25.

 なあ、という三井くんの声に、閉じていた瞼を開けた私は「どうしたの?」と返事をする。目を開くのも、まばたきをすることさえも億劫なほど気怠くて、まるで自分がいもむしになってしまったのではないかと錯覚しそうになる。天井を見ていた三井くんの視線がこちらに向けられて、彼は「そういえば」と口を開いた。

「まだケーキ食ってねえな」

 言われて思い出したケーキの存在。三井くんが調達してきてくれたクリスマスケーキは冷蔵庫にしまったままだ。髪を濡らしたまま家にやってきた彼が風邪の予兆を感じさせる盛大なくしゃみをしたものだから、中身も見ずにあわてて冷蔵庫にしまっていたのだ。
 それからいつもどおり一緒にごはんを食べて、お互いがこっそり用意していたクリスマスプレゼントを交換して、ちょっと真面目なお話をして、それからこうなって今に至る。

「食うか? ……あ、つーか起きられっか?」

 私はうつ伏せになったまま、枕に頬をこすりつけてふるふると首を振る。甘いものは大好きだし、せっかく買ってきてくれたケーキも食べたいけれど、今はもう起き上がることも何かを食べることもしたくない、というか出来ない。私の体は電池が切れたみたいに重たくなっているし、もうとっくに、そして完全にこのまま寝るモードに突入していた。
 だよな、と軽く笑う三井くんもどうやら同じ気持ちらしい。っていうか、あなたのせいですよ! 笑ってますけどあなたのせいで私、いまこんなことになってるんですよ! だよな、じゃないですよ! と心の中でぷんぷん怒っていても、実際に声に出して怒る元気なんて体の中のどこを探したって見つからなかった。
 疲れ果ててもう勘弁してって思っていても、好きな人に求められることを嬉しいと思ってしまう満更でもない自分がいて、呆れて小さなため息が出る。恥ずかしくて、唸るような声が喉の奥から飛び出てきそうになったけれど、枕に顔を押し付けて堪えた。

「なんで世の中イブの方がクリスマスよか盛り上がるんだろうな。キリストの誕生日ってのは二十五日なんだろ、確か」

 街へ出れば恋人たちがしあわせそうに歩いているのは大抵イブの日。お店のかき入れ時だって大体はイブの方だ。私が子どものころ、家族でささやかなパーティーをするのもそういえば二十四日だった。次の日の朝、枕元に置かれているであろうサンタさんからのプレゼントを期待しながら眠った記憶はもうかなり昔のものだ。

「私もそれ考えてた、どうしてだろうね」

 言いながら、同じように流されている私たちも私たちだけど。そういえば、今日お花を買っていったあのお兄さんはうまくいっただろうか。お相手の方はお花喜んでくれたかな。私の込めた頑張れの気持ちがすこしは力になっていたらいいけど。
 重たくなる瞼と一緒に小さなあくびが漏れ出て、三井くんもつられたようにあくびをした。

「うつっちまった」

 そう言って、目を細めて笑う彼の優しげな表情にすぐほだされてしまう。まあいっか、と思ってしまう自分のことを「なんてチョロい女なんだろう」と客観的に評価しながら、大きな手で頭を撫でられているうちに意識はたちまちベットの下の方へと沈んでいった。


***


 目を覚ますと、隣で眠る三井くんはまだすうすうと穏やかな寝息をたてていた。何度見ても、寝ている時の彼はすごく無防備でかわいらしい。真っすぐで意志の強そうな眉とか、通った鼻筋とか、こうしてまじまじとみているととんでもなく男前なのだ。
 起きてる時の目の下の影とか、不機嫌じゃないはずなのに常時出現している眉間の皺とか、やたらギラギラしている眼力の強さとか、そんなのが少しでも柔らかくなったらガラのわるさが少しは落ち着くのに、とぼんやり思う。でも実際はぶっきらぼうかつ不器用なだけで、本当はやさしい人なんだってこと、私はちゃんと知っているからいいや。
 口を半開きにして気持ちよさそうに眠っている三井くんを起こさないよう、そっとベッドを抜け出すと、冷えた部屋の空気にぶるっと体が震える。テーブルの上にあるエアコンのリモコンを手に取って、暖房を入れるべくスイッチを押す。クローゼットから適当に着替えを引っ張り出すと、私は浴室へと向かった。
 着ていた服を脱ぐと、冷たい空気に肌がピリッと痛んで一瞬で鳥肌が立つ。先にシャワーを温めておけばよかったとちょっぴり後悔する。
 ふと、脱衣所の鏡に映った自分の左胸の上、赤い跡が目に入った。なにこれ、と小さく声を漏らしながら、下を向いて自分の目でも確認しつつ、その場所を指でそっとなぞる。
 それが三井くんによるものであると、そこでやっと気がついた。カッと頬が熱くなるのを感じて、狼狽しながら両頬に手を添える。服を着てしまえば見えないところだからまだ良かったけれど、筋肉痛みたいに痛む内腿と共に昨日のことがありありと脳裏に蘇ってくる。よく確認してみると、それは鎖骨の下やわき腹なんかにも点在していた。
 沸騰しそうになる気持ちを抑えて小さく首を振り、温まってきた浴室に飛び込むみたいに駆け込んだ。あたたかいシャワーを浴びると、茹で上がりそうだった気持ちとは裏腹に冷えていた体の芯がじんわりと温まっていく。昨日は顔も洗わずに寝てしまっていたので、余計にシャワーが気持ちよく感じる。足の指先が冷えていたせいか、温められてビリビリと痺れるような感覚を覚えた。
 先ほど気づいてしまった赤い跡はなるべく視界に入れないようにして、髪を洗って体を洗う。せっかくだし浴槽にお湯を張ればよかったな、と思ったけれど今から沸かしていると時間がかかるし、体が冷えてしまうので諦めることにした。
 脱衣所に出てタオルで髪と体を拭いながら、昨日洗いそびれたお皿を洗わなきゃいけないことを思い出した。冷蔵庫になにが残っていただろう、とバスタオルを体に巻き付けながら考える。そうだ、ケーキ食べなきゃ。三井くんは朝ごはんがケーキでも平気な人だろうか。
 そういえば去年、女子だけでうちに集まってクリスマス会をした時は、ケーキの前に各々が持ち寄ったものをたらふく食べすぎて結局次の日の朝にみんなでケーキをつっついたっけ。去年の今頃は彼氏ができて、その人と一緒にクリスマスを過ごすことになるなんて微塵も思っていなかった。「来年は誰かしらこの会からいなくなってるといいよね」とか「全員でしょ!」なんて笑いあっていたというのに。
 脱衣所の戸が開けられたのは、そんなことを考えながら替えの下着を履こうと手に取った瞬間だった。

「え、え!? ぎゃあ!」

 私は目をかっぴらいて、入ってきたその人物の事を凝視しながらあわてて手に持っていた下着を後ろに隠す。きょとんとしている三井寿その人は「あ、ワリ。まだフロ入ってると思ってた」とかなんとか言いながら、悪びれもせずそこに立っている。

「顔洗おうと思ってよ。つーかぎゃあって、もっと色気ある声をだな」
「いやいやいやいやなに言ってるの!? ていうか、とりあえず、出てって、ば!」

 私は三井くんの背中をグイグイと押して脱衣所から追い出し、勢いよく戸を閉める。脱衣所の向こう側で「悪かったって、このとーり!」という声が聞こえてきたが、とりあえず今は無視して急いで服を着る。
 バスタオル巻いといてよかったと思いつつ、驚きのあまりバクバク脈打つ胸のあたりを抑えながら「デリカシーないんだから」と小さい声で呟いた。


***


「なあ、悪かったって!」

 むすくれんなよ、と言いながら、私の頬をつまんでくる三井くんに「むすくれてなんてないですけど」と簡潔に返す。

「もうしねーから、な?」

 そう言いながら背中を丸めて、申し訳なさそうに両手を合わせている三井くんの姿はとっても珍しい。許してあげてもいいかなという気持ちと、もう少しそのしょげた様子を見ていたいと思ってしまういじわるな自分との間で揺れる。

「起きたら横に居ねーからめっちゃ驚いたんだぞ。昨日また無理させちまっただろ? だからシャワーの音してホッとして、ちゃんといるか確認したくてよ」

 体ヘーキかって心配してたんだよ、と小さい声で付け足す三井くん。私は思わずぎゅっと唇を噛みしめていた。そんなこと言われてしまっては、もう許してあげないわけにはいかないじゃないか。まるで私のほうが悪いことをしているような気持ちになってきた。母猫を探す子猫みたいでかわいい、と思ってしまったことはそっと胸にしまう。

「しょうがないなあ、それなら許したげる」
「はい、以後気をつけます」

 名前の機嫌もなおったことだしメシだメシ、と言わなくていいことを言っている彼の言葉は、もうめんどうくさいので聞き流すことにする。
 昨日の夜、三井くんが買ってきてくれた小さめのホールケーキはチョコレートケーキで、上にいちごが乗せられていた。それを四等分にして、ワンカットずつ二人で食べる。それだけじゃちょっとなあ、と思ってとりあえず焼いたベーコンエッグと並んでいる様は少しだけ、いや結構不思議な組み合わせだ。

「名前は年末年始どうすんだ?」

 ケーキを口に運ぶ三井くんが突然そんなことを言い出す。そうだ、お母さんからも「どうするの? いつ帰ってくるの?」って聞かれてたんだった。クリスマスのことで頭がいっぱいで、年末年始のことなんかすっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。
 町中が赤と緑で彩られているのも、聴きなれたクリスマスソングが流れてくるのもきっと今日までで、明日からはまるっとお正月モードになってしまうだろう。

「どうしよっかなって思ってたところ。年始は帰ろうと思うけど」
「じゃあよ、年越し一緒にしようぜ。そんで初詣行って、そのまま実家に戻りゃいいだろ」

 私は間髪入れずその提案に頷いていた。んじゃ決まりな、と笑う三井くんにつられて、さっきまで「この人はなんてデリカシーがないんだ!」と憤慨していた気持ちなんかとっくにどこかへと吹っ飛んでしまっている。
 もうあと何日もしないうちに新しい年になるけれど、これからも当たり前に三井くんと一緒に過ごしていけたらいいと、そんなことを初詣に行く前から考えてしまった。出会ってから今まで、まだ三ヶ月ぐらいしか経っていないのにあっという間だったような、そして実際の時間よりもっとたくさんの時間を共に過ごしているような気がする。
 またぼんやりしてっけど何考えてんだよ、と呆れた様子でこちらを覗き込んでくる彼の声にはっとして小さく首を振りながら「教えない!」と返事をしてやった。なんだそれ、と納得いかなそうな表情の三井くんにふふんと笑いかけて、フォークに刺さったいちごを口に運ぶと甘酸っぱさが口の中に広がった。


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