なんとなく無意識に、私は目立つ人を避けてしまうことがある。「あいつ、またハットトリック決めたらしいぜ」「司令塔だし期待されてるみたいだもんな」「すげーよなー」と、例えばこの会話の的であるサッカー部のエースをA君とする。A君はここでいつも「オレよりすごいやつなんて全然いるよ」と言う。
 でも、どうしても疑ってしまう。もしかして、彼は心の中で「そんなの当たり前だろ」って思っていたりするんじゃないかって。
 学内のアイドル、部活のエースにキャプテン、女子に騒がれるぐらい容姿端麗な男子、人当たりが良くて成績優秀な女子。そんな人達に、他人を見下しているようなところがあるんじゃないかって思ってしまうのだ。
 後に、これは大いなる誤解で大変な勘違いだったって気づく事になるのだけど。


TUESDAY.



「なにそれ、あのあとそんなことあったの?」

 前の席に座るナッちゃんは、私の机に片肘で頬杖をついたまま目を細めて言った。
 結局あのあと部活に出なかった私は、ことのあらましを説明し終えると机の横にかけたスクールバックの中に手を突っ込んで「こちらが例のブツです」と畳んだタオルを取り出して見せた。
 慰めてくれた優しいあの人の正体は結局わからないままだ。
 貸してもらったそのタオルは私の涙をたっぷり吸水していたので、帰宅してからお母さんに頼んですぐに洗濯してもらった。それでふわふわに乾かして、しっかり畳んでからカバンに入れて持参してきた、というわけだ。
 いろんな意味で濃くて濃すぎた昨日の出来事。振られた現実はもちろんだけど、それよりもその後のタオルの人の件が衝撃すぎて、かつ気になりすぎて、いま私の頭の中をぐるぐる回っているのはその人のことばかりだった。
 ちゃんと返却すべくこうして持ってきたわけだけど、正体なんて皆目見当もつかない。なんとなく、というかただの勘みたいなものだけど先生ではない気がする。そうであってほしい、というただの私の願望かもしれないけれど。
 クラスメイトの男子の声を集中して聞いてみても、似ている様なそうでもない様な、しっくりくる声の持ち主は居なさそうだ。
 せめて「あの時はお恥ずかしい姿をお見せしてごめんなさい、タオルとっても助かりました、ありがとう」ってちゃんと感謝の意を伝えて返したいのに、手掛かりが声しかないなんて。
 ああ、私ってばなんてバカなんだろう。せめて名前ぐらいちゃんと聞いておけば良かった。っていうかタオルの人だって名乗ってくれても良かったのに。

「泣いてるより笑顔のがいいってセリフとか、男子高校生が言うかね?」

 言われてみれば歯の浮くようなセリフだ。あの時はそんな言葉よりも動揺のほうが大きかったからあんまり気にして無かったけど。

「でも私はとっても元気付けられたから、ちゃんとありがとうって言ってタオル返したいんだよ……」
「その人、アンタの名前知ってたんでしょ?」
「うん、苗字さんっていわれた」
「うちのクラスの男子の声じゃないっぽいとなると、これはもうやっぱり教師の誰かじゃない?」

 えーそんなのやだやだやだ!と私は思わず声を上げていた。ちょっと深みのあるあの声の持ち主が、タオルのあの人がうちの先生の誰かだったとしたら。
 あの時、その誰かの優しさはズタズタだった私の心を確かに癒した。加えてちょっぴりキュンとまでさせてくれた。傷心中だから心がグラグラなのは許されたい。女子っていうのは傷ついているときに優しくされるとゆらゆらしちゃうものなのだ。

「でもね、なんかどっかで聞いたことあるような声だったんだよ。だからクラスの男子かなって思ってたの」

 そうじゃないっぽいけど、と付け足すと、ナッちゃんは腕を組んでうーんと唸りながら神妙な面持ちで「……聞き覚えのある声、それってやっぱり先生よ」と言った。

「そろそろ先生説を外してくれませんかね……」
「あはは、ごめんごめん」

 たぶん謝る気なんて全くないであろうナッちゃんの適当なあしらいにムッとしつつ、私は頬杖をついて背中を丸めながら窓の外へと視線を向ける。
 締め切られた窓の外は、今日もきっと勘弁してくれって思うぐらい暑いはずだ。私立でよかった、だって冷房があるもん。残り少ない授業合間の休み時間にそんなことを考えていたら「まあでもさ」とナッちゃんが声を発した。

「あたしは名前が思ったほどベッコリしてないみたいで安心したよ」

 昨日部活サボって散々泣いたからスッキリしたのかも、と返すと、彼女はケラケラ笑いながら「なるほどね」と言った。
 本当にこれでもか!ってぐらいたくさん泣いた。それはもちろんあるけれど、昨日の失恋を吹っ飛ばす程とはいかなくても、張るぐらい私の頭の中を支配しているのは例の「タオルの誰か」なのである。
 タオルさん、ありがとう。あなたのおかげでちょっと、いやかなり気が紛れています。でもやっぱり名乗って欲しかったな。もしかしてもう1回号泣したフリしてたら会えたりしないかな。
 そんな悪どいことを考えていたら、次の授業が始まるチャイムが鳴った。


***


「太陽さん、どうかもう勘弁してください……」

 思わずそう声に出してしまっていた。間違いなく夏の太陽は人類のことを焼き殺そうと思っている、そうに違いない。
 ギラギラギラギラ、ミンミンミンミン、ジリジリジリジリ。
 この茹だるような暑さのせいで私の機嫌は最高潮に悪かった。加えて今まで部活に無遅刻無欠席を貫き通していたせいか、部長に昨日は突然どうしたのかと質問攻めにされた。それがうっとおしくて堪らず「ほっといて!」と地団駄を踏みながら叫びそうになったところでナッちゃんが割って入ってきてくれて助かった。持つべきものは気のおけない友人である。
 それにしても、私はなぜこの炎天下で一心不乱に自分の脚をいじめ抜いているのだろうか。
 休憩のたびに塗り直している日焼け止めはほとんど気休めみたいなもので、お風呂に入るたび日焼けでだんだん黒くなってきた自分の肌を見ながら悲しい気持ちになる。
 それなのに、なんだかなあ。
 スタート位置に着くと、ストップウォッチ係が合図を出して「よーい」と半ば事務的に声を上げる。心地よい緊張感と、こめかみを伝う汗。もう勘弁してくれって思うぐらい暑いのに、私は不思議とこの瞬間が好きだ。
 スタート位置に着いていると、まわりの音も空気の震えまでもが止んで、まるで世界中で自分だけ取り残されたような不思議な気持ちになる。そんなことを言ったら笑われそうだけど。

「いつまでそうしてんの、早く着替えな」

 はっとした。簡易シャワーで汗を流して制服のシャツを羽織ったまま、ロッカーに額を当てて呆けてしまっていたようだ。ロッカーに顔を引っ付けているとひんやりとしていて気持ちがいい。
 シャツのボタンをひとつだけ留めた状態で、なおかつ下は短パンのまま。既に帰り支度が済んでいるナッちゃんは私を見下ろしながら「はいあと5秒ね」と絶対に無理な難題をふっかけてくる。
 私は慌ててロッカーの中に引っ掛けてあったスカートをハンガーから取り外した。
 シャワー浴びたって言ってもさあ、夏の練習後に制服着たくないよねぇ、と誰かの声。その言葉にうんうんと心の中で激しく同意しながら、スカートのジッパーを勢いよく上げる。うちの学校は土日以外、部活後にジャージなどで帰宅することを許されていないのだ。
 結局、私は今日の部活ではタイムを計らずに終えていた。これでも一応去年は長距離で県から関東大会へ出たこともあるので、昨日練習をサボってしまったことも、今日タイムを計る気になれなかった事にもほんの少しだけ罪悪感があった。
 でも、私は知っている。走る以外の事を考えながら悶々と走っても、碌なタイムは出ないのである。
 何でって、以前好きだった人の事を考えながら走ったらものすごーくしょうもない、しょっぱすぎる記録を叩き出したことがあるからだ。

「ところで名前、今日の夜やるドラマみてる? 今晩2話めなんだけどさ、なんだっけ、あの今結構テレビ出てる俳優のナントカくんが主演のやつ」

 部室の鍵を鍵当番が閉めるのを見やりながら、ナッちゃんはそう言った。それだけじゃヒントがないのでなんのドラマか全く微塵もこれっぽっちもわからないのですが、と返事をしようと思ったけれど、適当に「見ない、疲れたので今日は帰宅夕飯風呂のち即寝ます」とだけ返事をした。
 学校から駅まで10分、電車で20分、最寄駅について歩いてまた10分。
 あーあ、すっごくおなかすいた、今日の夕ごはんはなんだろう。
 昨日はびっくりするぐらい食欲がなかったのに、こうしていつも通り1日を過ごして頭を使って体を使って、ヘトヘトになったらこうして普通におなかが減る。私って、思っていたより結構タフだ。
 ナッちゃんと校門に向かう途中、いつも通りかかる第1体育館はまだ煌々とした明かりがついていた。
 おそらく暑さ対策の為に開け放たれているのであろう外扉からはバスケットボールが床を跳ねる音、バッシュが床をキュッと鳴らす音、部員たちの声なんかが絶えず聞こえてくる。外にいるのに伝わってくるその熱気は、まるで体育館とその周りだけが未だ昼間のようだ。

「男バス凄いよね、こんな時間まで毎日毎日」
「だってもうずっと神奈川県一なんでしょ、去年なんて全国ベスト4だっけ?」

 海南大付属高校は全ての部活に力を入れており、運動部だと野球部もサッカー部も我が陸上部も毎年そこそこの成績を出しているのだけれど、それでも男子バスケットボール部は別格だ。もうかれこれ10年以上も神奈川県大会を連覇しており、聞くところによると王者海南とまで呼ばれているらしい。
 部員の数も桁違いに多いし、休みだってほとんどないみたいだし、加えてレギュラークラスになるともう大学からのオファーがバンバン来る。そりゃそうだ、去年のインターハイでもベスト4という華々しい結果を残している。日本全国にある高校バスケットボール部の中で4位、それがいかに凄いのかは運動部に所属している人間なら誰しも理解できることだろう。
 こんなに強いって言われていても、甘んじないで毎日こんなに遅くまで頑張ってるから王者なんて呼ばれるまでに至ったんだろうなあ。いつもお疲れ様です。

「ほらそこ! ちゃんと声出せ!」

 その声を聞いた瞬間、私の頭の上にはびっくりマークがきっと10個くらいいっぺんに現れたと思う。
 すこん、と何もかもが頭の中から気持ちよく抜けていく。部活でタイムを計らなかった罪悪感とか、今日の夕ごはんがなんだろうとか、ナッちゃんが結局思い出せなかったドラマのタイトルと主演の俳優のこととか、今度クラスの女子に貸してもらう予定の少女漫画の名前も、全部いっぺんに日の落ち始めた濃いオレンジ色の空に向こう側へぽーんと、まるで床をバウンドしたバスケットボールみたいに飛んでいってしまった。
 思わず私は開け放たれた体育館の外扉に張り付いて、これでもかという程に目を大きく見開いた。何度かまばたきをしているうちに、みるみるうちに自分の眉間に皺が寄っていくのがわかる。
 そんな私の背後でナッちゃんがぎょっとした声で「ちょっと、どうしたの名前」と私の名前を呼んだけれど、最早それどころではないのだ。
 いつも聞いている声。どこかで聞いたことのある声。それは、いつも部活後にこの体育館の横の道を通って校門を出るからだった。
 常勝、王者海南大付属の男子バスケットボール部。そのキャプテンの名前を、その姿を知らない者はおそらくこの校内にはいない。そうハッキリと言い切れる。こんなにおなかがすいている私の今晩の夕ごはんを賭けたっていい。

『 何があったのかは知らないが、苗字さんは泣いているより笑っている方がいいと思う 』

 その声が脳内に蘇る。間違いない。信じられないけど、でも。
 流れる汗をたくましいその腕でグイッと拭ったその彼、バスケ部キャプテンの牧紳一くんこそ、私にタオルを貸してくれたその声の人物に間違いなかったからだ。


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