誰かに恋をする気持ちって、まるで突然変異みたいだ。もしくはそれに似たようなものだと思う。
 だって今までその人に抱いていた感情が突如として違うものに変わってしまうのだから。
 あの人のことを好きになった時のことも、そのきっかけも、やっぱりハッキリとは思い出せないままだ。それでも、その「好き」がそういう好きだって自覚していたから、私は咄嗟にあんな形で告白をしてしまったのだ。ちゃんと嘘じゃなかった。
 だけど、不思議ともうほとんど引き摺っていない。むしろ開き直ってスッキリした気分だ。
 よし、今日こそタイムを測ってみよう。きっといい記録が出る気がする。私が情熱を燃やせる先はまだちゃんとあるのだから。


THURSDAY.



 白状すると、私は牧紳一という人物のことを思いっきり誤解していた。
 ガタイがよくて、威圧感たっぷりで、そして正直に言うとちょっと怖そうな人だな、とか思っていたりしたのだ。だからあの時、タオルを貸してくれた穏やかな声の主と牧くんがどうしても繋がらなかった。
 しかし、昨日初めてちゃんと向き合って言葉を交わしてみて思った。実際の牧くんは普通で、そしてすっごくいい人だった。
 それにしても緊張した。あれだけのオーラを持つ人を前にしたら、私ってあんなに萎縮しちゃうんだ。記録会でスタート位置に付いている時よりも緊張したかもしれない。言い過ぎな気もするけれど、本当にそう思ったのだから仕方ない。
 タオルをちゃんと返し終えたあと、昼休みの予鈴が鳴ってからいそいそと教室に戻ったら、待ち構えていた様子のナッちゃんは「あっ、名前がちゃんと生きてる!」とほっとした様子で言った。

「こらー、私の電子辞書ちゃんと返してって言ったでしょ」

 ざわざわと騒がしい休み時間の廊下を歩いて、うちのクラスから3つ離れた教室に入り込む。目的の人物の背中を見つけて背後から覆い被さると、恨めしい気持ちを込めて「返してー」と唸った。
 同じ陸上部の彼女に「今日ライティングあるのに電子辞書忘れちゃった! 貸して!」と言われたのは朝練の前だった。その次私も英語だからちゃんと返してね、と言っておいたのに休み時間になっても彼女の姿が見えず、業を煮やして自分から赴いたという次第である。

「ごめんごめん助かった! はいこれ、今度アイス奢るから許して!」
「やったね! また貸してあげてもいいよ」
「名前に借りるとアイス奢らないといけないから、今度はナッちゃんに借りるわ」
「あの人、私よりももっとえげつない要求してくると思うよ」
 
 じゃあ誰に借りたらいいのよ、なんて言う彼女に「ただ単に忘れものしなきゃいいんだよ」と至極まともな返事をしながら他愛もない会話で盛り上がる。
 そこで気が付いた。例の牧くんが、窓際の席で頬杖をつきながら目を閉じていた。
 牧くん、このクラスだったんだ。っていうか授業中はメガネしてるのかな、外さないまま寝ちゃってる。
 柔らかく閉じられたまぶた。そして、大きな背中が呼吸のたびにゆっくりと上下している。やっぱり部活、大変なのかな。朝も早そうだし、夜も遅くまで練習してるし。
 でも、私たち3年にとっては最後の夏の大会なんだもん、そりゃあ気合も入るってもんだよね。
 男子バスケットボール部は、確か今年も既に県大会で優勝してインターハイ出場を決めていた。吹奏楽部とチア部、それに生徒も結構な人数が応援に行っていたはずだ。
 そういえば私、こんなに強い強い言われてるバスケ部の試合、ちゃんと見たことないや。私も運動部に入っているから都合が合わないし、仕方ないことなんだけど。
 メガネを掛けたまま、加えて居眠りをしているレアな牧くんの姿を注視していたら、友達に怪訝な顔をされたので慌てて彼から視線を外した。

「牧くんてさ、なんか高校バスケット界じゃ神奈川の帝王とか言われてるらしいよ」

 そう言った友達に「へえ、そうなんだ」と適当な返事をして、すやすやと静かに眠る帝王の寝顔をもういちどだけちらりと見遣ってから、私はその教室をあとにした。
 あれ、なんだろう。私、なんかちょっとだけ楽しい気持ちになってる。返してもらった電子辞書を手に持って廊下に出たら、心なしか足取りが軽かった。
 帝王の無防備な寝顔なんて、きっとなかなかお目にかかれない。もしかして、今日はなんかいいことがあったりして!


***


「えー! だめです困ります、夏の大会近いんだもん、見逃してください、部活にいかせてください!」
「でも苗字さん、今日当番でしょ?」
「です……けど、でも保健室で人の手当をしている場合などではなくてですね」
「帰りに忘れずに鍵をかけて職員室に返すこと。それじゃあ私出張いくから。5時までだし、そのあと少しは部活出れるでしょ?」

 えー!ともういちど不満の声を上げてみても、この抗議の声は決して通らない。そんなことはわかっていた。
 私は名ばかりの保険委員である。保険委員っていうのは実際のところ大した仕事はない。各教室の中にある救急セットの在庫を管理して補充したり、体育祭の時に救護テントでの補助係を回したりする。
 そして実はもうひとつ。放課後や昼休みに先生が出張や仕事などで保健室を空けるとき、代わりに待機して軽い手当てをしたりする。
 だけど、その仕事はほとんど発生しない。発生しても何人もいる保険委員のなかで自分がぶつかることはほとんど無い、はずだった。
 そのはずだったのに、まさかこんなタイミングでぶち当たるなんて。
 養護教諭の先生は有無を言わさない怖い笑顔で私を見下ろしながら「はいよろしくね」と私の手のひらに鍵を乗せると、それをぎゅっと握らせた。
 白衣を翻しながら颯爽と保健室を出ていく先生の後ろ姿をなんとも言えない感情で見つめながら、私は観念して短く息を吐き出した。
 先生が出て行った後のしーんとした保健室の中で「今日こそちゃんとタイム測ろうと思ってたのに……」とひとりごちてみても、どうやら今日はもう諦めるしかないらしい。
 運が無かった、タイミングも悪かった。なんとか自分に言い聞かせるように心の中で念じながら、私は夕方の5時までどうやって暇を潰すか悩み始めた。


***


 ぼんやりと外を眺めながら、くるくるとシャープペンを指先で弄ぶ。暇つぶしのために広げた課題のノートは一切手付かずである。
 野球部の掛け声、どこかの顧問の怒声、笛の音。目の前にある校庭から、様々な部活で生徒たちが活動している声やら音やらが混じり合ったものが聞こえてくる。
 あーあ、私も早く走りたい。やっとちょっとだけ気持ちと調子が戻ってきたなあと思ってたのに出鼻くじかれちゃった。
 野球部特有の掛け声を聞きながらぼーっとしていたら、唐突に月曜日の出来事を思い出してしまって胸がちくっと痛んだ。
 もう吹っ切れた、強がりじゃなくそう思う。だけどやっぱり、あの時の苦くてくるしい気持ちはハッキリと思い出せる。忘れたつもりでいたそれが蘇ってきて思わず顔をしかめた。
 そういえば私、何か恋を実らせようと努力してたっけ。
 会って挨拶をしたり、ちょこっと会話をしたり、考えてみたらたったそれだけだ。見ている事しかしなかった。それなのに魔が差して吐き出してしまった。
 あの人の困った顔、思い出すとやっぱりまだ少ししんどいや。
 もうあの気持ちは引き摺っていない。もう何も出ないってぐらいたくさん泣いて、それでちゃんと整理をつけた。
 でも、もしまたいつか、同じような気持ちを誰かに抱くことがあったなら。今度は後悔しないぐらい頑張りたいなって思う。
 そこで、私は徐々に自分のまぶたが重たくなってきていることに気が付いた。
 どうやら着々と睡魔に侵食されていたらしい。頭の中がぼーっとしてきて、思考がゆるゆると停止していく。
 業務をほっぽってスリープモードに入ろうとしている私の脳みそに喝を入れたのは、ガラガラという扉が開く音と「失礼します」という静かな声だった。
 その音に驚いた私が勢いよく立ち上がったせいで、座っていた椅子がガターン!という大きな音を立てて盛大に床に倒れる。
 保健室に入ってきた人物は驚いたような声音で「大丈夫か?」と問うてきた。大丈夫ですごめんなさい、と私は一呼吸で言い切って、倒れた椅子を直しながらやっとその人に向き直る。

「ま、ままままま牧くん!」

 目の前に立っていた牧くんの姿に驚き、よろめいて再びガターンと椅子を倒してしまう。そんな私に「大丈夫じゃなさそうだな」と小さく笑いかけながら、彼は倒れた椅子を直して私を立たせてくれた。
 私はというと、もうガチガチに固まってしまっていて、ぼそぼそと小さな声で「ありがとうございます」という事しか出来なかった。恥ずかしさのあまり、顔が発火しているんじゃないかと思うほどに熱い。

「悪いな、疲れてるところに」
「い、いいえ! 業務中に私が寝ちゃってただけなので……。えーと、お怪我ですか?」

 早口でそれだけ言うと、牧くんは「ちょっと指を」と右手を上げた。
 私はああなるほど、と頷いて、彼に椅子へ座るように会釈した。私の意図を理解したのか、牧くんはもう一度「すまん」と言ってゆっくりと椅子に着いた。

「バスケって突き指たくさんしそうだよね」
「本当はそのままでもなんとか出来るんだが、一応インターハイも近いしな」
「そうだよ、無理しないでちゃんと手当てしなきゃ」

 本職が不在のため、不肖わたくしめが処置をさせていただきます、と心の中で深く深くお辞儀をして、テーピングと湿布を取り出す。
 私が牧くんの向かいの椅子に座ると、彼は突き指をしたという右手をこちらに差し出してくる。触れていいものかと一瞬ためらったけれど「えーいやるしかない、やったる!」と意を決してその手に触れた。大きくてごつごつしている、男の子の手だ。

「……小さいな」
「え?」
「いや、苗字さんの手とオレの手が並ぶと」

 少しだけ、どきんとした。
 私の自意識過剰だけど、その「小さい手」という牧くんの発した単語が私のことをちゃんと「女の子」として見てくれたような気がしたからだ。
 私の左手に乗せられている牧くんの右手に、じっと見入ってしまう。

「苗字さん?」
「あ、ごめんなさい! 急がなきゃね」
「すまん、急かしたつもりはないんだが」

 これでも一応陸上部の部員なのでテーピングを巻く事には慣れている。
 牧くんは強豪のバスケ部のキャプテンでエース、しかもインターハイを控えている。こんなところで貴重な練習時間を浪費させるわけにはいかない。

「はい、お待たせしました。どうかな、変な感じしない?」

 余った部分をハサミで切りながらそう言って牧くんを見やると、彼はぽかんと口を開けて処置の終わった右手を眺めて停止していた。
 もしかして、キツくしすぎてしまっただろうか。

「あの、どうかした? 問題あったらやりなおすけど……」
「いや、そうじゃないんだ。ええと、苗字さんの手際があまりに良かったから驚いて、普段はのんびりとしてるイメージがあったというか」

 牧くんは空いている左手を顎に当てて考える仕草をしたあとで、ハッとしたように顔を上げると慌てた様子で「侮辱するような意味で言ったんじゃないんだ」と必死に弁解した。
 私はそんな彼の様子が面白くて、思わずこらえきれずに笑ってしまう。普段からの彼の印象とは全然全く違う姿が見れた気がしてうれしい。

「牧くんて実はおもしろい人だったんだね」
「そうか? あんまり言われないが……」

 もしかしてこの人、ちょっと天然なのかな。
 じゃあ問題なければこれで終わりです、と私が言うと、牧くんは「ありがとう」と微笑んだ。うわ、普段あんまり笑うイメージの無い人の笑顔、すっごい眩しい。

「本当に助かった」
「いいえ、練習頑張ってね」

 ああ、と短く言ってから、牧くんが立ち上がる。小さく頭を下げて保健室を出ていく彼に返すように軽くひらひらと手を振った。
 彼がこの部屋に入って来た時と同じガラガラという扉を開ける音がした後、牧くんの背中がその向こう側に消えて、スライドの扉が閉まる。
 ひとりきりになった保健室の中は、またさっきみたいに静かになった。それなのに、何故か私の心臓の鼓動だけはドキドキとうるさかった。


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