10.


 名前さんを駅まで送ってからふと自分のスマートフォンを手に取ると、画面にはメッセージアプリの通知が表示されていた。送信元は八神さんで「海藤さんとテンダーに居るよ、来たら?」というメッセージが入っていた。
 明け方まで張り込みをしていたのに飲んでいるとは、八神探偵事務所の名コンビの体力は最早化け物レベルだ。
 駅に向かう道すがら名前さんに聞いたところ、僕が彼女の膝枕で寝こけている姿は八神さんと海藤さんにしっかりと目撃されており、更に証拠写真まで撮られてしまっているらしい。
 完全に自分の落ち度なので何も反撃できないことが悔しいが、それにしたって八神さんはなんでもかんでも女子高生ばりに写真を撮りまくりすぎだと思う。
 部屋に帰って眠ろうと布団に入ってもなかなか寝付けないことが多いのに、あの場所だとすぐに寝落ちてしまうのは何故なのか。
 もう何度もあのソファーで寝落ちている身分で言えたことではないが、正直特段寝心地がいいというわけでもない。でも、八神さんは毎晩あそこで寝てるっていうし、あのソファーって実は何かあるんじゃないか、という間抜けな考えを半ば本気で思案しつつ、目的地であるテンダーを目指して賑わってきた通りを進む。
 テンダーに到着して扉を開けると、最初に気づいたのは手前に座っていた八神さんで、続いて僕の姿を認めた海藤さんが「おう!」と言いながら手を挙げる。続けて、二人は同時に寸分変わらないニヤニヤをその顔に浮かべた。
 ちょっとだけ、いやかなり億劫な気持ちになりつつも、手招きしている八神さんの隣に腰を下ろす。

「それで、どうだった? 名前ちゃんの膝枕は」
「柔らかくて最高だったに決まってるよな、気持ちよさそうに寝やがってこの野郎!」

 はい、始まっちゃいました。
 こうなるということはわかっていたが、それでもわざわざ顔を出したのには訳があった。

「僕さ、もういろいろとめんどくさくて女々しいこと、ぐだぐだ考えるのやめるよ」

 失うことを恐れる気持ちが、いつの間にか思いもよらぬ方向へ変貌を遂げていたことに気づき始めたのはいつ頃だろう。
 始まったのはそう、はじめて彼女の手を引いて駆け出した時だった。
 何かが変わる予感なんて全くしなかったのに、顔をあわせるたび気になるようになった。危なっかしくて、力なんてなにもないのにまっすぐで。その素直さと、屈託の無い笑顔が眩しくて羨ましくて、そして愛しく思えるようになった。
 入れ込みすぎて失った時がこわいと怯える気持ちよりも、彼女の傍にいたいというエゴの強い感情のほうが大きくなって、そんな風に思えるようになった自分のことが信じられなくて、咀嚼するまでに時間がかかってしまった。

「失くすこと考えるよりも、そういう気持ちのがおっきくなっちゃったから」

 吹っ切れたわけじゃない。けれど、あれこれ考えるよりももうがむしゃらに、気持ちのままに身を任せてみよう。
 そう思ったら、体の中にずっと残っていた重たくてくるしい何かがすっと溶けて行くような気がして、重すぎて動かすことすら億劫だった一歩目を難なく踏み出すことが出来た。
 
「……そういうわけだから、そろそろそのニヤニヤやめてくれない?」
「やっと腹ぁくくったってわけだな、で作戦はどうすんだ? ガンガン行こうぜ! か?」
「とりあえずはこの感情と共存しつつ頑張るよ。ほら、僕ってこういうのに関しては初心者だし」
「そのツラで良く言うぜ」

 茶化してくる海藤さんの横で、うんうんと頷きながらグラスを傾けている八神さんがこちらに向けてくる視線は妙に優しい。
 なんだろう、ニヤニヤされるよりもこういう顔される方がよっぽど恥ずかしいかもしれない。
 
「杉浦くんもなんか飲んでくかい?」
「あー……ごめんマスター、僕今日は車あるから飲めないんだ」

 掛けられた声に申し訳なく思いながらそう返事をし、ほんの数分座っていただけの席を立つ。

「っていう宣言、しに来ただけだけだから。じゃ、お疲れ様」

 あんまり飲みすぎないようにね、と言い残して店を出る。テンダーを出ると、そこは夜の神室町。賑やかで、目に痛くて、騒がしくて、ごちゃついているこの街の中で、僕がぐーっと伸びをしながら「あーあ」と割と大きめの独り言を発したって誰も気に留めたりはしない。
 散々葛藤していた感情は認めてしまえばなんてことなかったけれど、いざそれを受け入れたら次はまた違う悶々としたものが湧いてくる。人間って、改めて難儀な生き物だと思う。
 きっと絵美は今、こんな僕を見ながら笑っているに違いない。どこか自嘲気味な苦笑いを零しつつ、漏れ出てきそうなあくびを堪えて歩き出した。


***


「えー、それじゃあでけえ案件お疲れさまでしたということで」

 音頭を取る為に恭しく立ち上がった海藤さんは、ゴホンとわざとらしく咳払いをしてから乾杯! と手に持った生ビールのジョッキを掲げた。それに続いて掲げられた合わせて六つのジョッキが音を立てる。
 一応八神探偵事務所主催のお疲れ様会、という名目の飲み会なわけだが、所長ではない海藤さんが音頭を取っていることについて、八神さんは「俺、あんまり畏まってなんか言うとか得意じゃないんだよね。こういうのは海藤さんのが上手いし」と元弁護士らしからぬことを言っていた。
 本日のメンバーは八神さんに海藤さん、星野くんと城崎先生、そして名前さんと僕の六人だ。
 源田先生にも名前さんから声を掛けたらしいが「今回は若い奴らだけで楽しんでこい」とやんわりと断られてしまったらしい。源田先生は今回の飲み代としてお小遣いを出してくれたようで、先ほど名前さんが八神さんに「これ、源田先生からです」と手渡していた。

「いやあ、本当に良かったですね! 皆さんお疲れ様でした!」

 星野くんの言葉に城崎先生が目を細める。そんな彼女の表情に目を留めた海藤さんが、苦笑いをしながら「つーかよお」と星野くんに視線を移した。

「星野くんは今回さおりさんの潜入邪魔しにいっただけだろ」
「ええ、その節は本当に困らせられました」
「な……! あのですねえ、そう言いますけど、好きな女性が危ない目に遭うかもしれないのを黙って見てられるわけないじゃないですか!」

 個室とはいえ割とボリュームが大きかった星野くんの熱い愛の告白まがいの言葉にも、城崎先生の表情が変わることはなく。
 まあ落ち着きなよ、と八神さんに窘められる星野くんを見つつ、僕はぼんやりと考え込んでしまっていた。少し前までだったなら、僕もきっと同じように彼の行動を茶化していたに違いない。しかし、今はなんとなくその気持ちもわかってしまうのだ。
 顎に手を当てながら対面の席に座る名前さんに視線を向けると、彼女はそんなやりとりをいつもの調子でにこにこしながら眺めている。
 視線を感じて横を見ると、八神さんが口の端を上げながらこちらを見ていることに気づく。目を口ほどに物を言うとはよく言ったもので、今八神さんの考えているであろうことが手に取るようにわかってしまった。ムッとしながら目を細めると、八神さんは「ごめんごめん」と悪びれる様子もなく小さな声で言った。

「まあでも、今回の功労者は杉浦と名前ちゃんだよな!」

 突然話を振られた名前さんは、両手でジョッキに触れたままキョトンとした表情で「え?」と小さく声を上げる。

「いや、私は足引っ張っただけで……。それよりも、女装した杉浦さんがほんっとにすごかったです!」

 今度はその場の視線が一気に僕に向けられる。すると、流れるような動きでジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した八神さんが「写真、あるけど見る?」と興味津々な様子の星野くんと城崎先生に問う。

「え、ちょっと待ってなにそれ、いつの間に撮ったの!?」
「おまえなあ、俺の盗撮スキルなめんなよ」
「うわ、盗撮って言っちゃったよ」

 ありゃあ喋んなきゃマジでキレーなねえちゃんって感じだったな、とうんうん頷いている海藤さんに「どうも」ととりあえずの返事をしつつため息をつくと、そんな僕の様子を伺うようにこちらを覗き込んでいた名前さんが「本当にキレイでしたよ」と屈託の無い笑顔を浮かべながら言う。
 変わらず複雑な気持ちではあるが、その笑顔に絆されてしまっているこの状況こそ「惚れた弱み」っていうやつなのだろう。

「あ、姉ちゃん生追加!」
「私もお願いします!」

 店員を呼び止めてビールの追加をした海藤さんと、それに挙手をする名前さん。この間もそうだったけど、この人意外と飲めちゃうんだよな。

「私、やっぱり神室町に来て良かったです」

 賑やかなやりとりを眺めながら、ふとそう発した名前さんの言葉が自分に向けられていることに気づき、そのあとの言葉を待つように小さく首を傾げて見せる。

「もういいかなっておもうから暴露しちゃうんですけど、私地元で同棲してた彼氏がいて」

 そういえば、知り合った当初から名前さんはふとした瞬間に表情を曇らせて口籠ることが間々あった。なんとなくそれが神室町へやってきた理由であるということはわかっていたけれど、詮索するなんて野暮なことは出来るわけもないし、したいわけでもなかった。
 けれど、その度に何事もなかったかのようにぱっと表情を繕い、無理に笑顔を作って見せる彼女に痛々しいものを感じていたのも事実で。
 その話ってさ、と意図的に口を挟んで名前さんの言葉を遮ると、彼女は不思議そうな表情で目をぱちくりとさせる。

「無理して話さなくてもいいと思うよ」

 知りたくないわけじゃない。彼女の「同棲してた」という言葉が過去形であることから既に終わった話であるということもわかる。
 聞きたい半分、聞きたくない半分、ほとんどエゴみたいな感情の間で揺れていると、彼女は困ったように眉尻を下げてから「ごめんなさい、聞いてほしくなっちゃったんです」と苦笑いした。

「そういうことならもちろん」

 僕でよければだけど、とかわいげも無く付け足すと、名前さんはほっとした様子で笑んだ。
 彼女はその彼氏とは大学時代から付き合っていたこと、就職を期になんとなく同棲を始めて三年が経っていたことをぽつぽつと話してくれた。

「会社の飲み会で朝まで盛り上がっちゃった時があって、それで帰ったら知らない女の子と玄関で鉢合わせしちゃって」
「うっわあ……ごめん、想像してたよりなんていうか」
「あ、でももう全然ふっ切れてるんです! それに、ここに出てくるきっかけになったし」

 全部捨ててリスタートって思いながら神室町に来たから皆さんと知り合えましたし、と照れたように笑う名前さんを見遣る。彼女の発したその言葉が決して強がりなんかではなく、本心から発された言葉であることはすぐにわかった。
 そこで頭に浮かんだのは、劇場前通りで面倒くさそうなナンパに絡まれていた名前さんの姿だ。あの時に僕たちはようやく名乗り合い、そして僕は素性を明かした。
 確かその時、彼女は「会いたくない人に似た人を見かけてびっくりしちゃって」と言っていた気がする。おそらく、元彼に似た人間を見掛けて動揺してしまっていたのだろう。
 ちらりと横を見ると、いつの間にか僕以外の全員が彼女と話に注目していた。
 そんな中で突然ドン! と拳をテーブルに叩きつけた海藤さんは「おいおい、なんだそのクソヤローは!」と語気粗めに立ち上がった。

「よし、俺が名前ちゃんを慰めてやる!」
「あはは、お気持ちだけいただきます」

 がっくりと肩を落としながら着席する海藤さんと、楽しそうに笑いながらジョッキのビールを流し込む名前さん。ナイス切り返しである。
 そりゃそう返されるって、と八神さん。絶対にやめてくださいね、と更に城崎先生から畳み掛けられた海藤さんは「そんなに責めなくてもいいだろ! 俺ぁ本当に元気出してもらおうと思ってだな!」とヤケクソみたいにジョッキを煽り、最早手を上げるというよりもぶん回していると例えた方がいいぐらいの動きで「店員さーん! 追加ァ!」と声を張った。


***


 背中になんともいえない柔らかさを感じながら、なるべくそちらに意識を向けないように心がける。
 今の僕の状況を説明しよう。あのあと飲み屋を出てからもう一軒はしごして、珍しく悪酔いしたのか眠ってしまった名前さんをおぶっている。
 その体の柔らかさとか、耳にかかる寝息とか、ふんわり香る彼女のにおいとか、そんな方向へ意識がいきそうになるのを必死に堪えながら、大通りに出た僕は片手を挙げてタクシーを止めた。

「それじゃあ、名前さんは杉浦さんにお願いしてもいいですか?」

 もうお開きとなった時、眠ってしまった名前さんに視線をやった城崎先生のそんな言葉に反応することが出来ずにいると「これ、彼女の住所です」とメッセージアプリに通知が届く。

「え、僕でいいの? ……ていうかその、住所とかプライベートなことは」
「それじゃあ、八神探偵事務所のお二人に任せられますか?」
「いや、それは……そうだね、うん」

 ちゃんと送り届けるよ、と返しつつも、本当にいいのだろうかという葛藤が薄れたのはほんの少しだけ。おそらく、城崎先生もなんとなく気づいているのだろう。気恥ずかしい気持ちになりつつも、信頼されているというのはありがたいことなのだと気を散らす。
 そんなやりとりを経て、止まったタクシーの後部座席へと慎重に彼女を座らせ、乗り込みながら先ほど城崎先生から送られてきた彼女の住所を確認する。それを運転手に伝えると、開いていたドアが閉められ、煩雑な空気とノイズの様な神室町の音がピタリと遮断された。
 座席に背中を預けながら吐き出したため息は、自分でも把握出来ないほどにいろいろな感情がごちゃまぜになっている。
 車内の揺れでカクン、と凭れてきた彼女の頭を自分の肩で受け止めながら、無防備すぎて不安を覚えるほど穏やかな寝顔をじっと見下ろしてみる。
 あからさまに眺めることに、ちょっとだけ罪悪感を感じないこともないけれど、僕はもう名前さんに何度も寝顔見られちゃってるし、これでおあいこってことで。

「……すぎうらさん」
「ん? どうかした?」
「最初のときのにおいとおんなじ、いいにおいがします……」

 それが寝言なのか、はたまた意識があるのか図りかねながら、思わずその頭に手を伸ばしてよしよし、と小さな子をあやすように撫でてみる。

「すぎうらさんのよこ、おちつきます」
「それは光栄です」
「すごく、すきです……」

 その「すき」が落ち着くとかそういう方向に繋がっている言葉であることはわかっていても、思わず呼吸を忘れてしまうほど動揺してしまった。僕の肩に体を預けている彼女はやはり目を閉じたままで、そんな感情を悟られることのない状況でよかったと心底思う。
 なんかすっごい悔しいけど、でも仕方ないか。
 惚れた弱み、なんていうのをたった数時間のうちに何度も感じながら、零れ出た苦笑いと一緒にもう一度彼女の頭を撫でた。


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