27.

(三井視点)

 元旦の昼過ぎ。というかもう十四時を過ぎたのに参拝の列は途切れておらず、オレたちは少しだけ顔を見合わせて苦笑いした。
 その列に並びながらいつものように他愛もない会話をして、それでもいつもと違うのは実家に戻るためにボストンバックを抱えているということだ。オレはそれを右手に、名前は左手に持っていて、空いている手はお互い自然と繋いでいた。
 いよいよ自分たちの番になって、拝殿の中央部にある綱を揺らして大きな鈴を鳴らす。賽銭を投げ入れ、手を合わせてから頭の中に言葉を浮かべてみた。
 バスケでいい結果が出せますようにとか、教員採用試験が上手くいきますようにとか、単位を落としませんようにとか、いろんなことが頭の中に浮かんだがどれもこれもなんていうかしっくりこない。そもそも、そういうことを神頼みで叶えてもらうってのはムシが良すぎるんじゃないだろうか、と面倒くさい思考が顔を出してくる始末。ああもう、考える時間は並んでるあいだいくらでもあったっつーのに!
 うんうん悩みすぎて、いつの間にか力いっぱいに目を瞑っていたようだ。うっすらその目を開けて左側にいる名前を盗み見ると、彼女はやわらかく目を閉じ、そっと手を合わせていた。ああそうか、つーかそんな悩む必要なんかねえな。彼女のことを眺めていたら急にそう思えてきて、オレはもう一度手を合わせて目を閉じる。
 去年はめちゃくちゃいい年でした。これからもこんな感じで日々が過ごせますように。
 頭の中でそう唱えながら、我ながらなんて平和ボケした脳みそになっちまったんだと思う。高校に入ったばかりの頃のオレには、六年後の自分がこんな思考に至るようになるなんてとてもとても信じられないだろう。
 バスケに関わっていない自分なんて想像ができないし、理想の自分だって追いかけたい。そのために、どっちも掴むなんていう欲張りなことを実行しようとしているのだ。もっと言うなら、隣にいる名前と来年もまたこうして並んで初詣に来られたらいいと思う。来年も、なんて言わずにこれからも。でもまあさすがにそれは欲深すぎるよな、という自覚があった。
 頭で念じたことが神様に伝わってしまうのならば、その目の前でこんなことを考えているのも筒抜けであることに気付いたら急に気が抜けてしまった。
 出来たら背中を押してもらえたら、なんて考えてみたりもしたけれど、全力出してぶつかってそれで出たものが結果なのだと、そう思えるようになれたからとりあえずはこれでいい。去年はいろんな意味で実りが多すぎたから、感謝の気持ちを伝えるぐらいがちょうどいいのでは、という結論に至る。

「けっこう長くお願いごとしてたね」

 名前がオレの方を見上げてくる。願いたいことがありすぎて頭の中でまとめるのが大変だった、というのは少々カッコわるい気がしたので伝えないことにして「まーな」と一言だけ簡潔に返事をした。

「私ね、就活上手くいきますように! ってお願いしようと思ってたんだけど、それは神様にお願いすることじゃないなあって思って、どうあがいても結局自分次第なわけだし」

 そう考えてみたら、あれもこれもそもそもお願いするってこと自体が間違いなんじゃないのって思えてきちゃって、と名前は眉根を寄せながら言った。なんだ、コイツもオレと同じようなこと考えてたっつーことかよ。彼女が不思議そうな視線をこちらに向けてきたが、気にすんなという意味で首を振って見せる。

「だからね、みつ……寿くんのことを応援してあげてくださいってお願いしてみたんだ」

 あえて今、また呼び方を間違えかけて訂正したことには触れないでおこう。
 去年はちょっといいことがありすぎたから感謝の気持ちをこめて今年は控えめにしとくの、と小さい声で呟いた名前がオレの方をちらりと見やる。目が合ってすぐにささっと逸らされてしまったけれど、その言葉に返事をするようにつないだ手に少しだけ力を入れてみた。
 バーカ。オレもだっての。


***


「ただいま」

 玄関に入って履いていたスニーカーを脱ぐ。高校を卒業するまで十八年間を過ごした実家の空気はやはりほっとするものがある。都内と神奈川、そんなに帰れない距離でもないのに夏と冬ぐらいしかマトモに帰って来られないのはそれだけ大学生活とバスケが充実しているということにしておいてほしい。

「あら、おかえり」

 リビングのテーブルに座って正月番組を見ていたらしい母さんが、オレの姿をみとめてこちらに顔を向けた。敷かれたラグマットの上、テレビのほうを向いて横になっているのはおそらく親父だろう。

「なんだよ、息子が帰って来たってのにもう潰れてんのか」

 お正月だからね、と笑う母によると、朝から二人でちまちまやっていたらしいが、そんなにアルコールに強くない親父はすぐ横になってしまったのだという。まさに正月のスタンダードな過ごし方という感じだ。この家にいた頃に自分が座っていた椅子に腰を下ろし、テーブルに肘をかける。

「オレさ、教採受けてみようと思ってんだ」

 目の前にいる母さんにそう切り出す。教職課程を取ることは入学する前に軽めに伝えてあったけれど、今こうして口に出せたのはようやく自分の中でその道を進んでいく気持ちが固まったからだった。

「いいんじゃないの、アンタが決めることでしょ」

 拍子抜けするぐらい、軽い調子のレスポンスに思わず「は?」と声が漏れる。もっと「アンタほんとに出来るの?」とか「軽い気持ちじゃないでしょうね」とかそういう辛辣な言葉を返されると思っていたので、切り出したオレのほうがポカンと口を開けてしまう結果になった。高校時代の自分がとんでもなく親不孝者だった自覚がちゃんとあったからこそ、すべて肯定するかのような返事が返ってきたことに驚きを隠せなかった。

「……その、大学行かせてくれて、ひとり暮らしも許してくれて感謝してる」
「え? ちょっとどうしたのいきなり、怖いわよ」
「う、うるせえな、もう言わねーよ!」

 茶化されて思わず声を荒げてしまった。
 二年間も荒れ放題だった息子を大学に行かせてひとり暮らしも許可してくれたことに対して、ものすごく寛容な両親であると思うし、自分はとても恵まれていると思った。でも、その感謝をずっと伝えられずにいて、ここでようやく自分の道が定まってきたことで言葉にして伝えることができたのだ。

「バスケやめたアンタがフラフラしだした時ね、なんて親不孝な息子なの! って思ってたけど、夏のインターハイ見て、もうこの子は大丈夫だなって思ったのよ」

 正直言って、夏のインターハイ二戦目である山王戦の記憶はとても曖昧だった。今でも明確に思い出せることは、本当にしんどかったこと、そしてオレはこのまま死ぬんじゃないかと思うほどに苦しかったことぐらいだ。それでも、勝てるならばもうそのあとに死んでもいいとさえ思えた。あの場に、あの試合で赤いユニフォームを着ていたオレたちはきっと誰しもがそう考えていただろう。赤い頭をしたアイツなんか、そりゃあ特にだ。
 今思えば、ビビってないなどと口では吠えつつも試合前は情けないほどに緊張していたし、ロクに飯も食ってなかったはずなのに試合中は何度も胃がせり上がってきて吐きそうになった。試合の半ばからは自分の体を自分で動かしている感じがしなかったし、もう走れないと思いながらも、負けたくないという気力だけで体を動かしていた。
 シュートを放つ瞬間、オレの周りの音は止んで、観客の声も味方の声さえも聞こえなかった。色が褪せて見える限界ギリギリの視界の中で、俺の手元を離れて宙に浮いたオレンジ色のバスケットボールだけが鮮やかで、それがあの輪をくぐる度、その瞬間に膨らんだ音が弾けてオレの鼓膜を揺らした。
 勝利の瞬間のことも、そのあとのことも、旅館に帰ってぶっ倒れた後も、やっぱり記憶は曖昧だ。それでも、確かにオレはあの場所に立っていた。あの時に、どうしようもなかった自分を少しだけ許してやれた気がした。

「頑張るって決めた子どものこと、応援しないわけにいかないでしょ」

 母さんの言葉にチリッと胸の奥が痛む。高校時代、二年間を自堕落に、そして投げやりに過ごしていた後悔の思いは未だに尽きないし、これからも、たぶんまだしばらくはこの後悔が消えることはないだろう。それでも、バスケ部に復帰した時よりかは自分を責める気持ちは幾分がマシになった。その後悔とやるせなさをこれからの原動力にできるぐらい、今のオレは前を向いている。
 そういえば、名前もそろそろ家に着いた頃だろうか。あとでメールでもしてみよう。そう思ってポケットに入れていた携帯を取り出すと、新着メールの文字。友達からのあけましておめでとうの文字が何件か見える中で、一番新しいものは彼女からのメールだった。

『もう着いた? 私は今さっき帰ってきたところです。また大学でね!』

 そう書かれたメールと添付されているデータ。開けてみると、名前がよく話している実家の猫の写真だった。気持ちよさそうに目を細めている猫のあごの下を撫でている指先は見慣れた彼女のものだろう。その猫と彼女がじゃれあう姿を想像しながら「一緒に撮ってる写真はねーの?」と返事を打ち込む。

「なによ寿、携帯見ながらニヤニヤしちゃって」

 ちょうど出されたコップに口をつけているところでそんな言葉を振られたので、思わず噴き出しそうになった。それをどういう意味で言っているのか、そういう意味じゃないのかもしれないと思って母さんの顔を見たら、ニヤニヤした笑みが顔面に張り付いていた。
 チクショウ、言ってやるかっつーの。ニヤニヤしやがって!

「別になんもねーよ!」
「ふーん? まあいいけど」

 そう言って立ち上がった母さんは「煮物作りすぎちゃったから消費してほしいのよ、おせちもあるし」とマイペースな調子で言う。

「……食う」

 そう返しながらちらりと母さんの顔を見たら、まだ楽しそうにニヤニヤ顔を浮かべていたのでさっさと視線を逸らしてしまうことにした。それでも、またひとつ背負っていた何かを下ろせた気がして体は少し軽かった。


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