26.

 寿くん。寿くん、寿くん、寿くん。
 心の中で何度も彼の名前を呼びながら、私はひとつ息を吐いた。

「結局呼び方もどっちまってんな」

 そう彼がぼそっと呟いた。頑張って三井くん呼びから名前呼びに変えてみよう、と私の中では一大決心して呼んでみたはいいものの、気を抜くとつい今までどおりに「三井くん」と呼びかけてしまうのだ。
 初めて会った時、彼の名前を見て「すてきな名前だなあ」と思った。今もそう思っているし、私だって寿くんってちゃんと名前で呼びたい。しかし、今更慣れた呼び方を変えるのは思った以上に難しくて、それよりなによりやっぱり照れてしまう。だけど、最初の一歩は勢いでいけたのだから繰り返すことが重要だ。勉強やスポーツと同じで、反復練習が大事、たぶん。
 クリスマスが終わってもう一週間。あれだけ赤と緑で彩られていた街はもうすっかりお正月モードに様変わりして、あっという間に今日は大晦日だ。
 私はアパートまでの道を歩きながら、両手で抱えている花束にそっと視線を落とす。淡いピンク系統の色でまとめられた花、間にそっと差し込まれたヒペリカムの赤い色がいい差し色になっている。今日はアルバイトの最終日だったのだ。
 今までお世話になりました、と頭を下げたら、店長の娘さんに抱きつかれて「はやく帰ってきてね」なんて言われてしまった。ついつい涙で視界が歪みそうになるのをグッと堪えて彼女に向かってこくんと頷いてみせて、それから顔を上げたとき、店長から目の前に差し出されたのがこの花束だった。

「私にですか……!?」

 アンタ以外に誰がいんの、と困ったように笑った店長の顔を見ていたら堪えられなくなって思わず鼻をすすってしまった。花束をもらうなんて考えてみたら人生ではじめてだ。もう一度、頭を下げて店に背を向けて歩き始めてから目尻をグッと拭った。
 就活がんばらなきゃ。憂鬱な気持ちは消えていないし、不安だってあるけれど、いつの間にか「やってやる」という強い気持ちが私の中に芽生えていた。自分がやりたいことを何ひとつ諦めないで進んでみると決意した三井くん、もとい寿くんの瞳があまりにも真っ直ぐで綺麗だったから、私だって負けちゃいられないと思ったのだ。
 時間は待っていてはくれないので、もう腹をくくって覚悟をきめて、どーんとぶち当たってやるしかない。私への「がんばれ!」が詰まった花束は、抱えていると心なしか太陽みたいにポカポカと暖かいような気さえしてきた。まだ昼を過ぎたばかりの道を歩きながら、この花束をどう飾ろうかと考えてみる。なるべく長持ちさせられるといいんだけど。

「あれ? みつ……じゃなかった、えと、寿くん」

 アパートの階段をのぼり終えると、私の部屋の前で寿くんが壁を背にしてしゃがみこんでいた。彼は「おう」と小さく手をあげてから立ち上がった。

「そろそろ帰ってくっかなと思ってよ。花束すげえな、もらったのか」

 頷くと「そらよかったな、バイトお疲れ」と私の頭を二度ぽんぽんと撫でた。部屋の鍵を開けるためにポケットから鍵を取り出していると、寿くんが気を利かせて花束を持ってくれた。

「こたつっていいよな。オレも買うかな」

 でも名前の部屋にくりゃ入れるしいいか、と地味にうれしいことをさらりと言ってのける。さっさと手を洗ってうがいをした寿くんは、さもここが自分の部屋であるかのようにこたつのスイッチを入れ、早速入りこんだ。すっかりお気に入りの様子だ。その姿を見ながら、冬になるとこたつに入り込んでいた実家の猫を思い出す。花束はとりあえず玄関に立てかけておくことにして、飾れるような口の広い花瓶がなかったかと探してみる。

「な、オレ勉強してっけどいいか?」
「もちろん、私は夜ごはんのしたくするし」

 サンキュ、と言って背負っていたリュックをゴソゴソとやりながら、参考書やらなんやらを取り出す寿くん。
 頑張る彼のためにココアを差し入れるべく、電気ポットのスイッチを押した。


***


(三井視点)

「……っ!?」
 ガバッと飛び起きると、名前が胸のあたりを押さえながら「うわ、びっくりしたあ」と驚いた声をあげた。
 いつの間にか寝落ちてしまっていたらしい。こたつに入ったまま突っ伏していたオレの肩にはブランケットが掛けられている。よだれを垂らしたりしていなかっただろうか。はっとして口元を袖でぐしぐしと拭ってみる。とりあえずはセーフだったようだ。

「ね、あと二分で年が明けるよ」

 そう言うと、何かに気づいたように目をぱっと丸くして、それから小さく首を傾げた名前はオレの頬にすっと手を伸ばしてくる。寝ぼけたままの、まだぼんやりする頭でなんだろうとフリーズしていたら、彼女は「ここ、あとついちゃってる」と指先でその場所をなぞりながら目を細めて笑った。
 名前の淹れてくれたココアを飲んで、糖分の助けを得ながら参考書とにらみ合って、それから夜になって二人で年越しそばを食べて、いろんなものをちまちまつまむように口に運んでいた記憶はある。

「なんだよ、起こしゃよかったのに」
「疲れてる人のこと起こせないよ」
「でも今オレが起きなかったら、年越し一緒にする意味なくなっちまうとこだぞ」

 そんなことを言いつつ、よくよく考えてみると逆の立場で名前の方が寝落ちてしまったとして、自分も彼女を起こすことはしなかっただろう。
 オレの頬に触れていた手を掴み、そのまま少し強めにぎゅっと握りしめる。何度も触れて、何度も繋いでいるその手はオレの手なんかより当たり前に小さくてやわらかい。目の前の名前はというと「どうしたの?」と言いながら、きょとんとしたいつもの表情である。

「こんな風になるなんて全然考えらんなかった」

 失くした時間は戻らない。今自分がやるべきことはなんなんだ、自分は何がしたいんだろうと考えたとき、それは当たり前にバスケだった。オレからバスケを取ったら何も残らないなんてポジティブなんだかネガティブなんだかよくわからない感情を抱えながら、そういえば今までひたすらに走り続けて来た気がする。
 名前と出会ってから自分のいる世界が実はこんなに広くて、オレはまだまだいろんなこと考えなくちゃいけないんだってことに気づかされた。自分のこれからに向き合って、しっかり考えられるようになった。

「名前と会えてよかった」

 クサい言葉が口からこぼれてくる。照れくさいはずなのに、いつの間にかこいつ相手にはこういうことが言えるようになってしまっている自分。この場面を客観的に見て、いま言った言葉をこの耳で聴くことが出来たとしたら、たぶん床をのたうち回るほど恥ずかしいに決まっている。けれど、言葉にして伝えることの大切さを今のオレは知っている。まあちょっとそれに気づくのが遅かったところはあるが。冷やかしてきそうな後輩の顔を思い浮かべながら、思わず顎のキズに触れてしまった。

「そんなわけで、今年もよろしくな」

 オレがそう言い終わるのとほぼ同時に、テレビから「あけましておめでとうございます」とか「ハッピーニューイヤー」なんて声が聞こえてきた。
 少し照れくさそうに、でも穏やかな表情でオレを見つめていた彼女が頷くみたいにゆっくりとひとつ瞬きをして「私の方こそ、これからもよろしくおねがいします」と言った。繋いだ手の上に、そっと重ねられた彼女の手のひらはいつもと違ってあたたかい。

「……これからも、か」

 今年も、じゃなくてこれからも。その言葉は胸の辺りからじんわりゆっくりと全身を巡る。

「どうかした?」
「あー、いや、別になんでもねえよ」

 彼女の発した「これからもよろしく」という言葉に、この先もオレと一緒にいることを無意識のうちに考えてくれてんのかな、と思ったら勝手にゆるゆると口元が緩んでしまった。あぶねえ、と唇にぎゅっと力を入れてみる。今はこっぱずかしい言葉が口から垂れ流しになることなんかより、緩んだ顔を見られる方がなんとなく恥ずかしかったからだ。

「……明日はえーし、そろそろ寝ないとだよな」

 言葉ではそう言いつつも、触れ合っているうちにもうすっかりそんな気分になっている自分には流石に呆れてしまいそうだ。
 額をこつんと合わせると、鼻の頭が触れ合った。こちらをじっと見つめているやわらかく細められたその瞳はどうしてこんなにもオレの事を安心させるのだろう。その白い手のひらが俺の背中を撫でるたび、どうしようもない幸福感をおぼえる。
 はあ、とため息をつきながら彼女の首筋に顔を寄せる。心は落ち着いても、本能の方は全く落ち着く様子を見せない。もう一度「明日は早く起きるんじゃねーのかよ」と自分に言い聞かせるみたいにぼそぼそと声に出してみた。よしよし、とか言いながらオレの背中をぽんぽんしてくる名前は「さっきまで寝てたのにもう眠いの?」と的外れなことを言っている。

「はあ……おまえ、そーいうヤツだよな」

 オレの背中を撫でる手が止まって、名前が「どういう意味?」とほんの少しムッとしたような声音で言う。いやこっちの話、と適当に流すように返事をしたのはしくじったかもしれない。今度は彼女の首筋から顔を離したオレが彼女の頭を撫でる番になった。

「なんか流された感じがする……」
「んなこたねーよ。つーかオレ、眠気飛んじまった」
「そりゃそうでしょ、さっきまで結構な時間寝てたんだから」
「ちげえって、だからよ、えーと……」

 ああもう、言葉にするのが面倒だ。そう思ってやわらかい両頬を両手で挟み、無理やりに視線を合わせる。納得いかなそうに寄せられた眉と視線。閉じられたその唇に欲望のまま食らいついたら、彼女はいよいよ怒ってしまうだろうか。
 でもまあいいか。出店で甘いもんでも売ってりゃいいけど。よくよく考えてみたら、初詣だからってそんなに早くアパートを出る必要はないし、お互い実家にだって明日中に戻れればいいもんな、と勝手な考えを巡らせてみる。
 行動する前からそんなことを考えながら「明日やっぱりゆっくり帰ろうぜ」と声を掛ける。びっくりしたように開かれた彼女の口から「え?」と聞こえたか聞こえないかぐらいで、オレはもうその口を塞いでしまっていた。


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