33.

 ノートパソコンに向かいながらうつらうつらしていた頃、急にテーブルの上で震えた携帯のバイブレーションにハッとして覚醒する。手の甲でごしごしと目をこすり、携帯を開けると画面に表示されているのは彼の名前だった。瞬間、ぱっと目が覚める。なんて単細胞なんだろう、私って。そう思いながら通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。

「そろそろオレの声聞きたくなってさびしーって泣いてねえかと思ってよ」

 もしもし、と応じる前に聞こえてきたのは、冗談めかした寿くんの声。久しぶりに声が聞けてうれしい気持ちと、そしてほっとする気持ちで、ついつい目の奥が熱くなって鼻の奥までつーんとしてしまった。

「実はさびしかったかも」

 思わず零れたその言葉に自分でも驚いて、電話だというのについ口元を手で隠していた。なに言ってるんだろう、たかが三週間ぐらいなのに。ちょこちょこメールのやりとりはしていたけれど、おそらくとても忙しくしているであろう彼の時間を邪魔するのが申し訳なくて、こちらから通話するのは控えるようにしていた。

「ご、ごめん! 違うの! その、ええと」
「ふーん、そうでもなかったってことか」

 間髪入れずにそう切り返されて、思わず「うっ」と呻いてしまった。

「……さびしかったです」
「うむ、素直でよろしい」

 あと二日で帰るからよ、そしたら存分に甘えていいぜ、なんて言いながら笑う寿くんの声を聞きながら、私は小さい声でモゴモゴと「うん」と返事をした。なんだろう、なんかこれ、ものすごく悔しい。
 ほとんど毎日のように顔を合わせていたからか、ぱたりと会えなくなると自分が驚くほどに虚無感を感じていることに驚いた。たった一ヶ月無いくらいだったのに、こんなに自分の生活が色あせた様に感じるなんて思わなかった。改めて思う、大好きな人が自分と同じ気持ちでいてくれていることを、奇跡以外のなんと呼べばいいのだろう。

「恥ずかしいけど、聞いてくれる?」

 面と向かってしまったらきっと言えないけれど、電話なら言えるかもしれない。「ん?」という寿くんの声を聞いてから、ひと呼吸おいて言葉を紡ぐ。

「私ね、たぶん寿くんが帰って来たらすごく甘えたくなっちゃうと思うので」

 だから最初に謝っておくね、ごめんなさい。それだけ言うと、電話の向こうにいる寿くんは黙り込んでしまった。意を決して言ってみたけれど、ありのまま伝え過ぎたかもしれない。「おまえってホントにオレのこと好きだよな」って笑う寿くんの声が聞こえてくるような気がして顔がかあっと熱くなる。でもいいんだ、だってホントのことだもん。
 一か月頑張った彼に、心を込めて「お疲れさま」を伝えてから、ちょっとだけ抱きつかせてもらえたら、もうそれだけで私は寿命が何年も伸びるぐらい幸せになれてしまうのだ。

「あのな、そういうこと電話でいうの卑怯だろ」

 ぼそぼそとこもったような彼の声が聞こえてきて、私は小さく笑った。電話の向こう側の彼が、口を尖らせながら照れているであろうことが容易に想像できたからだ。


***


 インターホンが鳴って、モニターで彼の姿を確認すると、私は一目散に玄関へ向かった。
 ドアを開けた私は「おかえり」と言うよりも先に、その広い胸板に顔を押し付ける形になっていた。私よりも頭ひとつ分以上背が高くて、体も大きくて力も強い寿くんに覆い被さられてしまっては、後ろに倒れないように足を踏ん張るので精一杯だ。
 状況を整理してみよう、つまりドアを開けてすぐに寿くんに抱きすくめられてこんなことになってしまっていると、そういうことだろう、たぶん。たぶんって、びっくりしすぎて全然整理できてないじゃん、私。
 私の首元に顔をうずめて、深く深く深呼吸をする寿くんの呼気が首筋に当たってぞわりと肌が粟立つ。くすぐったくて「ちょっと!」と声を上げて制しようにも、ガッチリとホールドされていてはどうしようもない。
 一方、寿くんは恥ずかしげもなく「名前のにおいがする」なんてひとりごとみたいにつぶやく始末。恥ずかしくて、ヘンなにおいしなかったかな、とハラハラしながら彼のその広い背中をとんとんと軽い調子であやすみたいに撫でる。すう、と息を吸うと、ちゃんといつもの彼の香りがした。

「名前」
「はい?」
「最初に言っとく、悪ィ」
「へ?」

 そう言われた瞬間、私はどさりと床に座り込んでいた。否、倒されていた。
 彼が言った言葉は、以前もどこかで聞いたようなセリフだった。肘で自分の体を支えながらぎゅっとつむっていた目をゆっくり開けたら、目の前に寿くんの顔があった。状況が理解できなくて混乱しているせいか何度も瞬きを繰り返してしまう。ぱちっと目が合ったら、もうその次の瞬間には噛みつくようなキスで口を塞がれていた。
 味わう様に下唇を食まれて、私の唇をぺろりと這った舌は遠慮なく咥内へと侵入してくる。自分の体を支えるのに必死でその行為に抵抗することが出来ない。力が抜けてそのまま床に倒れこみそうになると、支えるように寿くんの手のひらが私の後頭部に当てられる。強引な行為に抗議したいはずなのに、そんな気遣いと優しさにきゅんとしてしまう自分がいる。
 口づけては離れて、またすぐに唇を合わせる。呼吸もままならなくて、私だけじゃなくて寿くんの息遣いも荒い。うっすら目を開くと、膜が張ったような歪んだ視界の中でびっくりするぐらい煽情的な表情の寿くんと目が合った。

「……だから最初に謝ったんだ」

 荒い呼吸を繰り返して、大きく肩が揺れる。私はもうすっかり力の抜けた腕をなんとか伸ばして、彼の頬に触れた。それからふるふると首を振る。

「私も、こないだ言ったもん」

 いつもだったら、普通の時だったら絶対に言えないような言葉が口から零れ出てくる。寿くんの瞳がゆらゆらと揺れて、段々と口がぎゅっと結ばれていく。

「おまえ、かわいすぎてむかつく」

 はあ、と息を吐いた寿くんは私の体をゆっくりと起こし、それからひょいと抱き上げた。うわ、と声を上げる間もなかったけれど、どこに運ばれていくのかはなんとなくわかる。私はそれに応えるように彼の首にぎゅっとしがみつく。
 ちょうど炊飯器が炊き上がりを告げる音を鳴らしていたけれど、今の私達はもうそれどころではなくなっていた。


 ***


(三井視点)

「実習、どうだった?」

 夢中になってお互いを求めあったあと、やっと体を起こしたら時計は二十二時を回っていた。けだるい体を起こして名前が温め直してくれた飯をかっこみながら、オレは頬杖をついて興味津々にこちらを見つめている彼女の方へ顔を向ける。

「なんつーか、めちゃくちゃ充実してた」

 本当にあっという間だった。一ヶ月がこんなにも早く過ぎ去ってしまうなんて知らなかった。学ぶことだらけで、自分には足りないところばかりで、どうすればいいんだろうと四六時中考えて動き続けていたら、いつの間にか実習の最終週を迎えていた。
 夢中になって勉強して、夢中になってバスケをやった。教える側に立つということが自分のために勉強をしたり、バスケをやることよりもはるかに頭を使うのだということに気付いた。至らないことばかりで悔しい思いもしたけれど、とてつもなく大きな経験になった。間違いなくここに向かって進んで行っていいのだと、そうするべきで、そして自分がそうしたいのだと改めて気付くことができた。
 毎日が瞬く間に過ぎて行ったことや、同じチームだった木暮と実習が被っていたこと、そして教師たちに散々高校時代の自分の話をされたことで余計に「見返してやるからな」という気持ちになったことを話したら、名前は柔らかく目を細めて笑った。

「実習の最後の日、三年の時の担任と飲みに行ったんだよ」

 相変わらず乱暴で強引で荒っぽいけど、それでもあの時の危うさはすっかり無くなっているし、ちゃんと前を見ているみたいで安心したと、当時の担任はそう言った。
 酒のせいか、それとも年のせいで涙もろくなったのかはわからなかったけれど、目頭を抑える担任の背中をさすりながら「あの頃のオレを知っている人とこうして並んで酒を飲めるようになったのか」としみじみ思ったら、胸の奥でジワッと不思議な、それでいて不愉快ではない奇妙な感覚を覚えた。

「すぐ採用試験あるし、それ終わっても卒論あるし、リーグ戦もまだあるしな。ボーッとしてらんねえわ」

 改めて口に出してみたら、相変わらず余裕の無いスケジュールに眩暈がしそうになったけれど自分で選んだ道だ。時間は有限で、終わってしまうまでひたすらに努力するしかないことは自分自身が一番よくわかっている。最終的な結果はどうであれ、後悔しないようにひとつひとつを全力でこなして行くしかない。いや、どうであれじゃない、掴まないと意味がない。

「つーかオレばっか喋ってんじゃねえか。そっちはどうだったんだよ」

 この一ヶ月間、お互いに忙しかったのもあるけれど、声を聞くのでさえ二日前の通話が久々だった。頬杖をついたままにこにことこちらを見つめていた名前の目がぱっと丸く見開かれて、それから口元がニヤリと笑みの形に変わった。

「んだその顔」
「ふふふ、がんばっていたのは寿くんだけじゃないのですよ」

 いやそれは知ってっけどよ、と返したオレに背を向けて、なにやらラックの中をガサゴソと探り始めた彼女はA4サイズの封筒を二通取り出した。

「なんと二社、内定出たのです」

 彼女はオレの前に突き出した封筒の横から顔を覗かせると、ニッと歯を見せて笑いながら小さくピースをして見せた。いつもより子どもっぽいその仕草がかわいらしくて、オレもつられて小さく笑いながら「報告しろっての」と彼女の額を小突く。

「実習ですごく疲れてるところに連絡するのもなあって。あと本命の結果はこの後なの」

 それとね、と名前は続けた。

「寿くんみてたら、私ももっと頑張らなきゃって思って!」
「なんか一足先に行かれちまったな」
「でもまだ卒論やっつけなきゃだし」

 考えたくないけど、と小さな声でぼやいた名前は、眉根を寄せてちらりとノートパソコンを見やると小さいため息をついた。オレにもまだ教採と最後のリーグ戦、それと同じく卒論というラスボスが残っている。さすがに抱え込みすぎだろ、と自分でも思ったが、いっぱいいっぱいになったとしても全て全力でやり抜くと決めたのはオレ自身だ。弱音を吐いたり憂鬱な気持ちになっている時間こそ無い。
 これもすべてサボっていたツケが回ってきているのだ。そう思うことにしよう。クソ、本当にあの時の自分はとんでもなくアホでどうしようもなく愚かなバカヤロウだった。思い出しては頭が痛くなるし、そこらへんをのたうち回りたくなるほど恥ずかしい。後悔の根はまだ深くあれど、それでも最近になってやっと「過去は過去」と割り切れるようになったし、ネタにも出来るようになってきた。
 それはさておき、最初の壁である教員採用試験の一次試験はもう目の前に迫っている。ここまできたらとにかくできることをやるだけだ。安西先生と初めて会った時、あの人がオレに言ってくれた言葉が脳裏に蘇り、それをゆっくり噛みしめる。

「はー、相変わらずウマかった! ごちそうさん」

 手を合わせて礼を言うと「おそまつさまです」と名前は柔らかく笑む。
 じっとりと湿気が肌にまとわりつくようなこの時期が明けたら、もう迫るのは暑い夏。名前と出会った秋が来て、寒い冬が来て、きっと次の春は瞬く間にやってくるだろう。それも、今までに感じたことのないぐらいのスピードで。その頃には、満足した表情の自分で目の前にいる彼女の横にいられたらいいと、その笑顔につられながら思った。


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