41.

 同棲しようと提案されてから、物事は驚くほどとんとん拍子に進んだ。

「とりあえず、まずは名前の親に挨拶しに行かねえとだな」

 そう言い出したのは寿くんの方だった。私の母と寿くんは以前顔を合わせたことがあったし、何やら二人で話し込んだ様子だったから私は変に改めて挨拶に行かなくてもいいのにと思った。
 しかし、彼は「オレがおまえの親父なら娘が同棲しようとしてる相手が顔見せに来ないなら認めねえ」と腕を組み、憮然として言い切った。
 それじゃあ私も寿くんのご両親に挨拶に行くべきではないのかと言うと「まあ……それはまた今度っつー事で」と濁されてしまった。
 そんなこんなで都合を聞くべくお母さんに電話をしてみたら、いつもの調子で「なんだ、あんたたちもう勝手に同棲してるもんだと思ってたわよ」などと言われたものだから私は思わず絶句した。しばらくフリーズしてしまった私の耳にはカラカラ笑う声が聞こえていて、やっと我に返って否定する。

「してないってば!」
「わかってるわよ、からかっただけ。全く、あんたも三井くんも相変わらず真面目ねえ」

 電話口の向こうで楽しそうな声を聞きながら、私はもう!と声を上げるしかなかった。
 もともと寿くんのことを気に入ってた私の母は「彼なら安心ね」と笑い、話を聞かされていたらしい父もつっぱねることなどもちろんなく、同棲することをすんなりと許可してくれた。今まで見たことないほどにガチガチに緊張した様子だった寿くんは、無事に挨拶を終えて私の実家を出た瞬間、低い唸り声を上げてしゃがみこんだ。

「だいじょうぶ? 疲れたよね?」
「ナメんな、こんぐらいへっちゃらだっての」

 あと百回は余裕だね、とか言いつつ、いつもより覇気がない声につい笑みをこぼしてしまったら、ムッとした寿くんは立ち上がって私の額を小突いた。いたい! と額を抑えた私を勝ち誇った顔で見遣りながら、彼はぐっと背伸びをする。

「これで筋通せたし、部屋探し始められるな」

 寿くんの職場である高校と、私の職場の中間あたりで部屋を探すことになった。ついこの間引っ越しを終えたばかりで、荷造りをしたときも荷ほどきをしたときも、出来たら引っ越しはあまりしたくないと思っていたのに。今はこれからの未来を楽しみに思う気持ちが大きくなるばかりで、荷造りだろうが荷ほどきだろうがかかってこいという感じだ。
 寿くんの仕事部屋が絶対必要であると提案したのは私だった。きっと仕事を家に持ち帰らなければいけないことも多いだろうし、ちゃんと仕事モードに切り替えられる空間は必須だと思ったからだ。私はリビングと寝室があればいいし、特に自室の必要性を感じていなかった。あえて希望を言うならば、お風呂とトイレは別がいいということぐらいだ。
 そして、まだ残暑厳しい九月の半ば。ちょうど二年前に私たちが出会ったのと同じ季節に同棲生活が始まる。
 社会人になってから半年も住まなかった部屋を出る時、大学時代を過ごした部屋を離れる時のような寂しさは微塵も感じなかった。むしろ、今日から始まる毎日にわくわくが止まらない。引っ越し業者さんのトラックを見送って電車に乗ってからも、緩んだ口角が無意識に上がってしまうのを堪えるのが大変だった。
 これから始まる毎日にいつも寿くんがいる。そう考えるだけで、どんなに大変なことがあっても何が起こっても頑張れるような、そんな気がした。


***


 新しい生活を始める部屋は九階建てマンションの七階だ。駅から十分ほど歩くけれど、これぐらいなら全然許容範囲内だし、通り道には二件もスーパーがある。そしてそこそこ人通りの多い道を通ること、街灯がちゃんとある明るい道であるということも重要だった。
 エントランスを抜けると、住人らしい大柄な男性がエレベーターが降りて来るのを待っている様子だった。彼の手元にはビニール袋が下がっている。
 これから顔を合わせることもあるだろうしちゃんと挨拶しておこう、と意を決した瞬間、振り向いたその人とバッチリ目が合った。寿くんも背が高い方だけど、目の前の彼はそれよりももっと、もしかしたら魚住くんぐらいあるかもしれない。私は彼の迸らんばかりの存在感に圧倒されつつ、小さく「こんにちは」と言いながら頭を下げる。彫りが深くて、ちょっぴり威圧的な雰囲気をまとったその人は「どうも」と会釈を返してくれた。
 この人、どこかで見たことがあるような気がする。もう喉元まで出てきているのに、どうしても思い出せない。スッキリしない気持ちを抱えていたら、エレベーターが一階に降りてきていた。大柄なその人は先に乗り込むと、気を利かせて「何階ですか?」とこちらに聞いてくれた。どうやらこわい人ではなさそうだ。人を見た目で判断しちゃいけないのに、おびえてしまってごめんなさい、と心の中で反省の言葉を唱えつつ「七階です」と返事をする。

「………あの、もしかして三井の」
「へ?」

 その人の口からまさか寿くんの名前が出るとは思わず、私は間抜けな声を上げてしまった。彼は「赤木と申します。三井とは高校時代に同じチームでバスケをやっていて」と続けた。
 ぽかんとしながら瞬きを繰り返していた私は、彼が誰なのだかということをやっと思い出した。見たこともあったのにどうしていままでピンと来なかったのだろう、これだけ目立つ人なのに。自分のぼんやりさと間抜けさにはしばしば嫌気が差す。

「あ、えと、ごめんなさい! 苗字名前です。すみません、ご挨拶が遅くなりまして」
「いえいえこちらこそ」

 そう言って笑んだ赤木くんが頭を下げると、ちょうどエレベーターが七階に到着した。
 挨拶をしたことはなかったけれど、そういえば大学の試合で何度か見かけたことがある。それに、赤木くんは高校時代のあの試合でもひときわ存在感を放っていた。魚住くんからも話を聞いていたし、寿くんや宮城くんの口から何度も彼の名前を聞かされていた。寿くんは「あのゴリラ」だとか暴言を吐くことが多かったけれど、赤木くんは見てくれの割りに物腰が柔らかくて、今や怖そうとは微塵も思わなかった。
 そんなことより、どうして赤木くんがここにいるのだろう。
 エレベーターを降りて右手へと進み、ふたつ目の部屋こそが今日から生活の拠点となる場所だ。もう寿くんは着いているはずだ。ドアノブに手を伸ばした瞬間、それとほぼ同時に扉が開いたので私は思わず「うわあ!」と声を上げてしまった。

「あ、す、すみません! ……って、もしかして苗字さん?」

 はい、と私は頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら返事をする。
 眼鏡を掛けたその人は「ああやっぱり!」と言って人の良さそうな笑顔を浮かべると、私と赤木くんを交互に見やり「木暮です」と名乗った。その名前を聞いてすぐにピンと来た。目の前にいるこの人も、横にいる赤木くんと同じく寿くんの同級生で、湘北高校バスケ部OBで。確か教員実習も一緒になったと聞かされていた。

「やっと挨拶できて良かったよ。おーい三井、苗字さん着いたぞ!」

 木暮くんが部屋の奥の方に声を掛けると、リビングのほうから「おう」と言いながら寿くんが顔を出した。彼は頭にタオルを巻き、手には軍手を付けてすっかり仕事モードである。こうしてみると高校の先生というよりも、どこかの土建屋さんのように見える。
 ていうか、赤木くんや木暮くんに引っ越しのお手伝いしてもらうなんて全然全く聞いてなかった。言ってくれたらちゃんとお礼とか用意できたのに。

「あっ、名前さんだ!」

 聞き慣れたその声に振り向くと、ちょうど宮城くんが部屋に入ってきたところだった。彼は相変わらず人懐こい笑みを浮かべながらヒラヒラと手を振っている。

「宮城くん!」
「久しぶり。あれ、名前さんちょっと痩せた? 仕事キツい?」

 そんな風なことを梅雨の半ばに寿くんにも言われた。苦笑しながら「大丈夫だよ」と返事をする。そんならいいけど、とまだどこか心配そうに私を見遣る宮城くんの優しさが嬉しい。

「荷物もう来てんぞ。勝手に開けるのもアレだと思ってまだ手付けてねえけど」
「うん、自分で開けるから大丈夫だよ」

 柔らかく目を細めた寿くんがすっとこちらに手を伸ばしてくる。しかし、ハッとした様子でその手を引っ込めると、ゆっくりと自分の腰に戻してしまった。おそらく、いつもの調子で頭を撫でてくれようとしたのだろう。しかし、周りに見知った友人らがいることを一瞬忘れかけたのだと思う。なんとか取り繕おうとしている寿くんのために、私は気づかなかったふりをして自分の荷物と向き合うことにした。

「よし、とりあえずこんなもんか。サンキューな、じゃあとりあえずこれ持って外でメシでも食ってこい」

 そう言うと、寿くんは宮城くんの手を乱暴に引っ掴んで、その手のひらにお札を握らせた。ゴチでーす、と言いながら宮城くん、赤木くんと木暮くんが部屋を出ていく。私は彼らに小さく頭を下げながら部屋をでていく三人の背中を見送る。
 まだ部屋は段ボールだらけだけど、早急に必要そうなものと大きいものは出したし、あとはこまごましたものばかりだから二人だけでもなんとかなるだろう。持ってきたお皿を開けて新しく購入した食器棚にしまいながら、それを手伝ってくれた木暮くんからこっそり聞いた高校時代の寿くんの話はとても興味深くて、私の手はしばしば止まってしまった。
 寿くんはというと、赤木くんと段ボールを開けながら、お互いに何やら毒づき合いつつも楽しそうにしていて、宮城くんと話している時とはまたちがう様子が見られて新鮮だった。
 大きく息を吐いてから、寿くんはまっさらなフローリングの上に仰向けになる。私はその横にしゃがみこんで「お疲れさま」と一言。寿くんは寝転がったまま、頭に巻いていたタオルを外す。そしてこちらをじーっと見つめていたかと思うと、ちょいちょいと手招きをしてきた。私は首をかしげながらなんだろう、と顔を寄せてみる。

「これから毎日一緒だな」

 つい半年前まではほとんど毎日顔を合わせていたから、そうじゃなくなってからやっと気がついた。知り合ってから卒業するまでのたった一年と半年の時間だけで、寿くんがいて当たり前の存在になっていた。傍にいられないことが、すぐに会えないことがこんなにつらいだなんて思わなかった。
 大学に入った頃は、初めてのひとり暮らしと始まる新生活にわくわくしていたし、やる気に満ち満ちていた。実家を離れた心細さは多少あれど、なんとかひとりで頑張れていると思っていたし、実際そうだったと思う。
 だけど寿くんと出会って、私はいつの間にかどうしようもなくさびしがり屋になってしまったみたいだ。やっぱり私ばっかり彼のことを大好きなようで悔しい気がしてきた。剥き出しになっている寿くんの額を人差し指で小さく弾いたら、彼は「いきなり何しやがる」と不満そうに唇を尖らせた。

「大学の頃に戻ったみたいだね」
「今思えばオレ、名前の部屋に入り浸りすぎだったよな」

 大学を卒業して、アパートを出て、就職して。会社の勤務地に近い家を借りたのに、ものの半年でまた引っ越し。忙しなくて落ち着かなくて大変だったけれど、横でぐーっと体を伸ばしている寿くんを見ていたら「まあ、しあわせだからいっか」と思えて、私は込み上げてくるうれしさを隠さずに小さく笑った。
 ダンボールに囲まれている部屋はまだまだ殺風景だし落ち着かないけれど、きっとすぐにここが心安らぐ場所になる。これからは毎日彼が傍にいるのだと思えば、ちょっとぐらいつらいことや大変なことが起きたとしても頑張って乗り越えられるような気がした。

「これからはよ、帰ってきたらいっつも名前がいんだよな」

 そう言うと、寿くんはむくりと起き上がり、胡坐をかいて自分の顎に手をあてた。眉間に皺を寄せ、口をきゅっと結び、何やら神妙な面持ちでうーんと唸っている。

「………最高だな」

 ものすごく真面目な顔でそんなことをいうものだから、照れる気持ちとうれしい気持ちが混ざりに混ざって私はきっとへんな顔をしてしまったと思う。
 他人と一緒に同じ家で暮らしていくということがどれだけ大変なことか、しあわせで楽しいだけじゃないということはなんとなくわかっているつもりだ。これからきっと身をもってその大変さを知るだろうし、問題を見つけるたびに二人で解決していかないといけない。
 それでもきっと、私たちは変わらずにお互いを思いやりながら過ごしていけるだろう。何かあってもきっと解決できる。そんな不安なんかよりも、これからに期待する気持ちのほうが比べられないぐらい大きい。
 さっきの寿くんみたいに、私も床にごろんと寝そべってみる。背中にはかたくてひんやりとしたフローリングの感触。この床にはどんな色のラグを選ぼうか。視線の先には今日からお世話になる部屋の天井。周りは段ボールだらけ。懐かしくてドキドキするこの感じは初めてひとり暮らしを始めた時によく似ている。

「なあ、名前」

 そう言って、隣に座っていた寿くんが私の視界を遮った。真上を向いて寝そべっている私の視界には、さっきまで見えていた天井じゃなくて彼の顔。
 どうしたの、と言う前におりてきた唇がそっと私の額に触れる。思わずきゅっと目を閉じてそれからゆっくりと開ける。そこには柔らかく微笑んでいる寿くんがいた。彼は小さく、そして軽く私の耳や頬や鼻の頭にキスを落としていく。それがくすぐったくて、むずむずするのに無性にしあわせで、気付いたら私に覆いかぶさる彼の腕にぎゅっとしがみついていた。
 これからまた近くにいられる。学生の時よりももっと傍にいられるんだと思ったら、胸がぎゅーっとなってしまった。どうしよう、このままじゃ私、どうにかなっちゃうかもしれない。相も変わらずネガティブ思考な自分がひょっこりと顔を覗かせて「もうこれ以上の良いことは起こらないかも」という言葉を吐き捨てるけれど、それでもいいやと思えてしまう。
 それしか考えられなくなるぐらい大好きになった人が私のそばにいる。それ以上のしあわせなんて考えられないし、今この瞬間だけで充分すぎるほど贅沢だ。寿くんのぬくもりと重みを感じながら、その背中をぎゅっと抱きしめる。首筋に彼の吐息が当たって、唇が肌に触れたらくすぐったさに体がビクリと反応する。

「三井ー! 苗字さんー! 戻ったぞー! さあもう少し頑張ろう……って……!?」

 ガチャ、と玄関のドアが開いて、朗らかな木暮くんの声が耳に届く。ぽやぽやしていた私の意識は彼の声で一気に現実へと引き戻された。甘い雰囲気がサッと引いていって、驚きと恥ずかしさで心臓がドクドクと鳴り始める。
 バッと起き上がり、焦った様子で木暮くんと私を交互に見る寿くん。私はというと、寿くんから勢いよく体を離したせいで壁に頭を強かに打ちつけてしまい、声にならない悲鳴を上げて頭をおさえている。

「三井さん、カギ掛けといてくださいよ……」

 続けて、呆れ返った宮城くんの声が聞こえてきたけれど、恥ずかしさのあまりその表情を見ることが出来なかった。私は仰向けになったまま頭をおさえていた両手を離して今度は顔を覆う。こんなに早く帰ってくるなんて。きっと寿くんも同じような言葉を頭の中で繰り返しながら動揺しているに違いない。

「どうした木暮、それに宮城も。三井がどうかしたのか?」
「あー、えーと赤木! その、うーん、もう少し外出てようか! な、そうしよう!」

 慌てて取り繕う様に言う木暮くん。どうやら赤木くんには状況が伝わっていないらしく、少しだけほっとした。ごめんなさい、木暮くん。今度なにかお礼とお詫びをしなくちゃ。やっと玄関の方へ視線を向けると「落ち着いたら電話して」と携帯をチラつかせながらジェスチャーを送ってくれている宮城くんがいて、私はコクコクと頷いてみせる。
 バタン、と再び扉が閉まって、外に三人の気配がなくなると、寿くんと私はほぼ同時に深く息を吐きだした。

「迂闊だった……」

 背中を丸めて項垂れた様子の寿くんが呟く。
 未だにジンジンと痛む頭頂部をおさえながら、すっかり力の抜けきった体を起こすと、眉間に皺を寄せながら目尻を少しだけ紅潮させた彼と目が合った。そうしたら、何故だか込み上げる可笑しな気持ちにあらがえず、どちらともなく笑い出してしまった。それはお腹が痛くなっても止まらなくて、涙が滲むほどひとしきり笑い合い、収まった頃にはまだ荷解きが残っているというのにヘトヘトになってしまっていた。
 それでも、それさえも私たちらしいと思えてしまった私はやっぱりいささかマイペースが過ぎるのかもしれない。


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