人の感情というものは、私みたいなしがない女子高生には到底理解しがたい極めて複雑な原理でできていると思う。
 美味しいものを食べて幸せを感じたり、悲しい映画を見て心が苦しくなったり、そんな当たり前に感じる事を更に掘り下げてみようなんてほとんどの人は考えることさえないだろう。
 そういう難しいことはきっと研究をしているえらーい先生がいらっしゃるはずなので、私はこれからも心の向くままに「美味しいなあ」「楽しいなあ」「悲しいなあ」とお気楽に生きていくのだと思う。
 そう、お気楽にゆるりとまったり普通の毎日が送れるならそれでいいや、と思っていた私に、今の現実を受け止めるキャパシティは存在しない。だって、本当に本当に信じられないことが起こったのだから。


WEDNESDAY.



 さて、私はどうしたらいいのでしょうか。
 会話をしたこともない人に借りた物の返し方、なんてマニュアルはきっとこの世に存在しない。言葉にしてみると、なんと矛盾に満ち満ちた理解不能なことだろう。
 おさらいをします。牧紳一いう人物は、校内に知らない者が居ない有名人で、強豪である我が海南大付属高校男子バスケ部のキャプテンで尚且つ絶対的なエース。部員にも慕われていて、教師陣からの信頼も厚い。体格がいいせいかちょっと威圧感があるけど、そんな雰囲気も彼の持つ特別なオーラみたいな感じに思えてくる。学校の有名人といえば一番最初に名前の挙がる人物だ。
 ここまでを結論として言うと、私にはまるで縁がなく、むしろ敬遠してしまうタイプである。
 クラスが同じになったこともなければ、お互いに会話を交わしたこともない。このあいだのことを会話というのならば、それが最初だ。
 それにしても、なんで牧くんは私のことを知っていたのだろう。
 私が牧くんを知ってるのは校内の常識みたいなものだけど、こんなどこにでもいそうなモブ生徒のことを認識しているということに驚いた。しかも私、あの時顔上げられなかったし。鼻水ズルズルで声も変だったし。
 もしかして、気づかないうちに話したことあったっけ。でも牧くんぐらいわかりやすく目立つ人と話したことを忘れるなんてことはあり得ない。なんなら、彼は入学してすぐに部活で活躍し始めていたし。
 お昼も間近の4限、そろそろ定年だろうと思われる頭の上が少し寂しい先生がチョークでだらだらと年表を書いてゆく。
 授業とは全く関係のないことで頭の中をいっぱいにしている私は、まっさらなノートを広げ、ペンを机の上に置いたまま頭を抱えていた。
 私の席はいちばん後ろの窓際で、お昼寝にはもってこいの特等席だ。お察しの通り、私も眠い時は潔く睡魔に屈し机に突っ伏すことにしている。しかし、今日は呑気に眠っている余裕なんてない。

「苗字、すまん消しゴム落とした」
「間に合ってます」
「その、おまえの足元のやつ」
「だから間に合ってますってば……」
「オレのなんだけど」
「は? ぎゃあ!」

 すっかり自分の世界に入り込んでいた私は、隣の席の男子生徒のそんな声でやっと現実に引き戻される。
 隣の席の武藤くんは、大きな背中を縮こめて「それそれ、足元のやつ。悪いけどオレが手ェ突っ込むわけにいかないからさ」と小さい声で言いながら、私の足元に落ちている消しゴムを指差した。
 気づかなくてごめん、と口パクで平謝りしながら私の上履きの先に落ちていた消しゴムを拾って手渡す。
 そういえば、武藤くんも男子バスケ部だったっけ。しかもレギュラーだった気がする。この人もかなり背が高いし、今だって手のひらが私の2倍ぐらいあったし。っていうのはちょっと盛りすぎだけど。
 ただでさえ練習が厳しいと評判のバスケ部に3年も籍を置いて、なおかつたった5人の選ばれしレギュラーってものすごいことだと思う。牧くんはズバ抜けてすごいんだろうけど、武藤くんも相当すごいんだろうな。

「……えーと、何? あんま見られてっと緊張すんだけど」

 そう言われて、自分が思いっきり首を向けて武藤くんを凝視してしまっていたことに気づいた。
 大変失礼致しました、校内のスターのひとりにモブ生徒の私なんぞがガン見など申し訳ありません。そんな気持ちを込めながら「ごめんなさい」と言って慌てて前を向く。
 牧くんのタオル、武藤くんにお願いして返してもらうってのはどうかな。手紙とかつけとけばありがとうの気持ちぐらいは伝わるかも。あんなことのあとで顔合わせるの、よくよく考えてみたらやっぱりちょっと恥ずかしいし。
 そんなことを考えながら、頬杖をついて窓の外に目をやる。あいも変わらず、今日も夏の太陽はびっくりするぐらいに元気なようだ。


***


「って考えたんだけどね、やっぱりこういうことを人にお願いするのってよくないし、でも爆泣きしてたところ見られてるのに対面するとか顔面発火しそうだし、そもそも話す機会がなくない? って感じだし……」

 お弁当箱の中のブロッコリーを転がしながらうだうだ言っている私の話を聞いているのかないのか、ナッちゃんはコーヒー牛乳のパックにストローを差しながら時々相槌を打つように頷いている。聞いているのが半分、聞き流しているのが半分ってところだろうか。
 それでも自分の心の中で溜まったものをこうして人に話すと少しだけ楽になる。現状はまったく進んでいないわけだけど。

「武藤! 放課後のミーティングの件なんだが」

 びくりと盛大に肩を揺らしたせいで、机までガタッと音を立てた。
 その声は間違いなく牧くんのもので、恐る恐る視線だけを声のした方向に向けると後ろ側の扉の前に牧紳一その人が立っていた。
 呼ばれた武藤くんは、クラスメイトとの談笑を切り上げて牧くんの方へと向かっていく。背の高いふたりが揃うとなんだかとても圧巻だ。

「グッドタイミングじゃん」

 ナッちゃんはどこか楽しそうに「いまなら返せるんじゃない」とか言っているけど、部活のことで業務連絡的な会話をしているであろう校内のスターたちの間に「ご歓談中失礼いたしますが」なんて入っていけるわけがない。そもそも、それが出来るのならきっと私はこんなにうだうだしていないのだ。
 無茶いうな、という視線を向けたら、彼女は「そうだよね」と小さく笑った。

「あ……そうだ。牧、いま時間あるか?」
「え? ああ」
「よし、じゃあちょっとそこで待ってろよな」

 教室の後ろの扉でそんなやりとりが交わされていることなど露知らず、私はだんだんと体が緊張していくのを感じていた。
 自意識過剰だっていうのは百も承知だ。だけどもしかして、もしかしたら今、牧くんは「あ、こないだめちゃくちゃ泣いてた人だ」って私の存在に気づいてしまったかもしれない。ああ、小さくなりたい。今だけおやゆび姫ぐらいになってとりあえず彼の視界の外へと逃げたい。

「苗字、カバンの中にあるだろ?」

 突然横から掛けられた声にびっくりして声が出なかった。
 いつの間にか腰をかがめている武藤くんが横にいて「ほら、例のタオルだよ」と促してくる。
 どうして、と小さな声を漏らす私。同じく驚いた顔をしているナッちゃんと、横にいる武藤くんと、その奥で立ち尽くしている牧くんへと視線を移す。その瞬間、バチッと視線がかちあって、彼はちょっとだけ驚いたような表情をした。
 うわ、うわ、どうしよう。牧くんと目が合っちゃった。しかもなんだか指の先まで震えてきた。
 ぶるぶる震える左手で口元を隠しながら、促されるままに机の横にかけられているカバンへと手を伸ばす。ジッパーをあけると、あの時に借りたタオルが入った袋がちゃんとそこにあった。

「あ、こ、これ……?」
「よし、あるな。じゃあ行くぞ」

 へ、と間抜けな声を上げるのと同時に、私は手首をガシッと掴まれ、そのまま立ち上がらされていた。
 目を白黒させながら助けを求めるようにナッちゃんの方を見たら、彼女はヒラヒラと手を振りながら小さな声で「頑張っといで」と戦場へ行く我が子を送り出すみたいな声音で言った。え、ちょっとまって、私しぬの?
 立ち尽くしたままの牧くんの方へずんずん歩いていく武藤くんは、そのまま空いている方の手で今度は同じように牧くんの腕をむんずと引っ掴んだ。

「な、武藤……?」

 まるでさっきの私みたいに呆気に取られた様子で声を発した牧くんに、いつものような真面目で厳格そうな表情はない。
 そんな私の視線に気づいたのか、今度はさっきの距離よりももっと近いところで視線が合わさったけれど、恥ずかしいとかそんなのはもうとっくにすっ飛ばしてしまっていた。
 今なら牧くんが考えていることがわかる。きっと「これは一体どういう状況で、どこに連れて行かれるんだろう」に間違いない。だって、私たちはおそらく同じことを考えているからだ。

「あの、ええと武藤くん、私は、というか私たちは一体どこへ……」
「はいはい、まあいいからいいから」

 このとき、私はふと思った。自分がゴリラ腕力女だったなら、きっと掴まれた腕もひょいとひっぺがえしてしまっていたのに。少し抵抗してみようかと試みたけれど、いつもトレーニングしている男子の力には到底勝てるわけがない。
 牧くんはというと、私以上に混乱しているようだった。動揺が大きすぎて抵抗するという選択肢さえ無いらしい。こんな牧くん、見たことない。
 お昼休みの廊下、いろんな生徒たちが談笑している中を、武藤くんはすいすいと進んでいく。周りがなんだなんだと好奇の視線を私たちに向けている。牧くんと武藤くんはいい、けど、ここに私ってぜったいおかしいでしょ。そりゃみんなの頭の上にクエスチョンマークも浮かびますわ。
 手に持ったままのタオルを袋越しにぎゅっと握り締めそうになったが、なんとかその衝動を抑える。
 廊下を曲がり、その奥の実習棟の端っこにたどり着いてから、やっと武藤くんは牧くんと私のことを解放してくれた。

「それで武藤、これはいったいどういう……」
「おまえに用があるのは苗字。それじゃあオレは教室に戻りますので」

 組んだ両手を後頭部に当てながら立ち去ろうとする武藤くんの顔を凝視していたら、彼は私の横を通り過ぎ様にふてぶてしくニヤリとした笑顔を残した。
 なにこれ、どういうこと? もしかして、私が牧くんにタオルをちゃんと返して、お礼を言えるようにお膳立てしてくれたってこと? それでも、だったらひとこと言ってくれてもよくない?
 ぐちゃぐちゃに混乱していた頭の中が整理されてだんだんと冷静になってきた。そして、感じるのはさわやかにこの場所を過ぎ去ろうとする武藤くんへのほんの少しの腹立たしさ。
 でも、そうだ。たぶん、こうでもしてもらわなきゃこんな機会は無かった。だけどやっぱりこれはちょっと荒療治すぎないかな、武藤くん。
 ええい、と意を決した私はくるりと向きを変え、牧くんと向き合った。
 武藤くんよりは少し背が低いようだけれど、それでも牧くんは充分高身長である。見上げなければならないし、真正面から視線を交わすのはやっぱりちょっと恥ずかしい、けど。

「あの、先日はお見苦しいところをお見せしました、それとええと……これ、タオル、借してくれて本当にありがとう!」

 私は前屈でもするかのようにものすごい勢いで体を折り畳みながら頭を下げた。
 言えた、私いま言った、ちゃんと言ったぞ。ありがとうって、伝えられた。恥ずかしさと緊張で声が震えてたけど、それでも言えたんだ。
 しばらくそうしてからおずおすと頭を上げると、牧くんはこぶしを口元にあて、少しはにかんだようにくしゃっと微笑んでいた。思わず「あれ、笑ってる、こんなにいかついのになんかかわいいかも……」なんて失礼な事を思ってしまう。

「いや、こないだも言ったが、オレが勝手にしたことだから苗字さんは気にしないでくれ」
「でも感謝してもしきれないというか、本当に元気でたの。あ! これ、返します!」

 この3日、まるでガラス細工を扱うように丁寧に扱ったそのタオルを、ずいと牧くんの前に差し出しながら、もういちど「ありがとう」と言うのを忘れなかった。
 牧くんは驚いたように少し目を見開いたあと「わざわざ返してくれなくても良かったのに」と、言いながら受け取ってくれた。

「その……新品じゃなくて悪かった」
「いや! そんな! とんでもない! あ、ちゃんと洗ってありますので!」

 こうして向き合って話してみると、意外にも牧くんはとても穏やかで柔らかい雰囲気のする人なんだなあ、と傍観者みたいなことを考える。遠くからなんとなく見ているだけじゃ、その人のことなんて全然わからないんだな。大人っぽく見えても、自分とは全然違う世界の人だって思っていても、こうして向き合ってみないとわからないことばっかりだ。
 校内一の有名人とこうして一対一で喋っているんだ、と自覚したら、なんだかちょっぴりむず痒いような気持ちになってきた。ナッちゃんにそんな事を言ったら「気の多いやつ」と笑われそうだ。

「こんなにきれいにしてくれたのか、ありがとう」
「ううん、本当に嬉しかったからちゃんとお礼、言いたくて」
「すまんな。……ええと、それじゃあ」

 牧くんはそう言うとぎこちなく小さくこちらにお辞儀をして、もと来た方向へと戻っていく。彼の存在感たっぷりの背中はどんどんと遠ざかって、廊下を曲がって見えなくなった。
 その背中を眺めたまま呆然としていた私は、自分以外だれも誰もいなくなったその場所でひとりごとみたいに「さようなら」と言ってみる。
 ここ何日かのいろいろと、ついさっきの怒涛の展開。どっと疲れたけど、タオルをちゃんと返せたし、お礼も言えた。
 極限まで緊張していたせいか、ひとりになったら急激に体の力が抜けていく。
 気の抜けた風船みたいにその場にべしゃりとしゃがみこみながら「これ多分次の予鈴なるまで立ち上がれないやつだ」と情けない苦笑いを浮かべた。


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