7.

 横浜の伊勢佐木異人町。神室町から電車で一時間弱ほどのこの場所は、行き場を無くした人間の集まる「どん底の町」なんて呼ばれているらしい。
 歓楽街であること、加えてお世辞にも治安がいいとは言えないところが神室町と似ている。なんとなく落ち着くような気がするのは、きっとそのせいだろう。

「やはり、ボク的には前回の物件を超えるものは出てこないような気がしています」

 そう言いながら、目の前でカップのコーヒーに口をつけたのは九十九誠一。
 彼はつい最近まで神室町にあるインターネットカフェで引きこもりをしていたらしいが、あの八神さんが事あるごとに彼を頼り、その力を借りていたほどの凄腕ハッカーでもある。僕もなかなか電子系には強いつもりだったけれど、九十九くんのスキルには遠く及ばない。
 九十九くんと僕は八神さんの紹介で知り合った。お互いの境遇のせいもあって僕たちは妙に波長が合い、親しくなるのもあっという間だった。
 そんな僕たちの現在地はイセザキロードにあるプラージュという二階建てのカフェである。ガラス張りの店内は陽の光が惜しげも無く差しこむように設計されているせいかとても明るい。それでいて寛ぎやすいこの雰囲気は、統一されたインテリアのせいだろうか。

「え? あ、ああ、そうだね」

 ぼんやりしてしまっていたせいか、九十九くんの言葉に返事をするタイミングを幾許か外してしまっていた。
 九十九くんと僕がこの異人町を訪れて、こうしてカフェでまったりしているのにはとある計画と理由があるからなのだが、今日はそれに伴う物件探しをしていたところだったのだ。
 神室町を離れ、他の町の様子を伺いながらこうして物件巡りをするのはかれこれ三回目になる。そして、お互い口には出さずともこの異人町という町に腰を据えるのがいいのではないか、と感じていることは明白だった。

「それにしても杉浦氏、今日はずっと心ここに在らずですな」

 ちょうどコーヒーのカップに口をつけようとしていた僕に掛けられた九十九くんからのそんな言葉に、図星を突かれて思わず手が止まってしまう。コーヒーを飲まないまま、もう一度カップをソーサーに置く。
 心ここに在らず。確かに、今日の自分がなかなかに上の空で、目の前の事に集中出来ていない自覚はあった。そして、それを申し訳ないとも感じていた。
 八神さんから依頼された盗撮犯を捕まえる偽カップル作戦だったり、その場で決まった唐突な飲み会のあとで海藤さんに投げかけられた言葉だったり、そんなものが自分の頭の中を悶々と延々に巡り続けているのだ。
 その度に浮かんでくる彼女 ── 名前さんが見せた屈託のない笑顔と飾らない言葉を思い出す。気を抜けばそっちに気持ちが向いてしまう事がわかっているのに、ついつい思考が傾いてしまう。
 その感情を認めてしまうほうが楽なのか、それとも今みたいに頑なに知らないふりを決め込んでいる方が正解なのか。
 情けないことに、肯定したとしても脳裏に浮かんでしまうのは過剰な妄想とも取れる程の不安。僕の固い頭では、失うぐらいなら想いを向けないことの方が正しいに決まっているという答えが出てしまうのだ。
 ── っていうややこしくて情けない葛藤を、どうやって言葉にして伝えたら良いのだろう。
 こんなにも超個人的過ぎる悩みを洗いざらい話してしまうというのはさすがに気が引けてしまうわけで。
 正直に言えないもどかしさと申し訳なさを感じつつ、目の前にいる九十九くんには「なんか最近寝つき悪くてさ、寝不足なんだ」と伝える。実際にそれもあるのでまるきり嘘というわけではない。

「ふむ……。杉浦氏は器用ですが、取り繕うのはあまり上手ではありませんな」

 そうピシャリと言われてしまい、思わず口ごもってしまった。ここで何かを言わなければそれを肯定してしまうことと同義なのに、加えて僕は九十九くんに向けていた視線を心もとなく泳がせてしまう。
 しかし、僕が「ごめん」という言葉を発するよりも、九十九くんが「咎めているわけではないのです」と言う方が早かった。

「全て話してほしいというわけではありません。ただ、杉浦氏が今現在抱えている迷いが吐き出すことによって軽減されるのならば、その受け皿ぐらいにはなれるつもりであるとお伝えしておきたかったのです」

 きっと、九十九くんのその言葉を聞いた僕はなかなかに間抜けな顔をしてしまっていたと思う。
 彼のことを軽んじていたわけではないが、改めてその懐の深さとか、人としての器の大きさなんていうものをひしひしと感じる。
 負け惜しみとか皮肉とかじゃなく、九十九くんは僕なんかよりよっぽど人間力が高いと思う。

「ボクはもう杉浦氏の相棒のつもりなのです。それに、あなたの周りには八神氏や海藤さん、東さんだっていることをお忘れですか?」

 相棒。九十九くんの口から発されたその単語が、胸の奥でじんわりと響いたのがわかった。僕はこの感情が感動であることを知っている。
 絵美の件があってから、怒りとやるせなさに焦がれて自ら閉鎖していた部屋を出た。
 半ば家出のように実家を飛び出してから身を置くことにした神室町。所属していた窃盗団で、やけくそみたいな活動をしながら『気が置けない』と思える人間関係を誰かと築くことは終ぞ叶わなかった。
 誰かを頼るとか寄り添うとか、そんな選択肢が今まで無かったから、そう言われるまで気づくことが出来なかった。つい半年前のあの件から、いつの間にか僕の世界は自分でも気づかないうちに拡がっていたのだ。

「僕さ、一応は前を向いてるつもりだったんだけど、やっぱりまだ少しだけ立ち止まったままな部分があるみたいなんだ」

 自分の大切な場所や人が増えていくことに臆病になっているというのは、まだどこか囚われている部分があるからに違いない。
 すべて解決したのに、まだその場所で二の足を踏んでいるのは踏ん切りがついていないだけなのだ。

「杉浦氏は、現在進行形でこうしてボクの提案に乗ってくださっているではないですか。それだけで十分前向きであると思いますぞ」

 レンズの奥の九十九くんの瞳とその言葉には、終始僕を咎めるような色は見えなかった。
 ずっと穏やかに向けられていたその視線に真正面から向き直ったら、ついつい口から笑いがこぼれてしまう。

「九十九くんてさ、実はめちゃくちゃカッコいいよね」
「いやはや、イケメンの杉浦氏に言われると照れますなあ! しかし、褒めても何も出ませんぞ」
「お世辞じゃないってば」

 何とも言えないむずがゆさと、それ以上に温かい何かを感じながらぬるくなってしまったコーヒーにようやく口をつける。
 もしこの異人町に落ち着くことになるならば、このカフェで淹れたてのコーヒーを口にする機会はまた訪れるに違いない。

「九十九くんの言う通り、ちょっとモヤモヤしてることあるんだけど、これは僕がちゃんと向き合わないといけないことだって思ってるから解決したらちゃんと報告させて」

 だからそれまで待っててもらっていいかな、と伝えると、九十九くんはゆっくりと頷いて目を細めながら口角を上げた。

「勿論です。いやあ、ボクこそお節介を焼いてしまったようで申し訳なく……」

 憧れ、なんて言葉を口にするのはほんの少し恥ずかしいけれど、僕たちが今こうして二人で動いているのは八神探偵事務所の名コンビへのリスペクトに他ならないわけで。
 八神さんや海藤さんに並びたいんじゃなくて、いっそそれを超えたい。そんな風に思うようになれたから、少なくともそういう部分では自分の人生ってやつを歩き始めることが出来てるんじゃないかな、なんて思える。
 だからこれからの僕の明確な役目といえば、まずは目の前にいるブレーンの腕となり足となり体を張っていくことなのだ。

「……それと、これから九十九くんのことは絶対に僕が守るから安心してて」
「おお、頼りにしております! それにしてもそのセリフ、ボクが婦女子であったならば間違いなくメロメロですぞ」

 冗談めかして言う九十九くんに釣られるみたいに軽く笑いを零したら、ほんの少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。
 一応はこれだって仕事の一部なのに、上の空だったことはしっかりと反省しなくちゃいけない。
 この後もう一軒物件を内見する予定だけど、実は僕もこの間見たところが一番よかったと思っていたことを今更ながらに思い出す。
 とりあえず、まずはそれをちゃんと伝えるところからリスタートしよう。


***



「お姉さんお姉さん、今仕事帰り?」

 そんな言葉を掛けられることにももう慣れっこになってしまっていた。
 この町に慣れてきた自分を少しだけ誇らしく思うような気持ちはあれど、キャッチやナンパの類に引っ掛かっていい気持ちになることなど勿論無いわけで。
 鬱陶しいと思いながら「間に合ってます」だとか「急いでるので」と簡潔に言って視線を外して歩き出せば、しつこく来られても長く見積もって20メートルほど無視して歩き続ければそれ以上深追いされないことを覚えた。

「すみません、急いでるので」
「ナンパとか夜のお店のスカウトじゃないよ! ね、お酒とか興味ない?」

 いや、お酒ってやっぱりナンパじゃん。
 そう思いながら視線を外して駅に向かって歩くことを止めない。もしかしたらこの人、しつこいかもしれない。少しだけ歩くスピードを速めてみても、ペラペラと喋るその男が諦めて離れていく様子は無い。

「女子向けのお酒を造ってる会社に勤めてるんだけど、試飲してもらって意見ほしくてさ。もし興味あれば、ってことで!」

 これ貰ってくれるだけでいいから、と進行方向を塞ぐようににゅっと伸ばされた男の腕。行く先を塞がれてしまい、ついつい足を止めてしまった。
 ムッとして目を細めると、その男の指先には黒い名刺のようなものが挟まれていた。
 これ、受け取らなかったらまだしつこくついて来られるかも。
 どうやら今すぐこの場でどうこう、ということではなさそうだ。たった一枚のカードを受け取るだけで済むのなら、まあここはそのままもらって解放してもらうのが賢い選択に違いない。
 それだけなら、といって渋々そのカードを受け取る。パッと見て何の変哲もないそのカードは、光沢を消すようなマットのコーティングを施されており上質な感じがする。
 何も書かれていないカードの裏面中央にはQRコードが印刷されているだけで、ほかの情報は何も見当たらない。

「もしちょっとでも気になったらそこアクセスしてみて。招待制になってるんだ。それと、心細かったら一人なら友達連れて来ていいからね」

 それだけ言うと、先ほどまでしつこく追いかけてきていたその男はすっと身を引いてヒラヒラと小さく手を振ってきた。どうやらようやく解放されたらしい。釣られるように軽く会釈をして、そのカードをまじまじと眺めつつ再び駅に向かって歩きはじめる。
 まあいいや、興味ないし。そう思いながら肩から下げたバッグの中に適当にそのカードを突っ込む。
 家路を急ぐ人の波に逆らわず、吸い込まれるように駅の構内へと入った。


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