6.

 仕事がひと段落つき、小さく息を吐き出す。壁に掛けられている時計に視線をやると、その針はちょうど夕方の五時を示していた。
 細々とした事務作業をしつつ、その合間に掛かってくる電話対応や事務所を訪れた依頼人の対応などをしていると、一日などあっという間に過ぎていってしまう。
 さおりさんと星野さんは担当している裁判の手続きのために午後から事務所を空けており、現在この源田法律事務所内に居るのは長である源田先生と私だけだ。
 この時間ともなると来客も無いので、落ち着いた空間の中でようやく作業に没頭することが出来る。

「名前くん、今日はさっさと上がったらどうだ?」

 いつも早くから来てるしたまには早く帰っていいんだぞ、と続けた源田先生の方を向いた私は、まだデスクの上に残っている書類束とノートパソコンの画面を見遣ってから苦笑しつつ小さく首を振った。

「ありがとうございます。でも、まだやらなきゃって思ってたこと残ってるのでもう少しやっていきます」
「あのなあ……真面目なのはいいけど、今日じゃなくてもいいものは後に回したって別に悪かねえんだぞ?」

 確かに、今日はこれ以降来客の予定はなく、明日以降も弁護士先生方の仕事が滞りなく進められるための下準備なんかも済んではいる。

「さおりくんと星野くんも居ないわけだし、たまにゃあさっさと帰って金曜の夜ってやつを楽しんだらいいじゃねえか」

 源田先生に言われてから気づく。そう、今日は金曜日なのだ。そして明日は土曜日。つまりこれからの時間帯は世の中も浮かれてしまういわゆる華金である。神室町の居酒屋やバーなんかはきっといつも以上に大忙しだろう。
 しかし早く帰ったとして何をするのかと言ったら、思いつくことはテレビで放送される映画でも観ながらぼんやりする程度。
 こっちに出てきたばかりで気軽に連絡を取って遊んだり、飲みに行けるような知り合いがいない寂しさを、最近ようやく少しずつ感じるようになってきた。それは、ポジティブに考えるなら私がこの町での生活に慣れてきたのだという確たる証拠かもしれない。
 そう思いつつも、有無を言わさない表情でこっちを見ている源田先生の不器用な気遣いを無碍にするわけにもいかないわけで。
 それじゃあ、と返事をすると、源田先生は目を細めて満足げに微笑みながら「おう、上がれ上がれ。気ィつけてな」といつもの調子で定型文のような言葉を述べた。
 机に広げていた書類を手元で揃え、まとめて横に寄せてなんとか煩雑さを消したところでカバンを持って自席を立つ。

「ありがとうございます、それじゃあお言葉に甘えてお先に失礼します」

 小さく頭を下げると、源田先生はタバコをふかしながら頭の上に挙げた手をひらひらと振って見せた。
 事務所を出て、エレベーターに乗る。ビルを出ると、拓けた視界に拡がる空は暗めのオレンジ色。ギリギリ陽が落ちていない、こんな時間に仕事を終えて帰るのは久しぶりだ。
 とはいえ、結局予定がないというのも事実で。このまま帰るのはちょっと勿体無い気もするが、じゃあ他に何かやりたいことでもあるのかというと思いつくわけでもなく、ひとりで飲める店のあても無い。
 となると、結局当初の通り家でゆっくり過ごす以外の選択肢はないようだ。
 明日は土曜日。せっかくだから何にも考えずに好きなだけ寝て、好きな時間に起きて自堕落に過ごそう。そう考えながら、あの「偽の恋人大作戦」からもう一週間が経過してしまったことに気づく。
 先週の偽デート以来、杉浦さんとは顔を合わせていない。所用で八神探偵事務所に顔を出すことがあったが、その時に居たのは八神さんと海藤さんだけで彼の姿は無かった。まあ、明確にはあの探偵事務所の調査員ではないらしいので当たり前といえば当たり前である。
 あのあと、次の日に杉浦さんから「昨日はお疲れ様。また何かあったらよろしくね」という簡潔なメッセージが届いていたが、それに返事をするだけでやり取りは一旦終了してしまっていた。
 私はというと、あの作戦を純粋に楽しんでしまっていた自分に驚き、そして未だに受け入れられずにいたりする。
 結果オーライとはいえ、途中どこで盗撮犯に見られているかわからないという意識をすっかり捨ててしまっていたことには反省しかない。
 そして何故だか今、私の中には杉浦さんと顔を合わせることにほんの少し緊張してしまいそうな自分がいるわけで。
 その理由は明確で、うっかりあの偽デート中にときめきを感じてしまったことにある。頭の中が勘違いしてしまっているうちは、あまりそれを呼び起こすような刺激は無い方がいいに違いない。
 駅までの道も、いつの間にかほとんど無意識で歩けるようになった。初めてこの街を訪れた時はなんて入り組んだ場所なんだと思っていたけれど、慣れてしまえばなんてことはない。
 そんな時だった。ちらりと視線をやった道の反対側に見えたのはなんと杉浦さんの姿だった。
 咄嗟に歩みを止め、そっと気配を消すように歩調を緩める。控えめに観察してみたが、杉浦さんがこちらに気づいた様子はない。
 杉浦さん、どこに行くんだろう。チャンピオン街方面からやってきた彼が迷う様子もなく歩みを進めているところを見ると、どうやら目的地は決まっているらしい。
 彼が劇場前通りの方へ曲がるのを確認した私は、いつの間にか踵を返し、横断歩道を渡ってその背中を追いかけていた。
 その行為があまりよくないことなのだとわかってはいても、先週のお手伝い以来ちょっぴり、否なかなか盛大に探偵業への興味が湧いてしまっている私にはその好奇心を止めることが出来なかった。
 ついさっき顔を合わせにくい、とか思ってたくせに。何やってるんだろう、私。
 今日は金曜日の夜。そして源田先生から与えてもらった早めの退勤という余暇。
 家で映画を観ながらぼーっとして贅沢に、悪く言うならば怠惰に過ごすぐらいなら、尾行の真似事をしてみる方が有意義な気がする。うん、きっとそうだ。
 微かに感じる罪悪感を跡形も無く蹴っ飛ばし、己の好奇心にすっかり支配されながら、変わらないスピードで歩いている杉浦さんのデニムジャケットの背中を追う。
 少し離れた位置から相手に捕捉されない程度に着いていくというのは、実際にやってみるとなかなかに難しい。
 加えて、この時間帯の神室町は昼間よりも人口密度が増しており、居酒屋のキャッチなどの姿も多く見られる。それらをなんとか交わしながら、人ごみの中をスタスタと進んでいく杉浦さんが視界から消えないよう、気配を消しつつ必死に追いかける。
 そういえば、杉浦さんて普段は何をしているのだろう。八神探偵事務所の調査員ではないと言っていたから、別口で仕事をしているのだろうか。

「そこの君! 仕事終わり? これから誰かと待ち合わせ? 合流したあとよかったらうちの店どう? 飲み放題ついてるよ!」
「あ、大丈夫です! 待ち合わせてないし一人なので!」

 そう律儀に返事をしながら声を掛けてきたキャッチを躱す。
 劇場前通りを歩いているだけでキャッチに声を掛けられること数回。ちょっと悪そうな人に絡まれると厄介だけど、居酒屋のキャッチや水商売のスカウトは適当にあしらうだけで済んでしまうのでなんやかんやで楽だ。
 なんて考えているうちに、私はいつの間にか必死に追いかけていた筈の杉浦さんの背中を見失ってしまっていた。
 気づかれるとか気づかれない以前に、見失わないという単純かつ大前提すら遂行出来ないなんて。
 尾行って存外奥が深いのだな、という気づきと学びを得つつ、この後の時間はやっぱり自宅で映画鑑賞コースかな、と小さく息を吐く。

「お姉さん、時間あるなら僕と飲まない?」

 ぽん、と肩に置かれた手と共に掛けられたのはあからさまなナンパ文句。すっかり気を抜いていた私は「ひぇ!?」なんて素っ頓狂な声を上げ、自分でも驚くほど華麗なターンを決めながら振り返っていた。

「……杉浦さん!? え、あれ、さっきまで前にいたはずなのになんで!?」

 振り返ると、そこにいたのは顔の横でひらひらと手を振りながら楽しそうな笑みを浮かべている杉浦さんだった。
 見失った方向と、目の前にいる彼とを交互に見ながら「なんで!?」と繰り返す。

「いや、それこっちのセリフだって。名前さんこそなんで僕のこと尾けてたの?」
「それはええと、時間を持て余して……っていうか気づいてたんですか!?」
「七福通りで反対側の歩道歩いてたでしょ。その時から気づいてたよ。ついてきた時はちょっとびっくりしたけど」

 まさか尾行する前から気づかれていたなんて。つまり、私が杉浦さんに気づいた時には彼も私に気づいていたというわけだ。
 杉浦さんは笑いを堪えるように口元に拳を当て、吊り気味の眉をハの字にしながら「わかりやすすぎ、これじゃあ探偵にはなれないね」と言った。

「ところでさっき名前さん、時間を持て余してって言ってたけどどういうこと?」
「源田先生が、せっかくの金曜日だし早く上がったらどうかって気を遣って下さって。でも特にやることも思いつかず……」

 家帰ってぼーっとするしかないかなあと思いながら無意識に駅に向かっていたら杉浦さんをお見かけしたので、と正直に白状すると、やっぱり彼はどこか楽しそうに、そして咎める様子も無く「それで探偵ごっこ始めちゃったんだ」と笑った。
 この神室町で働き始めて、もう少しで二ヶ月が経過する。こっちに出て来なければ決して出来なかったであろう経験とか、見られなかった風景とか、そんな事ばかりで毎日が新しくて楽しい。
 自分の危機探知力が低すぎるあまり何度かチンピラのような人に絡まれたこともあったけれど、それも杉浦さんと初めてちゃんと向き合って名乗り合った時以来起こっていない。

「私、この間の盗撮犯の件で探偵さんすごい! ってなっちゃってて、それでつい……」

 すみませんでした、と頭を下げると、杉浦さんはふるふると首を横に振って「別に怒ってないよ、本当になんでだろって疑問に思ってただけ」と言った。
 そんな彼が私に向けてくれている視線はひどく優しいものだったけれど、眉尻を下げて目を細めながら口角をほんの少しあげたその表情の中にどこか寂しげなものを感じたような気がしたのは気のせいだろうか。

「……僕さ、素直で取り繕わない名前さんのこと羨ましいって思ってるんだ」

 その言葉を理解することが出来ず、あからさまに訝しげな表情を向けてしまった気がする。
 立ち振る舞いもなにもかもがスマートで、頭の回転も早い杉浦さんがまさか私をそんなふうに評価しているなんてとてもじゃないが信じられなかったからだ。

「え、私がですか……?」
「うん。いつも自然体で、自分にも周りにも素直で居られるってすごいよ」
「それって褒めてくれてます、よね?」
「もちろん」

 こくんと頷いた杉浦さんの言葉にも表情にも私を揶揄うようなニュアンスは無く、それが至極真面目な発言であったことがわかる。
 自然体で素直という言葉は、曲解してしまえば何も考えてなくて間抜けという意味に捉えてしまいがちだけれど、どうやらそういう意味ではなく本当に褒めてくれているらしい。そしてそれが羨ましいと、杉浦さんはそう言った。
 なんとなく、彼には表面からは伺い知ることのできないなにか深いものがあることを薄々感じていた。
 そして、そんな風に自分の中で何かを抱えたり隠したり、打ち明けることをせずにいる人が無意識であってもそんな本心を伝えてくれたということが、自分が褒められたという事実よりも嬉しいと感じてしまったのだ。

「私は、そんな杉浦さんが心の内を話してくれたっていうことが嬉しいです」

 すると、杉浦さんは目を大きく見開きながら二度ほどまばたきをして、何かを考えるようにその瞳を逡巡させた。
 またなにか変なことを言ってしまったのだろうか。というか、言ってしまったから彼はなんともいえない表情を浮かべているに違いないわけで。

「……だから、そういうとこ」

 しばらく黙りこんでいた杉浦さんが発したその言葉は、ものすごく静かで聞き逃してしまいそうなものだった。

「それはどういう……」
「ううん、こっちの話」

 そうはぐらかされてしまっては、これ以上彼のその言葉の意図をはかることは難しい。
 そして、聞くに杉浦さんも神室町で用事を済ませてからなんとなくブラついていただけらしい。
 仕事だったのかと問うと、彼はちらりとこちらに視線を寄越し、斜め上を見上げてから「んー、それはまだちょっと秘密」と含むように言った。

「あ! ……名前さん待って」

 立ち話の途中、突然私の腕を引っ掴んだ杉浦さんはすぐ横にあったビルにその身を隠す。

「ね、あそこ。八神さんがいる」

 この町で突然身を隠すという行為に一瞬不穏なものを感じてしまったが、杉浦さんが控えめに指をさした方向には確かに見慣れたレザージャケットの背中が見えた。
 いつもどおりの無造作な黒髪の彼は、迷う様子もなく歩を進めている。

「時間持て余してるんだっけ? じゃあ、探偵ごっこ再開しちゃおっか」

 八神さんがどこ行くのか気にならない? と続けた杉浦さんの表情はすっかりいつもどおりの余裕あるものに戻っていて、私はほっとしながら思わずこくこくと頷いてしまっていた。
 探偵ごっこ再開。つまり、どうやら今度はターゲットを八神さんに変えて二人で尾行しよう、という思いつきのようだ。

「どこ行くんだろうね、仕事かな。……もしくは女の人、とか?」
「八神さん、モテそうですもんね」

 そう言った私の方をちらりと見遣った杉浦さんは、一呼吸置いてから「あの人、去年女の子に四股掛けたりしてたんだよ」とあまりにも衝撃的すぎる言葉を放った。

「よ、よん!? 同時に四人てことですか!?」
「しー、声大きいって。バレちゃうから」
「すみません……でも四股ってどうやって……」
「あ、これあんまり言いふらすなって言われてるんだった」

 名前さんはこれからも知らない体でいてね、と杉浦さんは言ったが、あまりにもインパクトの大きすぎる情報をいきなり投下されたせいで私の頭の中はいっぱいいっぱいになってしまっていた。
 確かに八神さんは見てくれもかっこいいし、気さくで人当たりもいい。そして仕事柄様々な人と出会う機会も多いだろう。
 いや、そうだとしても四股って。どれだけ器用だったら出来るものなのだろう。やっぱり都会ってスケールが違う。
 そんなことを考えているうちに、再び杉浦さんに手を引かれる。移動するよ、と小声で言われ、こくんと頷く。
 咄嗟に隠れた壁からゆっくりと体を出し、かなり離れた位置からレザージャケットの背中を追う。
 七福通りに出た八神さんは、源田法律事務所方面に向かって歩いていく。退勤してから杉浦さんを見つけ、そして逆に見つかってしまうまで通ってきた道を再度辿るように進みながら、適度な距離を保ちつつ尾行を続ける。
 バッティングセンターとコンビニのある坂を登り始めた八神さんの行く先にあるのは、神室町ヒルズとちょうど先日の作戦の最終目的地であったホテル街である。

「こりゃあいよいよ女の人説濃厚かもね」

 まさに今私も同じことを考えていたのでうんうんと同意を示しながら小刻みに頷く。
 なんだかいけないことをしているようで、少しだけハラハラしてきた。しかし、ワクワクしてしまう気持ちがあるのも事実で。

「今更なんですけど、こういうことしちゃってていいんですかね……」
「あっれー? 名前さん、さっきは僕のこと尾けてなかったっけ?」
「う、すみませんでした……!」
「あはは、からかっただけ」

 そう言って控えめに笑う杉浦さんはとても楽しそうで、無邪気な彼の様子になんとも言えないむず痒い気持ちが胸の奥で泡立つのを感じた。
 そういえば、先週も同じような感覚を覚えた記憶がある。そうだ、ゲームセンターのクレーンゲームに向かう彼の横顔を眺めていた時だっけ。

「おーおー、若い二人は今日も楽しそうだなあ?」

 そう声を掛けられたのは、バッティングセンターの喫煙所近くに身を潜めている時だった。
 肩に置かれた手のひらの感触と、突然背後で聞こえてきた大きな声に思わず「うぎゃあ!」と声を挙げてしまった私の横で、杉浦さんも肩をビクつかせながら「うわ!」と後ろを振り向いた。
 すると、そこには私と杉浦さんの肩に手を掛けながらニヤニヤしている海藤さんが立っていた。驚きのあまり跳ねすぎた心臓はまだバクバクと大きく鼓動している。

「海藤さん驚かせないでよ、あー心臓に悪い……」
「で、お二人さんはこんなとこでなーにヒソヒソやってんだ?」

 杉浦さんは身を隠す様子もなく腰に手を当てている海藤さんを同じ物陰に引っ張りながら「あれだよ、あれ」と遠くに見える八神さんを指差す。

「ありゃター坊か? なんで杉浦と名前ちゃんでター坊尾けてんだよ」
「名前さんが探偵ごっこしててさ、楽しそうだから僕も参加させてもらってんの」

 そうだよね、と微笑みかけてくれる杉浦さんと、首を傾げながら腕を組んでしまった海藤さん。
 杉浦さんの言ったそれは間違いではないけれど、話の前後もなくそう伝えられてしまってはどう考えても子どもっぽい怪しい女である。しかし、訂正しようにも事実には変わりないわけで。
 言葉が出てこずモゴモゴしていると、いつの間にか海藤さんの背後で顔を覗かせている人物が居ることに気づいた。

「海藤の兄貴と杉浦……?」

 畳み掛けるように声を掛けてきたのは、グレーのスーツにサングラスの男性だった。私が思わず「あ……」と声をあげるのと同時に、杉浦さんと海藤さんも後ろを振り向いて彼の姿を確認する。それは、ちょうど先週見たヤクザルックのあの人に違いなかった。
 彼も私に気づいた様子で「アンタはあん時の」と小さく声を漏らす。ため息交じりに「なんでこのタイミングで全員集合しちゃうの」と言った杉浦さんと「おう東、奇遇だな」と変わらず賑やかな調子の海藤さん。

「あの、この前はご挨拶もせず大変失礼しました! 私、苗字名前と申しまして」
「あーっと、名前さん大丈夫だよ、こないだのことはちゃんと説明しといたから自己紹介はあとね」
「ん? こないだってなんだ? 俺ぁ知らねえぞ」
「いや兄貴、それがこないだこいつ」
「はいはい、それもまた後で! って、あ……」

 海藤さんと、東さんと呼ばれた男性の方向に向けていた視線を前に戻すと、中腰になっていた私たちの目の前に腕を組んで軽く首を曲げながらこちらを見下ろす八神さんが立っていた。

「あのさあ、そこの四人は尾行のやり方って知ってる?」

 ていうかそんな大人数でってところから間違ってんだけど、と続けた八神さんは私たちひとりひとりをゆっくり見遣りながらニヤリと笑った。
 尾行ってやっぱり難しい。そう思いつつも、確かにこうして大人数で、しかも賑やかに騒いでしまえばバレるのは当たり前だろう。
 そして八神さんの様子を見るに、もしかしたら二人で尾けていた時点ですでに気づかれていたのかもしれない。

「それで、八神さんはこんなところで油売ってていいの? どっか行こうとしてたんでしょ」
「いや、飲みに行こうかなってブラついてたら二人がついてきたから、面白くて適当に歩いてただけ」

 やはりバレていたようだ。神室町の探偵の名は伊達じゃない。
 だよね、と力なく笑う杉浦さんを見てから、すみませんでしたと頭を下げると「いや、尾けられてんのも面白かったし全然いいよ」と八神さんは屈託なく笑った。

「まあよ、せっかく集まったことだし今日はこの俺が奢ってやる! 金曜の夜はパーティーだぜ!」
「海藤さん、その言い方なんか古くない?」
「うるせえぞ! んなら、ター坊は自腹な」
「ごめんって、今のナシ!」

 今日はちょっとばかし臨時収入が入ったからな、と得意げに笑う海藤さん。
 八神さんに杉浦さん、そして東さんへと視線を移してから「私もいいんですか?」と問うと、海藤さんは「名前ちゃんそりゃねえぜ、男だけで飲めってか?」とカラカラ笑う。
 言われるがまま先頭切って歩き始めた海藤さんについて行く。いつの間にか陽が落ちて、街灯に明かりが燈りはじめてから、ようやくこの町が始まっていく。
 予定なんて無かった私の金曜日は、いつの間にか賑やかでワクワクするものに変わっていた。


***


「すみません、タクシーまで呼んでいただいて」

 申し訳なさそうな表情でタクシーに乗り込んだ名前さんに「いいっていいって、俺らが付き合わせちゃったようなもんだし」と中腰になりながら八神さんが言う。
 適当な居酒屋に入って、テンダーに梯子をして盛り上がっていたらあっという間に時刻は二十三時を回っていた。僕たち五人が合流したのが十八時過ぎだったのでかれこれ五時間近く飲んでいたようだ。
 僕が勝手に想像していたよりもアルコールに耐性があった名前さんは、ふわふわとした雰囲気になってはいるがそこまで普段と変わった様子は無い。
 名前さんは電車に乗って帰ろうとしていたが、八神さんがそれを引き止めてタクシーを呼び、こうして乗車させた所だった。
 私も一応大人なんですけどね、と彼女はどこか照れた様子で言っていたが、そうしてくれた方が安心できるのは僕も同じだった。

「こないだ仕事で助けてもらったし。今日は付き合ってくれてありがとね」
「いえ、私も本当に楽しかったです。海藤さん、ごちそうさまでした!」
「おうよ、また飲もうな!」

 八神さんの背中ごしにヒラヒラと手を振って「おやすみ」と声を掛けると、名前さんは小さく首を傾げながら目を細めて柔らかく笑んだ。ほんのり桃色に染まった頬のせいか、彼女は普段よりもあどけなく見える。
 ドアが閉まり、走り出したタクシーはあっという間に街のネオンの中へと消えて行ってしまった。
 走り去っていたタクシーの方向を見ながらぐーっと伸びをすると、ほどよく酔いが回っているのがわかる。寝付きの悪さは自負しているが、今日ばかりは帰ったらすぐ眠れそうだ。

「……杉浦よお、ありゃあいい子だぞ」

 いつの間にか煙草の火をつけていた海藤さんが煙を吐き出しながらそう言った。

「知ってるよ」

 そう返すと、海藤さんがニヤリと笑うのがわかった。何故だか居た堪れない気持ちになって軽く咳払いをする。

「ん? おまえと苗字さんは八神ンとこの仕事絡みで恋人のふりしてるだけ、っつってなかったか?」
「東、今は野暮なこと言わない時だよ」
「はぁ……!?」

 そんな東さんと八神さんのやりとりを聞き流す。そして、どうやら海藤さんも八神さんも最初の時のように茶化しているわけでは無いことがわかる。
 名前さんのことをその他大勢の女性とは違うと認識していることは、自分でも自覚をしている。その想いが行き着く先が何なのか、それもなんとなく見えてきてしまっている。
 そして認めてしまえばどうなるのか、わかっているから付かず離れずの距離を保ってしまう。そんな感情に気づかないフリをして、潔く離れる選択をしない自分が狡いこともちゃんと分かっている。

「男見せねえと、ひょっこり出てきたヤツに掻っ攫われちまうぞ。例えば俺とかな」
「……いいよ、海藤さんなら安心だし」

 海藤さんの言葉が冗談であることはわかっていたが、咄嗟に返した僕の言葉はとんでもなく幼稚なものに聞こえてしまっただろう。しかし、それも本心だった。
 僕みたいな半端な気持ちでいる人間が彼女の側にいるよりも、その方がよっほどいいに違いないからだ。
 海藤さんは何も言わず、人差し指と中指で挟んだ煙草を口から離し、目を細めてこちらに視線を向けてきた。

「大事なものが出来たとして、ある日突然それを失うことが怖いんだ。そんな体験、もう二度としたくない」

 この町に来て窃盗団なんかに身を置きながら、八神さんに近づいてモグラの事件を追って。そうこうしているうちに、八神さんや海藤さん、東さんはもちろん、神室町で知り合った人々がいつの間にか自分の中で大切な人というポジションに収まっていたことに気づいたのはいつ頃だろう。
 けれど、自分で自分の身を守れるその人たちと名前さんは違う。人間の身にはいつ何時理不尽なことが起きてしまうのかわからないということを、僕はきっとここにいる誰よりも知っている。
 あの喪失感とやるせなさ、どこにもやれない怒りをどうしたらいいのか。自分が爆発してしまいそうな、吐き気のするほどの憎悪を抱え込むようなことはもう願い下げだ。
 そんな利己的でどうしようもない理由から、僕はこの先へと踏み出すことが出来ないでいる。

「……ったく難儀なヤツだぜ」
「ここにいる人たちは僕が結構面倒な性格だってこと、知ってるはずじゃない?」

 じゃあね、と三人に背中を向けて、人を吐き出すことをようやく止め、こんどは吸い始めている駅方面へと向かう。
 今日はすぐ眠れそうだと思っていたのに、いつの間にか眠気はどこかへ行ってしまっていた。


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