11-1. 入浴を終え、バスタオルで髪を拭いながらベッドに座る。その上に投げ出されていたスマートフォンを手に取ると、実家の母親から着信があったことに気づく。 同棲を解消し、上京することを半ば言い逃げするように伝えてからもう三ヶ月ほどが経過している。 それを伝えた時、何も言わずに「アンタも大人だし何も言わないけど、気をつけなさいよ」とだけ言った母親は、おそらく何かがあったことを察してくれていたのだろう。 メッセージアプリで「元気にしてるの?」「大丈夫だよ」みたいな軽いやりとりはしていたが、電話が掛かってきたのは初めてだ。 留守電は入っていない。なんだろう、と思いつつ、やはり心配を掛けていることには変わりないことを改めて認識し直した私はそのままの流れで電話をかけ直すことにした。 「はい、もしもし」 久々に聞く母親の声に、意図せずほっとしてしまう自分がいる。 「ごめんお風呂入ってて、どうかした?」 「どうかしたって、そっちではちゃんとやれてるの?」 「うん、すごいいい雰囲気の職場見つけられたし、一応ちゃんとやってるよ」 心配かけてごめんね、と付け足すと、電話の向こう側にいる母の安堵するようなため息が聞こえた気がした。 そこで改めて、自分が親をひどく心配させていたのだということに気づく。親不孝者って、間違いなく今の私のことだ。 「まあ元気ならいいわ。……で、こないだアンタ宛に手紙来てたのよ」 大学のサークル同窓会って書いてあるけど、と伝えられた言葉に、頭の中を一瞬だけなんともいえない苦い感覚が過ぎる。 今までの時間が無駄だったとは決して思わない。けれど、今となっては事勿れ主義で楽な方向へと流されっぱなしだった自分のことが疎ましくて仕方ない。 それは、一大決心して上京し、神室町という煩雑とした町でようやく「これだ」と思える生き方を選択出来たと感じているからかもしれない。 まあ、それによってこの間はちょっぴり……とはいえないレベルで危ない目にあったけれど、それをわざわざ電話の向こう側で娘の身を案じている母親に伝える必要はないだろう。 自分の身の丈に合わないことをして自滅して、周りに迷惑を掛けてしまった。そして反省しながらこちらに慣れてきて緩んでいた気持ちを引き締めなくては、と改めて思った。まあ、それは自分勝手な自己完結でしかないけれど。 そう考えていたのについ昨日、例の案件のお疲れさま会で珍しく悪酔いして寝潰れてしまったことを思い出し、思わず眉を顰めてしまう。 気づいたらちゃんと自分の部屋にいたけれど、ベッドの上で目覚めた私はピキッと走った頭の痛みで飲み会があったことを思い出した。 途中からの記憶は全く無く、そんなレベルの酔っ払いが自分の足で部屋に帰ってきたという線は限りなく薄いだろう。 果たして、今回は誰に迷惑を掛けてしまったのだろう。それを考えるだけで治ったはずの頭の痛みが再び蘇ってくる。 「女の子の名前が書いてあって、幹事だから連絡してって書いてあるけど」 「あっ、うん、そっか……わかった、その番号教えてもらっていい?」 そっちでやるだろうからどうせ行けないけど、と独り言みたいに呟きながら、走り書きで母親の伝えてくれた電話番号をメモする。 「ていうか名前、本当に友達にもそっちに居ること伝えてなかったのね」 「……突発的だったしドタバタしてたから。仕事見つけて落ち着いたら、っていうかそろそろ連絡してみようかと思ってたとこ」 とは言いつつも、やはりまだ大学の友人たちに自分の今いる場所を伝えることには戦々恐々としてしまい、二の足を踏む部分もあるわけで。 だけど、そもそも“あの人”は私のことなんかどうでもよかったのだろう、ということが今ならハッキリとわかる。その証拠に今日まで何も起こっていない。 例えば今の居場所を知られてしまうようなことが起こったとしても何かがあるわけでもないだろう。私が気にしすぎているだけで、それも杞憂で終わるに違いない。 「気が向いたら顔出しなさいよ、お父さんも口には出さないけど心配してるから」 他愛もない軽めの会話のあとで投げられたその言葉。物静かな父が、口には出さずとも私の身を案じてくれていることは容易に想像することが出来た。 それじゃあね、という母の言葉に頷きながら「ありがとう」と返事をする。 通話が切れたあと、つい口から漏れ出たため息には色々な感情が混ざりすぎていて、自分でもその全てを把握することは出来なかった。 そのままベッドに寝そべってしまいたい気持ちを堪えながら、電話番号が書かれた走り書きのメモに視線を向ける。面倒だと感じるようなことは、さっさと処理しておかなければどんどん億劫になっていってしまう。 よし、と気合を入れるように小さく呟いてから指先でそのメモをつまみ上げ、たった今まで母親と通話していたスマートフォンをもう一度手に取った。 *** 休み明けの月曜日。 出勤してきたさおりさんに飲み会で寝こけてしまったことを謝ってから、誰が送ってくれたのかと尋ねると、彼女は「杉浦さんです」とほとんど表情を変えないままさらりと教えてくれた。 そんな気はしていたけれどやっぱりか、とその場でへたれこみそうになる。それをなんとか堪えつつも狼狽していると、さおりさんが微かに口元に笑みを浮かべたような気がした。 「八神さんや海藤さんにお願いするよりよっぽど適任だと思いましたので」 「あ、はい……。うわあ、でもそっかあ……」 思わず頭を抱えてしまった私をじっと見つめながら、さおりさんは口元に拳をあてて小さく含んだように笑った。 もしかして、私が自覚してしまったこの気持ちってもう周囲には気づかれてしまっているのだろうか。誰にも話していないし、そもそも今後も話すつもりはない。いっそ気づかないままで、自覚するのを避け続けていたほうが良かったかも、とさえ思っているというのに。 「私、最初からずーっとあの人に迷惑掛けることしかしてなくて……」 「大丈夫ですよ。彼、そんな風には思っていないように見えましたから」 さおりさんはいつもの冷静な表情でそう言ったが、酔っ払って眠ってしまっている女をわざわざ家まで送るという行動にかなりの労力が発生したであろうことは想像に難くない。下着を部屋干ししていなかったこととか、部屋が片付いていたことが救いだったかもしれない、なんて考えながら、さおりさんにもう一度頭を下げる。 自席に戻り、自分のスマートフォンを手に取ると迷いなくメッセージアプリを起動し、杉浦さんとのトーク画面を表示させた。 『金曜日の夜はご迷惑をお掛けしました、今度ぜひお詫びをさせてください』 打ち込んだ文章をもう一度読み返し、送信ボタンをタップすると、画面にポン、と打ったばかりのメッセージが表示された。 自分で言うのもなんだが、そんなにお酒に弱くはないという自覚があった。それなのに、いつものペースで飲むだけで酔っ払って眠ってしまったのはおそらく、例の件があって、そのあと杉浦さんと気まずい時期があって、それもなんとか解消されて気が抜けていたせいかもしれない。 いや、こんなのはただの言い訳だ。自分の失態であることには間違いないし反省している。それにしても、送ってもらう途中で変なことをいったり行動したりしていないだろうか。記憶がないことが恐ろしすぎて想像するだけで肝が冷えてしまう。 だめだめ、もう出勤したんだから業務に励んで雑念を振り払おう。 そのタイミングで通知が表示された画面には杉浦さんの名前。どうしよう、いま仕事やるぞ! って気合い入れたところだったのに。 とはいえ、自分から始めたやりとりである。返事をしてもらっておいてあとで、というわけにもいかず、意を決して彼からのメッセージをタップする。 『あーあ、城崎先生言っちゃったんだ。黙っといてって言っといたんだけどなー』 でも気にしないで、僕がそうしたかったから送っていったってだけだから。 続けられていた文章にうっかり心をグラグラさせていると、続けて送られてきたメッセージは『それに僕は何度も寝てるとこ見られちゃってたから、名前さんの寝顔見られてよかったよ。おあいこだね』というものだった。 そこでサァー、と血の気が引いていくのを明確に感じてしまった。どう返信してよいやら悩み、オロオロとしていると、それを感じ取ったのか『かわいかったよ』と畳み掛けるようなメッセージ。 うれしいとか、それならよかった、なんて気持ちは微塵もなく、ただただふつふつと沸いてぐるぐると体の中を巡っているのは紛うことのない羞恥心。 重ねて送られてきたスタンプは、私が好きだと以前話したことのあるキャラクターが手を合わせて「ごちそうさまです」と発しているものだった。 これは即死攻撃だった。これから仕事しなきゃいけないっていうのになんということだ。連絡するの、お昼休みにしたらよかったかも。しかし、今更そんなことを思ったって最早どうしようもないわけで。 なんと返事をするのが正解なのかわからずに、スマートフォンを両手で握りしめたまま机に突っ伏して項垂れる。 すると、ちょうど出勤してきたらしい源田先生から「どうした? 腹でも痛えか?」という心配そうな声を掛けられた。なんとか顔だけを動かして発した「大丈夫です」という私の声はか細いのに地を這うように低いもので、源田先生は「いや、どうみても大丈夫じゃねえだろ……」と眉間にしわを寄せてしまっている。 そんなこと言われたらなんだかお腹痛い気がしてきちゃった。なんとなくちらりと画面をに目をやると、新しい通知が入っていることに気が付く。 誰だろう、と相手を確認すると、表示されていたのは八神さんの名前だった。 *** こんにちは、ともう何度も訪れたことのあるその場所の扉を開けると、所長椅子に座っていた八神さんが私に気づいて「お疲れ、呼びつけちゃって悪いね」と立ち上がる。 「いえいえ、仕事終わりなのでもう帰るだけですし」 「ありがと。……でも、ちょっと時間取らせちゃうかもしれなくてさ」 何だろう、と思いながら首を傾げていると、ソファーに座るように促されたので小さく頭を下げてから腰を下ろす。 奥の所長デスクから移動してきた八神さんは私の対面のソファーに座ると、ジーンズの後ろポケットから自分のスマートフォンを取り出し、なにやら操作をしだした。肩から下げていたカバンを下ろし、横に置きながらその様子をぼんやりと眺める。 「この男なんだけど」 差し出されたのは八神さんのスマートフォン。それを覗きこむと、そこに写っていたのはちょうど私が今座っているソファーに腰を下ろしている元彼の姿だった。 なんで、と無意識に声が漏れる。信じられずに何度か瞬きをしてもう一度表示されている写真を見たが、間違いなく彼であるということがわかっただけだった。 それはちょうどつい先ほどまで八神さんが座っていた所長デスクの方向から撮られており、彼の視線がカメラに向いていないことから席を離れた隙にこっそり撮影したのだろう。 「今日の昼間、この男がうちに人探しの依頼を持ってきたんだ。それで、そいつが見せてきた写真が名前ちゃんだった。……知ってるヤツ?」 いつの間にか呼吸が浅くなってしまっていたらしい。少し前、劇場前通りで彼に似た人を見かけたときも同じような息苦しさを感じていた気がする。 八神さんはすぐ近くに居るのにすごく遠くにいるような妙な感覚を覚えながら、なんとかこくんとひとつ頷いた。 「……地元で、付き合ってた人です」 「だよね、こないだそんな話してたからもしかしてって思ってさ」 わざわざ追いかけてくるような人ではないと思っていた。私のことを探すような執着なんてないだろうと思っていた。だから、怖いだとかそんなことよりも意外だと思ってしまった気持ちの方が大きかった。それでも、芽生えてしまった不安はみるみるうちに膨らんでいく。 自分の両手を合わせる様にぎゅっと握り、八神さんに事の経緯を話し始める。ぽつぽつと紡ぎ始めた私の声は、自分でも制御できないぐらいに震えていた。 彼が他の女性を部屋に連れて込んでいたことがわかって、眠っている間に会話もせず家を飛び出したこと。実家の両親以外、友達にも誰にも上京したことや神室町で働いていることを伝えていなかったこと。 「なるほどね。なんかおかしいと思ったから依頼が立て込んでる体でお断りしたんだけど。……でも、気をつけてね」 ボディーガードに海藤さん付けてあげたいとこだけど、あの人だと他のチンピラに絡まれるからそれはそれで面倒なんだよな、と顎に手を当て思案している様子の八神さん。 申し訳ない気持ちになりながら「あの……!」と声を発したら、彼の視線がこちらへ向けられる、 「大丈夫だと思います、神室町って広いし……。それに、八神さんのところにお願いに来たってことは、私のこと見つけられてないってことですもんね」 万が一があっても、暴力とか振るうような人ではないので、と付け足す。 そう、彼は良くも悪くもあまり感情の起伏がない人だった。マイペースで、のらりくらりとしていて、瑣末なことを気にかけたりしない。例えば私が髪型を変えても、二人で出かけるからと新しい服をおろしても、そんなことにはまるで気がつかないのだ。 なんだか自虐的な気持ちになってきて、思わず自嘲気味に苦笑いをこぼしてしまう。 それにしても、どこから彼はこの神室町というところまで私の居場所を絞ったのだろう。そこでふと思い出したのは、一昨日の母との電話のあとで連絡を取った後輩のことだった。 電話に出た後輩に名を名乗ると、彼女は「名前先輩、誰も連絡つかないっていうから心配してたんですよ!」とほとんど泣きそうな声で言った。 「その……先輩たち、何かありました?」 その、“先輩たち”というのが彼と私を示しているのだということはすぐに察しがついた。 やっぱりそれ、聞かれるよね、と思いながら正直に別れたのだということを伝える。そうだったんですね、というどこかしょんぼりした後輩の声。 「名前先輩、会社も辞められたって聞いてたので……。今もこっちにいます?」 その問いに答えるべきか少しだけ悩み、逡巡したのち「えっと……ちょっと思い立って上京してきちゃった」と返事をする。 「え!? 東京ですか」 「うん。仕事も見つけたばっかりだし、まだ落ち着かないから同窓会は参加できないって伝えとこうと思って」 「しょうがないですもんね……。久々にお会いしたかったです」 そんなわけだからごめんね、と伝え、またぜひ! という彼女の声のあとで通話を切った。 でもまさか、そんなところから漏れるだろうか。あの時、咄嗟に嘘をついて関係のない別の場所を言ってしまうのが正解だったのだろうか。言葉を濁して口ごもってしまえば良かったのだろうか。 バカ正直で迂闊、という言葉が頭の中に浮かんだけれど、後悔したってもう遅い。 「……それ、僕じゃだめかな」 その声が聞こえてきたのは私の斜め後ろ、八神探偵事務所の入り口からだった。 いつの間にか入り口の扉に凭れる様に立っていた杉浦さんは、組んでいた腕を解くと「その、ボディーガードってやつ」と続けた。 混乱する頭で彼の言葉をなんとか理解しようと試みる。つまり、その言葉は先ほど八神さんが発した「ボディーガードに海藤さん付けてあげたいとこだけど」というものに対してのレスポンスらしい。 私はというと、驚きのあまり「ごめん立ち聞きしてた」と申し訳なさそうにこちらへ視線を向けている杉浦さんのことを、ただただじっと見つめてしまっていた。 「そ、そんな! 今までも散々色々あったのにこれ以上ご迷惑かけられないですし!」 「名前さんの仕事終わりに駅まで送るだけだよ。僕、普段から神室町にいるし負担にはならないから」 でも、とその申し出を断る言葉を言い淀んでいると、私の目の前まで歩いてきた杉浦さんはすっとその場でしゃがみこみ、こちらを見上げてきた。 「僕の知らないところで、何も気づけないまま名前さんに何かある方がいやなんだ」 だからそうさせてほしい。 そんな風に言われてしまっては、最早お断りするという選択肢を塞がれてしまったようなものだった。どうしてこの人はここまでしてくれるのだろう、思い当たる節が全くない。そして、あまりいい状況とは言えないというのに顔を合わせる口実ができてしまった、とちょっぴり浮かれている能天気すぎる自分。 目の前にいる彼のことを好きだと思う気持ちが恋愛感情であると自覚してしまったから、こちらに向けられる些細な言動や行動にだって勝手に胸が高鳴るようになってしまった。まだしっかりと追いつけていない気持ちに振り回されて、やたらとカロリーを消費している気がする。 「俺としてもそうしてもらえると安心なんだけど。……名前ちゃん、どう?」 八神さんにまで言われてしまっては、もう頷くしかなかった。 もちろん嫌なわけではない。強がってはみたものの、万が一彼と対面するようなことがあればどういう対応をすればいいのかわからない。暗くなった帰宅時間だけでも誰かが傍にいてくれるというのは心強いしありがたい。それが杉浦さんとなれば尚更だ。 「それじゃあ、すみません。お願いします」 「うん、任されました」 まあ僕が押し切っちゃったようなもんだけどね、と冗談めかして続けた杉浦さんのおかげで、膨らんでいた不安が少しだけ和らぐのを感じた。 まだそっと自分の内に秘めていたかった気持ちがもっともっと大きくなってしまったら、いったいどうなっちゃうんだろう。 そんなことを考えつつ、目の前で柔らかく目を細める杉浦さんの表情を見つめてみる。そうしていると、全てが一気にどうでも良くなって、現金すぎる私の胸はきゅう、と鳴ってしまうのだ。 [*前] | [次#] |