2.


 源田法律事務所で秘書兼事務員として働き始めてから、あっという間に二週間が経過していた。
 今まではそれぞれが担っていたらしい電話番や日々の当番制だった掃除、細かい書類整理やファイリングなどはほぼ私の業務となった。しかし、そんな細々とした雑務さえ新しい環境というだけで思いの外楽しく、自分がこういう作業が好きでよかったと心底思う。

「さおりさん、ファイリング出来てなかった書類なんですけど、案件ごとにまとめておきました」
「ありがとうございます、確認します」

 なにより、三人の弁護士先生方が業務に余裕ができたと喜んでくれている事がモチベーションになっている。つい最近まで自己肯定感がドン底だったせいか、人の役に立てているということがとんでもなくうれしい。
 さおりさんのことも、もちろん最初は城崎先生と呼んでいたけれど、彼女の方から「名前で呼んでください、私も名前さんって呼びたいので」と言われたのでそう呼ばせていただいている。静かそうに見えて意外と物事をはっきり言うさおりさんはとても気持ちのいい人で、同性ということもありすぐに打ち解けた。
 ちなみに、星野さんにも「星野先生」と呼び掛けたら「いやいや、先生なんて付けなくていいですよ」と言われたので星野さんと呼ばせていただくことになった。

「あと、未調査って書いてある依頼書がチラホラあるんですが……」
「これはそのままで大丈夫です。八神さんにお渡しするものなので」

 八神さん、という名前はこの源田法律事務所に勤め始めてから何度も見聞きしていた。
 昔の案件がまとまっているファイルを開くと「担当弁護士:八神隆之」という記載がされていたり、なにより源田先生やさおりさん、星野さんの会話の中でその名前が頻繁に出てくるのだ。

「とは言ったものの、あいつも近頃忙しくしてるみたいでめっきり顔見せに来ねえな」

 聞くに、彼は数年前までこの源田法律事務所で弁護士をしていたが、今は神室町で私立探偵として活動しているらしい。元弁護士の探偵なんて、設定が盛りだくさんすぎて何だか胃もたれを起こしそうである。
 八神さんは源田法律事務所に寄せられた細々とした依頼や調査などをこなすことも多いらしく、つい最近までは頻繁に事務所を訪れていたそうだ。
 しかし近頃あまり姿を見せることは無く、少なくとも私が入職したここ二週間でこの事務所に彼らしい人物が訪れた記憶は無い。

「でも追加の資料は渡しときたいよなあ……。あの野郎、暇な時は仕事ねえかって頻繁にせっついてくる癖によ」

 どうやら、その八神さんが所長として運営している八神探偵事務所も今はなかなか忙しい様子である。
 というのも、つい半年ほど前にニュースで大々的に取り上げられていた神室町弁護士銃殺事件の弁護を請け負ったのがこの源田法律事務所で、尚且つ担当したのが既に弁護士という仕事からは離れていた八神さんだったのだ。
 それから源田法律事務所も名が売れて忙しくなり、手が回らなくなったところで事務職を募集していたのだという。そういうわけで、それに大きく関わった八神さんも以前より忙しなく探偵業をこなしているらしい。
 更に、その被害者の弁護士というのがこの源田法律事務所に在籍していたのだというからとんでもなく驚いた。
 何年も前の事件が関わっていたり、それこそ厚労省の事務次官までが背後に居たという報道は当時かなり世間を騒がせ、情報番組なんかはしばらくはそのニュースで持ちきりだった。なので、入職してからその話を聞いた時は頭がパンクしそうになってしまった。

「あの、急ぎなら私が八神さんの事務所まで持っていきましょうか?」

 私がそう提案すると源田先生はうーんと悩むように顎に手を当て、どこか渋るような声音で「でもなあ」と口を開いた。

「あそこは狭っこい路地でわかり難いし、名前くん面接の時チンピラに絡まれたって言ってただろ? それに、わざわざこっちから出向いてやる必要もなあ……」
「大丈夫です! なるべく人通りがある道通るようにしますし、そろそろご挨拶したいと思ってたので」

 慣れてなくても堂々と歩いてるぐらいがちょうどいいよ、と言った仮面の彼の言葉がふと頭の中に浮かんだ。
 そういえば、あの時の彼はどうしているのだろう。今も神室町のどこかに居るのだろうか。
 当たり前だがあれ以来彼と鉢合わせるような事は無く。神室町はなかなか入り組んだ町だし、そもそもあの時彼は仮面を装着していた。加えて、神室町で働き始めてから今日まで彼のように仮面をつけた人物を見かけてすらいない。
 自己紹介をしたわけでもないし、私なんて彼の素顔さえ知らない。覚えているのは、奇天烈な見てくれだったのに思いの外穏やかな声音と柔らかい口調、あと壁に押し付けられた時にほんのり香った彼の衣服の香りぐらいだ。
 彼に言われたとおり、道端でぼんやりしないように気をつけているせいかあれ以来変な人に絡まれるようなことも起こっていない。いろんな意味で彼には感謝しかない。

「ファイルの整理もある程度片付きましたし、お茶菓子切らしそうなので買いに行きたくて」

 それのついでに、と付け足すと、源田先生は眉間に寄せた皺をほんの少し緩めながら「まあそれなら……」と言っておもむろにデスクの引き出しをゴソゴソと探り出し、こちらに向かって小さな紙切れを差し出してきた。
 なんだろう、と思いながら小さく首を傾げて覗き込むと、その紙が名刺であることに気付く。
 八神探偵事務所と書かれた文字の下には八神隆之という名前、連絡先として携帯の番号とメールアドレス、そして事務所の住所が記載されている。

「なんならさおりくんか星野くんに付き添ってもらうか?」

 受け取った名刺をしげしげと眺めていたところでそんな声を掛けられたので、私は思わず「え?」と小さな声を上げてしまう。
 そのセリフの主である源田先生を見遣ると、未だに心配が拭いきれないらしいことがその表情から伺い知れた。
 源田先生は、私がもしまたこの町で怖い目に遭いにでもしたら神室町で働くことを辞めると言い出しかねないと考えているのかもしれない。
 今の源田法律事務所は、今までこのタスクを三人でこなしていたのが信じられないほどの業務量である。やっと捕まえた事務員がすぐに辞めてしまうのは避けたいに決まっている。
 私はほんの少しおかしな気持ちになり、思わず口元が緩みそうになってしまった。
 本当に怖かったらとっくのとうに辞めているし、そもそもそんなことなど気にしていられない覚悟を持って地元を飛び出して来たのだ。

「おつかいで先生方のお手を煩わせるわけにはいきませんし、私ひとりで大丈夫です」

 もういちどキッパリ言うと、源田先生はようやく諦めてくれたようだった。入職したばかりな上、事務仕事しか出来ない私でさえ必要とされるこの事務所の忙しさを一番感じているのは源田先生自身の筈だ。
 こちらの様子を伺っていたさおりさんに向かって「大丈夫です」の意を込めてこくんとひとつ頷くと、彼女は目を細めて微かに笑みながら私に向かって控えめに手招きをしてみせた。

「源田先生、名前さんのこと娘のように思っているのかもしれませんね」

 駆け寄っていった私の耳元で、さおりさんがこっそりとそんなことを言った。

「というより、私が辞めちゃったら困るからなんじゃないですかね……」
「いえ、それよりも純粋に心配な気持ちのほうが強いと思います」

 女二人で囁き合っているのを不審に思ったのか、いつの間にか源田先生と星野さんから訝しげな視線を向けられていることに気がついた私たちは、顔を見合わせて小さく笑い合った。

「なんだあ? うちの女性たちは額くっつけて楽しそうに」
「なんか疎外感なんですけど……。そうだ、源田先生! 僕たちもひそひそ話しましょう!」
「星野くんと俺で何を話すってんだよ」

 そんな愉快なやりとりを聞きつつ、先ほど見つけた八神探偵事務所行きの書類の束を適当な紙袋に仕舞い込む。
 この事務所での会話の中に幾度となく出てきたその人物。ようやく会えることが楽しみで、心なしかワクワクしてしまう。業務だということを忘れないようにしなくては。

「じゃあ行ってきます!」

 私がそう言うと、さおりさんと星野さんから「行ってらっしゃい」と声が掛けられ、その後で「気をつけてな」という源田先生の声が続いた。


***


 源田法律事務所を出て、エレベーターで地上に降りてから私用のスマートフォンをボトムスのポケットから取り出す。マップアプリを立ち上げ、左手に持った八神さんの名刺に記載されている八神探偵事務所の所在地を入力した。
 八神探偵事務所は、中道通りをピンク通り側に少し入った路地にある第一ビルディングという雑居ビルの二階に入居しているらしい。
 源田法律事務所のある七福通りから劇場前通りに入り、中道通りから路地に入ろう。これならば人通りが多くて明るい道を通って行けるので問題なさそうだ。
 それに、私はもう朝晩の出勤でこの神室町を練り歩いているのでそろそろもうこの町にも慣れてきている自信がある。源田先生はちょっと心配しすぎだと思うけれど、先生にとって私はまだ田舎者のあやういおのぼり小娘なのだろう。
 帰りにお菓子を買うの忘れないようにしなきゃ。今少しだけ残っているのはお煎餅だったから、今度は甘いお茶請けがいいかもしれない。和菓子か洋菓子、自分が食べるわけではないのに悩ましいところである。
 そんなことを考えながら歩いていると、傾き始めた夕焼けの色がビルの隙間から差し込んできた。思わず目を細めながら町の通りを意気揚々と歩いて行く。
 正直、衝動的に会社を辞めて、何も決まっていないまま上京してきてしまったことに不安が無かったわけではなかった。
 なんとなくそこに居て、なんとなく生きていた。あの人とだって、一緒にいる時間だけはいつのまにかそこそこ長くなっていたのに執着なんてこれっぽっちもなかった。それが何よりも悲しかったのだ。
 上京するまで気づかなかったけれど、あの場所にいた私は流されるまま楽な方へ楽な方へ、己の意志もなく体を委ねて生きているだけだったのだろうと思う。
 けれど、今はとても充実していると胸を張って言える。新しい場所で、運良くあたたかな人たちのもとで働くことが出来ている。治安が悪くて煩雑とした神室町だって別に嫌いではない。
 あの場所に留まっていたら知らなかったこと、気づけなかった気持ち、出会えなかった人が沢山いるのだ。
 朝から晩まで人通りが絶えないこの町は、どこを歩いていてもいわゆるチンピラだとかどう見ても暴力団系だろうと思われる人物とすれ違うことがある。しかし、わざわざ目を合わせたり異様に体をビクつかせて怯えたりせず、何も気にしていない体で歩いていれば何かが起こる事はない。
 八神探偵事務所の所在地は、最初に地図アプリで確認しながら道中のシミュレーションまでしていたので思ったよりもスムーズに到着することが出来た。
 ゲームセンターを左手に曲がり、細い路地に入って見えた背の高くない雑居ビル。それを見上げ、八神探偵事務所と書かれた看板を確認する。
 とにもかくにもちゃんと辿り着けてよかった。ほっとひと息をついてしまったが、本来の目的は挨拶をすることと、右手に持った紙袋の中の書類を所長である八神さんにお渡しすることなのである。
 気合いを入れるために「よし」と小さく呟き、紙袋の持ち手を握っている右手に力を込める。
 ほんの少しくすんでいるガラス戸を押してビルの中へ入り、歩を進めた突き当たりにある階段を上ると、目の前に現れた扉には「八神探偵事務所」の文字があった。
 ガラス戸の向こうをほんの少し伺ってみるが人の姿は見えない。空いた左手でこぶしを作り、控えめにノックしてから「すみません」と声を掛けてみる。しかし人の気配は感じられず、その証拠にレスポンスが返ってくる事も、そのガラス戸の向こう側に誰かが現れる事も無かった。
 タイミング、悪かったみたい。でもよく考えてみたらそりゃそうだよね、ノンアポだしそもそも忙しくしてるって話だったし。
 ポケットに突っ込んでいた八神さんの名刺を取り出しながら、連絡先である携帯番号を視線でなぞる。今日はもう仕方ない、最初は電話じゃなくて直接挨拶したかったけれど、今度は最初に連絡を取ってから伺うことにしよう。
 入り口の横にはポストが設置されていたが、個人情報と機密事項だらけの書類をこのポストに入れていくわけにはいかない。
 勇み足で出てきちゃったから、やっぱりちょっとだけ残念だ。私は自分のスマートフォンを手に取ると、源田先生の私用携帯宛てにコールをし、それを耳に当てた。

「おう、どした? ちゃんと着けたか?」
「はい、でも八神さん不在でした。お茶菓子買って書類持ち帰ります」
「了解、気をつけてな」

 出てくる時と同じく「気をつけてな」と私を心配してくれる源田先生の気持ちにほんのちょっぴりほっこりしつつ、私は半ば無理やりに頭をお茶菓子の方に切り替えて踵を返した。
 振り返った瞬間、何かにぶつかった私は「わぶ!」と間抜けな声を上げてバランスを崩してしまっていた。自分が何にぶつかったのかわからないまま、その衝撃で右手に持っていた紙袋から手を離してしまう。

「うわっと! ……危なかったね」

 私が盛大な尻餅をつかずに済んだのは、何者かが咄嗟に腕を掴んでそれを阻止してくれたからだった。
 突然の出来事に脳みその処理が追いつかず、目をぱちくりさせながら視線を上げると、そこにはこちらを覗き込んでいる男性の顔があった。私の左腕を掴んでいる彼の腕を見やり、それからもう一度彼の顔へと視線を移す。
 彼は掴んでいる私の腕をぐい、と引き寄せ、ようやく自分の力で立つことを思い出した私の様子を伺うように屈むと「ごめんね、怪我してない?」と聞き心地のよい軽やかな声音で問うてきた。
 私はというと、呆気に取られてぽかんとしたままじーっと彼のことを見つめてしまっている。
 明るい茶髪に吊った眉、切れ長の垂れ目。その瞳の色がなんとなく今の時間帯の夕焼けに似ているなあ、なんて呆けたままぼーっと考えていたら、彼は不思議そうに首を傾げてしまった。
 そこでようやく現実に引き戻された私は、慌てて口をパクパクさせながら「だ、だいじょうぶです!」と返事をした。

「なら良かった。ちゃんと声掛けとけばよかったよね、ごめん」
「私こそすみません、後ろに人がいるなんて思ってなくて」

 まあどっちも怪我なかったし、と人の良さそうな笑みを浮かべている彼は、しゃがみこんで私が投げ出してしまった紙袋を拾い「はい、これ」と差し出してくれた。ありがとうございます、とそれを受け取りながら、今度はなるべく控えめに彼の表情を観察してみる。
 そこで、私はなんとも言えない、例えようのない不思議な気持ちが自分の中でぶわっと膨らんで広がるのを感じた。なんだろう、何かを忘れているような気がする。そしてそれを思い出せなくて、上手く言葉にすることが出来なくて気持ちがわるい。
 そこでハッとした。このビルで、なおかつこの事務所の前に現れたこの人物こそが八神さんその人なのではないだろうか。

「あの、もしかして八神隆之さん……ですか?」

 私がそう問うと、彼はキョトンとした表情を見せたのち、否定を表すように小さく首を振った。そうだよね、もしかしたらって思ったけれど、そんなにタイミングいいわけないか。

「八神さんに用事だった?」
「はい、でもまた改めてお伺いします」

 ぶつかっちゃってすみませんでした、と改めて頭を下げて、彼の横を通り過ぎる。
 先ほど登ってきたばかりの階段を降りると、履いているパンプスのコツコツという音が広くないビルに小さく響く。彼にぶつかった時に強かにぶつけてしまったらしい鼻に人差し指で触れながら、ビルのガラス戸を押して外に出た。
 なんだろう、やっぱりなにかモヤモヤしている。その原因はおそらく、八神さんに会えなかったからとか、せっかく持ってきた書類を渡せなかったからではない。
 それとは全く関係ないことで、何かを思い出せそうなのに思い出せないような、そんな気持ちのわるい感じが彼にぶつかってからずっと体の奥でぐるぐるしているのだ。
 そういえば、今の彼はどこかでかいだことのあるような香りがした気がした。それがどうしてこんなにも引っかかるのだろう。
 ふう、と小さく息を吐き、人目も憚らずぐーっと空に向かって腕を伸ばす。
 まあいいや、切り替え切り替え。お菓子買ってさっさと帰らなきゃ。


***


 八神探偵事務所の前でぶつかった彼女の背中を見送ってから、その扉を背にしてしゃがみこむ。
 この間たまたま顔を合わせた星野くんが言っていた源田法律事務所の事務員さんて、やっぱり彼女のことだったらしい。
 チンピラに絡まれていた彼女を助けたのは確か二週間ほど前だったと思う。スーツ姿で面接、行き先は源田法律事務所、加えてあの事務所では事務員の募集を掛けていたとなると、自分が探偵でなくとも新しく採用した事務員があの時の彼女である事は予想出来た。
 まあ、あっちはあの時の仮面の男が僕だったなんて気づくわけないだろうけど。あの仮面は、厄介ごとに首を突っ込む時に顔を覚えられるのが嫌で着用しているものだからだ。
 それはさて置き、用事を済ませたのちさっさと家に帰ってしまえばよかったのに、気づけばこの神室町に足が向いてしまっていた。そして、何気なく歩いているうちに半ば自然と訪れてしまっていたのがこの八神探偵事務所である。
 二年近く前のあの頃、ビルの外からこの事務所の看板を見上げていた自分はどんな表情でそれを睨みつけていたんだっけ。
 いつの間にか、あの時の殺意にも似たどす黒い感情がどんなものだったかは薄れて、もうほとんど思い出せない程度になった。
 復讐とか、痛みを思い起こさせて一生忘れられないようにしてやりたいとか、そんな報われない上に満たされもしない行動に全力を注ぐようになった事の発端と、その出来事は半年以上も前にすべて解決している。
 身内を亡くした痛みや悲しみが消えることは生涯無いだろうけれど、無謀とも言えるほど我武者羅に追いかけた真実を掴めたことは決して無駄ではない筈だ。
 そうは思っていても、その一連の流れの中で形成されてしまった厄介な価値観というものもあるわけで。

「あれ? 杉浦じゃん、そんなとこで何やってんの」

 ぼんやりとした意識の中で、突然視界に現れた細身のジーンズを履いたその人物を見上げる。
 事務所のドアの鍵を開けようとしている八神さんが、訝しげな表情でこちらを見下ろしながら立っていた。

「あ、いや……なんか足が向いちゃって」
「ふーん、まあいいけど」

 もてなせるようなもん何もないよ、と言う八神さんにひとつ頷いて見せながら、立ち上がって見慣れたレザージャケットの後ろについて事務所に入る。

「今日、絵美の月命日だったんだ。それで大久保くんと墓参り行って来たところ」

 なんでか八神さんに報告して終わりって感じの気分でさ、と続けると、八神さんは小さく「そっか」と言いながらほんの少し目を細めて笑んだように見えた。

「大久保くん、元気そう?」
「うん。けどまだ仕事と墓参り以外で積極的に外に出たいとは思わないみたい。……僕もその気持ち、わかんないわけでもないし」

 引きこもりだった自分が家を飛び出したのは、絵美が殺されたあの事件がきっかけだった。
 当時犯人とされていた絵美の恋人だった大久保くんは無罪となり、真犯人も暴かれ、裏にいた厚労省の事務次官諸共どす黒い部分は全て取り除かれた。
 憎しみの対象であったはずの八神さんとは、今やなかなかにいい関係を築いていると思うし、同じ人間を亡くした者同士、大久保くんとも上手くやっている。
 時々八神探偵事務所の助っ人をしたり、八神さんの紹介で知り合った九十九くんとちょっとした仕事をしてみたり、単発で調査依頼なんかをこなしたり、時々海藤さんに連れられて飲みにいったり。毎日が信じられないほど穏やかで、あの事件からそれが解決するまでの鬱屈とした日々とは何もかもがまるっと違う。
 たぶん、これが普通の日常ってやつなのだろう。生きる目的や、自分の力で立って歩くためのエネルギーの全てが負の感情だったというのは健全な状態では無かったのだと、最近ようやく気づくことが出来た。

「残された人間こそちゃんと生きてかないといけないって思うんだけどさ、その原動力がいいものでも悪いものでも、無くなるとどうしていいかわかんなくなっちゃって」

 絵美の件もモグラの事件も片付いてスッキリしたはずなのに、そうなると今度は燃え尽き症候群のようになってしまっている。怒りを原動力にしていたせいだろうか、普通に過ごすという簡単なことすらどうすればいいのかわからない。
 製薬センターに乗り込んだあの日、モグラを追う途中で絵美の声が聞こえた気がした。それはどこか寂しさを感じさせるような声音だったけれど、背中を押してくれるみたいに力強く「これからは文也の人生を生きて」と言った。
 あの時はとにかく必死で、無我夢中で、アドレナリンみたいなものがドバドバ出ていた気がする。そんな状態の時だったから、もしかしたら幻聴だったのかもしれない。

「絵美ちゃんはおまえの幸せ願ってると思うよ」

 付け足すみたいに「俺が言うとちょっとクサい感じするかもしれないけど」と続けた八神さんに「そうだね」と小さく笑って相槌を打つ。
 八神さんの言う通り、きっと絵美はそう思ってくれているに違いない。けれど、自分はいつの間にかどうしようもなく臆病になってしまっていた。
 失うことが怖い。大切なものとか場所とか、そういうものができてしまうことが怖い。いつか失くすことになるのなら、最初から持っていない方がいいと思ってしまう。
 だから、失意のあとで立ち上がって、別の場所で別のやり方で邁進し続けてる八神さんってやっぱりすごい人だと思う。おんなじような落ち方をした海藤さんまで巻き込んで、その人の居場所まで作っちゃうんだもんな。
 そう思いながらじっと八神さんを見つめていたら、その視線を感じたらしい八神さんは見る見るうちに眉間に深いシワを寄せて「だからクサいこと言った自覚はあるって」と少しだけ気恥ずかしそうに言った。

「いやいや、八神さんってやっぱすごいなーって思ってただけだよ」
「え……いきなり何? 怖いんだけど」

 八神さんは「おまえ、やっぱり今日ちょっとおかしいんじゃないの」と続け、ゴソゴソとデスクの中から体温計を取り出してこちらに渡してきた。
 どうやら本気で心配してくれているらしいが、差し出された体温計を丁重にお断りをして「それじゃ、またね」とソファーから腰を上げた。



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