15.

 未だかつてないほど自堕落な土日を過ごしてしまった自覚がある。金曜日にいろいろあってから、なんやかんやでありがたいことに三井くんとお付き合いをすることになった。
 問題はそこからだ。金曜の夜と土曜日の夜を共にして、そのまま日曜日がオフだった三井くんと一日中ベッドの中でぐうたらと贅沢に過ごした。すごくすごくしあわせだった。
 しかし、改めて冷静になって月曜日を迎えた現在の私は、自分の浮かれ具合に頭を抱えている始末。このままでは、脳みそがドロドロに溶けた状態のまま、しばらくぽわぽわと生きていくことになってしまうに違いない。
 金曜日、図書館の閉館時間まで粘り、あと少しというところまで仕上がっていたレポートの提出日はまだまだ先だ。けれど、本当はそれもこの土日で完成させて、あとは提出期間になってから提出するだけの状態にする予定だった。
 しかし結局土日にレポート作業なんか一切していない。締め切りに間に合わなかったわけじゃないし、そんなに気に病むことでもないことはわかっている。なにより、彼と過ごす時間は今の私とってはなによりも大事な時間だ。
 それでもやはり、勉強は学生の本分である。メリハリはちゃんとつけなくちゃいけない。しゃんとしなきゃと思いながらも、三井くんのことを少しでも考えてしまえば緩んでしまう口元を抑えることはとんでもなく難しい。
 二限の講義が始まる教室の席に着き、指を組んで俯きながら深くため息をついた。あまりにも気持ちがふわふわしすぎていて、このままじゃ何か大変なことをやらかすんじゃないかとか、何かとんでもないことが起こるんじゃないかと気が気ではない。
 今朝、大学に向かう道では車や自転車にいつもより気を付けたし、転ぶかもしれないとヒールのない靴を履いてきたし、天気予報で降水確率が0%だったのに折り畳み傘を鞄に仕込んできている。そんなことを三井くんに話したら「まだ夢だとか思ってんのか?」って笑われてしまうに違いない。
 ふと、金曜日の帰りに遭遇したあの出来事が頭に浮かんで、思わずぶるっと身震いした。あのことはもう二度と思い出したくない。なるべく考えないようにして、忘れる努力をしよう。

「おっはよー、名前!」

 その明るい声に顔を上げると、高校からの友人である彼女が隣に着席するところだった。その声で現実に引き戻されて、私も「おはよう」と返事をする。

「聞いてよ、電車激混み! 圧縮布団の気持ちになったわーってどしたの、へんな顔して」
「えっ、私そんなにへんな顔してる?」
「だいぶ。なんかいつもより余計にぽわぽわしてる」

 そんなにわかりやすかったのか、と恥ずかしさのあまり両手で両頬を抑える。薄目でじーっと何かを探るように私を見つめている彼女は、ぱっと目を開けると「わかった!」と弾けたように手を打った。

「ふっふっふ、あたし様をなめるなよ。ずばり、例の彼でしょ!」

 バスケ部の三井くん! と結構な声量で言い放った彼女の口を急いで塞ぎながら、私は周りをきょろきょろと見回して「当たりだから、当たってるからボリューム下げて!」と懇願するように言った。周りの学生の視線がものすごく痛い。それとほぼ同時くらいに教室に教授が入ってきたので、私たちは声を潜めて会話を再開した。

「ほんとは聞きたくて仕方なかったんだからね。名前はあんまりそういう話してくれないしさ。でも、ちょっとほっとしたかも」

 彼女はニッと笑うと「よかったよかった!」と言いながら私の肩をぽんぽんと叩いてくる。大好きな人がいて、私のことを思ってくれる優しい友達もいる。今の私はこの場所にいる誰よりもしあわせなんじゃないかと本気で思ってしまう。

「それで、報告だけで終わりっていうのはないでしょ。あたし、今まで探るのすごーくガマンしてたんだからね」

 ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる彼女はもはや自重することをやめたらしい。教卓の前で話し始めた教授から遠い後ろの席であるというのをいいことに、ここで洗いざらい話せという意図なのは明らかだった。
 よくよく考えると、三井くんと私が急速に仲良くなったのは彼女に誘われたあの飲み会からだった。正直乗り気ではなかったし、お願いされたから仕方なく参加した集まりだったけれど、今があるのは彼女のおかげでもあるのだ。
 一から十まで説明するのは恥ずかしかったけれど、何があってこうなったのかをかいつまんで報告したら、彼女は目をキラキラと輝かせながら心底楽しそうに相槌を打ってきた。
 今があまりにも楽しくて、浮かれている自分に慣れなさすぎて逆に不安になっていると話したら「えっ、なにそんなことー?」と彼女は目を細めた。

「ぜんぜんダメなことじゃないでしょ。付き合い始めて今がいちばん楽しい時なんだから浮ついちゃうの当たり前だし、一緒にだらだら過ごすの超大事だからね!」

 名前は考えすぎ、石橋を叩いて叩きすぎて割る寸前だよ、となんだかよくわからない例えつきで叱られる。

「だからそれでいいの! 夢中なのを不安がる必要なんかナシ!」

 講義中だというのにいささかハッスルしてきた彼女を窘めつつ、心はものすごく楽になった気がした。こんな気持ちになるのも、誰かとお付き合いをするのも、何もかもが久しぶりすぎて私はやっぱりどこか混乱していたのかもしれない。

「ありがとう」

 そう言うと、彼女はニッと笑って「名前がしあわせそうだとあたしもしあわせ!」と屈託無く笑った。この強引だけど太陽のように明るい彼女にこそ、特定の相手がいないことが不思議だけど、彼女いわく「あたしはお金持ちで大人でいろんなことに寛容な紳士じゃないとダメなんだよね」と言っていた。好みのタイプは石油王らしい。そりゃ大学では出会えないよ、と返したことがある。

「それにしてもあたしの名前を選ぶとは。見る目あるわね、三井寿」
「あたしのってなにそれ、初耳なんだけど」
「名前はあたしのだったんだもーん! ねえねえ、あたしに三井くんの好きなところ十個教えて。そしたら解放してあげる」

 三井くんの好きなところ十個。そう言われて彼の顔を想像したら、勝手に上がる口角を抑えられなくてぎゅっと唇に力を入れてしまう。好きなところなんて、そんなの全部だよって言ったらなんと言われるだろう。のろけすぎって笑われそうだ。
 とりあえず指折り数えてみる。ぶっきらぼうだけど実は優しいところ、大雑把だけど周りのことや人をちゃんと見ているところ、口が悪いけどいろんな人から慕われているところ、真っ直ぐでがむしゃらなところ、大好きなバスケに一生懸命なところ、恥ずかしいことをさらりと言うくせに照れ屋でかわいいところ、一緒にいると心がぽかぽかしてくるところ、あたたかくて大きな手、私の名前を呼ぶ声、くしゃっとした少年みたいな笑顔、試合の後の汗かいてるところもかっこよかったなあ。と、ここで気が付いた。十個になんか絞り切れない。

「今すごく真面目に絞ろうとしてるんだけど、たぶんすごく時間かかっちゃう」
「はいはい、おのろけ聞く準備しときますね」

 顎に手を当て、うーんと真剣に悩み始めてしまった私に対して、隣にいる彼女は呆れたように笑って言った。


***


 相変わらず二限後の学生食堂は人で溢れていた。昨日はお弁当の仕込みなども全くせず、買い出しもしていなかったので、ベーカリーコーナーで購入したベーグルサンドをかじっている。

「今年はもう名前と一緒にクリスマス女子会ができないのね、グスン」

 彼女はわざとらしく涙を拭うふりをしながら親子丼をパクついている。高校の頃から人数に変更はあれど、大体のクリスマスは一緒に過ごしてきていた。そんな時期に限ってお互い特定の相手がおらず、同じような友人たちと集まって誰かの実家で騒いだりした。ここ二年は私の住むアパートで開催されている。
 そういえば、そろそろそんな時期だ。十二月に入り、いつの間にか学食にもそこそこ大きいクリスマスツリーが飾られている。

「そういう話全然してないし、私予定ないよ?」
「ちっがーう! あんたたちは会わないとダメなの! クリスマスにちゃんと会うの!」

 さっきまで寂しそうにしてたのに、と私が呟くと「あたしはクリスマスに恋人たちの仲を引き裂くなんて、そんなバチあたりなこと絶対にしない女よ!」と拳を握っている。その様子に思わず笑ってしまって、この子のこういう所が一緒にいて楽なんだよなあと改めて思う。

「ねえ三井ぃ、お願いだから今度の合コン出てよ」

 その声に「ん?」と思いながら顔を上げると、目の前に座る彼女が眉間に皺を寄せて目を細めていた。あっちあっち、と小声で言う彼女が指したのは私の背後だった。少し離れた場所にあるテーブルにおずおずと視線を向けると、男女七人ほどが集まって座っている。その中によく見たことのある背中を見つけた。三井くんだ。
 そちらを注視している彼女を「あんまりじーっとみたらだめだよ」と窘めつつ、私の体はじわじわと緊張しはじめていた。付き合い始めてから学内で彼の姿を見るのははじめてで、昨日まで散々一緒にいたというのになんだかちょっぴり気恥ずかしい。

「ちょっとなにあの女、三井くんにベタベタ触ってさぁ」

 その男は私の前にいる名前の彼氏なんだからね、と振り向かないようにしている私に変わり、彼女はそのテーブルの様子を実況してくれている。かなりあからさまに、そして遠慮なくあちらに視線を向けているようだ。

「何回も言ってっけど、オレはそういうの興味ねえんだって」
「モテるのに彼女つくらないのもったいない! 三井と飲みたいって子いっぱいいるのに」
「そういうのにかまけてらんねえの。彼女なんて作っても構ってやれねえし、バスケしてんのでいっぱいいっぱいなんだよ」
「おまえ、一年のときからずっとそれ言ってるもんな。本当に男か?」

 うるせえほっとけよ、と宮城くんに言うみたいにいつもの調子で毒づく声。それが何故かすごくすごく、ものすごく遠くから聞こえてくるような気がした。大したことじゃないのに、すごくもやもやして胃のあたりがぎゅっとなる。彼の周りで騒ぐ女の子の声がやたらと耳につく。

「ていうか三井くん、なんで名前のこと言わないの!?」
「待って、大丈夫だから」

 立ち上がろうとする彼女の手を握り、私は小さく首を横に振る。仕方ない、きっと三井くんはそういう相手が居る事を隠したいのだろう。学内の有名人である弊害は私にはわからないけれど、そういう存在がいるっていうのは彼にとって何かしらの不都合があるに違いない。
 そうでなきゃ、じゃああの金曜日の出来事は? いままでのやりとりは? しあわせすぎて夢のようだった土曜日と日曜日は? 浮かれていた私は? 優しい三井くんの言葉は?
 言葉を交わして思いを確認しあったのは、やっぱり都合が良すぎる夢だったのだろうか。三井くんのことが大好きなのに、胸の奥から次々に湧き出してくる黒い感情はぐるぐると私の体の中を巡り、知りたくなかったきたない気持ちを容赦なく表面に押し出してくる。
 彼がどんなに誠実で真面目な人なのかをちゃんと知っているはずなのに、こんな些細なことで動揺してグラグラしている自分はとんでもなくバカらしい。私は彼のことをわかったつもりでいただけなのだろうか。
 聞いてしまった会話が頭から離れない。信じたいのに、信じてあげられない自分に心底腹がたつ。半分も胃に収めていないベーグルサンドは、もはや口に運ぶ気になどならなかった。


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