3-1.


 出勤したらまず窓を開け、応接用のテーブルを拭いてから掃除機をかける。
 弁護士先生方より少しでも早く出勤して業務環境を整えておこうと勝手にやりだしたことだけど、このルーティーンをこなすと今日もまた一日が始まるのだと気持ちのスイッチが入る。
 応接用のテーブルの上が殺風景だからお花を置いてみるのもいいかも、なんて考えながら開け放した窓から外を見る。
 眼下の道を歩いているのはスーツ姿のサラリーマンや、出勤途中らしきOLさん達。神室町という町は、きっとこの時間帯がいちばん静かで穏やかだ。
 歩いているだけで必ずと言っていいほど視界に入ってくる明らかにそういうお仕事なんだろうな、という風貌をした人たちの姿が、この時間帯だけは見当たらない。昼過ぎから夜にかけてどんどん増えていく彼らは、全員漏れなく夜型人間のなのかもしれない。
 朝の空気が気持ちよくて、うーんと伸びをしていたら、事務所入り口の扉がギィ、と音を立てる。
 振り向くとさおりさんが出勤してきたところで「おはようございます」と挨拶をすると、彼女は微かに目を細めて微笑んだように見えた。

「おはようございます。名前さんいつも早いですね」
「朝起きるの得意なんです。あとこっち来てから体調良くて」

 応接用テーブルを拭きながら「あの、私ちょっと考えてみたんですけど」とさおりさんに話しかけると、ちょうど自席に着いたばかりの彼女はハンドバッグから書類やらを取り出しながら顔を上げ、小さく首を傾げてみせた。

「このテーブルの上、お花飾ったりしちゃダメですかね?」

 書類広げたりするから邪魔にならないように窓際の隅とかに、と付け足すと、さおりさんは間髪入れずに「それいいですね、賛成です」と返事をしてくれた。
 よし、さおりさんの賛同も得られたことだし、手が空いていそうな頃合いを見て源田先生に相談してみよう。

「おはようございます! 今日もうちの女性二人は楽しそうですね」

 そう言いながら入ってきたのは星野さんだった。
 そんな彼の言葉に顔を見合わせて、小さく笑いあった私とさおりさんを見る星野さんはなんだか嬉しそうである。

「名前さんが来てくれてから、さおりさんが楽しそうなので僕はすごーく嬉しいんです、本当に感謝してます!」

 さおりさんは、そんな星野さんに「星野くんは朝から何を言っているんですか?」冷ややかな一言と共に一瞥をくれていたが、最早そんなことは日常茶飯事となっているらしく星野さんにほとんどダメージは無さそうである。弊事務所の若手弁護士様はメンタルが大変お強くていらっしゃる。

「おう、今日も早いな若人たちは」

 ちょうど源田先生のデスクを拭いている時に現れたこの事務所の長は、まだ少し眠たそうな様子で大きくあくびをしたのち「いつもありがとな」とその目尻に皺を寄せて笑んでみせた。
 何も考えずに上京してきたのに、良いタイミングでこの職場の求人を見つけて、しかもありがたいことに採用までもらえたのは運が良かったとしか言いようが無い。
 もし神様が存在しているのならば、額を地面に擦りつけながら感謝したい。神室町という地名にも神という字が入っているし、この場所に住んでいる神様がいるなら私は信者になってしまうだろう。
 神室の町って書くぐらいだからそういう伝承みたいなものがあるのかな、なんてぼんやりと考えてみる。この町に腰を据えている神様は、派手好きで賑やかな神様に違いないと思う。
 コーヒーを淹れるために給湯室に入り、ほんの少し懐かしさを感じる白い電気ポットに水を入れる。事務所の電話が鳴ったのは、そんな時だった。
 慌てて給湯室から出ると、さおりさんが既にその受話器を耳に当て「お電話ありがとうございます。源田法律事務所、城崎です」と対応していた。
 さおりさんはちらりとこちらに視線を向けて、私に「大丈夫ですよ」と言うようにこくんとひとつ頷いてみせる。
 それに甘えて給湯室に戻ろうとした瞬間、耳に入ってきた「八神さん、お久しぶりです」という彼女の声で、私はもう一度給湯室から顔を出すことになったのである。

「先日お願いしていた件なんですが、追加の資料がありまして。ええ、こちらは用意できているのでいつ来ていただいても構いません」

 電話口で八神さんと会話をしているさおりさんに何とか伝わるように「私が持っていきたいです!」の意を込めて熱い眼差しを向ける。
 この間は八神さんに会えなかったことも残念だったが、話に聞く八神探偵事務所に入れなかったことも悔しかったのだ。

「うちの新しい事務員さんが八神さんに会いたがっていて、そちらに伺いたいみたいなんですけど」

 今日事務所にいらっしゃる時間帯に届けさせますね、とさおりさんが私の意図を汲んでくれた。
 どうやら、これでようやく噂の八神さんと初対面を果たすことができるらしい。そして、あの時外側から様子を伺うだけにとどまってしまっていた探偵事務所の中に入ることが出来る。探偵事務所って、いったいどんな感じなんだろう。
 それでは失礼します、と受話器を下したさおりさんがこちらに向き直り「ということなので、名前さんお願いしますね」と私に向かって言う。

「もちろんです、ありがとうございます!」
「八神さん、今日は一日事務所にいらっしゃるとのことです」

 そんなやり取りを眺めていた源田先生は「昼メシの後とかがいいんじゃねえか、あんまり遅いと日も暮れちまうしな」とかなんとか言いながら相も変わらず私に対しての過保護っぷりを発揮している。
 邪険にされていないことをありがたいを感じつつも、そんな源田先生の様子を見ていると私ももっとしっかりして安心させられるようにならないと、という気持ちが強くなる。
 業務だというのにわくわくしてしまう気持ちを必死に抑えつつ、私はようやくポットの沸騰ボタンを押す。今日の午前中も何人かのお客さんが相談に訪れる予定だし、ちゃんと確認しなくちゃ。
 緩みそうな気持ちを引き締めるべく、給湯室の中でこぶしをグッと握った。


***


 昼下がり。怒涛の来客対応だった午前中を終え、ビル横のコンビニで適当な昼食を済ませた私は、この間も握りしめていた追加資料の入った紙袋をぶら下げながらバッティングセンターの横を通り過ぎる。
 カフェやレストランのランチタイムも終わる頃合いの午後二時過ぎは、ほんの少しだけ人の往来が緩やかになる時間帯である。時計の針が真上を示していた頃に同じく天辺にいた太陽も、心なしかほんの少しだけ傾いたように感じる。
 私は手に持った紙袋に入っている書類をチラチラと確認しつつ、八神探偵事務所への道のりを復習するように歩く。
 探偵を生業としている人と会うのも、探偵事務所という場所に入るのも初めてだ。
 この間もまったく同じようなわくわくを抱えて向かったものの、結果は不完全燃焼となってしまった。けれど今回はアポもしっかり取ってあるのでそうはならないだろう。
 そんなことを考えていたら、ほんの少しだけ緊張してきてしまった。八神さんとはこれから顔を合わせることも多いだろうし、失礼が無いようにしっかり挨拶しなくちゃ。
 名前を名乗って、書類をお渡しして、これからよろしくお願いしますって言えば大丈夫だよね。
 脳内でそんなシミュレーションをしながら軽い足取りで劇場前通りを歩いていた私は、不意に視界に入ってきたもののせいで思わず足を止めてしまっていた。
 こんな場所にいるわけがない。そう思っていても視界に入ってきたその背中は、同棲していた元彼にとんでもなく似ていたのだ。
 実家の両親には同棲を解消したことを伝えていたけれど、念のために上京してからの所在地を誰かに聞かれてもまだしばらくは教えないでほしいということを伝えてある。
 衝動的に出てきてしまったので、近しい友人たちにもまだ連絡をしていない。もちろん元職場の人に現在の住所を教えるようなこともしていない。だから、知られているわけがない。
 呼吸が浅くなり立ち止まってしまった私は、少しだけ早く鼓動し始めた胸のあたりを無意識に押さえていた。
 いるわけない、こんなピンポイントでこの場所に現れるわけがない。それに、あの人は私に執着なんてしていない筈だ。
 その人物が路地を曲がるタイミングでちらりと見えた横顔が全くの別人であったことで、血の気が引いてしまっていた体にようやく感覚が戻りはじめる。たった一瞬の出来事だったはずなのに、気が遠くなるほど長い時間硬直してしまっていたんじゃないかとさえ思った。
 ようやく周りのざわめきが耳に入り、安堵しながら深く息を吐き出す。結局はただの他人の空似だったのに、心底動揺してしまったことがとんでもなく恥ずかしい。
 ふるふると首を振り、気分を切り替えて再び歩きだそうと一歩踏み出した瞬間「お姉さんちょっと待って!」という声と共に紙袋を下げていない方の右手首を掴まれた。

「へ……?」

 咄嗟のことに驚き、間抜けな声で振り向くと、そこにいたのは知らない男性だった。
 私はぽかんと口を開けたまま、その人物の頭の上から爪先までをじーっと見つめて小さく首を傾げる。
 色の抜けた金髪、オーバーサイズ気味の服は派手な色合いで、その男性の首には金色のチェーンのようなアクセサリーが下がっている。
 彼は口元に笑みを浮かべながら「いきなりごめんね」と軽い調子で続けた。

「こんなところで立ち止まってどうしたの? 誰か待ってたりすんの?」
「えっと、私向かう場所があって」
「あーホラ、そういう嘘止めようよ。ねえ、男引っかけようとしてたんでしょ?」

 お姉さんなら俺引っかかっちゃおうかなあ、なんていいながら下卑た笑みを浮かべている男。その見た目通り、やはり彼はチンピラの類らしい。
 ついさっき「もっとしっかりしなくては」と気を引き締めたばかりだったのに迂闊だった。最初にこの町を訪れた時もそうだったし、仮面の彼にも気を付けるように言われていたのに。
 その男から視線を外して周りを見回してみるが、道を行く人たちがこちらの様子を気に留めている様子はない。そこそこ人通りがあり、待ち合わせ場所としてもよく活用されている劇場前の広場近くで手を引かれている女がいても、この場所ではそれが特段違和感を感じさせる光景ではないからだ。

「あの、いま仕事中で、なので」

 手を離してくれませんか、と続ける。掴まれたままの腕にほんの少し力をこめて振りほどこうと試みるも、まあそんな抵抗が通じるわけもなく。
 困った、そして自分の間抜けさとエンカウント率の悪さにはほとほと呆れてくる。神室町の神様のご加護は、蔓延るチンピラに対しての効力は無いらしい。

「ごめん、待たせちゃったね」

 背後から突然肩を引き寄せられた私は声を上げることもできず、驚きのあまりただただ小刻みにぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 肩に感じる誰かの手のひらのぬくもりと、つい最近どこかで聞いた覚えのある声。
 硬直したまま未だ目の前で私の手首を掴んでいる男を見上げると、男は不愉快そうに目を細めなから「横から入ってきて邪魔すんじゃねえよ」と私の背後にいるであろう人物に向かって低い声で言った。

「この子、僕と待ち合わせしてたんだ。そういうわけだから、悪いけどナンパなら他の子にしてもらえる?」

 真後ろで聞こえるそんなセリフをまるで他人事のように聞きながら、ちらりと自分の肩に置かれた彼の手に視線をやる。軽く乗せられているその手が私を安心させるかのように軽くぽんぽんと叩くように動き、フリーズしたままの私は再びその視線を目の前にいる男に戻した。
 チッ、と短く舌打ちをした男は、私の手首をぱっと離すとバツが悪そうに背を向けて遠ざかっていった。
 背後にいる彼と目の前にいたチンピラ風の男の間で視線による競り合いがなされていたのを感じていたので、荒事に発展しなくてよかったと安堵する。

「……君さ、僕が言ったこと全然覚えてないよね」

 ちゃんと忠告してあげたのに、と続けられた彼のセリフで、私はようやくその声をどこで聞いたのかを思い出した。
 初めて神室町を訪れた時、チンピラ三人に囲まれていたのを救い出して源田法律事務所まで案内してくれた仮面の彼の声に相違ない。そして、直近でもその声を聞いた記憶がある。
 勢いよく振り返ると、困ったように眉尻を下げながら「どうも」と小さく手を上げている彼がいた。声だけじゃない、その顔にも見覚えがある。

「あなた、このあいだ八神さんのところにいた……」
「正解。覚えててくれたんだ」

 明るい茶色の髪、吊り気味の眉に切れ長の垂れ目。ほんの少し口角を上げながら、呆れた様子でその視線を私に向けているのは、このあいだ八神探偵事務所の前でぶつかってしまった彼だった。
 ぶつかった瞬間、彼からどこかでかいだ事があるような香りがしたことを思い出す。そうだ、チンピラから逃げ回っていた時、狭い路地で押し付けられた仮面の彼の服の香りと同じだったのだ。

「もしかして、私のこと助けてくれた仮面の方ですか……!?」

 彼は一瞬だけ逡巡するように視線を斜め上に泳がせ、こくんとひとつ頷いてから「あんまり言わないでね」と立てた人差し指を自分の唇に当てて見せた。

「偶然ってすごいよね、これで君のこと助けるの二回目だよ」

 変な縁でもあるのかな、と言う彼の言葉を聞きながら、私は口をあんぐりと開けたまま再び硬直してしまっていた。
 初めて訪れた神室町で助けてくれた仮面の彼と、この間八神探偵事務所でぶつかった彼が同一人物で、更にたった今だって困っていたところを助けてくれた。
 彼は「変な縁」と冗談めかして言ったけれど、確かにそんなものを感じずにはいられないほどの偶然の重なり様である。

「あ、ありがとうございます! 一度ならず二度までも、それにこの間もぶつかっちゃって……!」

 そう言って深々とお辞儀をすると「いいからいいから」と頭上から聞き心地のいい声が下りてくる。

「源田法律事務所、採用されたみたいで良かったね」

 それももちろん彼が助けてくれたおかげである。
 あの時、チンピラに絡まれたままでいたら面接の時間までに源田法律事務所にたどり着くなんてことは出来なかったはずだ。連絡もなく面接に遅刻なんてありえないし、きっとその時点で採用はなかったに違いない。
 その件に関しても本当にありがとうございました、ともう一度頭を下げたら「だからいいって、頭なんて下げなくて」と無理矢理頭を上げさせられてしまった。

「ところでその紙袋、こないだも持ってたけど」

 彼が指しているのは、私が手に持っている紙袋だった。この間八神さんにお渡しすべく持参したものの、その日に渡すことは叶わなかったので持ち帰り、そのまま私のデスクに置いてあったものである。
 そういえば、八神探偵事務所の前で彼にぶつかって紙袋を取り落としてしまったとき、拾ってくれたんだっけ。だから見覚えがあったのかもしれない。

「はい、八神さんに書類をお渡しついでにご挨拶をしに」

 こないだもお伺いしたんですけどちょうど不在だったので持ち帰っちゃって、と伝えると、彼は「そっか」と小さく言って、ほんの少し思案するように顎に手を当てた。
 どうしたんだろう、とその表情を探るように覗き込むと、彼は「よし」と言ってこくんとひとつ頷いた。

「ちょうどいいから僕も一緒にいくよ。君、なんか危なっかしいし」

 せっかく助けたのにまた違うところで絡まれかねないもんね、というセリフの中にほんの少し私をからかうようなニュアンスが含まれているのを感じる。
 どうやら、私は既に彼の中でぼんやりしていて危なっかしい女であるという認識らしい。解せないけれど、そう思われてしまうのも仕方がないし、今のところその汚名を挽回する術は無さそうである。
 それじゃあお願いします、と小さく頭を下げると、彼は「うん、こちらこそ」と言って軽く首を傾げながら笑顔を見せた。
 そういえば自己紹介するのを忘れていた。彼の発言を聞くに、やはり八神さんとはかなり親しい間柄のようだ。となると今後は彼とも顔を合わせる機会があるかもしれない。

「ご挨拶が遅れましたが私、苗字名前といいます」

 よろしくお願いします、と続けると、彼は小さく口元に笑みを浮かべながら「杉浦文也、よろしくね」と返事をしてくれた。
 仮面の彼、もとい杉浦さんは「それじゃ、そろそろ行きますか」と言って私と並んで歩きだす。

「それにしてもさ、さっきは何であんなにボーっと立ち尽くしちゃってたの?」

 並んで歩きながら、杉浦さんは世間話をするような調子でその話題を振ってきた。
 しかし、その問いに洗いざらい話すのはほんの少し抵抗感があったので、私はほんの少し間を置いた後で「会いたくない人に似た人を見かけてびっくりしちゃって」と答える。
 嘘をついているわけではないし、実際に事実である。敢えてそれが誰なのかは伏せたが、知り合ったばかりの彼にそこまで明け透けに話す必要は無いだろう。

「ふーん、なるほど」
「でもずっと杉浦さんに言われた通り自信満々って感じで歩いてたんですよ! 今日はたまたまそんなことがあったってだけで」

 少しずつ慣れてきてもう迷わずに神室町歩けますし、と続けると、杉浦さんはほんの一瞬驚いたように目を丸くして、それから噴き出すように小さく笑った。
 その様子にきょとんとしたまま杉浦さんを眺めていると、彼は「あはは、いやごめんごめん」と慌てて繕うように言った。

「私、へんなこと言いました?」
「いや、必死になって弁解するから面白くってさ。そっか、ちゃんと僕のアドバイス実践してくれてたんだ」

 それにしても、杉浦さんは普通に歩いていたらファッションモデルかと見紛うほどきれいな顔をしていると思う。スカウトのメッカ、みたいなところを歩いていたら、お声が掛かったり名刺を渡されたりするに違いない。
 そんな私の視線に気づいたらしい杉浦さんが、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら不思議そうな表情をしていたので、慌てて「なんでもないです」と小さく手を振って取り繕う。

「僕の顔、何かついてる?」
「いえ、仮面なんかつけてたらもったいないぐらい整ったお顔だなあと思いまして……あ、わかった!」

 私が閃いたように手を打つと、杉浦さんは「なに?」と言いたげに軽く首を傾げてみせた。

「イケメンな上に喧嘩まで強いってなると、怖い人たちからのやっかみがすごいから仮面付けて行動してたんですね!?」

 これは間違いなく名推理だと思った。そんな私を見ながら固まっていた杉浦さんは、突然はち切れたみたいに「あはははは!」とおなかを抱えて笑い出してしまった。

「違う違う、普通に顔晒して喧嘩なんかしたら覚えられちゃうでしょ。それが面倒だからつけてるだけ。それにしても……っくく、名前さんて面白いね」

 妄想力逞しすぎだよ、となんなら細めた目尻に涙まで浮かべて杉浦さんは笑っている。
 さすがに恥ずかしくなってきて「すみません」と小さな声で下を向いて体を小さくしたら、彼は「いやいや、愉快な気持ちにさせてくれてありがとう」とからかう調子で返してきた。
 杉浦さんと顔を合わせたのはこれで三回目でも、実際にちゃんとした会話をしているのは今がほぼほぼ初めてと言える。それなのにあまり気兼ねせずに会話ができてしまうのは、彼の距離を感じさせない気さくな雰囲気とその口調のせいだろうか。
 開けた中道通りを歩きながら他愛もない会話を交わしつつ、ゲームセンター横の路地へと曲がる。
 そこで私たちが足を止めたのには訳があった。
 その路地に入ったところを塞ぐようにして人だかりが出来ている。なんだろう、と思いながら背伸びを試みようとした私の耳に飛び込んできたのは「なんだぁ、威勢が良いのは最初だけか!?」という男性の荒っぽい声だった。

「え……?」

 もう八神探偵事務所は目と鼻の先である。その場所で、いったい何が起こっているのだろう。
 咄嗟に横にいる杉浦さんをちらりと見ると、彼は小さくため息をつきながら額に手を当てて「まったくあの人は……」と微かに聞き取れる程度の声量でひとりごとみたいに呟いた。

「俺ぁ八神探偵事務所の海藤だぞ! これからは喧嘩売る前にちゃんと相手見るこったな!」

 人混みの隙間から見えた大柄な体格をした男性は、派手な赤の柄シャツにグレーのスラックスという出で立ちをしている。
 ちょうど一人の男を持ち上げて振り回しているその男性の周りをよく見ると、地面には他にも三人の男が伸びているのが確認出来た。状況を見るに、どうやら彼ひとりでその男たちをのしてしまったらしい。
 いま私たちの前で繰り広げられているのは映画の撮影か何かなのだろうか、と一瞬現実逃避をしそうになる。そんな私を現実に引き戻したのは「ちょっとごめんね」という杉浦さんの声と、彼が私の手首を掴んだ感触だった。

「うおらぁ!」

 そんな雄たけびと、杉浦さんに引っ張られながら私たち二人が人混みをかき分けて体ごと抜け出したのはほぼ同時だった。

「うっわ、危な!」

 咄嗟に杉浦さんが私を体ごと覆うように抱え込んだので、そのまま地面にしりもちを付いてしまう。その衝撃で持っていた紙袋はこの前と同じく私の手からすり抜け落下した。
 何が起こったのだろう。目の前で目まぐるしく展開していく状況に頭がついていかず、杉浦さんのデニムのジャケットを掴みながらただただ茫然としてしまう。
 どうやら、柄シャツの男性が持ち上げていた男を投げ、それが私たちの目の前に飛んできたらしい。杉浦さんが咄嗟に庇いながら避けてくれていなかったら、思いっきりぶつかっていたに違いない。投げられた男は私の足元で白目を剥いて微動だにしない。

「名前さん、怪我無い?」
「は、はい、杉浦さんは……?」
「僕も大丈夫。……ちょっと海藤さん、ちゃんと周り見なよ!」

 杉浦さんは私に覆いかぶさっていた体を起こし、しりもちを付いたままの私を助け起こしながら、ほんの少しだけ声を荒げて柄シャツの男性に言い放った。
 あの人にそんな口調で話しかけたらただじゃすまないんじゃ、と肩をすくめていると、その声に気づいた柄シャツの男性が「ああ?」と言いながらこちらを振り向いた。
 柄シャツの男性は服に付着した埃なんかを手で適当に払い落としながら「おお、杉浦じゃねーか!」とぱっとその表情を明るくさせる。今まで見せていた威圧感バリバリなオーラはどこへやら、ニコニコしながらこちらに駆け寄って来た。
 もう終わりか、とはけていく人たちの様子を見ていると、どうやらこの町ではこのようなことが起こるのは珍しくないようだ。
 それにしても、まだ胸がドキドキしている。神室町に来てから、短期間でいままでの人生では考えられないほど心臓に悪い状況に遭遇しすぎている気がする。

「だーもう、悪かったよ! で、おまえはどこでそんな別嬪さん捕まえてきたんだ? ん?」

 ニヤニヤしながら無遠慮に私のことを上から下まで眺めてくるその人に、とりあえず小さく頭を下げてみる。
 杉浦さんは呆れたようにため息をつきながら「別にそういうのじゃないって」と小さな声で言った。

「こちら、源田法律事務所の新しい事務員さん」
「は、はじめまして! 苗字名前と申します」
「ほおー、なるほどな! 俺は八神探偵事務所の海藤ってモンだ。よろしくな、名前ちゃん」

 海藤と名乗ったその人は、背後に見える八神探偵事務所の看板を親指で示しながら歯を見せて笑った。
 先ほどはいきなり衝撃的すぎる場面に出くわしてしまったが、この人懐こそうな表情を見るに、そこまで怖い人ではないらしい。まあ、見てくれは完全に神室町でヤのつく仕事をしてる人、って感じだけど。
 そんな風貌の海藤さんだが、実際は八神探偵事務所の関係者であるらしい。いよいよ八神探偵事務所というものがわからなくなってきた。

「ところで八神さん居る?」

 杉浦さんが私のことをちらりと見てから海藤さんにそう問うた。そうだった、あまりにも海藤さんとの出会いが衝撃的すぎて、自分の本来の目的を忘れかけていた。
 はっとして、足元に投げ出してしまっていた紙袋を拾う。海藤さんの大立ち回りを見物するためにわざわざここまで来たのではない。私の目的は、手に持ったこの書類を八神さんに直接渡すことなのだ。
 源田法律事務所からここまで歩いてくる間の出来事が濃すぎて、事務所を出てからものすごい時間が経過しているような気がしてくる。
 海藤さんは「ああ居るぜ」と頷くと、後ろを振り返りながらすう、と息を吸い込んだ。

「おいター坊、いつまで高みの見物してんだ! 源田先生ンとこからかわいいお客さん来てんぞ!」

 手でメガホンを作った海藤さんがビルの上に向かって声を張り上げる。
 ちょうど逆光でその姿をしっかりと確認することはできなかったが、八神探偵事務所の看板が掲げられたビルの屋上に立っている人影が見える。どうやらその人影はこちらに手を振っている様子だが、今の今まであの場所に人がいるなんて全く気が付かなかった。

「あれがウチのボスだぜ」

 ニッと笑った海藤さんが「じゃ行くか」と言って歩き始めたので、その後についてビルの中へと入っていく。
 ちょうどこの間も上がった階段をのぼると、見えたのは二度目ましての八神探偵事務所の扉であった。

「海藤さんが暴れてんの、上から見てたよ」

 そう言いながらその奥にある階段から降りてきたのは、レザージャケットを羽織った男性だった。どうやら、というか彼こそがこの八神探偵事務所の所長である八神隆之その人に間違いないだろう。

「ったくよお、見てねーで助けろや」
「あれぐらい海藤さんなら一捻りでしょ」

 実際そうだったじゃん、と続けた八神さんの言葉に「そりゃそうだけどな!」と満更でもない様子で胸を逸らしながら豪快に笑う海藤さん。そんな海藤さんの様子を見遣りながら、私の横に立っている杉浦さんが呆れた様子で小さく笑う。

「で、君が源田先生んとこの新しい事務員さんだよね。初めまして、八神です」

 八神さんは柔和な笑みを浮かべながらこちらに手を差し出してくる。それが握手を求める意図だと気づき、ハッとして「苗字名前です」と手を差し出して挨拶をする。

「ごめんね、こないだも来てくれたんだって?」

 申し訳なさそうに言う八神さんに、そんなことないです、の意を込めて首を横に振る。
 元弁護士で、今は神室町の探偵。どんな人なんだろうって思っていたけれど、想像していたより気さくな人のようで安心した。探偵さんって、もっとカッチリした感じなのかと思っていたけど八神さんのいでたちはかなりラフだ。

「じゃ、そんなわけで名前ちゃん。ようこそ八神探偵事務所へ」

 わざと恭しい調子で言いながら、まるでホテルのドアマンの様に扉を開けた八神さんにきょとんとしてしまう。
 少しの沈黙のあとで「あれ、もしかして俺スベってる?」と不安そうな表情をした八神さんが海藤さんと杉浦さんに助けを求めるように言ったので、それが可笑しくてつい噴き出すように笑ってしまった。


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