三井さんに背中をトントンと優しく叩かれているうちに涙は止まっていたけれど、胸を貸してください、なんてキャラに合わない甘えた全開な発言をしてしまったことが今更ながらに恥ずかしくて、私は顔を上げられずにいた。
 そしてもうひとつ。こんな機会きっともう無いし、せっかくだからもう少しだけ甘えさせてもらっちゃおう、なんて思ってしまっていたりする。あんな目に遭っておきながら、私はなんてズルい女なんだろう。
 そんな邪な気持ちと罪悪感にプレスされながら悶々としているうちに、どうやら三井さんも私が落ち着いてきたことに気付いたらしい。私の頭頂部に向かって「しばらくはそういう関係っつーことにして行動したほうがいいよな」とひとりごとのようなトーンで呟かれた言葉。
 そういう関係とはどういう意味だろう。三井さんが何のことを言っているのか分からず、名残惜しさを感じながらゆっくりと顔を上げ、首を傾げながら彼の顔を見上げる。

「そういう関係……って何です?」

 頭で思い浮かんだ言葉をそのまま発する。私のことを上から見下ろしている三井さんは、眉根を寄せながら「えーと、つまりだな……」と視線を逡巡させ、一呼吸置いてから続けた。

「オレ、あいつに言っちまっただろ。おまえの彼氏だって」

 そういえばそんなことを言っていたっけ。それであんな状況だったのにちょっぴり、いやかなりときめいてしまったんだった。ものすごいスピードで乙女モードに入ってしまい、のぼせあがりそうな脳みそを何とか通常モードに戻す為、小さく首を振る。
 確かに、三井さんはあの時そんな言葉を口にしていたけれど、だからってわざわざそれを実行する必要なんてあるのだろうか。現にあの人は去っていったわけだし、こんなことがあった以上、これ以降もしつこく迫ってくるという線は薄い気がする。

「大丈夫ですよ、追っ払えたんだし」
「あのな、このあと苗字さんが上に報告してさっきの奴がこのビルか、もしくは会社に居なくなったとしても、そのあともどこで見られてるかわかんねーだろ」

 逆恨みとかが無いとも限らねえし、と三井さんは続けた。

「でも、それなら私より三井さんの方が危ないんじゃ……」

 私がそう言うと、三井さんは目を細め、口の端を持ち上げながらニヤリと笑んだ。その表情の意図が読めずに首を傾げると「ああいう奴はな、敵わねーって思った相手にもっかい立ち向かったりしねーの!」と、どこか得意げに言った。

「それに、怖かったんだろ?」

 じゃなきゃオレの胸でピーピー泣いたりしねーもんな、と揶揄うような調子で続ける三井さん。ちょっぴりムッとしたけれど、それは思いっきり事実なのである。

「それは、その、すみませんでした、いい歳して人の胸借りて泣くなんて……」

 でもそれが好きな人の胸だったからちょっとだけ幸せだったな、と思ってしまう私はやはりとんでもなく現金だ。怪我の功名、という言葉が脳裏に浮かぶ。
 魔が差して発してしまったけれど、まさか自分の口から「胸を貸してください」なんてセリフが飛び出してくるとは思わなかった。梅ちゃんに報告をしたら「名前にしてはやるじゃない」と褒めてくれるに違いない。恥ずかしいから報告なんか出来るわけないけど。

「バーカ、からかっただけだっつの」

 そりゃ怖いに決まってるわな、と三井さんは目を伏せながらウンウンと頷いている。

「三井さんが来てくれてなかったら、キスぐらいはされちゃってたと思います」
「そんなんで済むわけねーだろ」

 オレに言われたって全然響かねーと思うけどよ、と視線を斜め下に向けてぼそりと呟くように続けた三井さん。彼の表情の中に浮かんだ微かな後ろめたさに、私たちの出会いが関係していることは明白だ。ズキリ、と胸の奥が少しだけ痛んだ気がした。

「で、話戻すけど、オレはしばらく付き合ってるフリでもしてたほうがいいと思うわけだ」

 付き合ってるフリ。それこそ少女漫画とかドラマの世界の話みたいだと、三井さんの顔を眺めながらぼんやりと思う。
 梅ちゃん曰く、私たちの出会いは「夜九時台とかにやってるのじゃなくて、金曜とか土曜の日付変わる直前ぐらいから始まるようなやつ」だったけれど、この設定ならば九時とか十時台のドラマに昇格できるかもしれないな、と能天気なことを考えてしまっていた。

「おいコラ、聞いてんのか」
「あ! ごめんなさい。でも、やっぱりその、ご迷惑をお掛けすることになりますし」

 私の言葉を聞いた三井さんは、眉根を寄せて深いため息を吐くと、呆れたような声音で「あのなあ」と続けた。

「こっちから首突っ込んじまったのに投げるわけにゃいかねえし、苗字さんもオレ相手なら気ぃ遣わねえで済むだろ」
「そりゃまあ……助かりますけど、でも」
「んじゃ気にすんな、甘えとけ」

 そう言うと、三井さんは私の頭にぽん、とその手のひらを乗せた。彼にとってその行動は他意も無く、何の気無しにしているに違いないけれど、今の私にはとんでもない破壊力である。この間の運動会の時もこうしてくれたことを思い出し、もしかしたら癖なのかもしれない、と思い至る。わざとやっているのだとしたら罪深いにも程があるけれど、三井さんのことだからその線は無さそうだ。

「三井さんって、体温高いんですね」
「あ? そうか?」

 さっき胸を借りた時にも思いました、という言葉は、照れくさすぎたので口には出さずにおくことにした。


***


 今日は送らせろ、と言ってきた三井さんの脅迫じみた口調と表情に気圧され、私はこくんと頷いてしまっていた。
 三井さんの方も、こなしてしまいたい雑務があってこんな時間まで残っていたらしい。しかし、あんなことがあった後でお互い残った仕事を崩そうという気持ちになるわけもなく。今日はもうさっさと帰宅しよう、という結論でまとまっていた。
 一階で待ち合わせましょうか、と提案すると、三井さんは「おまえはさっき自分がどんな目にあったのか、もう忘れちまってるみたいだな」と私の額を軽く小突いてきた。
 とっくに受付に人は居なくなっているし、時間的に一階の照明はほぼ落とされていて、更に施錠されているであろう正面入り口ではなく、裏口からビルを出る必要がある。私はそこでやっと気がついた。彼は、暗い中で私がひとりで待つことを避けてくれているのだ。
 まるで年下の妹を心配するお兄ちゃんみたい、と愉快な気持ちになる。そこで何となく理解した。三井さんがこうして変わらずに接してくれるのは、私のことをそういう風に思っているからなのかもしれない。気にかけてもらって嬉しいような、ちょっとだけ残念なような、真反対の感情が混ざり合って、今度は苦笑いが漏れてしまう。
 三井さんは「ダッシュで帰り支度してくっから、この部屋のドアは開けたまま準備して待ってろ」と、それだけ言うとそのままの勢いで部屋を出て行ってしまった。
 その勢いにぽかんとしてしまっていた私は、ハッとして数秒後にようやくソファーから立ち上がった。デスクの上は煩雑なままだけど、どうせ明日はその続きをやることになるのだし、と放置することにした。私しか使わない執務室なので、誰かに見られる心配もない。
 ものの五分もしないうちに戻ってきた三井さんと一緒に執務室を出て、エレベーターに乗りこみ一階に降りる。特に会話が弾むわけもなく、慣れた浮遊感に意識を集中させていたらいつの間にかエレベーターは地上に到着していた。

「この間はすみませんでした。変な態度取ったりして」

 二人並んで駅に向かう道中、ようやく切り出す事ができた。もう交流することなんてないだろうと思っていたし、この間のチャットで済んだ話だったのかもしれないけれど、こうしてまた対面出来たのだからやはり直接謝らなくては、と思ったのだ。
 三井さんは一瞬だけこちらに視線を寄越したのち「いや、オレが苗字さんの気に障るようなこと言っちまったからだし」と心なしか静かな調子で言った。

「その、私ってこんなかんじなので、かわいげがないとか愛嬌がないとか気にしてて、図星突かれたから取り乱しちゃって」

 子どもみたいでどうしようもないですよね、と続けながら、羞恥で顔が熱くなるのを感じた。改めて声に出してみると自分の幼稚さに呆れてしまう。

「……ならよ、改めて訂正させてくれ」
「え?」
「かわいげねえっつったのはナシな」

 そう言った三井さんの表情は、相変わらずいつも通りの無骨なものだったけれど、彼は私の視線に気がつくと「なんだよ」とムスッとしながら視線を逸らしてしまった。なんとも言えないむず痒い気持ちになってきて、思わず私も彼から視線を外してしまう。

「つーか、オレはもう嫌われたもんだと思って結構ヘコんでたんだぞ」

 だからまた美味い店でも教えろよな、とこちらには顔を向けずに前を向いたままの三井さんが言う。その言葉で、みるみるうちに胸の奥がポカポカしてくるのを感じる。
 この気持ちは風化していくのを待つことにしようと、つい先ほど決意したばかりだったのに。もう既に、知らないフリなんかとても出来ない程の存在感を持ってしまっているこの人への思いは、今まで抑圧されていた分を取り戻すかのように膨らんでいく。
 私はというと、こくんとひとつ頷くのが精一杯だった。どうしよう、人のことを好きになるって、こんなにカロリー使っちゃうようなことだったっけ。いつも通りでいることがとんでもなく難しくて、気を張って抑えていなければ周りに聞こえてしまうぐらいの音量で胸がキュウと鳴り出してしまいそうだ。

「送るって言っといてアレなんだけどよ」

 駅の改札を抜け、ホームに降りながらそう言ったのは三井さんだった。

「家の最寄り、人に知られたくねーとかあんだろ? 大丈夫か?」

 その「大丈夫か?」の意味はおそらく「知られてもいいのか」という意味なのだろう。
 そんなことは気にも留めていなかった。それぐらい頭回しとけよ、と怒られてしまいそうだけれど、私のこの人への信頼度はとっくにマックスレベルに達してしまっているのだ。

「全然気にしてなかったです」
「信頼してくれてんだったらありがてえけど、さっきの今だぞ。大体オレらだって最初は」

 そこまで言うと、三井さんは口をつぐんでしまった。なんでもねえ、と言葉を途切れさせた彼の横顔を眺めながら、私は気付いてしまった。彼がその後に紡ごうとしたセリフは多分、私たちの出会いに関することだったに違いない。
 あの朝、私が三井さんに乱暴された形跡は全くなかった。ましてや、私の方から彼を誘ってしまった可能性だって充分にあるのだ。私たちの間から、その事実が消えてくれることはないのだと改めて突き付けられる。もしかしたら、三井さんも私と同じぐらい、いやそれ以上にその事を気にしているのかもしれない。

「……初対面が会社で、それから今みたいに仲良くなれてたらよかったですね」

 思わず口に出してしまっていた。ただの知り合いとして関係が続くだけだったのなら、きっとこんな風に悩むことも無かっただろう。
 好きという感情が芽生えなければ、それに気付かずにいられたら。あの時酔っ払わず、潰れず、意識を保ったまま連絡先を交換できていたら、今よりは前向きな気持ちだったに違いない。
 三井さんは「そうだな」と小さい声で苦笑混じりに言った。複雑なものが入れ混じったような彼の表情から、その感情を読み取ることは出来ない。いつもは考えている事が顔に出やすく、分かりやすい彼が見せたその表情に罪悪感を覚える。
 ホームに入ってきた車両に乗り込むと、それは間もなく発車した。そこそこ乗車人数の多い車両の中、並んで吊革に捕まっているのはなんだか不思議だ。
 三井さんの家は反対方向なのではないかと懸念していたけれど、おずおずと問うてみると私より三駅先のあたりに住んでいるらしかった。迷惑を掛けているということは間違い無いけれど、わざわざ遠回りをさせているのではないと知れて少し気持ちが軽くなった。それを伝えると、彼は「だから変な気ィ遣わないでいいっつーの」と目を細めて笑んだ。

「駅から家まで、道暗かったりとかしねえの?」
「私ひとりっ子なんですけど、お兄ちゃんがいるのってきっとこんな感じなんですね」
「心配してやってんのに茶化すんじゃねーよ」

 再び顔を出してきた三井さんの心配性なお兄ちゃん気質に楽しい気持ちになってしまい、ついそんな事を言ってしまった。敢えて言葉にする事で、これ以上この気持ちが募っていかないように抑えていることを悟られる心配は無さそうだ。

「でも大丈夫です」

 折角だから、最後まで甘えさせてもらっちゃえばよかったかな。そんな事を考えながら、私は脳内で普段歩いている駅から家までの最短ルートと、すこし遠回りだけど明るい道、そのどちらを選ぶか協議し始めていた。今日は、というかしばらくは明るい道を選ぶのが正しい選択であることは間違いない。
 もう落ち着いたと、自分ではそう思っていても、実際は結構なダメージだったらしい。全く抵抗出来なかった悔しい気持ちと、今更甦ってきた恐怖で背筋が冷えてきてしまう。だめだめ、思い出したら止まらなくなっちゃう。

「苗字さん、割とわかりやすいよな」
「え……? どういう……?」
「だァから、無理すんなってこと。イヤじゃねーなら家まで送ってく」

 わかりやすい、と私のことをそう表現した三井さんの言葉。それはつまり、感じていた恐怖だとか不安だとかがうっすら、もしくはしっかりと顔に出てしまっていたということを示していた。どうしよう。この人の前じゃもう全然自分のことを取り繕えなくなってしまっている。
 ふと、脳内に現れた梅ちゃんが「名前の素直で屈託のないかわいいところ、もっと出していきなさいよ」とこの間と同じセリフを吐き出した。

「……ごめんなさい、じゃあお願いします」
「任せろ、つーかそこは謝るとこじゃねえぞ」

 オレとしては、すまなそうにされてるより感謝される方がいい気分なんだけどな、と冗談めかして言った強面のその人の表情は、ちょっぴり子どもっぽくてかわいらしかった。
 思えば、三井さんは最初から真面目で真っ直ぐで、不器用だけど思いやりのある人だった。ホテルで渡された連絡先の紙や、私の様子を伺うために誘ってくれたランチ。強面な見てくれに反して世話焼きで、大雑把なくせに意外と人の事をちゃんと見ていて。そんなところに、もう何度も助けられている。
 私は、そんな彼だからこんなにも惹かれてしまったのだろう。

「……付き合ってるっつー体だし、オレが言い出したんだし、こんぐらいさせろってこと」

 三井さんにとっては、これも罪滅ぼしのうちのひとつなのだろう。それがただの「付き合っているフリ」であるとわかっていても、困った事に勘違いをしてしまいそうな自分の気持ちにストップをかける術を、私はまだ知らないのだ。



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