32.

 じっとりとした湿気が体に纏わりつくようになってきた六月。四月に前期が始まって、ざわざわとしていた学内も、二ヶ月も過ぎる頃には徐々に落ち着いてきている。
 目の前にあるノートパソコンのキーボードを指で叩きながら、喉の渇きを感じてペットボトルに手を伸ばす。昼過ぎ、ちょうど三限半ばのカフェスペースに人はまばらだ。気付けばパソコンと集めた資料や文献なんかとにらめっこをし始めて、既に二時間以上が経過していた。

「無我夢中になってたら、時間の流れって早いよな」

 寿くんの言った言葉が頭の中に蘇る。ただ何もなく、何を考えるわけでもなく、毎日を過ごすだけならば、時間の流れなんか気にならないかもしれない。したい事とか、やらなくちゃいけない事があればあるほど「もっと時間があったらいいのに」と思うようになる。
 そう寿くんがひとりごとみたいに呟いたのはちょうど一週間ぐらい前のことだった。そんな彼は今、母校である湘北高校での教育実習に臨むために実家に戻っている。

「一か月もオレがいねーとさびしいだろ?」

 いつでもメールとか電話していいからな、と歯を見せてニタリと笑う寿くん。その自信過剰な笑みに対して頷くことが悔しかったので「べつにそんなことないよ」と言い返してやった。

「んだよ、かわいくねーな。素直になれっての」

 そう言うと、私の頭をぐしゃぐしゃにしてくる。
 秋に知り合ってから、後期の間は授業の関係で週に一度は顔を合わせていたし、お付き合いを始めてからはもっとだ。さびしくないというのはウソで、もちろんこれは私のちょっとした強がりである。
 でもこれは寿くんが選んだ道で、その為の大事な時期だ。私のことなんて気にしないで、限りある一ヶ月を充実させてきてほしいと心の底から思う。だから、ほんの少しでもさびしいと思ってしまった自分が恥ずかしくて、ちっちゃい子どもみたいな感情を抱いてしまったことを口に出したくなかったのだ。
 その時の事を思い出しながら、また自分がぼーっと呆けて手も思考も止めてしまっていたことに気がつく。寿くんはきっと今頃、すごくすごく頑張っているだろう。私も負けずに頑張らなきゃ。口をぎゅっと結んで、ひとりで小さく頷いてみる。
 置いたままの携帯電話が鳴ったのは、ちょうどそんな時だった。


 ***


(三井視点)

「それにしても、三井と一緒に実習になるとはなあ」

 どういう意味だそりゃ、と勢いで返しそうになったけれど、寸でのところで口をつぐんだ。
 この湘北高校に通っていた頃のオレはとてもとても教職を目指すような生徒じゃなかっただろう、それは認める。
 三年の春まで真面目に学校に通ってなかった上に、教師たちからは煙たがられるような生徒だった。バスケ部に戻ってからもすぐに受け入れられたわけではなかったし、勉強だってついていけないわクラスメイトからはしばらく遠巻きにされるわで散々だった。まあ、そんなのはすべて自業自得なのだが。

「あのなあ、それもう初日にいろんな先生らから言われてんだよ。耳タコだっての」

 はは、悪い悪いと言いながら笑っているのは木暮だ。高校時代の同級生で、同じバスケ部で汗水垂れ流した仲である。ヤツも大学に進学しバスケを続けている。
 リーグ戦では度々顔を合わせているし、ちょくちょく赤木を含めた三人で飲みに行くこともあるのであまり久しぶり、という感じはしなかったりする。ちなみにこいつはかなりザルで酔っぱらった姿を見たことがない。
 まさかお前が実習に来るなんて思わなかったと、高校時代のオレを知っている教師たちには散々言われた。そうッスかね、と返しながらムッとしそうになるのを堪える度にだんだんと無心になってきた。
 もう卒業してから三年も経っているし、最後の一年は部活に復帰して授業も真面目に受けるようになった。だからオレがしょうもないヤツだったのはもう四年も前の事だぞ、と声を大にして言い返してやりたくなったが、それだけ教師たちの間では不良時代のオレの印象が強かったということだろう。それもこれも誰でもない自分のせいだ。自業自得なのだから仕方がないと心の中で繰り返す。そうだ、もうあの頃のオレじゃねえって見返してやりゃいいだけだ。
 教育実習が始まって一週間が経った。授業中は担当教員の補助、空いた時間に次の日の授業計画を立て、最終週の研究授業の準備をする。放課後にはバスケ部の練習にも顔を出していた。
 そんなことをしていると一日なんかあっという間に過ぎていく。実家に帰ればメシがあって、何を言わずとも洗濯をしてもらえている有難さを噛みしめて、そうこうしているうちに電池が切れたように眠ってしまっていた。初日なんて、出された夕食を食べながら船を漕いで「食べながら寝ないの!」と母親から言われてしまう、なんてこともあった。

「三井は教えたりするの、上手かったもんな。桜木とかに指導してたろ? 態度はあれだけど面倒見もいいし、口悪いけど周りに人は集まるし」
「褒めてんのかけなしてんのかどっちだよ」
「え? どっちもかな」

 そう言って、木暮はオレの肩を叩きながらさわやかに笑う。さらっと毒吐きやがって。
 あの頃使っていた男子バスケ部の部室ではなく、教員用の更衣室で実習用に着ていたジャージから練習用のTシャツと短パンに着替える。
 一部例外はあるとして、バスケをやってる高校生なら誰もが知っている山王工業高校に勝利するという功績を残してから、あまり人気のなかったウチのバスケ部にはドバッと入部希望者が増えたらしい。オレらが卒業したあとの春、すでに新キャプテンになっていた宮城がてんやわんやだと言いながら嬉しそうだったのを思い出す。

「ウソみたいだよな、オレたちの代まで部員なんて二十人にも満たなかったのに」

 今の湘北バスケ部にはもう一緒に練習をした奴らはいないし、安西先生もいない。それでもここまで大きくなったこの学校の名前をこのまま廃れさせたくはなかったし、神奈川の強豪と呼ばれ続けてほしいと思っている。

「三井ってさ、自分のことに関してはすごく不器用だけど、与えるのはすごく上手いよな」

 体育館に向かうまでの道で、木暮がポツリとそう言った。その意味がよくわからなくて、オレは思わず眉根を寄せて隣を歩くその顔をちらりと見やる。与えること、という言葉が自分の中でピンと来なかったからだ。

「中学の時も、それこそバスケ離れてた時だって周りに人が集まってただろ? 自分から外に与えるっていうか……ええと、空気を変えるとかそういうことかな。そういうのができる奴らの集まりだったよな、オレたちが居た頃の湘北バスケ部って」

 木暮はそう言うと「だからなんかしっくりくるよ、三井が色々教える立場になろうとしてるのがさ」と続けた。その言葉を聞きながら、自分の耳の辺りがじわじわと熱を持ち始めていることを認めたくなかった。オレ自身を肯定するその言葉がムズがゆくて、隣を歩く男が当時のあれやそれやを知っているということが余計にそれを煽る。

「なんだよいきなり! カユくなんだろうが!」
「まあまあ、照れるなって」
「はあ!? ちげーわ!」

 自分がそちら側の立場になりたいと思うようになるなんて、自分自身が一番驚いている。根本的なところは変わらなくても、価値観っていうのは経験とか些細なきっかけで変わっていく。それが恩師の何気ないひとことだったり、周りの奴らのブレない姿だったり、大切だと思う存在が背中を押してくれる言葉だったり。
 あの時、この場所にいたオレにはバスケしかなかった。オレからバスケを取ったらなにひとつだって残らないと思っていたし、たぶん実際にそうだった。でも今は、いつのまにかそれだけではなくなっていると思う。
 考えて考えて指導するのは面白いし、教え子たちが成長していく姿を見ているのがこんなに楽しいだなんて知らなかった。安西先生はきっと、桜木や流川なんかをこんな感じで見ていたのだろう。先が見たくなって、そのもっと向こう側の可能性を信じたくなる。今ならなんとなくだがその気持ちがわかる。

「あの夏から、もう四年も経つんだな」

 何度も歩いた体育館までの廊下を、こうして当時の仲間と歩いているのは不思議な気分だ。何も変わらないようでいて、きっとあれからお互いに色々変わったはずだ。まだ十代で、大人や親に保護される立場で、自分のことだけ考えていればよかったあの頃。高校を卒業して、実家を離れてひとり暮らしを始めて、いつの間にか成人して、酒が飲めるようになった。

「そうそう、おまえが荒れてた二年間なんて微々たる時間だよ」
「ちょいちょい人の傷口抉んじゃねえよ」

 握った拳で木暮の脇腹を軽く小突く。体育館に入ると「チュース!」と現バスケ部の面々から声を掛けられる。今日もよろしくな、と声を掛けながら、気合を入れるようにバスケットシューズの紐を結んだ。


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