どんなに思い切ったって上手くいかない事っていうのはたくさんある。
 ましてや、自分だけの問題じゃなくて他人が関わってくることなら当たり前で、そんなこと自分でもちゃんとわかっていたはずなのに。
 玉砕覚悟とは、思うのも口に出すのもただの強がりで、結果の後の言い訳にするためだけの言葉なのかもしれない。自分のことなのに「かもしれない」という言葉でごまかして、現実を認められない私はきっといまこの瞬間、この世でいちばん潔さを欠いた生物に違いない。
 そんなことを考えながら、ぱたぱたと早足で廊下を歩く。
 きゅっと結んだ唇が少しだけ震え始めたのは、歩いている振動のせいなんかじゃない。目の奥が窄まるように熱くて痛いのが心の痛みのせいだってわかっていたけれど、知らんぷりを決め込んだ。


MONDAY.



「なんで言っちゃったんだろ……」

 魔が差したってやつじゃないの、と言いながら、向き合った机の向こう側から私の肩をぽんと軽く叩いたのは中学時代からの友人であるナッちゃんである。
 悲しいのと悔しいのと混乱しているのとで頭の中がごちゃごちゃになっていて、そのせいかぼろぼろと落ちる涙が止まらない。
 苗字名前。海南大附属高校3年、文系進学コース、陸上部所属。
 この度、私は「もしかしたらこの人のこと好きかも」と思っていた相手にうっかり思いを告げて、そしてあっさり振られてしまいました。
 その人とは海南に入ってすぐ1年の頃に同じクラスになって、同じ体育委員になったことから話すようになった。2年になってクラスが離れても、顔を合わせれば挨拶したりちょっとした会話をしたりしていた。
 いつの間にか、野球部に所属している彼の姿を部活の休憩中にぼんやり眺めながら「なんかかっこいいじゃん」と思うようになっていた。
 そして、それはついさっきの事だった。
 授業が終わっていつも通り部室に向かう途中、たまたま昇降口で顔を合わせて「よう、今から部活か?」「そっちも夏の大会近いもんね」なんて会話をしながら並んで歩いた。
 夏の大会。自分で発したその言葉で思い出した。これから始まるのは高校生活最後の夏。
 これが終わったらすぐに頭を受験モードに切り替えなくちゃいけない。勉強して、面接練習をして、小論文指導を受けて。それを繰り返してるうちに、きっと私はいつの間にか卒業証書を小脇に抱えて「あれ?」なんて、過ぎた時間の速さに間抜けな声を上げてしまうに違いない。

「苗字は去年関東まで行ってたろ? すげーよな、うちの野球部はどこまで行けんのかな」

 ああ、いいなあその横顔。
 いつの間にか彼のことを目で追うようになって、意識するようになっていた。好きになった理由も自覚した時も明確じゃないけど、暑い夏のせいだけじゃなく汗ばむ手のひらが私の心の中を如実に表している。
 お互い頑張ろうね、応援してるから。
 そう言おうとしたのに、私の口から出てきたのはそれとは全く違う、こっそり抱いていたはずの言葉だった。

「あの、私、す、好きです!」

 どうしよう、と思った時にはもう遅かった。
 途絶えた会話と突然の告白にきょとんとした彼と私が立ち止まって、その間に流れた時間はきっと3秒ぐらい。
 え、と声を漏らした彼が「オレのこと?」と自分に向かって人差し指を向ける。部室棟のすぐ裏、ちょうど日陰になっているその場所で、私はこくこくと頷いた。
 なんで言っちゃったんだろう。しかし、もうあとには引けなかった。それにもしかしたら今この瞬間しか伝える機会はなかったかもしれないし。

「……悪い、苗字のことは好きだけど、彼女とかそういうのとは違うかも」

 返ってきたその言葉に思ったのは「やっぱりそうだよね」ということだった。
 申し訳なさそうに頭を下げる彼にあわてて「いいの!突然ごめんね!」と謝る。
 急に心臓がドクドク鳴り始めて、聞こえるセミの鳴き声が耳の奥でモヤがかかったみたいに反響する。
 私、なにやってんだろ。

「気にしないで、ホントにごめん! 部活頑張ってね」

 忘れ物思い出しちゃったから教室戻らなきゃ、と咄嗟にその場を離れる言葉を思いついて駆け出した。
 ふわふわと、地面に足がついているんだかいないんだかよくわからない気持ちの悪い感覚。心臓だけじゃなくて、胃までドクドク言っている気がする。
 吐き出さないでしまっておけたらよかったのに。
 振られたから悲しいんじゃない。だって、答えはなんとなくわかっていたから。咄嗟に自分の言葉を律せなかったことが悔しい。あっちだってこれから部活で、夏の大会前だっていうのに無駄な気を遣わせた事が申し訳ない。総じて自分が情けない。

「あたしもう部活行くけど、名前大丈夫?」

 そんなただならぬ様子の私をたまたま見かけたナッちゃんは、わざわざ追いかけてこうして話を聞いてくれていた。いつも落ち着いていて、クールに見えるけど実は優しい彼女の気遣いに心の底から感謝したい。

「うん、もう少し落ち着いたら行く。遅れるって言っといて」

 困ったことに、冗談抜きで死ぬ寸前まで水分を放出しないと止まらないのではないか、と真面目に思うほどに涙が止まらないのだ。
 ぼろぼろ泣きながら無理やり部活に出て、周りにどうしたと声を掛けられることはちょっと遠慮したい。目はちょっと腫れぼったくなるかもしれないけれど、ゴミが入って擦り過ぎたとかなんとか言えばいい。
 じゃあ適当に言っとくからさ、と言って立ち上がるナッちゃん。その言葉にこくんと頷いてから、私はもう一度机に突っ伏した。
 冷んやりとした机。自分ひとりだけになった教室の中に、グラウンドで行われている部活の音や声なんかが聞こえてくる。
 笛の音はうちの部活かサッカー部。パシン、と小切れのいい音と大きな声は野球部かな。うわ、だめだめ、また目の奥痛くなってきた。
 まだまだ涙は止まらなそうだ。薄く開いたまぶたの先、ぼやけた視界の中で夕焼けの色に照らされた教室はオレンジ色だった。その色を切なくてほんの少し寂しげだな、なんて思ってしまった私の現在位置はセンチメンタルのど真ん中である。
 部活に遅れて行く罪悪感はあれど、心の中がとっ散らかっていてとてもとても走れるようなメンタルではない。ピーッと一定の間隔で鳴る笛の音は、短距離組の10メートルダッシュだろう。
 外の音を聞きながらぼーっとしていた私の耳に届いたのは、そんな遠くからの音ではなく教室の扉がガラリと開けられる音だった。続けて上履きが床と擦れる音。
 誰だろう、でもどうしよう、こんな顔見せられないし寝てるフリしちゃおうか。
 ぐるぐると脳内でそんな思考を巡らせていたが、事もあろうか今教室に入ってきた人物は先ほどまでナッちゃんが座っていた私の前の席に座ったのだ。
 人の気配を近くで感じる。私の後頭部に視線を注がれているのがわかる。

「ナッちゃん、戻ってきたの? 忘れ物?」

 探るように発した私のそんな声は案の定鼻声だった。思わずすんと鼻をすする。
 対面している人物からの返事はなく「もしかして違う人かも」と思ったら急に恥ずかしくなってきた。泣いてたのバレちゃってるかもしれない。
 ゴホン、と聞こえてきた咳払いは女子のものではなかった。通りがかった先生かな、それともクラスメイトの男子かも。

「あ、えーと……その、オレはナッちゃんさんではないんだが」

 深みのあるその声は、もちろんナッちゃんのものではない。知っている男性教諭の声でも無い気がする。となるとどうしよう、うちの男子生徒という線が濃厚だ。
 ひとつだけわかるのは、先ほどの彼の声では無いということだった。すっかり心臓が小さくなってしまった私は、そのことにほんの少しだけ安堵する。

「ごめんなさい、誰だかわからないんだけど、私いま諸事情でちょっと顔面ぐちゃぐちゃで顔上げられなくて」
「いやそのままでいい、気にしないでくれ。むしろ話しかけて悪かった。なんだか放って置けなくて」

 余計な世話を焼いてごめんな、という言葉のあとで、すっと私の指先に触れたのは柔らかい何かだった。

「何があったのかは知らないが、苗字さんは泣いているより笑っている方がいいと思う」

 ガタンと席を立つ音。そのあとに静かな足音が続いて、教室の扉が閉められた。
 言葉少なでちょっとだけ無骨な感じのする声だったけれど、それでもさっきまで目の前の席に座っていたその人が心配してくれている気持ちは充分に伝わってきた。
 もういちど鼻をすすりながら、むくりと体を起こしてみる。
 なんだろう、と置かれたものを確認すべく目を擦ると、私の指の先に置かれていたのはスポーツタオルだった。馴染みのあるスポーツブランドのものであるそれは、几帳面に折り畳まれている。
 手に取ってまじまじと眺めてみる。タオルはふわふわで、ほのかに柔軟剤のいい香りがした。
 笑ってる方がいい、なんてさっきの人は言ったけれど、いまこの状態でこんな風に優しくされたら余計に涙が止まらなくなっちゃうのに。
 そういえば私のこと知ってるみたいだったけど誰だったんだろう。クラスメイトだったら明日顔合わせるの気まずいな。
 またじんわりと溢れてきた涙を手にしたタオルで抑えたら、喉の奥から情けない嗚咽が漏れた。


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