11-2.


 月曜日の夜。半ば押し切る形で名前さんを職場である源田法律事務所から駅まで送る役目を請け負うことになった僕は、そのまま八神探偵事務所から駅まで彼女を送り、事務所に戻ってすぐ「さっきの話だけど、僕に聞かせるために時間わざと被せたでしょ?」と八神さんに詰め寄った。
 あの時、僕は八神さんから「ちょっと手伝って欲しいことあるから来てくれない?」と時間指定で呼び出されていた。それで、その時間に来てみたらその中には八神さんと名前さんがいて、且つ二人はかなり神妙な面持ちで何かを話しているようだった。悪いとは思いつつも聞き耳を立ててしまったことも、今となっては許されるだろう。
 そんな僕の問いに、わざとらしく首を傾げてきょとんとして見せた八神さんは「ん? なにが?」となんとも白々しい返事を返してきた。

「……まあ、悪くないお節介だったと思うよ」

 ありがと、とぼそりと呟くと、八神さんは口角をあげてニヤッと笑った。

「にしても杉浦、おまえ結構ゴリゴリいけるんじゃん」
「僕って恋愛初心者だから、押すとか引くとかいい塩梅とかわかんないんだもん」
「その見てくれで恋愛初心者ねえ……」
「海藤さんと同じこと言わないでよ、っていうか四股男には言われたくない」
「おいコラ、ネタみたいに言うなっつの」

 つーか言いふらしてねえだろうな、と眉根を寄せながら詰め寄られたが「えー? しーらない」と言ってその場を濁した。
 そんなわけで、終業後の名前さんを源田法律事務所まで迎えにいくたび、あからさまに申し訳なさそうな顔をしていた彼女が「あの、明日の夜、一緒にごはんとかどうですか!?」と意を決した表情で言ってきたのは木曜日のこと。
 明日は金曜日ですし、とどこか必死な名前さん。断る理由など全く無い僕が「それはもちろん大丈夫だけど」と返事をすると、彼女は安堵した様子で自分の胸に手をやり、固くなっていたその表情を緩ませた。

「今回のお礼もですけど、このまえ家まで送っていただいたお詫びも兼ねてってことで」
「なんで? そんなのいいってば」
「いえ、私の気が済みませんので!」

 実際、僕は毎日こうして名前さんと顔をあわせて会話をする口実ができてちょっぴり嬉しい、なんていう不純な思いを抱いてしまっているわけで。
 まだどこかに名前さんを探している元彼とやらが潜んでいるかもしれないというのに、それを「いい口実」だと思ってしまっているなんて、とてもじゃないが言い出せるわけがない。
 そんなこんなで金曜日。今日は絶対定時で上がります、というメッセージをおそらく始業時刻である九時の少し前に送ってきていた名前さんに、以前彼女が好きだと話していたキャラクターが「がんばれ!」と言っているスタンプで返信した。
 その言葉通り、十八時すぎに『ちゃんと終わりました!』という連絡が入る。源田法律事務所へ向かうと、ビルを出たところで立っている名前さんの姿が見えた。駆け足で寄っていくと、彼女はぱあっと表情を明るくして「お疲れ様です」と笑む。
 うん、今日も今日とてかわいらしい。そんな言葉をぐっと飲み込みながら「お疲れ様」と声をかける。

「今日は私の奢りですから、じゃんじゃん食べてくださいね!」

 鼻息荒めにそう言った名前さんに連れられやってきたのは、神室町で焼肉と言えばすぐに名前があがるであろう老舗の焼肉店、韓来だった。
 彼女はメニュー表を眺めながら「私、ランチでしか来たことないので通常メニュー楽しみにしてたんです!」と目をキラキラさせている。
 女の子に奢られる焼肉、というワードにほんのり後ろめたさを感じていたが、名前さん本人が嬉しそうなのでまあいいか。
 ホルモンの種類多いですね、と顎に手を当てながら至極真面目な表情でひとりごとみたいに呟いた彼女に「ホルモン盛りだと色々食べられていいよ」とメニューを指差して言う。
 店員を呼んだ彼女がぽつぽつと注文しつつ、僕に向かって「何飲まれます?」と問うてきたので「じゃあウーロン茶」と伝えると、彼女は「それ二つで」と店員への注文を終えた。

「あれ、飲まないの? 今日金曜日だし、せっかくの焼肉だけど」
「私は先週の失敗がありますし……。それに今日はそのお詫びも兼ねてるので」

 さすがにまた送ってもらうなんて失態は避けたくて、と名前さんは語尾を小さくしながらぼそぼそと言った。
 僕としては寧ろ、寝ている彼女を送る役目を仰せつかったのは割と役得だったな、と感じているところもあるのだが。しかし、そんなことを正直に伝えるわけにもいかないので「そっか」と短く相槌を打つことに留めた。
 早々に運ばれてきた肉を焼くためにトングを手に取ると、明らかに先手を打たれたという表情をした名前さんが「私がやります」と言ったので、首を振って「僕、実は肉の声聞けちゃうんだよね」とわざと真面目な調子で言ってみた。
 すると、目をぱちくりとさせながらきょとんとしてしまう彼女。うわ滑ったかも、とほんのり背筋をひんやりとさせていたら、彼女は「あはは!」と弾けたように笑い出した。

「なんかそれ……ふふ、八神さんが言いそうなセリフですね」
「よくわかったね、こないだ八神さんが牛遊宴で言ってたセリフだよ」

 拝借しちゃった、と続けると、名前さんは「やっぱり!」と楽しそうに笑った。
 時々トング係を交換しつつ、ホルモン盛りとタン塩、ロースにハラミ、カルビと一通りのメニューを平らげていく。
 いつもどおりにぽつぽつと他愛のない会話をしていると、名前さんの元彼が彼女のことを探しているというあまりいい状況ではない現状を忘れそうになってしまう。今こうしているのはそれを退ける為の延長線上にある付き合いみたいなもので、こんなに穏やかに食事を楽しんでいる場合ではないのかもしれない。けれど、人の目もあるこの場所だからこそ、今は比較的安全であると言えるだろう。
 付き合っていたのは五年間、同棲していたのは三年間。それは決して短い時間ではないと思う。この間、名前さんはお酒のせいか少しだけ舌ったらずな調子で「今思えばなんとなく一緒に居ただけで、悲しさや悔しさをそこまで感じなかった自分のことが一番信じられなかったんです」とどこか自嘲気味に話してくれた。
 なんとなく、という楽な方へ流されていくだけの感情は、僕にも身に覚えがある。まるでブツン、と電源が落ちたみたいに何もしたくなくなって、家を出ることも、部屋を出ることすら億劫になってしまった頃。
 そんな風に自堕落に、絵美以外の家族にも疎まれながら、それでも一度落とした電源をもう一度オンに出来ないまま“なんとなく”過ごしていたら、取り返しのつかない事件が起こってしまった。

「……杉浦さん?」

 どうかしましたか、と名前さんが心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。腹が満たされてきたせいだろうか、それとも目の前にいるのが彼女だからだろうか。
 自分の過去なんか他人に話したって仕方がない。聞かせたってどうにもならないし、それを知ってもらってどうしたいのか自分でもわからない。情けない部分が有ることを知られるなんてマイナスでしかない筈なのに、いつの間にか自分の中に芽生えていた「聞いてほしい」という感情は今までにないものだった。
 例の事件の時、厚労省事務次官の部下を追って廃業したラブホテルへ八神さんと潜入したあと、シャルルで全てを話したのは「聞いてほしい」んじゃなくて「白状する場面であった」というのが正しかったと思う。だから、自分の意思でそう思い至るようになったのはそのタイミングだから、ということなのだろう。

「僕さ、それこそほんの数年前までいわゆる引きこもりのニートってやつだったんだ」

 そんな突然の暴露に、ウーロン茶のグラスを持っていた名前さんの手が止まる。
 なんと返事をしていいのかわからない、といった表情で視線を逡巡させる彼女のリアクションは想像通りのもので、困らせてしまっていることに罪悪感を覚えながら「ごめん、何か言おうとしなくていいよ」と苦笑しながら言う。

「その……それって、あんまり人に話したくない話ですよね……?」

 私に話していいことなんですか、と名前さんは眉尻を下げながら言った。
 実際、恋愛感情を抱いている相手にカッコ悪くて弱点でしかない過去を伝えてしまうことは悪手に決まっている。他のテーブルの会話など誰も気にしていない、ざわつく店内の雰囲気がそうさせたのかもしれない。
 けれど、僕はそれがたとえ名前さんを困らせることになったとしても、そうすることで満たされるのはどうしようもない利己的な部分だけであるとわかっていても、彼女に「話しておきたい」「知ってほしい」と思ってしまったのだ。

「このやりとり、そういえばこないだやったね」
「え? ……あ、ほんとですね」
「あの時の名前さんの言葉を借りるなら、僕も聞いて欲しくなっちゃったんだ」

 名前さんに、と付け足すと、彼女は小さく頷いて優しく笑んだ。
 絵美の事件にまで触れることは避け、引きこもっていた頃の話をする。両親からも疎ましく思われていたこと、味方をしてくれるのは姉だけだったこと。姉の話をすると、名前さんは「偽デートした時に、お姉さんの話題になりましたよね」と相槌を打ってくれたがそれ以上追求してくることはなかった。彼女はおそらく、なんとなくもう僕の姉がこの世にいないことを察しているのだろう。

「名前さんがさ、こないだ話してくれたから僕もなんか聞いてほしくなっちゃって」
「いやいや、私のなんかただ浮気されて飛び出しました! っていう情けないだけの話ですし」
「それを言うなら僕もだよ。ニートだったなんて黒歴史なだけだし」

 でもこれでおあいこでしょ、とニッと笑ってみせると「そうですね」と名前さんもつられたように笑う。

「でも髪の毛長くて黒くてメガネの杉浦さん、ちょっと見てみたかったです」
「野暮ったいだけだよ。今でも家帰ってコンタクト外したらメガネだけどね」
「じゃあ今度、コンタクト無しでメガネにしてきてください!」

 だから家限定なんだってば、と言いかけて口をつぐむ。じゃあそろそろ行こっか、とすこし強引に会話を終え、テーブルの伝票を手に取る。
 すると、名前さんはその行動の意図を即座に察し、伝票を持つ僕の手を両手でガシッと掴んできた。
「だめです! 私がお詫びとお礼をする日なんですから」
「あれ? 今日は僕が話を聞いてもらうって日じゃなかったっけ?」
「違いますけど!? 今日はだめですってば!」
「強情だなあ、お詫びって言うなら僕もこないだ怒鳴っちゃった罪悪感とかあるんだけど」

 それでもぶんぶん、とイヤイヤをする子どもみたいに首を横に振る名前さん。
 そんな彼女を見ながら頭の中に浮かんだのは、以前どこかで目にした散歩中に帰りたくないと拒否をする柴犬の写真。割と一致してるかも、と意図せず自然とこぼれてしまった笑みに、名前さんの眉間のシワが深まる。

「じゃあさ、またご飯食べに行こうよ。その時は名前さんに甘えるから」

 それで手を打ってよ、と言いながら、取り出した財布に手をかけている名前さんを制し、さっさと支払いを済ませてしまう。
 トレーの上に返されたお釣りをしまい「はい、もう済んじゃった」と体の横で両手を上に向けると、ようやく彼女は「……はい、わかりました」とまだどこか解せない様子で絞り出すみたいに言った。

「今の、つまり僕はまた名前さんとご飯行きたいなっていう意味だったんだけど」

 降りかけている階段の途中で「ちゃんと伝わってる?」と、背後にいる彼女の方を振り返る。
 押すとか引くとかいい塩梅なんてわからないと八神さんに話したことを思い出す。そしてきっと、これは相当攻めた発言である自覚もあった。

「……ずるいです、そういうの」

 もごもごと言いながらきゅっと口を結んだ名前さんはそれ以上なにも言ってくれなかったけれど、それが悪い反応ではないことだけはハッキリとわかった。
 自分が彼女からの信頼を得ているのだという優越感。だからこそそれ以上とか、その先へ上手く踏み込んでいくことが出来ないやるせなさ。そんなギリギリのラインで行なっている会話のやりとりは、もどかしいけれどどこか楽しくもあり。
 僕はやっぱり、彼女の ── 名前さんの傍に居たいのだ。僕のたったひとことで変わる表情を見ていたいし、それを守りたい。
 つい最近まで無視することが出来ていた感情を認めてしまえば、堰を切ったように溢れてくるのは止め処ない欲だけ。人間というのは、改めて欲深くてどうしようもないと思う。

「じゃ、駅までのエスコートも任せて」
「お願いします」

 ビルの外はいつもより心なしか賑やかに感じる華金の神室町。その雰囲気に乗せられつつ、ちょっと気取りながら腕を差し出してみる。そうするのはあの偽デートの時以来だったけれど、おそらくそれに気づいた名前さんも小さく笑いながらそこに腕を通してくれた。
 すっかり忘れてしまいそうだった「ボディガードである」という使命をそっと頭の片隅に貼り付けて歩き始めた僕たちの姿はきっと、極彩色に満たされた賑やかなこの景色の一部に違和感なく溶けこんでいるに違いない。


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