14.

「ふう……」

 淹れたばかりのココアをひとくち飲んで息を吐く。昨日の夜からもうずっとぼんやりふわふわとした気持ちだ。
 三井くんが部活に行って、ひとりになってからも無性に落ち着かず、すごく気合を入れてキッチンのシンクを磨いたり、ベランダを掃除したりしてしまった。夢中になって何かをしていないと、また昨日のことを思い出してひとりでジタバタしてしまいそうだったからだ。
 浮かれまくりの脳みそをやり過ごしたくて色々と動き回っていたら、気づいた頃にはもう外が暗くなっていた。食欲もなく、夜ごはんのことなど何にも考えていなかった。でもまあ、今日ぐらいはいっか。
 昼前、部活に出る三井くんを玄関先まで送ったときに「がんばってね」とひとこと言ったら、彼は「おう」と歯を見せて笑った。屈託がなくて、ちょっとだけ子どもっぽい素の笑顔。私のだいすきな彼の表情だ。
 スニーカーの紐を結び直し、立ち上がった三井くんは「充電」とだけ言うと、広げた両手で私を抱きしめた。十秒ぐらいそうしていただろうか、すっと離れた彼は私の頭をぽんと触ってから部屋を出て行った。呆気に取られてしまい、ドキドキがやってきたのはそれから大分後のことだった。
 そんなことを思い出して、ここが自分の部屋なのをいいことに堪えることもせず、ついひとりでニヤニヤしてしまう。
 そっか、私、三井くんの彼女になったんだ。
 改めて心の中でそう呟いてみたら、湧き上がってくる言いようのない気持ちを抑えられなくなって、思わず喉の奥から声にならない叫びが飛び出しそうになった。両手で顔を覆い、発散させるようにその場で足をバタバタさせる。
 彼のことを考えるたびに、昨日の夜から今朝まで一連の出来事がありありと頭の中で再生されてしまうのは仕方ないことなのかもしれない。けれど、勝手にリプレイを始める脳みそにはそろそろ落ち着いてほしかった。明後日からまた講義があるというのに、ふとした瞬間ひとりでニヤニヤしてしまうなんてことは何があっても避けたい。
 心を落ち着けるために深呼吸する。もう、今日は何度これを繰り返しているんだろうと自分で自分に呆れてしまいそうになる。
 インターホンが鳴ったのはそれとほぼ同時だった。
新聞勧誘だったらいやだなあ、と思いながらインターホンのカメラを見たら、玄関前に居たのはなんと三井くんだった。私は受話器も取らずに勢いで玄関を開ける。

「うおっ、いきなり出てくるとびっくりすんだろ」
「それ私のせりふ! 来るなら言ってくれなきゃなんにもないのに……」
「いや、メシは宮城と食ってきた。そうじゃなくて」

 名前の顔が見たくて、気づいたら部屋の前まで来ちまってた。そう言うと、三井くんは私のことをそのまま抱きしめて深く息を吐いた。彼の顔が私の首元にあって、当たる吐息がくすぐったいやら恥ずかしいやらで、私はその場で硬直してしまう。

「え、え、なにどうしたの!? 具合わるい!?」
「ちげーよ、昼にした充電が切れただけ」

 混乱しつつ、とりあえず三井くんの広い背中に手を回し、子どもをあやすようによしよしと撫でてみる。
 昼にした充電とはなんぞや、と頭の上にクエスチョンマークを浮かべつつ、必死に何のことだろうといっぱいいっぱいの頭で考えてみる。充電ってもしかして、部活に行く前のハグのことだろうか?

「しあわせでバチ当たっちまうかもな、オレ」
「うん、あの、私もなんだけど、ドア開けっ放しだと寒いし中に入ってほしいかな……」

 何も飾らない三井くんの言葉はどこまでも直球でとってもうれしいのだけど、180センチをゆうに超える身長の彼の体を支えながら力いっぱい抱きしめられていると、しあわせを感じる前に少し、いやかなり苦しいのだ。とにかく体制がきつい、そして腰が痛い。

「悪い、名前の顔見ちまったらなんつーか我慢できねえ」

 果たして、この人は自分がなにを口走っているのかわかっているのだろうか。もう気持ちを伝えあったから吹っ切れてしまったのか、とんでもなく恥ずかしいことを言っていることに気づいているのかいないのか。たぶん後者だ。
 私はまだふわふわと実感のない気持ちなのに、そんな凄まじすぎるときめき攻撃のコンボをボディに容赦なく叩き込まれ、今にも意識が吹っ飛びそうだ。ノックアウト寸前なのに意識を手放さない様に気力でなんとか耐えている、そんな状態である。正直すごくつらい、うれしいのにつらい。なんて贅沢な状況なんだろう。

「名前、言ってただろ」
「ん? 何が?」

 玄関から部屋に上がる時も、三井くんは私のお腹に手を回して引っ付いたままだ。

「夢みたいだとか、そんなこと」
「……うん」
「バスケやりながらよ、なんかオレもそんな気持ちになった。そしたら顔見たくてたまんなくなっちまって」

 そんでいまに至る、と続けた三井くんは、座り込んでからも私に引っ付いたままで離れる気配は一切ない。まるっきり大きな子どもである。それなのに、そんな彼をとてもかわいらしいと思ってしまう。もう完全敗北である。

「昨日のことっつーか、朝まで一緒にいたのとか、ちゃんと現実だったんかなって考えてたら、確認したくていつの間にか来ちまってた」

 そして畳みかけるようなこのかわいらしいセリフ。怒涛の攻撃のせいで私は顔が熱くてたまらなかった。三井くんは照れ屋さんなはずなのに、いったいどうしてしまったんだろう。すぐ耳を真っ赤にするあなたはどこへ行ってしまったの。

「こうやって抱きしめてっと、名前がちゃんとオレのなんだなって実感できる」

 ああ。もうだめだ、たえられない。

「三井くん、あの」
「ん?」
「それ以上言われたらもう私、溶けて無くなってしまうので、だからストップ、お願い」

 顔が見えなくてよかったと心底思う。背中に感じる三井くんの体温と、お腹にある逞しい腕だけでもう煮えてしまいそうなぐらいドキドキしているのに、彼の飾らない、むしろありのまますぎる言葉のラッシュが私にはもう限界だった。
 私たちの関係は進展していて、いまはお付き合いをしていて。
 それでも、だからって昨日の今日でそんなストレートかつド直球な言葉をぶつけられて、力いっぱい抱きしめられて脳内のキャパがオーバーにならないはずないじゃないか。
 認めます、もう私ノックアウトされてます、だからどうか勘弁してください。

「……だめだな、オレまだ浮かれてるわ」

 両手で顔を覆ったままの私をよいしょ、とこちらに向かせる三井くん。

「なんて顔してんだよ。茹でダコみてえ」
「あのねえ、三井くんが恥ずかしいことばっかり言うからでしょ……」

 そう言って三井くんの顔を見たら、彼はギュッと口を結んで眉根に力を入れていた。あ、これ何回も見たことのある表情だ。ええと、もしかして今更我に返って照れてる……?
 このムスッとした表情が、怒ったり不機嫌だというわけではないことを私はとっくに知っている。それがあまりにも面白くて、つい噴き出してしまったら「おまえのがうつったんだよ」と軽くチョップされた。

「なぁ、顔上げろって」

 三井くんの顔が近づいてきて、その唇が私の額に軽く触れた。思わずぎゅっと目をつぶってしまう。それからゆっくり目を開けると、彼と目があってお互いに笑ってしまった。
 胸が破裂しそうな程のドキドキと、まばゆいぐらいキラキラした気持ちと、目の前にいる彼への愛しさが溢れそうになって、私は彼の頬を両手で挟む。

「……じゃあ、おかえし」

 そう言って三井くんの唇に自分の唇を軽く重ねる。恥ずかしい気持ちや照れを全部投げ出してしまうぐらい、自分の中でどんどん彼への気持ちが大きくなってしまっていることに気づく。それは際限なんか無くて天井知らずだ。
 三井くんは驚いたような表情でぽかんと口を開け、言葉もなく固まってしまっている。顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど「どーだ参ったか!」という気持ちで三井くんを見る。

「……反則すんなよ」
「おかえしって言ったもん」
「オレは口にゃしてねえ」
「先にやったもの勝ちです」
「このやろう、言ったな」

 あ、これもしかして煽ってしまったのかもしれない。そう気づいた頃にはもう、ギラつく三井くんの瞳をみとめて逃げられないことを察知していた。
 後頭部をがっと掴まれて押し付けられた彼の唇は、私がした軽いキスとは違う。まるで味わうかのように行われる濃厚なそれは昨日の出来事を彷彿とさせる。力が抜けそうになって思わず三井くんのシャツをギュッと掴んだら、彼はすぐに私の腰を支えてくれた。けれど、どうやらその行為をやめる気はなさそうだ。

「……オレの勝ち」

 ぺろりと唇を舐めながら、私の顔を見て得意げにいう三井くん。けれど、そんな言葉の割に彼の表情には余裕がなさそうだった。なぜならば、彼の瞳のギラギラは収まるどころか増していたからだ。
 息つく間もなく再び口を塞がれ、彼の好きにされながら、やっぱり抗えないなあなんて、早速蕩けはじめたどろどろの脳みそで考える。ふたりで一緒にとけていくことが気持ちよくて、止まらない彼に強引にかすめ取られていくことさえも心地が良くて、とんでもなくしあわせだ。

「名前」

 優しい声で名前を呼ばれるたびに胸が破裂しそうになる。簡単に私の心をさらっていってしまう彼の腕の中で、ゆっくりと目を閉じたらじんわりと胸の奥が痺れた。


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