1.


 神室町。この国でも指折りの歓楽街であるその街の名を聞いたことのない人間はほとんど居ないだろう。
 神室町天下一通りと銘打たれた鳥居を模したようなアーチは、どうやら電飾が施されているようだが昼間なので点灯はされていない。それをまじまじと見上げながらおぼつかない足取りで潜った私は、おそらく大層間抜けな表情をしていたに違いない。
 かつてはこの神室町にも神室町駅というものが存在していたが、かなり前に廃駅となってしまったらしい。そして、マップによると現在その跡地には神室町ヒルズという複合型の施設があるようだ。
 先程のアーチをくぐるまで、巨大なターミナル駅の入り組んだ構内で延々と迷ったり、ようやく出口を見つけたと思えば全然違う出口から地上に出てしまったりと散々だった。この場所へ辿り着くだけでヘトヘトで、私の体力は既にジリ貧であるというのに、残念なことに今日の目的達成率はまだ半分にも到達していない。

「七福通り、七福通り……」

 目的地のある通りの名前を呪文のように繰り返していたら、ふと地元のことを思い出した。
 私の地元は、田舎か都会かと聞かれたらほんの少し都会寄り程度の中途半端な田舎町である。そして、二十年以上暮らしたその街を飛び出して上京して来たのはちょうど一週間前。
 元から上京に興味が無いことも無かったが、なんとなくタイミングを逃し、進学も就職も馴染みのある地元で決めてしまっていた。
 良くいえば、穏やかで何も問題のない人生。悪くいえば、平凡極まりなくて面白みの欠片も無い人生。
 そんな私の今までをガラッと変えるような出来事は、良いものでは無いどころか最低最悪だったと胸を張って言い切れるけれど、ちょうどいいきっかけだったのだと思い込むことにしている。
 ていうか、そう思っていなければあの日の事をどうにもこうにも昇華出来ないでいるだけなんだけど。
 大学で出会った同い年の彼と付き合い始めたのは二年の頃だった。大学を卒業して、それぞれが就職をして、そのタイミングで同棲を始めてから気づけば三年。付き合い始めてからは五年が経過していた。
 山も谷もない落ち着いた関係をずっと続けながら、ぼんやり「私はきっと、このまま何事もなくこの人と一緒になるんだろうな」なんて考えていた。
 しかし、それを一変させる日は突然やってきた。
 会社の飲み会が盛り上がってしまい、そのまま先輩に付き合ってカラオケコースになってしまったとある金曜日。この感じだとおそらく朝帰りになってしまうだろうと察した私は、彼に心配を掛ける前に「今日帰れなさそう」と連絡を入れ、その直後に彼からは「了解、気をつけて」という返事が返ってきていた。
 朝五時にカラオケ店を出て「また来週会社で」と言って別れ、それぞれが帰路につく電車のホームへと向かっていく。
 私はちょうど停車していた自宅方面の電車に駆け足で乗り込み、空いていた席に着いた。ほっとして息を吐こうとしたら、代わりに堪えきれないあくびが漏れ出てきてしまう。
 家に帰ったら、シャワーを浴びてさっさと眠ってしまいたい。もう学生じゃないのについつい調子に乗ってしまった。せっかくの土曜日だというのに、今日は寝っぱなしの一日になってしまうに違いない。勿体無いことしちゃったな。
 うっかり眠ってしまわないように気を張っていても、ゆらゆらと心地よく揺れる車内で目でも閉じようものなら速攻で寝落ちてしまうことは明白だった。
 眠気を堪えるために、斜め上を見上げながら興味もない車内広告をぼんやり眺めてみたが、下世話な週刊誌の文字もエステなんかの広告も視界に入りはしても頭の中には入ってこない。
 なんとか自宅の最寄駅まで睡魔との戦いを続け、眠気に耐え抜いてホームへ降り立つ。
 改札を抜けると、昇ったばかりの朝日に思わず「うう、眩しい」と呻き声を上げてしまった。もしかして、吸血鬼ってこんな気持ちなのかな、とすっかり働かなくなってしまっている脳みそでファンシーな事を考えつつ歩き始める。
 彼氏と同棲している賃貸のマンションに辿り着き、ほっとしながら部屋の鍵を取り出す。
 普段は歩いて十分もかからない駅から自宅まで道のりを、今日ばかりは途方もなく長く感じてしまった。もう軽い気持ちでオールが出来てしまう年齢ではないのだ。自分の体力を過信するもんじゃない。そうハッキリと自覚すると、ほんのちょっぴり悲しい気持ちになってきてしまった。
 まだ寝ているであろう彼氏を起こさないようにゆっくりと鍵を差し込む。なるべく音を立てないように玄関のドアを開けながら、ふう、とひとつ息を吐き出した時だった。
 足元に落としていた視線を上げると、そこには知らない女の子が立っていた。彼女は私に射抜くような視線を向けながら、どこか焦ったような表情を浮かべて小さな声で「ヤッバ……」と呟く。
 ドクン、と心臓が大きく脈を打つ。
 だめだ、頭が働かない。あなたは誰とか、どうしてここにだとか、そんな言葉が頭の中に浮かぶだけで声が全く出てこない。きっと、疲れていて眠くてどうしようもないせいだと思う。今じゃなければ、頭だってもうすこしちゃんと働いてくれたに違いないのに。
 彼女はちょうどこの部屋を出て行くところだったらしい。慌てた様子で玄関に置かれていた私のものではないヒールを履くと、言葉が出てこないまま呆然と立ち尽くしている私を押し退け、パタパタと部屋を出て行ってしまった。
 まさか、と思った。でも、やっぱりそうとしか考えられない。こういう時の嫌な予感というものは大抵的中してしまうのだ。
 肩から下げていた鞄を半ば落とすように玄関に下ろし、履いていたパンプスを脱ぐ。おぼつかない足取りで寝室へと向かい、ほんの少し開いたままの扉の向こう側へと意を決して入る。
 そこには、うつ伏せで顔だけをこちらに向けながらすやすやと寝入っている彼の姿があった。床には見慣れた彼の服が散らばっており、布団の掛かっていない剥き出しの肩を見るにどうやら裸らしい。
 そっか、やっぱりそうだよね。
 とんでもなくショックな筈なのに、自分が冷静で居ることが不思議だった。
 自分の事なのに、まるでこの状況を斜め上から第三者目線で俯瞰しているかのような奇妙な感覚。怒りより、裏切られたという悲しみよりも、もうなんかどうでもいいや、という投げやりで空虚な感情だけがそこにあった。
 眠くて仕方なかった筈なのに、今は妙に頭の中がクリアで、先ほどまで何をしてもしつこく居座っていた眠気はもうすっかりどこか遥か遠くへと飛び去ってしまったようだった。
 どうしよう、ここに居たくない。
 吐き気に近い気持ち悪さを堪えながら、必要なものだけを急いで鞄に詰め込む。
 麻痺していた気持ちがようやく正常に戻ってきたのか、途中で涙が溢れ出てきた。そこでようやく自分が裏切られていたのだという実感が湧いてくる。悔しいとか、悲しいとか、そんな風に思うことがなによりも辛くて屈辱的だった。
 そして、五年間も付き合っていたというのにこの呆気ない幕切れに納得してしまっている自分がいちばん惨めで理解し難かった。
 最初もなんとなく付き合って、今までもなんとなく一緒にいて。この人の事を好きだと思っていたから一緒に居た筈なのに、ここで泣き喚いて怒ったり、胸ぐらを引っ掴んで揺さぶったりする気力すら湧いてこない私の今までの時間って一体なんだったのだろう。
 鍵だけは持って行くことにした。近いうち、彼が仕事に出ている時間にまた荷物を整理しに来ないといけない。
 もう顔を合わせたくない。話し合う事すらしたくない。あの時は、それだけが私の心の中にあった。
 それから一ヶ月間はマンスリーマンションを借りて一人で暮らした。今までずっとなんとなくで過ごしていた毎日をまるっきり変えてしまいたくて、新卒で入った会社も辞め、携帯も新しくした。全部リセットして、新しい場所で今までやってこなかったことをしよう。
 そんなわけで、この上京はかなり唐突な思いつきで決断してしまった向こう見ず且つ無計画なものだった。地元で就職してから、チマチマと貯金を続けていた自分の事を心の底から褒めてあげたいと思う。
 新しい部屋はまだまだダンボールだらけだけど、時間を見つけて少しずつ崩していけばいい。
 それはそれとして、今の私がまずしなければならないのは東京での職探しであった。

「今いるこの通りをこのまま真っ直ぐ行って、突き当たりの通りだから……うーん、結構奥だなあ……」

 道行く人の邪魔にならないように道の端に寄り、スマートフォンのマップアプリと睨めっこをする。
 さすが都会、そしてさすが天下の神室町。まさかこんなにも入り組んでいて複雑な場所だったなんて、おのぼりさんの私には難易度が高すぎる。
 源田法律事務所の事務員募集記事を見かけ、電話をかけたのはつい三日前。とんとん拍子に面接の日程が決まり、それが今日というわけだ。
 念の為早めに部屋を出てきた筈なのに、既に駅を出るまでに大幅なロスをしてしまっている。その上、神室町に到着しても現在進行形でマップアプリと格闘している有様である。
 画面上にある時刻を確認すると、面接の時間である午後三時までもうあと十数分しかない。

「お姉さんどーしたの? 困ってるみたいだけど、道にでも迷っちゃった?」

 スマートフォンの画面と睨めっこを続けていた私は、その言葉がまさか自分に掛けられているものだなんて思いもしていなかった。
 ぱっと顔を上げると、ストリートファッション風の男性三人組がニヤついた笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでいる。

「あ、やっと気づいた。無視されてるかと思っちゃったよ。ねえ、もしよかったら俺らで道案内しよっか?」

 驚いて一歩たじろいてしまったが、背後の壁にカツン、と履いているパンプスのヒールが当たってしまったことで後ろに逃げ道はないことを悟る。
 神室町の治安が良くないことはなんとなく存じていたけれど、どうやら私が思っていたよりも遥かにややこしい街のようだ。

「ええと……大丈夫です、ちょっとぼんやりしちゃってて」

 なるべく敵意を感じさせないように心がけながら丁重にお断りをする。たったひとりのキャッチぐらいならすぐに振り切れる自信があるけれど、三人となると少々厄介だ。
 すみません、と言いながらそっと彼らの脇を抜けてしまおうと試みたが「えー、ちょっと待ってよ」と言いながらその隙間を塞がれてしまう。

「迷ってないってことはナンパ待ちだったとか?」
「……いえ違います、私急いでて時間無いので」

 だからそこまで一緒に行こうって言ってるじゃん、と全く言葉のキャッチボールになっていない返答をされ、私は言葉を詰まらせてしまった。
 なんと言えばこの場を逃れられるのか、強行突破しようにも相手は男性である。尚且つそこそこ背丈のある三人から何事もなく離れることが出来るのか。
 たった数秒、頭の中を必死に巡らせてみてもその術は思い浮かばず、焦る気持ちと恐怖で足がすくみそうになる。

「どう見ても嫌がってるよね、その人」

 その声は、私の前を塞いでいる三人の男のうちの誰かが発したものではなかった。
 穏やかそうで軽やかな声音の中に、ほんの少し気だるげな色を纏ったその声の主は、どうやら三人の男たちの背後に立っているらしかった。

「……あ?」

 気分を害された様子で後ろを振り向いた男たちの隙間から見えたのは、何かのホラー映画にでも出てきそうな不気味さを感じさせる仮面を被った男性だった。
 彼はデニムジャケットの下に着用しているパーカーのフードを被り直しながら首を傾げて見せる。

「ほら困った顔してるし。それにスーツ着てるんだからナンパ待ちじゃないでしょ。急いでるって言ってるんだから解放してあげなよ」
「テメーにゃ関係ねえだろ! 邪魔すんじゃねえ!」

 目の前にはどう見てもチンピラらしき三人の男。そしてその向こう側に居るのは街中で仮面を付けている謎の男。しかし、その風貌を無視するのならば仮面の彼はどうやら私を助けようとしてくれているようだ。
 私は必死に「困ってます、助けてください!」という気持ちを込めて仮面の彼に向かって小刻みに頷いて見せる。すると、仮面の彼は「わかってる」とでも言うように小さく手をヒラヒラさせた。

「……見なかったフリするのは後味悪いからね」

 まるで三人の男を小馬鹿にするかのように「やれやれ」と両手を広げた仮面の彼に、いよいよ痺れを切らした男たちがにじり寄っていく。そうすることで逃げるスペースも隙も生まれたけれど、果たして仮面の彼にこの場を任せて逃げてしまってもいいのだろうか。ここに私が残っていても何も出来ないけれど、ひとりで三人相手はさすがに分が悪すぎる。

「おい、邪魔すんならブッ飛ばすぞ!」
「うわ!」

 早々に殴りかかっていった三人組のうちのひとりの攻撃を、仮面の彼は後ろにバク転をすることでひらりと躱してしまう。まるで重力を感じさせない軽やかなその動きにすっかり感動してしまった私は「うわあ……」なんて間抜けな声を上げていた。

「ギャッ!」
「あ、ヤッバ……」

 そんな彼のスニーカーの爪先が、殴りかかっていった男の顎に意図せずクリーンヒットしていた。ただ攻撃を避けただけだった筈のその動作は、仮面の彼も予期せぬ形で思いきり入ってしまったようだ。
 男はまるでドラマのスタントマンのように綺麗な前のめりで倒れ込み、そのまま昏倒してしまった。微動だにしないその姿を、私を含めた四人が無言で見下ろしている。

「あーらら……」

 やっちゃった、と小さく呟きながら、仮面の彼はハァと短くため息をつく。

「テ、テメーやりやがったな!」
「いや、僕いま避けようとしただけだったんだけど……って言っても聞いてくれるわけないよね、っと!」

 殴りかかってきた残りの二人を受け流すように躱した彼は、いつの間にか私の目の前に立っていた。

「ごめん、走るよ!」

 そう言うと、こちらの返事も聞かないうちに私の右手首を掴んで走り出した。

「え、あのちょっと!」

 駆け出した彼の背中にそう声を掛けると、彼はほんの少しだけこちらに顔を向けてからまた前に向き直ってしまった。背後からは残った二人の男たちが荒々しい声と共に追いかけて来ているのを感じる。

「迷ってるんでしょ? 目的地は?」

 私の手を引っ掴んで走りながら、彼はそう言った。強引に引っ張られている筈なのに、何故か後ろから追いかけて来ている男たちに話しかけられた時のような嫌悪感を仮面の彼に対して感じることはない。

「源田、法律事務所って、いう所、なんですけど!」
「はーい、了解」

 走っているせいで息が弾んでしまう。そしてどうやら、彼は私の目的地である源田法律事務所の所在地を把握しているらしかった。それはとても助かるのだけど、その前に果たしてこのまま背後の男たちを撒くことが出来るのだろうか。
 仮面の彼が私に合わせて走ってくれているのをなんとなく感じているが、逃げ切るよりも私の体力が尽きる方が先かもしれない。
 この感じ、何かで観たような気がする。そうだ、有名なアニメ映画の冒頭シーンに似ているのだ。
 あの映画だと、まるで私のような平々凡々なヒロインが出会った彼は魔法使いだった。そして、彼は軽やかに空へ駆け上がると、ヒロインの手をとってひと時の空中散歩を楽しむ。まあ、いま私の手を引いているのはなにもかもが謎に包まれた仮面の男の人なんだけど。
 どう考えても仮面の彼の方がさっきの男たちよりも得体が知れないのに、彼が悪い人間ではないのだということがなんとなくわかる。手首から伝わってくる思いの外暖かい手のひらの温もりとか、声から感じた人の良さとか、そんな根拠のない理由しか今は存在しないけれど。
 それはさておき、入り組んだ路地を何度も曲がり、人を避け続け、低めとはいえ少しヒールのあるパンプスで初めて訪れた知らない街のアスファルトを駆け抜けていたら、私は早々に己の体力の限界が近づいて来ているのを感じ始めていた。

「しんどいよね、ごめんね」

 申し訳なさそうに言う彼の声からは、その言葉通りに私を気遣ってくれていることが伝わって来た。
 大丈夫です、と満身創痍で答えてみたものの、正直全く大丈夫でないことはきっと彼にもバレてしまっている事だろう。

「次、曲がったら止まるから」

 多分それで撒けると思う、と彼は続けながら、パーカーの上に羽織っていたデニムのジャケットを手早く脱ぐ。脱いだそれを小脇に抱え、人があまり通らなそうな細い路地へと入り込む。

「ちょっと我慢してて」

 彼は小脇に抱えていたジャケットを私の頭の上に被せると、私を壁の方へと押し付けた。いわゆる壁ドン、という体勢である。
 こんなの初めてされちゃった、というドキドキとか感動なんかよりも、彼の明るいグレーのパーカーに自分のファンデーションが付いてしまいやしないだろうかと気が気ではない。
 押し付けられた彼の胸から、ふわりと清潔感のある香りがする。柔軟剤の匂いだろうか。彼が呼吸をして胸を上下させるたび、鼻先をパーカーの布地が擦れるのがほんの少しくすぐったい。

「ちくしょう、見失った……」
「あのピエロ野郎、ふざけやがって!」

 そんな声が路地の向こう側から聞こえてきて、思わず体をビクつかせてしまう。

「大丈夫だよ、もう少しだけ頑張って」

 彼は小声でそう言うと、その手のひらを私の肩の上に乗せ、落ち着かせるように二度ほどぽんぽんと優しく叩いた。ぎゅっと目を瞑り、すぐ脇の道から男たちの気配が消えるのを待つ。
 まさか神室町を訪れて早々こんな目に遭うなんて。そして今は何時だろう。もしかしたら面接の時間はもうとっくに過ぎてしまったかもしれない。

「……よし、行ったかな。ごめん、苦しかったよね」
「いえ、大丈夫です」

 彼は私から体を離し、私の頭から被せていたジャケットを取り去ると、着用し直してから道の様子を伺った。

「オッケー、あいつら居なくなってる。源田先生のとこ、もうすぐだから」

 ジャケットを被せられていた事で乱れてしまった髪の毛を手櫛で整えながら、こくんと頷いて見せる。
 狭い路地からおそるおそる顔を出し、自分でも危険が去ったことを確認する。どうやら彼は目的地を目指しつつ追手を撒こうとしてくれていたらしい。
 細い道からもう一度開けた道に出て、バッティングセンターを横目にちょうど青になった信号を渡る。
 そういえば、先ほど彼は「源田先生」と言っていた。もしかして顔見知りなのだろうか。
 そして、なぜ仮面なんか付けているのだろう。私が田舎者のおのぼりさんだから知らないだけで、神室町ではそんなことも普通なのだろうか。そういうファッションなのかもしれない。

「そこのビルの二階が源田法律事務所。じゃ、僕はここで」
「あ、あの! ありがとうございました! 助けていただいた上にここまで連れてきてもらっちゃって」
「ほっとけなくて首突っ込んだのは僕だし。無駄に走らせちゃってごめんね」

 彼はそう言ってその場を去ろうと背を向けたが「あ、そうだ」と言ってこちらに向き直った。

「この街じゃ、あんまりオドオドしてるとああいうのにすぐ絡まれちゃうから気をつけて」

 慣れてなくても堂々と歩いてるぐらいがちょうどいいよ、と付け足した彼が、仮面の向こう側で微かに笑んだように感じたのは私の気のせいだろうか。
 私がそのアドバイスにこくんと頷いたのを確認すると、彼は元来た道を戻って行く。面接の時間が差し迫り急いでいるのに、私は彼の姿が見えなくなるまで無意識にその背中を眺めてしまっていた。


***


「お茶です、どうぞ」

 コトン、と目の前に置かれた茶器から仄かに漂ってきた緑茶の香りにほっとする。ありがとうございます、と言ってお盆を持っているその女性に軽く頭を下げる。
 テーブルを挟んで目の前に座っているのは、この源田法律事務所の所長である源田先生その人である。ほんの少しばかり強面の顔立ちを緩和させているのは、ワイシャツにブラウンのニットベストという落ち着いた服装のせいだろうか。
 そんな源田先生は、私が先ほど手渡した履歴書に視線を向けている。

「苗字名前さんだったな」
「はい」
「よし、採用」
「……へ?」

 今はただ履歴書を見てもらっていただけだった筈だ。まだ会話もほとんど交わしておらず、面接らしい面接なんてどこにも無かったし始まってさえいない。
 突然のことにその後の言葉が出て来ず、私はただただ目をぱちくりとさせながら源田先生を凝視してしまった。

「うちはこんな小さい事務所だけどよ、だからこそ……えーと何だったっけな、星野くん」

 源田先生は、背後の席で業務に勤しみつつもソワソワと落ち着かない様子で控えめにこちらに視線を向けていた若い男性にそう振った。

「アットホームな職場です!」

 星野くん、と呼ばれた彼は溌剌とした口調でそう答えると、人懐こそうな笑顔を浮かべながらこちらに向かってぺこりと頭を下げた。釣られるように私も頭を下げる。スーツの左襟に光る金色の丸いバッジが、彼が弁護士であるという事を証明している。

「そう、それだ。そんな訳だから宜しくな」
「あ、あの、ありがとうございます。でもまだ面接も始まったばかりで……いいんですか?」
「有難い事に最近忙しいんだが、そのお陰で雑務に手が回らなくなっててよ。補佐してくれる事務員の募集かけたはいいがなかなか応募もなくて」

 その言葉に、先ほど星野くんと呼ばれた彼がうんうん、とデスクに積まれた書類とファイルの山を眺めながら頷いている。
 源田先生は「さおりくんも女性が増えたら嬉しいよな?」と先ほどお茶を出してくれた女性に向かって言った。

「はい、宜しくお願いします」

 無表情に見えた彼女は、眼鏡の奥の瞳をほんの少し細めて控えめに微笑んだように見えた。
 源田先生は「事務所が華やかになるのはうれしいよ」と目尻を下げて笑顔を浮かべているが、果たして本当にこれでいいのだろうか、と不安になってしまう。
 この事務所の方々はほんの少し会話をしただけでも良い人だということがとてもよくわかる。所内の雰囲気もいい。
 ただ、こんなにも即座に採用を申し渡されてしまったので果たして自分が期待されている通りにしっかり働けるのだろうか、という懸念が湧いてきてしまったのだ。
 早く仕事を決めなくては、と焦る気持ちは確かにあった。だから勿論、早々に仕事が決まりそうでうれしい気持ちはある。
 けれど、ここまでトントン拍子に事が進んでしまうとは。さすがに気持ちが追いついていかない。

「弁護士って仕事を長年やってるとな、人を見る目だけは鍛えられるんだ」

 だから良かったらうちの仕事手伝っちゃくれねえか、と源田先生は言った。その言葉の暖かさにじんわり感極まってしまいそうになるのを堪えたら、うっかり喉を詰まらせそうになった。
 悔しいが、心機一転して平気なフリをしていても五年も一緒に暮らしていた人間に裏切られた傷はまだ癒えないでいるらしい。
 けれど、私はようやくその痛みを忘れていくためのスタート位置に着くことが出来たのかもしれないと、そう思った。
 そうなると、これはもう居場所を与えてくれたこの事務所の方々の為に全力で頑張って行くしかない。

「精一杯頑張ります、宜しくお願いいたします!」

 立ち上がって深く頭を下げる。この場所に辿り着くまで色々あったし、正直もうヘトヘトだったけれど、ちゃんとここまで来られて本当に良かった。あの仮面の彼には感謝してもしきれない。

「ところで、神室町ってハロウィンでもないのに仮面付けてる人とか居るんですね、びっくりしました」

 そんな私の言葉に、源田先生を含む三人はキョトンとした様子で視線を交差させた。

「そういえば、近頃は窃盗団も見なくなりましたね」

 そう言ったのは星野さんだった。
 窃盗団、という日常生活において普通ならば耳にする事はおそらくないであろう単語に、今度は私がキョトンとする番だった。

「は……? 窃盗団……?」

 思わずそう聞き返すと、さおりさんと呼ばれていた女性がこくんとひとつ頷いた。

「ええ、ちょっと前まで仮面を付けたそういう集団が居たんです。窃盗といっても悪人からしか盗まない義賊、なんて言われてましたけど」
「でも仮面かあ、それってもしかして……」

 さおりさんの言葉のあとで、星野さんは何か覚えがあるように顎に手をあてながら「うーん」と思案に耽り始める。
 じゃあつまり、先ほど私が出会った仮面の彼は窃盗団とやらに所属しているという事だろうか。神室町に入るなりチンピラに絡まれ、助けてくれた人は仮面の盗賊ときた。
 まあ、でもなんかもういいや。たった一時間程度の出来事なのに、あまりにも突飛すぎたその諸々を脳みそが処理しきれなくなっている事に気付き、私はそれ以上掘り下げて質問することをやめた。



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