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 マンションの前に到着すると、三井さんは「風呂入って体あっためてさっさと寝ろ」とだけ言い、駅に向かってUターンした。ありがとうございますの一言さえ言う間もなく、さっさと去っていってしまったその背中をぼんやりと眺めながら、ゆっくり息を吐き出す。
 付き合っているフリをする、か。
 あの時三井さんが発したセリフは、咄嗟に口から出てしまっただけだったのかもしれない。しかし、あの人のことだから本当に「しばらくそのつもりで行動する」のだろう。
 うれしいような複雑なような、筆舌に評しがたく形容できない感情を抱えつつ、緩慢な動作でエントランスのオートロックを開ける。もうあれっきりだと思っていたのにまた関わりが出来たことがうれしいなんて、そう思ってしまう私はなんて浅はかで単純なのだろう。
 付き合っているフリというのは、つまり三井さんが私を彼女のように扱い、そして彼氏であるように振舞ってくれるという意味に相違ない。果たして、私はそれに耐えながら自然体でいることができるのだろうか。
 たとえフリであっても、そんな風に関わっていったら彼のことをもっと好きになってしまうであろうことは容易に想像できる。しかも、本当に付き合っているのだと錯覚しかねない。ほとぼりが冷めたあとで傷つくのは結局自分なのだ。
 どうしてあの時「じゃあお願いします」なんて言ってしまったのだろう。三井さんの愚直なまでに真っ直ぐで嘘のない瞳に見つめられると、私はまるで魔法にでもかけられたかのように首を横に振ることができなくなってしまうのだ。


***


 今日昼メシ行くぞ、というチャットが社用携帯に届いていることに気が付いたのは、出社直後だった。まさか昨日の今日でそんな連絡が入るとは思わず、執務室でひとり「昨日の提案、やっぱり本気だったんだ」と声に出してしまった。
 カバンを下ろし、着ていたジャケットを椅子の背に掛けながら、漏れ出てきたあくびを堪える為に口に手を当てる。
 思い出すと鳥肌が立つほど嫌なことがあった上、体は日々の残業により極限まで疲れていた筈なのに、昨日の夜はろくに眠れなかった。
 三井さんから言われた通り、入浴して体を温め、さっさと床に就いたけれど、眠れたと思えば目が覚める、というのを夜中に何度も繰り返してしまった。そうこうしているうちに起床時間になっており、気怠さに強張った体を何とか無理矢理起こして出社準備をし、今に至るというわけだ。
 眠気はあれど、いざ業務が始まってしまえばそんな事は言っていられない。昨日中途半端に残してしまった仕事の山を眺めながら、気合いを入れる為に「よし」と小さく呟いてみる。
 ちょっぴりわくわくするような、うれしくて浮き足立つような気持ちがあるのはお昼が楽しみだからだろうか。
 届いていたチャットに「大丈夫です、じゃあ一階のこのあいだ待ち合わせたあたりで」と簡潔に返事を返しながら、自分の口角が上がってしまっていた事に気づく。こんな自分の表情、絶対に見たくないし誰にも見せられない。執務室が個室で良かったと心底思う。
 一心不乱に仕事を崩し、入っていた面談をこなしていると、午前中は瞬く間に過ぎていった。
 昼休みになり、総務部がざわつき始めたのを感じる。時計を確認しながらぐーっと伸びをして、社員証と財布をひっ掴み、掛けておいたジャケットを羽織って席を立つ。執務室からエレベーターホールに出ると、ちょうどいいタイミングで到着したエレベーターに乗り込んだ。
 一階に到着してエレベーターを降りると、昼時のざわつくエントランスには同じく待ち合わせをしているらしい社員の姿が多く見られる。しかし、あたりを見回してみても三井さんらしき姿は見えない。

「おう、待たせたか?」

 そう声を掛けられたのは視線を下げた直後だった。顔を上げると、すぐ横にぴょこんと小さく手を挙げた三井さんが立っていた。

「お疲れ様です。今日は何かご希望あります?」

 そう問うと、三井さんはこくんと頷き「ラーメン」と間髪入れずに答えた。そういえば、今度はラーメン屋に連れてけって言われていたっけ。了解です、と返事をすると、三井さんはそんな私をちらりを見遣りながら小さく笑った。

「なんですか、人の顔覗き込んで笑うなんて」
「いや、大丈夫そうで良かったなと」
「……感謝してます」

 ビルのエントランスを抜けながら、昨日はあのあとちゃんと眠れたのかとか、今朝は変わりなかったかとか、ちゃんと上に報告はしたのかとか、そんなことを矢継ぎ早に質問される。
 付き合ってるフリなんていいつつ、まるで兄妹のやりとりみたいだな、と考えながら、私はそれらへの答えをまとめて肯定するようにひとつ頷いて見せた。本当はあまり眠れていないけれど、そこまで顔に出ていないのなら良かったと思う。

「大したお礼になりませんけど、今日のランチ代は私が持ちますね」
「いや、昼メシはオレから誘ったんだし気にすんな。……つーか、礼してくれるっつーなら別でもらってもいいか?」
「別……? あ、お店ここです」
「お、んじゃあとりあえず中入ってから話そうぜ。あー、ハラ減った!」

 外出てる時より内勤でパソコンに向かってる時の方が疲れんだよな、と言いながら、三井さんが店の暖簾をくぐる。
 店内の様子を伺うと、席は既にほぼ埋まりかけており、待たずに座れるギリギリだった。
 設置されている券売機を指差した三井さんが「で、ここのオススメは?」と問うてくる。私のお気に入りであるこのラーメン屋は、あっさりめの澄んだ醤油ラーメンがウリの店である。

「醤油です、いちばん左上のやつ。男の人にはちょっと物足りないかもしれないですけど」
「いや、苗字さんのオススメはハズレねーから」

 三井さんはそう言って、さっさと同じメニューを二枚発券してしまっていた。

「さっきの話だけど、手伝って欲しいことがあってよ。今週の土曜って空いてるか?」

 席に通され、発券した食券を店員に渡し終えるなり、三井さんはそう言った。土曜日、しかも今週末とは唐突だな、と思いつつ、何も予定がなかったことを確認して「空いてます」と返事をする。

「持ち物は……んーそうだな、動きやすい格好して来てほしい。上はTシャツとかで、下はスカートとかヒラヒラしてんのはナシな。あと中履きの運動靴ってあるか?」
「こないだ会社の運動会で使ったやつならありますけど……」
「おー充分充分」
「それでどこへ何しに行くんですか?」
「そりゃ当日のお楽しみだ」

 こんな軽いデートのお誘いがあるだろうか。今週の土曜日、と言われて「まさか」と心臓が跳ねたのも束の間、目の前にいるこの人のさらりとした様子を見るに、私が浮かれるようなお誘いではなさそうだ。
 しかも動きやすい服装の指定と来た。これは多分、誰かの引越しでも手伝わされるに違いない。体力に自信のある方ではないので、力仕事に期待をされても人数に数えられるのが申し訳ないのだけど。
 誘ってもらえたことは素直に嬉しいはずなのに、ちょっぴり複雑だ。三井さんと接する度、この人にとって私がそういう対象に見られていないのだということを思い知る事になる。人を好きになるって素敵なことの筈なのに、苦しくて切なくてどうしようもなく厄介だ。
 私がそんな複雑な感情を心に抱え、必死に表情に出さないようにしていることを、ちょうど運ばれてきたラーメンに「おお」と感嘆の声を挙げている三井さんに気づかれる心配はなさそうだ。
 三井さんから「ほら」と手渡された割り箸をパキンと割る。不恰好に割れてしまった割り箸は、食べる分には差し支えないが、まるで私の複雑な乙女心を表しているかのようでなんとも言えない気持ちになった。


***


「やっぱ苗字さんのオススメの店は外れねーな!」
「お口にあったみたいで良かったです」

 満足満足、と歯を見せて笑う三井さんの屈託のない笑顔はまるで少年みたいだ。そして、その飾らない姿に懲りもせずキュンとしてしまう私。ああ、なんて報われないのだろう。いっそ愉快に思えてくる。
 この気持ちが風化するまでに一体どのぐらいの時間が掛かるのか、考えるだけで途方も無さすぎてため息が出そうになる。
 同じセキュリティカードを首から下げた社員たちが、吸い込まれるように自社ビルへと戻っていく。その流れに逆らうことなくエントランスを通り抜けると「苗字さん!」とどこからか声を掛けられ、私は立ち止まって辺りを見渡した。

「書類とお名刺、預かってます!」

 その声は、どうやら受付から発されたものらしかった。大きく手を振る受付嬢の姿を認めてから、横にいる三井さんに「じゃあここで」と声を掛けて一礼する。

「おう。土曜の件、また連絡すっから」

 三井さんは「またいい店教えろよな」と言うと、エレベーターホールの方へと進んでいった。
 離れていく彼の広い背中をただただぼんやり眺めてしまっていたことにようやく気がついた私は、慌てて受付の方へと向き直り、カウンターに駆け寄っていく。

「さっきお昼行かれるの見えてたので、受付で預かっちゃいました」
「そうだったんですね。助かりました、ありがとう」

 にっこりと笑顔を浮かべながら私に書類を差し出してきた受付の子の姿は、そういえばこのあいだの運動会でも見かけたような気がする。
 華奢で小柄で笑顔もとびきりかわいらしくて、小動物を思わせるような愛嬌がある。まさしく受付嬢、と言った風体である彼女のナチュラルな愛らしさが羨ましい。
 書類を受け取ると、彼女がじっとこちらを覗き込んでいることに気付く。なんだろう、と小さく首を傾げて見せると、彼女は意を決した様子で「あの、業務外のことお聞きしてもいいですか?」と口元に手を添えながら、ヒソヒソ話をするように問うてきた。
 私は思わずぱちくり、という擬音が聞こえてしまいそうな瞬きをしてから「あ、はい」と答え、カウンターへ身を寄せる。業務外の話とは一体何だろう。

「三井さんと苗字さんて、もしかしてお付き合いされてるんですか!?」

 予想もしていなかったその言葉に思わず硬直してしまう。

「は……?」
「あ、いや違うんです! お二人ともピシッとされてるからめちゃくちゃお似合いだなーってずっと思ってて!」

 よく一緒にランチ行かれてるの見かけてたので、と彼女は慌てた様子で続けた。一瞬驚いてしまったが、傍から見て私たちがそういう風に見えているのならば、三井さんの考えた「付き合っているフリ作戦」は上手くいっていると見て良いだろう。
 それなのに、私はどうしてもすぐに頷くことが出来なかった。ここでそれを肯定してしまったら、私の心が完全に勘違いしてしまうような気がしたからだ。

「……いえ、ただの知り合いです」
「えっ、とってもお似合いなのに! ……あ、ごめんなさい! お引き留めした上にいきなりこんなペラペラと!」

 本当ならばここで肯定するのが正解なのだとわかっていた。そうでなければ三井さんがこの提案してくれた意味がないのだから。
 私たちがしていることは、どこまでいっても付き合っているフリなのだ。私の気持ちがもうすっかり三井さんに向いてしまっていることを自覚していても、決してそれが実ることはないのだと知っている。それを思い出すたびに、胸がズキンと鈍く痛む。
 にこにこと笑んでいる彼女が「私とも今度是非ランチご一緒してくださいね」と続けるのを聞きながら「ええ、もちろん」と返事をする。私の笑顔は引き攣っていなかっただろうか。ちゃんと笑えていただろうか。
 気にしていない体を装っていれば、いつかこの気持ちは風化していくだろうと、そう思っていたのに。それしようとすればするほど、意識を逸らそうとする程に己の気持ちを自覚してどうしようもなく息苦しくなる。
 心底申し訳なさそうに「お引き留めしてごめんなさい」とぺこりと頭を下げた彼女に軽く会釈をして、踵を返しエレベーターに向かいながら呼吸をすることに意識を集中させる。
 ゆっくり息を吐いて、吸って。何度もそれを繰り返しているのに、酸素が脳みそに届いていないような気持ちわるい感覚に吐き気さえした。


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