10.

 気づけばあの試合から、そして自分の気持ちを自覚してから二週間が経っていた。
 三井くんとはあの後も講義で顔を合わせたり、二回ほど一緒に夜ごはんを食べたりしたけれど、認めてしまった気持ちのせいでへんな態度を取っていないかいつも冷や冷やしている。
 けれど、どうやらそれは彼に伝わっていなさそうだ。私は意外と顔や態度に出ないタイプかもしれない。
 人を好きになるなんていつぶりだろう、こんなに楽しくてわくわくする気持ちだったっけ。
 今のこの関係や距離感がとても心地よくて、今はそれを壊したいとは思わない。私が気持ちを伝えてしまったとして関係がギクシャクしてしまうのも、三井くんを悩ませてしまうこともしたくはなかった。
 実際に試合を観て、キラキラしていてかっこいい姿をこの目で見られたことがすごくうれしかったし、彼がいかにバスケに対して真摯に向き合っているのかよくわかった。だから、それ以外のことに構う時間も余裕もないだろうし、そうであってほしいと思った。
 目の前のバスケに真っ直ぐでいてほしいし、ずっとずっと輝いていてほしい。私はその姿を見ていられるだけでとてもしあわせな気持ちになれるのだ。
 だって、今の私の立ち位置はものすごく恵まれているし、とんでもなく贅沢だと思う。大学で顔を合わせるたびに声を掛けてもらえるし、一緒にご飯を食べたり他愛もない会話で盛り上がる。今はそれだけで充分すぎるほどに満たされてしまう。
 それ以上を強く望んでいるわけでない自分がいることは、気持ちを認めた時に気がついていた。
 私はバスケに一生懸命な三井くんを見て自分の気持ちを自覚できたのだから、そんな彼の邪魔になる存在にはなりたくない。
 とまあ、そんな乙女モード全開な頭の中はさておき、私はいま図書館にいる。
 後期が始まって早二ヶ月。試験は年明けの一月半ばから始まるが、今は講義も折り返し地点で提出レポートに追われる時期になっていた。家で課題をやったほうが捗る日と、大学の中で済ませてしまったほうがいい日があって、今日は後者だった。
 夕方四時過ぎに四限が終わり、バイトがあると言っていた友人と別れて図書館に来た。本を借りて家でやるのも面倒だったし、今日はここで出来るところまで済ませてしまおうと思っていたのだ。
 受講している講義の全てで試験が実施されるわけではなく、出されたテーマのレポートを提出し、それが評価になる講義も多々あった。
 つまり、計画的にコツコツと進めていなければいけないのだ。必修である講義の大体はレポートを挟みつつ試験が必ずあるが、選択の講義はレポートを重視されるものばかりである。
 資料を探して本棚を漁っていた時、ふと医療や科学の分野の棚が目に入る。そういえば、選択講義でスポーツ科学なんていうものがあった気がする。次の学期に取ってみるのもいいかもしれない。
  うわ、また考えちゃってる。私は邪念を払うべく軽く首を横に振るとくるりと踵を返し、自分が求める資料がありそうな本棚へと向かった。

***

『閉館時間です。学生はすみやかにご退館ください』

 アナウンスの声にはっとする。どうやらかなり集中していたようだ。
 顔を上げると窓の外はいつの間にか真っ暗になっており、周りにいた学生もほとんど居なくなっていた。左手に嵌めた腕時計に目をやると、もう夜の八時を回ろうとしている。自分で広げたルーズリーフや筆記用具を急いでカバンにしまい、机に持ってきていた本を返却する。
 レポートの方は大分進んだので、なんとか余裕をもって仕上げられそうだ。やっぱり今日は図書館に来て正解だったと思う。今日は金曜日なので、明日明後日に家で少し手直しをしたらきっと完成するはずだ。頑張った自分を褒めてあげたい。
 特別にちょっといいアイスでも買って帰ろうかなあ、冷凍庫になにかあったっけ、とぼんやりと考えながら、図書館を出てすっかり暗くなって人もまばらな学内を歩いて正門へと向かう。
 ふう、と吐いた息が白い。そのせいか急に寒さを感じてぶるっと身震いする。剥き出しの首が寒くて、ストールでも持ってくればよかったと今更後悔する。ついこの間まで暑い夏だったはずなのに、秋を満足に感じる暇もなく空気が冷たくピンと張りつめる季節になってしまった。
 しかし、こんなに寒くても私の中にあるアイスを食べたいという欲求は萎えていない。我ながら欲望に忠実だと思う。頭を使ったから余計に脳みそが糖分を欲しているのだろう。そういうことにしておきたい。
 夕飯はうどんでも適当に煮たらいいや、とぼんやり考えながら歩いていると、突然肩を叩かれた。驚きすぎて思わず大げさに飛び上がってしまった。暗い道と相まって、突然のことに心臓が早鐘を打つようにバクバクと鳴っている。

「よう、まだ残ってたのか」

 声でわかる、三井くんだった。

「お、驚いたでしょ! もう!」
「悪かったって、そんな飛ぶほど驚くと思わなくてよ」

 悪いと口では言いつつ、彼が憎たらしいニヤニヤ笑いを浮かべているであろうことはこの暗い中でもなんとなくわかった。ちょっぴり、いやかなりムッとする。

「あんまりボーっと歩いてると危ねえぞ、すっ転ぶかもしれねえだろ」
「そうですね、今みたいに驚かしてくる人もいるし」
「怒んなって」

 心配してやってんだよ、最近暗くなんの早くなったし、と彼はまた保護者みたいなことを言う。こういうところ、やっぱり心配性のお父さんっぽさがある。
 堪えきれずに少しだけ笑ってしまったら、隣にいる三井くんは「なんだ?」と訝しげに首を傾げた。

「通学は自転車なんだね」
「おう、大体そうだな」

 そういえば、こうして一緒に帰るのはあの時の飲み会以来だ。学内で顔を合わせることはあっても、帰りにはちあうのは初めてだった。
 それもそのはず、今はもう夜の八時を回っている。私の家で夜ごはんを一緒に食べる時、三井くんは夜の七時過ぎに練習を終えてやってくる。今日が少し遅めなのはどうしてだろうと、気になって聞いてみたら「インカレ近いし、練習し足りなくて少しだけ居残って自主練」と彼は言った。

「そっちは?」
「とってる講義のレポート。切りのいいとこまでやろうって図書館で頑張ってたんだけど、気づいたら閉館時間になっちゃってて」
「苗字さんて、ぼーっとしてるのになんだかんだで真面目だよな」

 一言多いという気持ちを込めて、私は三井くんの脇腹に軽いパンチをお見舞いした。「おい卑怯だぞ、チャリ押してっからガードできねえのに!」なんて口では言いつつも、彼のその声はなぜだかちょっとだけ楽しそうだ。

「あ、そうだ。今日適当に煮込みうどんするけど、もしごはんまだだったら食べにくる?」
「マジか! 食う!」

 そこで気づいてしまった。なんだか食べ物で釣ってるみたいだ。ものすごく卑怯なことをしている気がしてきた。でも、彼がうれしそうだしまあいいか。
 私の中でぐるぐると渦巻く複雑な乙女心と、それとは相反する罪悪感にはもう見て見ぬふりを決め込むことにした。私ってもしかして、本当はすごくすごくずるい女なのかもしれない。

「うわ、やっちまったかも」

 三井くんがそう呟いたのは、駅を過ぎて少し歩いたくらいの時だった。
 夏の終わりに参加した飲み会が開催された居酒屋あたりで彼は自転車を止め、ポケットを探り、うーんと唸って目を細めると、リュックをガサゴソやり始める。初めて会った時もおんなじような場面を見た気がする。

「……携帯、部室に忘れてきた」

 三井くんは深いため息をついてから頭をガシガシと掻いた。

「取りに戻ったほうがいいよ」
「んー、でも明日昼から部活あっからどうせ行くし」
「そんな時に限って急な連絡あったりして」

 顎を触りながらうーんと悩む様子の三井くんは、ちらりと私の方を見る。

「もう大分暗いのに苗字さんのこと置いてけねえって」
「子どもじゃないんだから大丈夫だよ、ごはん作って待ってるから、ね!」

 さっさと行ってさっさと戻ってきて、と私は彼の背中を二度ほど軽く叩く。
 三井くんはどうやら私を一人で帰すことを渋っている様子だ。心配してくれるのはすごくうれしいことだけど、私ってそんなに危なっかしいだろうか。そしてその気持ちがうれしくてニヤけそうになるのを必死に堪える私。暗くてよかった。
 むむむ……と顔をしかめている三井くんは、納得いかない様子ではあったが諦めたようにひとつ息を吐き出すと「マッハでかっ飛ばしてくる」と言って自転車を跨いだ。

「急ぎすぎて事故らないでね」

 私の声に「おう」と軽く、かつ簡潔に返してきた三井くんは言葉のとおり、かなり自転車を飛ばしながら来た道を戻っていく。自転車ならばここから大学まで五分もかからないだろう。
 さあ、さっさと帰ってごはんの支度をしなきゃ、と私は彼の背中を見送ってからアパートの方向へと向き直った。三井くんと会えたし、一緒にご飯食べることになったし、これってもしかしてレポートを頑張ったご褒美なのかな。
 長い時間集中していたせいだろうか。心なしか体がものすごく疲れている気がするし、目もなんだかしぱしぱしている。レポートの続きはやっぱり明日終わらせる事にしよう。
 夕方までは子どもたちで賑わっていたであろう公園の脇を歩く。その公園も今や真っ暗で、奥にあるブランコや滑り台の影、風に揺れてカサカサと鳴る葉の音がとても不気味に思えてくる。
 この道ってこんなに暗かったっけ。街灯の間隔、こんなに空いてたんだ。それにしても、どうして住宅街に入ると街灯が減るんだろう。
 すっかり冷たくなった両手を擦り合わせて息を吹きかける。その腕を後ろから掴まれたのは、手をジャケットのポケットに突っ込もうとした時だった。

「あれ、三井くん? 早いね」

 くるりと振り返ると、彼が立っていた。声かけてってさっき言ったばっかりなのに。そこで気が付いた。彼の傍に自転車がない。自転車に乗って行ったはずなのに一体どこにやっちゃったんだろう。それに戻ってくるのがあまりにも早い気がする。まだ時間、全然経ってないのに。
 私の腕をガッチリと掴んでいる彼を見上げながら、不思議な感覚に陥った。彼と目を合わせる時、いつもは確かもうちょっと上を見上げていた気がする。そして、暗さのせいか表情はよくわからないけれど、いつの間にかマスクをしている。
 いや、違う。このひと、三井くんじゃない。
 その事に気がついた瞬間、背筋が急に冷たくなった。頭のてっぺんから血の気がすっと引いて、それから喉の奥がギュッとつまるような感覚。
私はその人を見上げたまますっかり足がすくんでしまっていた。腕を掴まれたままで全く動かない体は自分のものではないみたいだ。

「三井くん、ね……」

 男か、と漏らした声はもちろん私の知っている三井くんのものではない。私の腕を掴んでいる知らない男のその手は三井くんのあたたかくて優しい手ではない。理解が追いつかない。頭の中が混乱して全く処理をしてくれない。
 男は掴んだ私の腕をそのまま強引に引っ張ると、公園の中へと引きずっていく。抗おうとしてみても、当たり前だが力では到底敵わない。
 離してください、と喉から発した精一杯の声は情けないぐらいか細く、そして震えが混じっていた。怖い思いをしたり、電車でいやな目にあった時に声が出せないだなんて、嘘だろうと思っていた。自分がこんな状況に陥るまでは。
 力任せに倒されて、勢いよく地面に叩きつけられる。擦りむいた膝と咄嗟に地面についた手のひらの痛みなんかより、恐怖の方が優っているせいか体の感覚がない。足はすっかり硬直してしまって全く動かすことが出来ず、体は小刻みに震えている。なんとか逃げようとしてみても、恥ずかしいことに腰が抜けてしまっていて立ち上がる事もできず、ずりずりと後ずさりしながら距離をとるのが精一杯だ。
 後ずさる私の腕を再び掴み、目の前にしゃがみこんだ男はマスクを顎までずらすと楽しげに歯を見せて笑った。私の頬に触れる男の手のひらは生ぬるくてひどく気持ちが悪い。その不気味さにぞくりと肌が粟立ち、異様な状況に胃がせりあがってきて吐き気を覚える。
 こわい、たすけて。

「てめえ、何してやがる!」

 その声とほぼ同時に、ガシャーンという何かが倒れる音。そしてぶつかるような鈍い音が耳に届く。思わずビクリと体を揺らし、ギュッと目をつぶる。それからゆっくり目を開いたら、私の目の前にいた男は消え、二メートルほど先に吹っ飛んでいた。周りをきょろきょろと見回すと、私の背後には自転車が転がっている。
 今度こそ間違いじゃない、よく知っている彼の声。しかし、その声は今までに聞いたこともないぐらい低く、怒りに満ち満ちている。それでも、そこに立っているのは紛れもなく三井くんその人だった。
彼は拳を硬く握り、肩を上下させながら荒い息を吐いている。私はガタガタと震える自分の体を両腕で抱きしめる。
 三井くんに殴られたらしい男は砂利を鳴らしながら立ち上がると、逃げるように暗い公園の奥へと走って行った。
三井くんは即座に男を追おうと一瞬構えたが、それを諦めてこちらに駆け寄ってくる。

「何された!? 怪我は!?」

 大丈夫だと伝えたくても、パクパクと口が動くばかりで全く声が出てこない。彼を安心させたいのに恐怖で脳が麻痺していた。情けなく震える体を抑えながら、私は必死にふるふると首を横に振る。

「やっぱり置いてくんじゃなかった」

 しゃがみこんだ三井くんの表情は暗がりのせいかわからない。彼の手のひらが私の肩にそっと置かれる。怖くない、怖いわけがない。それは私を助けてくれた、しかも大好きな人の手だとわかっているのに、気持ちとは裏腹に体は大げさにびくんと跳ねた。

「……本当に悪かった」

 三井くんはそのままカタカタと震える私の体をゆっくりと、そしてきつく抱きしめる。
 あたたかい。どくんどくんという彼の鼓動と、そのぬくもりが伝わってくる。冬なのにちょっと汗ばんだ首筋はどれだけ急いで追いついてくれたのかを如実に証明している。心配して急いで戻ってきてくれたんだ。
 さっきの知らない男の暴力的な力ではない。全く逆だけれど力強くて、そしてあたたかい腕に抱きしめられながら、いつの間にか震えは止まっていた。


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