストローで転がすと、カラカラと氷の音が涼しげに響く。

「わ、わたしのじゃないかもしれないし」
「なに言ってるんですか、んなわけないでしょ! どんだけネガティブなの!」

 それにそもそもあの三井先輩ですよ、名前さんも知っての通り不器用でバカ正直でウソがつけない猪突猛進男が同棲までしてる名前さん以外の人に指輪渡すってありえないですからね! と彩子ちゃんは一息でまくしたてるように言い放つ。
 もちろんわかっている、寿くんはそういう人だ。私とのことを真剣に考えていてくれたことがすごくすごくうれしいのに、だからこそそれを先に見つけてしまったことが悲しくて悔しくて、察してしまった自分がゆるせなかった。
 ほんとうは心の底から喜びたかったし、心の底からびっくりしたかったのに。

「ふふ、でもアタシ、ちょっと安心しました」
「安心?」
「だって三井先輩と名前さん、付き合ってもう四年ぐらい経つでしょう? 同棲して二年過ぎて、そろそろそうなってほしいなって勝手だけど思ってたから」

 そうなってほしい。彩子ちゃんの言ったその意味が分かって、私はついつい自分の両手で両頬を抑えるように触れていた。頬が熱い。
 寿くんの頑張る姿を、キラキラ輝くその様子を横で見ていたい。支えてあげられたらいいのにと、ずっとそう思っていた。忙しく過ごしていはいるけれど、二人で過ごす毎日が幸せで、こんな穏やかな日々がずっと続いていってくれたなら。それ以上の願いは私にはないと、そう思ってさえいた。

「はあ、なんで見つけちゃったんだろ……」

 名前さんがヘコむことないですって! と身を乗り出した彩子ちゃんがテーブル越しに私の肩をポンポンと軽く叩いてくれる。

「ほんとに指輪だと思う? 勘違いかもしれないよね?」
「なに言ってんですか。なんならアタシがいまここで中身確認しますけど」
「だ、だめ! ぜったいだめだから!」

 んもー冗談ですって! といたずらっぽい笑みを浮かべながら言う彩子ちゃん。声のトーンが結構本気のそれだったような気がしたけれど、気付かなかったことにしよう。
 話を聞いてもらったことで少しだけ気持ちが軽くなった気がしたけれど、やっぱり心の奥に居座り続けるモヤモヤはこの秋の空みたいにそう簡単には晴れてくれないみたいだ。



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