11.

「結構がっつりいってんな……」

 たぶん染みるぞ、と私の手のひらを見ながら三井くんは言った。
 あの時は怖くて何も考えられなかったが、いざ家に帰って落ち着いてくると擦りむいた膝と手のひらがだんだんと痛くなってきた。ジンジンというより、ドクドクと鈍く脈を打っているような感じだ。
 部屋につくなり、流水で手のひらと膝を丁寧に洗ってくれた三井くんは、私をベットに座らせると「救急箱どこにあんだ?」と問うてきた。場所を教えると、彼は救急箱を引っ掴み、中から消毒液と脱脂綿、ガーゼなんかを取り出してテキパキと処置をしてくれた。

「手際、すごくいいね」
「ん? ああ……昔よく怪我してたからな」

 ちょっと含みを持たせた言い方だったのでそれ以上追求しないようにした。消毒液は案の定とても染みて、思わず手を引っ込めそうになったけど、せっかく三井くんが手当てをしてくれてるのだからと我慢する。
 ヒリヒリと痛む患部を見ていたら、あの恐怖が蘇ってきた。消毒液が染みたせいではなく、また自然に体が震えはじめる。それに気がついたのか、下にあぐらをかいて座っていた三井くんが何とも言えない表情で私を見上げる。

「隣、座っていいか?」

 こくんと頷いた私の横に三井くんが座る。

「いつもぼーっとしてるし危機感ねぇし、だから心配だった」
「ごめんなさい……」
「いや違う、悪かった。こんなこと言いたかったわけじゃねえ」

 三井くんは頭をガシガシと掻く。

「……なあ、オレのことも怖いか?」

 そんなはずない。そう伝えたくて、私は首を何度も横に振る。何もされなかったのはあの時駆けつけて助けてくれた三井くんのおかげだ。
 でも、もしすぐに三井くんが来てくれていなかったら。そもそも気付いてもらえていなかったら。それを考えるだけで体の奥がすうっと冷えていく。
 返す言葉が見つからなくて、私はそっと三井くんの手に触れた。いつものあたたかくて大きくてごつごつした男の人の手だ。魔法みたいにきれいなシュートを放つ彼の手は、さっきの男を思い切り殴ったせいか若干赤くなっている。

「苗字さんが引っ張られていくの見えて、頭ン中真っ白になった」

 三井くんはポツリと言いながら、私の手を強く握り返してくる。

「なんもなくて本当によかった……」

 そういうと彼は私の腕を掴み、そのままグイッと自分の方へと引き寄せる。
 突然の事に驚く間もなく、私はすっぽりと彼の胸に収まってしまっていた。三井くんの手が私の後頭部を優しく撫でて、彼の口から深いため息が漏れた。

「……いきなりごめんな。でも、嫌じゃなきゃ少しだけこうさせといてほしい」

 彼の首のあたりに顔を埋めながら、自分はなんて調子のいい奴なんだろうと呆れてしまう。怖い目にあったはずなのに、それなのに今は三井くんのぬくもりを直接感じて心の中があたたかくなっている。
 すう、と息を吸い込むと、三井くんの香りがした。こんなにも優しいこの人のことを、怖いだなんて思うはずがない。ああ、そっか。私はいつの間にか、こんなにもこの人のことが。

「だいすき」

 ……? 
 あれ、私、今なんて言った?

「……なあ、今の」

 ばっと顔を上げると、三井くんは驚いたような焦ったような、そんな微妙な表情をしていた。鏡を見なくてもわかる、私もそれとおんなじ表情をしているに違いなかった。
 落ち着こう、そして頭の中を整理しよう。もしかしていま、私は。

「ちょ、ちょっと、ちょっとまって」
「え? あ……あぁ、おう」
「あのええともしかして、まさか……まさかだけど私、声に出してた?」

 サーッと血の気が引いていく。まさか、まさかこんなタイミングで言ってしまうなんて!
 この気持ちを伝えるつもりなんてなかった。だって、伝えちゃったらこの心地いい距離感と関係性が崩れてしまうに決まっている。だから、こっそり想っているだけにしようって決めたのに。ほっとしたせいで気持ちが緩んで、その想いが口からこぼれ出てきてしまったようだ。
 たった今、自分が何を言ったのかをはっきりと認識して、そしてこの事態をやっと頭で理解し始めたら、今度は顔面が爆発するんじゃないかというぐらい熱くなってきた。もういっそこのまま熱で溶けてこの場所から消えてなくなりたい。蒸発して跡形もなくなってしまいたい。
 すっかり混乱して両手で自分の顔を覆っている私の耳に届いたのは「なんだよ」と独り言のように小さくぼやく三井くんの声だった。

「それ、オレが言おうと思ってたんだぞ」
「ごめんなさい、もう何も言わないで……へ?」
「絶対オレの方が先に苗字さんのこと好きになってるからな」

 いつの間にか三井くんの手が肩にあって、ゆっくり顔を上げたらお互いの視線がかちあった。
 真剣な表情と、真っ直ぐに私を見つめてくる瞳から目が離せない。恥ずかしくて今すぐ逃げてしまいたいのに、どうしてだろう。それができない。

「めちゃくちゃ好きだ」

 視界が急に歪んだ。
 いつから私の涙腺はこんなにもゆるくなってしまったんだろう。この間は感極まって泣いて、さっきまで怖くて泣いていて。
 はずかしい、うれしい、びっくり、しんじられない。全部の感情がまぜこぜになって気持ちも頭も混乱している。
 きっと今、私の顔はまたぐちゃぐちゃになってしまっているに違いない。大好きな人にそんな顔を見られてしまっているということに気づいて、今更隠したって意味はないのに手のひらで顔を覆う。そんな気持ちも空しく、もともと恐ろしく脆い堤防のおかげで涙は次から溢れて止まりそうにない。

「泣くなって」

 どうしたらいいかわかんなくなっちまうだろ、と言った三井くんの困ったような笑顔に胸がきゅうと締め付けられる。
 一生懸命で努力家で、どこまでも真っ直ぐで、そして負けず嫌いで。ちょっと強面だし、不器用だからわかりにくいけれど、でも実は底抜けに優しいこの人のことが、この人の全部がどうしようもなく好きだ。
 私の頬に触れている三井くんの手のひらが熱い。その親指が私の目元を優しく拭う。この間試合を観に行った時、私の手を掴んだり頭を撫でてくれた手のひらも熱かった。
 ぼうっとするくらいふわふわとした気持ちのせいか、擦りむいた手のひらも膝の痛みも麻痺したかのように感じなくなっている。

「なあさっきの、冗談とかじゃねえよな?」

 オレ、いまめちゃくちゃ浮かれちまってる。
 そう続けた三井くんの手のひらが私の頬を優しく滑って、その親指が唇にたどり着く。
 意志の強い真っすぐな瞳がじっと私を見つめている。頭の中は熱に浮かされたみたいにぼうっとしていたけれど、私はその言葉を肯定すべくこくんとひとつ頷いた。歪んだ視界と蕩けそうな思考の中で、こうするのが精一杯だった。それを確認した三井くんがひとつ、短く息を吐く。

「……今更嘘っつーのはナシだぞ」

 こつんとお互いの額と額が触れて、至近距離でぱちんと視線が交差する。私の唇に触れていた三井くんの指が顎におりて、かすめ取られるように唇が重なる。ゆっくりと倒れこみながら彼の吐息を感じると、はちきれそうな幸福感が胸を満たした。
 目を閉じたら、またぼろっと涙がこぼれた。


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