16.

「……ちゃん、名前ちゃん!」

 名前を呼ばれてはっとした。
 手に持ったジョウロから水が溢れ出ている。うすぼんやりしていた脳みそが急に冷静になって、私は声にならない叫びを上げながら急いでホースのつながっている蛇口を締めた。
 駅前の商店街にある家族経営のフラワーショップ、そこが私のアルバイト先である。店内ではなかったからいいものの、店の前の道は冬だというのに打ち水でもしたかのようにびしょびしょに濡れてしまっている。長靴を履いていなかったら、きっと足元もグショグショになってしまっていただろう。

「うわああごめんなさい……!」

 立ち上がって深々と頭を下げながら、恥ずかしさと情けなさでどうしようもないほどに顔が熱くなった。顔を上げることができなくて、ダークグリーンのエプロンの裾をぎゅっと掴む。お給料をもらってお仕事しているのに、私は何をやっているんだろう。ジョウロに繋いでいたホースを引き抜きながら、目の奥まで熱くなってきた。 

「そんなに謝らなくても大丈夫よ。っていうか何かあった?」

 道が水浸しなことより名前ちゃんのほうが心配なんだけど。そう言って私の肩をぽんぽんと叩いてくれたのはこの店のオーナーの娘さん、現店長である。
 六十代のオーナー夫婦と、その娘さんがやっているこの生花店で、私はもう三年アルバイトをしている。穏やかなオーナー夫婦と、ハツラツとしていて明るい女店長、外の会社にお勤めの控えめで優しい旦那さん、そして小学生の娘さんがいる。

「すみません……」

 心当たりがありすぎる。というか、それしかないんだけど。
 二限が終わって食堂であの会話を聞いた。それを一緒に聞いていた友人は「名前、めちゃくちゃ顔色悪いよ? もう今日は帰りなよ、ひとりで帰れる?」と私の顔を覗き込みながら心配してくれたけれど、大丈夫とひとことだけ言って三限に出た。本当は全然大丈夫なんかじゃなかったし、彼女と別の講義であることがどうしようもなく心細かった。
 結局三限の講義の内容は何ひとつ頭に入らなくて、引っ張り出したルーズリーフは講義が終わっても真っ白なままだった。アルバイトのシフトが入っていたのでこうして出てきたけれど、見ての通りのこの体たらくである。

「いつもぽやっとしてるけど、今日はちょっと違う感じだね」

 私の両頬を両手で挟んで、じーっと目を細めて見つめてくる店長。真っ直ぐに目を合わせることができなくて、私は視線を下に下げる。こんなにしょうもないことでもやもやして頭がいっぱいだなんて、恥ずかしくて情けなくてとても言えるわけがない。

「……ごめんなさい」
「わかった、無理には聞かないよ。でもね、心でも体でも具合が悪いときは無理しちゃダメ。今日はもう帰っていいから」
「え!? いや、そんな、それこそご迷惑になります!」
「帰ってゆっくり休むのが今日の名前ちゃんの仕事。それで次のシフトまでに元気になってくることが宿題ね」

 さっさと帰ってあったかいお風呂にでも入ってガーッと寝てすっきりしてきなさい、と店長は私のおしりを勢いよくぴしゃりと叩く。「いたい!」と少しだけ跳ねた私の様子をケラケラと笑いながら「話したくなったらいつでもオネーサンが相談乗ったげるから」と店長は言う。

「名前ちゃん、ぐあいわるいの?」

 店の奥から顔を出して、ぱたぱたと駆け出してきたのは小学生の娘さんだ。私がここでアルバイトを始めたときはまだ幼稚園の年長さんだったけれど、今はもう小学二年生になった。彼女は丸い目を心配そうに揺らしながら私のことを見上げている。私はしゃがみこんで、彼女の目線に合わせた。

「えーと……ちょっと寝不足みたいなの」
「しってるよ、大学生はいそがしいんだよね。ごはんたべていっぱいねて、元気だしてね」

 よしよし、と私の頭を撫でてくれる優しい小さな手に涙が出そうになる。こんな小さい子にまで心配をかけて、私はいったい何をやっているんだろう。罪悪感と己の情けなさで胸が余計に苦しくなった。
 店長や彼女の言う通り、今日はさっさと家に帰って早々に寝てしまおう。今日がまだ月曜日だということに気持ちが更に萎えてしまいそうだけど、これ以上落ち込まないためにもそんなことは考えないようにしよう。
 エプロンを脱いで長靴を履き替え、店長と娘さんにもう一度深くお辞儀をしてから「お先に失礼します」と言って店をでた。水に濡れることを気にしてバイト中は外している腕時計を鞄の中から取り出すと、時間はまだ十八時前だった。それでも十二月ともなれば外はもう真っ暗だ。あの公園の横を通るのはあの日以来避け、遠回りして明るい道を行くことにしている。
 暴漢に襲われそうになった時、駆けつけてくれた三井くんの必死な声は今でも忘れられない。あの時抱きしめてくれた彼の胸の鼓動は私と同じぐらいバクバクと鳴っていた。
 いつも見せてくれる屈託のない笑顔や、照れてムスッとしている彼の表情を思い出す。やっぱりもう戻れない。どうしようもないぐらい好きで好きで仕方ない。だからこんなに苦しくて、気持ちを我慢すればするほど胸の奥が痛くて痛くてたまらない。視線が地面におりると、小さく吐いたため息は自分のつま先に向かって落ちた。
 あの日の飲み会の後で彼と歩いた道とは違う、人の往来が多い大通りを歩きながら、キラキラと光るイルミネーションを見上げて、その眩しさに目を細める。
 彼が進むべき道で、私の存在が邪魔になってしまうのなら近くにいるべきではない。そんなこと、最初からちゃんと分かっていたはずなのに。優しい彼のことだから、べそべそ泣いている私のことを放っておけなかったのだろう。情に流されてしまっただけなんだ。本当はうぬぼれちゃダメだったのに。じわりと目の奥が熱くなったけれど、上を向いてそれを堪えた。
 二人で並んで歩いて、キラキラ輝くこの冬の景色を一緒に見られたらだなんて、まだそんなことを考えてしまう自分が浅はかで、そしてとてもバカらしくて少しだけ笑ってしまった。


***


 インターホンが鳴ったのは二十一時過ぎだった。
 帰宅したのは二十時頃で、バイトを早く上がらせてもらってから二時間もイルミネーションを見上げてぼんやりしてしまっていたらしかった。帰ってきて、着ていたコートも掛けもせずに床にほっぽって、ベッドにうつ伏せになりながら微動だにせずただただぼーっとしていた。
 その音にハッとしてゆっくりと起き上がる。出なきゃ、と思って急に立ち上がったら、少しだけ眩暈がした。はい、とインターホンに出ると「おう、オレ」と彼の声がした。

「……三井くん?」

 だいすきなはずのその声。でも今だけは彼の声を聞くのが少しつらい。部活が終わって、顔を見せに来てくれたのだろう。わざわざ会いに来てくれてうれしい気持ちと、それと同じくらい複雑な気持ちの間で私は「うん」とまったく意味をなさない返事を返してしまった。

「……名前、なんか元気ねーな」

 意外と鋭い。

「ええと、ちょっと実は具合悪くて。バイト早退しちゃった」
「マジか!? 最近さみーからな、あったかくして寝ろよ」

 なんかいるもんあるか、と聞いてくれるインターホン越しの三井くんの声は相変わらずとても優しい。私の事を心から気遣ってくれていることがわかる。これ以上好きになってもどうしようもなく辛いだけなのに、彼への思いは募るばかりだ。やさしくされたら抜け出せなくなる、もう今だってとっくに戻れないところまで来ているのに。

「ごめんね……」
「なんでだよ、具合わりーなら無理すんなって」

 いろんな意味を込めた「ごめんね」は言葉にするのがつらくて胸がつぶれそうだった。
 じゃあまた明日、と言った三井くんの声を聞いてからインターホンの受話器を置く。面と向かって話をしたらきっと泣いてしまう。彼の前で泣いてしまったら同じことの繰り返しになって、また優しい彼の気持ちをまた引き留めてしまうだろう。けれど、それはもうしたくない。
 自分の胸に手を当てて、ぎゅっと目を閉じる。呼吸を整えて、ぐっと奥歯を噛みしめたらちゃんと我慢できる、なんとかせき止められる。今度会えた時は、今まで引き留めてしまってごめんなさいと言おう。もう大丈夫だからって、ちゃんと伝えよう。
 決意をしたのに、喉の奥からせりあがってくる何かを抑えるために私はベッドに倒れこんで枕に顔を押し付ける。こうしていればどこにも漏れることはない。溢れ出そうな感情やなにもかもを外に出さない様に、この気持ちは私の中だけに留めておこう。
 ちゃんと笑って話せるかな。ううん、できるようにしなきゃ。
 我慢できないものが溢れて止まらなくなっても、気づかないふりをしてしまえばそれはなにもないのと同じなのだとやっと気がついた。


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