3-2.


 八神さんに無事書類を届け終え、しばらく探偵事務所の中を見回していた名前さんは、満足そうな表情をすると「じゃあそろそろお暇します」とぺこりと小さく頭を下げる。
 なんなら源田先生のところまで送ろうかと提案すると、彼女はほんの少し恥ずかしそうにはにかみながらふるふると小さく首を横に振った。

「大丈夫です、さすがにそこまでご迷惑かけられないので」

 名前さんは「今までのお礼に、今度お昼でも奢らせてくださいね」と続け、もう一度事務所内にいる僕らに向かって軽く会釈をしてから八神探偵事務所を出て行った。
 その背中が階段の向こう側に消え、ヒールの鳴る音が遠ざかってから事務所の方へ向き直る。すると、いつの間にか背後に立っていた海藤さんがニヤニヤと口元を緩めながら僕の肩に腕を回して「まあとりあえず座れや」と言った。
 どうしよう、多分ってかこれ確実にめんどくさい絡み方されるやつだ。そんな嫌な予感をピリピリと痛いほどに感じていても、海藤さんに肩をガッチリと掴まれてしまっていては逃げ出す術などあるはずもなく。
 観念した僕が促されるまま三人掛けのソファーに腰を下ろすと、海藤さんもその隣に座る。

「で、どうしておまえは名前ちゃんとあんな親しげだったんだ?」

 海藤さんが放ったのは、そんな予想通り真ん中ドストレートな質問だった。
 海藤さんは相変わらず僕の肩に腕を回したまま、興味津々といった様子で「ほらどうなんだ、ん?」とこちらを覗き込んでくるが、これは最早質問というよりも尋問と言った方が正しいと思う。
 それ俺も興味あるんだけど、と言いながら、自分のデスクに座っていたはずの八神さんまでもがいつの間にかこちらに移動してきており、応接用デスクを隔てた一人用のソファーに座る。
 この人たちは何か勘違いをしているようだが、言い訳でもなんでもなく僕と彼女はほぼ初対面の赤の他人であり、海藤さんや八神さんが興味を持って面白がるような関係ではないのである。

「別に、ちょっと前にチンピラに絡まれてたとこ助けただけだって」
「前っていつだ? 全部吐けこの野郎」

 なんでそこまで必要なの、とぼやくと、海藤さんは「俺たちに秘密なんてもんはいらねえからだ」と暑苦しい感じで返してくる。
 助けを求めてちらりと八神さんに視線を送ってみたが、八神さんは眉間に深く皺を寄せながらじっと僕を見据えたままこくんとひとつ頷いて見せるだけ。どうやらこの人も海藤さん側らしい。
 こうなってしまっては洗いざらい話すしかなさそうだ。まあ、やましいことなど全く無いし、知られて困るようなこともない。これまでのあれそれは本当にただ偶然が重なったというだけなのだ。
 スーツ姿の名前さんがチンピラに絡まれていたので声を掛けたこと。うっかりその内の一人を昏倒させてしまい、二人で逃げる羽目になったこと。そのまま源田法律事務所まで案内したこと。それからこの間八神探偵事務所の前でぶつかったことと、ついさっきの劇場前での出来事。
 海藤さんは「へえ」とか「はあ」とか「なんだそれ」とか適当な相槌を打ちながら話を聞き、粗方話し終えた僕が「もうこれでいい?」と問うと、ようやく肩に回していた腕を解いてくれた。 

「なるほどな、つまり名前ちゃんにとっちゃおまえは仮面の王子様ってか」
「それ、ちょっとっていうかかなり馬鹿にしてない?」
「真面目な話、杉浦おまえワンチャンあるぞ」
「ワンチャンて……ねえ、助けてよ八神さん」
「海藤さん、俺もそれ思った。ワンチャンあるね」
「もう面倒くさいこの人たち……」

 飲みにはついて来るくせにキャバクラは何回誘っても断るから女の子にゃ興味ねえのかと思ってたぜ、と勝手に失礼な解釈をしていたらしい海藤さんの言葉は無視することにした。
 ただそこらへんで助けた女の子を目的地に案内しただけでここまで盛り上がれるなんて、まさかこの人たちの心の中に女子高生みたいな好奇心が潜んでいるなんて思わなかった。っていうか、別に知らなくても一向に構わなかったことなんだけど。

「それにしても名前ちゃん、かわいかったなァ。なんつーか、まだ神室町に染まってねえ純朴そうな感じがいい」
「ああ、確かに。杉浦、実際どうなの?」
「僕だって知らないよ。もういいじゃん、この話はさ」

 そういえば、ついさっきこのビルの前で大乱闘をしていた海藤さんは、それを終えると僕の横に立っていた名前さんをこれでもかというほど凝視し、品定めするみたいに眺めていた。
 彼女は海藤さんの暴れっぷりに茫然としすぎていたせいでそれを咎めたり不快に思う暇すら無かったようだったけれど、そうでなきゃかなり不躾な視線の寄越し方だったと思う。
 こんな他愛もない会話を続けているところを見ると、どうやら八神探偵事務所の仕事はようやく落ち着きはじめているようだ。
 この半年間は八神探偵事務所に籍を置いているわけじゃない僕まで駆り出されたり、九十九くんが引っ張りだこだったりしたけれど、そんな忙しさは未だ嘗てなかったらしい。改めて、モグラの事件が如何に大きく世間を賑わせたのかがわかる。

「海藤の兄貴、いますか? ……ってなんだ、勢ぞろいじゃねえか」

 そう言いながら入ってきたのは、ヤクザルックのゲームセンターオーナー、東さんだった。
 正確に言うとまだ松金組の組員なんだけど、半年前のゴタゴタで亡くなった松金組長や逮捕された羽村の件で松金組自体がほぼほぼ動いていない状態らしい。
 いつもと変わらないカッチリと決めたヘアースタイルのその人は、どうやら事あるごとにこの事務所を訪れているようだ。おそらく、というか十中八九兄貴と慕う海藤さんに会う為だろう。

「東さ、その言い方おかしくない? ここ俺の事務所なんだけど」

 そんな風に八神さんがボソッとごちても、東さんは聞こえないフリをしてさも当然のように空いている丸椅子に腰を掛けた。

「ところで杉浦詰めてたみたいですけど、こいつまた何かやらかしたんですか?」

 いやいやいや何もやってないし、と僕が首を横に振ると、東さんは訝しげに目を細めてからその視線を海藤さんへと移す。この人の中で、現在この事務所内にいる人間のヒエラルキーの頂点は海藤さんなのだ。
 ていうか東さん、今「また」って言わなかった? 解せない気持ちはあれど、それに対しては強く言い返せないところが悔しい。

「まあな、事情聴取は今終わったとこだ」
「ならいいんすけど。あ、これ手土産です。兄貴と、あとついでに八神の耳に入れときたいことがあって」

 ついでってさあ、と再び不満げに漏らされた八神さんの声はやはり流されてしまう。
 この事務所の長だというのに、東さんは八神さんに対して当たりが厳しい。この面子で集まると、そんなところもいつも通りだ。

「うちのバイトの女子高生が言ってたんですけど、最近神室町で噂ンなってる女性向けのパーティーってのがあるとかで」

 神室町、女性向け、パーティー。東さんの口から羅列されたその単語は、ひとつひとつが合わさるとどうにもきな臭すぎるものばかりだった。
 東さんによると、バイトの女の子が通う女子高では、大人びた格好をして神室町を練り歩き、そのパーティーへの招待状代わりになっている名刺サイズのカードを貰えるか否か、というのがゲーム感覚で流行しているらしい。
 そのカードというのが、ただQRコードが書かれているだけで、アクセスをするとメールアドレスを入力するだけの簡易なページへ移動するようになっているそうだ。しかし、そのアドレスが有効なのはカードを渡されたその当日だけ。次の日以降はアクセスしてみてもまっさらなページが出てくるだけなのだという。
 さすがに怪しすぎる上、呼び止められてカードを渡された事のある一人が「高校生もいいんですか?」と試しに聞いてみると、そりゃ駄目だと返却させられてしまったらしい。

「そんなあからさまに怪しいもんに首突っ込むなとは言ったんですけどね」

 ハァ、とため息をついた東さんの様子はまるで思春期の子どもに手古摺らされている親のようである。というか、この人はヤクザなのにそれらしからぬ人の良さで常日頃から苦労人の気が伺える。

「もしそのパーティーってやつで何か起こったり、被害者が出たりしたらまた教えてよ」
「だな。最近は落ち着いて来てるしすぐにでも動けるぜ」

 今のところ何かが起こったという事も耳に入っておらず、わざわざ今すぐ調査しないといけないものでも無いだろう、という見解のようだ。
 確かに、大分怪しいけれどふわっとし過ぎている上に依頼をされている訳でもない。動いてもただただ徒労になりそうな案件に首を突っ込む必要性は今のところ無い。

「まあ、とりあえず耳に入れとこうと思っただけなんで」
「つーかこの煎餅美味いね、どこの?」
「おい! なんでおまえが先に食ってんだ八神!」
「え? ウチ宛てに持ってきてくれたんじゃないの?」

 応接デスクに置かれていたのは、先ほど東さんが手土産だと言って持ってきた紙袋だった。
 いつの間にやらその紙袋の中身をガサゴソと物色していた八神さんが、早々に掴んだ煎餅にパクついている。

「えーなに、美味しいの? 僕にもちょうだい」
「あっオイコラ! 俺は兄貴にと思って」
「俺ぁ今煎餅って気分じゃねえ」
「えええー……」

 がっくりと項垂れた東さんを尻目に、どれどれと適当に取った一枚は表面が隙間なく鮮やかな赤で彩られており、パッケージには「激辛七味唐辛子煎餅」と書かれていた。
 なんだこれ、と思いながら眉根を顰め、咄嗟に八神さんの手元を見ると、それは普通のたまり醤油味らしいことがわかる。

「一度取ったもん戻すんじゃねえぞ」
「マジかあ……」

 手に持ったままの真っ赤な唐辛子煎餅をじっと見つめている僕に、海藤さんが「まあよ、人生いいことばっか続くってわきゃねえってことだわな」と楽しそうにカラカラと笑いながら言った。
 いいこと、か。それが暗に彼女との出会いなんかについてを指しているのだと察しつつ、あえて何も言わずに手に持った煎餅をジャケットのポケットに仕舞う。
 九十九くん、辛いの好きだったりしないかな。


***


 探偵事務所ってあんな感じなんだなあ、と八神探偵事務所の内装を思い返しながら元来た道を歩く。
 ちょっと劣化の目立つカウチソファーとか、細かい傷のついた応接用机とか、そんなのはもしかしたらアンティークの類だったのかもしれない。そういえば、八神さんが座っているであろう所長用デスクの椅子は結構いい感じのものの様に感じた。
 ハンガーラックには作業着と、なぜか汚れたジャケットやハロウィンのコスチュームのようなものまで掛けられていて、その上にはガチャガチャで出て来そうな玩具とか四角い猫のぬいぐるみなんかが飾られていた。八神さんの趣味なのだろうか。
 探偵と言われて思い浮かべるのは、キャスケットにケープという昔の物語みたいな姿だけれど、そんな姿でもスーツでもなく、革ジャンにジーパンという出で立ちだった八神さんは想像していた探偵とはまるきり違うものだった。
 海藤さんも、最初は怖い人なのかと思ったけれど見た目に反して明るくて気さくな人だった。じっと見られて委縮しちゃったけれど、私のあからさまな田舎者っぷりが珍しかったのかもしれない。
 それと、杉浦さんだ。まさか初めて神室町を訪れた時に助けてくれた彼が仮面のあの人で、加えて八神探偵事務所の関係者だったなんて。神室町という町は、広いようで案外狭いらしい。

「戻りましたー」

 ギィ、と鳴る源田法律事務所の扉を開けると、私の姿を認めた源田先生とさおりさんからそれぞれ声を掛けられる。

「大丈夫だったか?」
「はい! 無事届けてご挨拶も出来ました」
「それもだけどよ、ほらあいつら、ガラ悪かったろ?」

 どうやら、源田先生のいう「あいつら」というのは八神さんと海藤さんのことを指しているらしい。
 まあ確かに神室町の人っていう感じはしたし、海藤さんに至ってはあの見てくれだったけれど、二人ともそんな見た目のわりにいい人という印象だった。

「八神探偵事務所、武闘派なんですね」
「つーことはまたなんかやらかしてたのか?」

 また、ということはどうやらあの通りで海藤さんが大立ち回りしていたような出来事は割と頻発しているらしい。
 八神探偵事務所の前で海藤さんがチンピラたちと大乱闘をし、それらを軽くのしたのちギャラリーから拍手を受けていたことを伝えると、源田先生は「ったくよぉ……」と呆れたような声を上げた。

「まあ、それでうちも助かっているところありますし」
「そうなんだよなあ」

 さおりさんの言葉に同意しつつ、源田先生は火をつけた煙草に口をつけ、ため息をつくようにその煙を吐き出した。
 そう、源田法律事務所では依頼人から受けた離婚相談に関わる浮気の証拠集めとか、そんな細々した依頼を八神探偵事務所に卸している。そして、土地柄もあって調査の過程でちょっとした武力行使が発生してしまうこともあるらしい。
 そんなわけで、バッサバッサと人をなぎ倒してぶん投げてしまう海藤さんや、我流の戦闘スタイルでスマートに粉砕撃破してしまう八神さんたちの力はこの法律事務所でも頼りにしているというわけだ。
 海藤さんの豪快な喧嘩はさっき意図せず見学できたけれど、八神さんも喧嘩が強いなんて。一度見てみたいかも、なんて思ってしまったことは、今のこの場では発言しないほうがいいだろう。
 そういえば、杉浦さんも最初に出会った頃、私に絡んできていたチンピラをひとり軽く倒してしまっていた。攻撃するつもりは無かったようだったけれど、相手の攻撃をいなしたり避けたりする身の熟しは華麗過ぎて思わず呆然としてしまうようなものだった。
 やっぱり神室町っていろんな意味ですごい町だと思う。

「私も格闘技とか習ったほうがいいのかなあ……」

 ぼそっとひとりごとの様に呟いてみたら、源田先生が目を細めて苦笑しつつ「あーあ、影響されちまってるじゃねえか」と煙草の煙を吐き出しながら言った。


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