8.

 最初の頃は、無知な自分がプレスの腕章を付けることをとても重圧に感じていた。賑やかな会場の中で、キョロキョロと周りを見回すばかりで落ち着かなかった。
 いつの間にか、腕章をつけてもそんな風に感じることはなくなったし、何事もなくどの会場も歩き回れるようになった。会場それぞれのグルメを楽しむ余裕も出来たし、他社の記者やカメラマンにも知り合いが増えて軽い会話なんかもするようになった。
 リーグ戦が始まってもう二ヶ月。各チームの練習を覗きに行って、試合を観て、インタビューして、文字をおこして記事にする。その繰り返しでなんとなく、少しずつだけど自分がこの仕事に慣れてきたような気がする。というより、そうであると信じたい。
 記者席に着き、目の前で行われているウォーミングアップを眺める。ドリブルの音、バスケットシューズが床をこする音、観客のざわめき、そして試合前独特の高揚した雰囲気。はじめは落ち着かなかったそれらが、いつの間にかとても好きになった。
 いちばん最初に観た試合の興奮は、今でも鮮明に思い出せる。胸の奥から湧き上がる何かが全身を痺れさせて、感動で目の奥がじわっと熱くなった。あの感覚はきっと、ずっと忘れられないだろう。
 自分が無意識に彼のことを目で追ってしまっていることに気がついたのは、タップ練習が終わってチームメイトと会話をしていた仙道さんと突然目が合ったからだ。心臓がびくんと跳ねる。その視線をどうしても逸らすことができなくて、私は思わずぎゅっと唇を噛み締めた。
 仙道さんはゆっくりまばたきをしてから、目を細めて柔らかく笑み、こちらに向かって小さく手を挙げた。これってもしかして私に、だろうか?
 ここはプレス席なので、他の記者に向かって行ったリアクションの可能性も大いに考えられる。そうだったら恥ずかしいけれど、それでももし、本当に私に向けられたものだったなら。
 控えめに小さく頭を下げてみる。すると、仙道さんは笑顔のままこくんと頷いてウォーミングアップに戻った。今の、私に向けてくれてたんだって思ってもいいのかな。
 胸の奥がじんと熱くなって、なんともいえないむず痒いような、それでいて不快には感じない不思議な感覚が身体中にゆっくりと広がってゆく。

「あーよかった、間に合いましたわ! って、どうしたん苗字さん、顔真っ赤ですけど」

 別の現場から今到着したらしい相田くんの大きな声に驚いて、体を盛大にびくつかせてしまった。顔が真っ赤だと指摘されたことに動揺して「あ、ええとその、試合始まる前だから興奮しちゃって!」とバタバタと手を動かしながら取り繕ったら、彼は「そういうことならええんですけど……」と不思議そうな表情で言った。


***


 2クォーターまでが終わり、十五分程度のハーフタイムを挟んで3クォーターが始まった。
 試合や練習を何度も観てきてバスケについて少しずつわかってきた気がするけれど、スピーディーな展開にはまだまだ目がついていかない。
 これからも観戦の回数を重ねて、チームの練習を見学させてもらって取材を増やして行けばもっともっと目が肥えるし、慣れていけるかもしれない。
 味方からのパスを受けた仙道さんが一瞬でシュートモーションに入る。入ったら三点の位置から放たれたボールがゴールを抜けるのと同時に、ドンという鈍い音が聞こえた。
 ピーッという笛の音が耳に入ってくるまで、私の脳みそは目の前の状況を理解することができなかった。
 二人の選手がコートの上に倒れている。私は声を上げることもできず、両手で口を押さえた。
 立ち上がり「仙道さん!」と声を上げる相田くん。周りの観客たちがざわついて、倒れている二人に、選手やスタッフが駆け寄っていく。
 むくりと起き上がった緑色のユニフォームの選手が、審判からパーソナルファウルを告げられるのをぼんやりと眺めながら、まだ起き上がらない鮮やかな青いユニフォームの背中をただただ見つめる。倒れているのは、仙道さんだ。

「今の、相手の肘入ったんちゃうかな……」

 ゆっくりと担架に乗せられていく彼の姿を眺めながら、私はただただ胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。喉の奥が痙攣したみたいに震えて、呼吸さえ忘れてしまっていた。ちらりと見えた彼の額からは赤い血が流れていた。
 床を拭くスタッフの姿、試合を継続するために彼と交代で入る選手、ピーッという試合再開のホイッスル。そこでパチンと弾かれたように、やっと頭が働き始めた。
 胸が痛いほどにバクバクと鼓動を打っている。驚いて、不安で、そして何よりも彼が心配で。緊張のあまり、すっかり力んで硬直してしまっていた体はギシッと軋んで背中が痛んだ。仙道さん大丈夫やろか、と心配そうな声音で呟く相田くんの言葉は、真横にいるのに水底で聞いているのかと思うぐらい遠くから聞こえてくる気がした。
 フリースローから再開したゲームは続く。ざわついていた会場も、進み始めたゲームに意識が向いて戻っている。それでも私は、情けないことにそのあとの試合の内容がまったく頭に入らないほど動揺してしまっていた。


***


「軽い脳震盪とまぶたの上切ったらしいけど、他に異常はないそうですよ!」

 携帯を持ったまま「ホンマ良かったわ」と続ける相田くんの言葉を聞きながら、こくんと頷く。その言葉を聞きながら、意図せずにじわりと涙が滲むのがわかった。気を張り続けていたせいだろうか。心底安心すると、人間は感情が昂って涙が出てきてしまうようだ。
 試合が始まったのが昼の二時過ぎ、終わったのが四時前で、インタビューやらを終えて帰社したのが六時頃。今はもう夜の八時を回ろうとしていた。
 帰社してから試合の内容を書き起こす作業をするべく自席に着いていたが、今の知らせを聞くまでほとんど何も手についていなかった。開いたパソコンの上、その画面に打ちこんである文字は情けないほどに少ない。
 一瞬で私を魅了してしまった彼のバスケも、穏やかに笑うやわらかい笑顔も、全部全部もう見られなくなってしまうんじゃないか。心の中を占めるのはそんなネガティブなものばかりだった。
 大事は無かったという連絡を受けて安心したせいか、今度は力が抜けてしまって頭の中はすっかり真っ白だ。今やっていた仕事は急ぎのものではないし、こうして会社に戻り残っていたのは仙道さんの容態と検査結果をいち早く知りたかったからだ。
 今日はもう集中できる自信がない。明日からの自分に期待する気持ちで席を立ち、お先に失礼しますと声を掛けてコートを羽織る。相田くんの「おつかれさんでした!」といういつも通りのハツラツとした声に「相田くんも遅くならないようにね」と声をかける。
 なんだか今日はどっと疲れた。コツンとパンプスのヒールが床に触れる音がエントランスに響く。土曜日なので受付には誰も居ない。
 この疲れを明日に持ち越したくない。今日は浴槽にお湯を張ってゆっくり体を休めよう、そして忙しくて読めていない積みあげたままの文庫本を読もう。そんなことを考えながら、会社の最寄駅までの道を歩く。
 夕飯を作る気分にもなれないので、今日は適当に買って帰ってしまおう。洗濯機を回すのも明日でいいや。今日だけは、そんな風に残り少ない一日の時間を過ごしたって誰にも咎められたりしない、そう思いたい。

「あ、名前さんだ」

 そう声をかけられたのは、マンションに一番近いコンビニを出た直後だった。その声に振り向くと、そこに立っていたのは仙道さんだった。
 ちょうど駅の方面から歩いてきた様子の彼は左手をウィンドブレーカーのポケットに入れたまま、空いた右手を小さく挙げて、いつものようににへらと柔らかく笑んでいる。
 私は口をぽかんとあけたまま、口に手を当てて何度か瞬きを繰り返す。

「仙道さん!? 大丈夫なんですか!?」

 思わず駆け寄って、否、ものすごい勢いでにじり寄る。勢いで突っ込んだせいで仙道さんにぶつかりそうになって「うお、積極的ですね」と笑われてしまった。
 ここだけちょっと縫ったけど検査も問題無かったし大丈夫ですよ、と続ける仙道さんの右眉の上にはガーゼが貼られている。相田くんの話だと、切った箇所を何針か縫ったということだった。その部分以外はまったくいつも通りの彼だ。
 それでもホッとしたのは一瞬だった。目の前で微笑む彼は、つい何時間か前にフロアに倒れ血を流していたのだ。あの時の映像と動揺、心臓が止まりそうな程の衝撃がリフレインして背筋がぞくりと震えた。

「あの、本当に平気ですか!? あ、いや平気じゃないですよね、縫ったんですもんね、私何言ってるんだろう……ええと、あの、吐き気がするとか頭いたいとかは!? そうだ、マンションまで肩貸しましょうか!?」

 仙道さんは「え?」と声を漏らして二、三度目をぱちくりとさせたあと、噴き出したように笑い出した。今度は私がぽかんとする番だった。目の前の彼はというとお腹まで抱えて笑っている始末である。
 恥ずかしい。とんでもなく恥ずかしい。私って、この人の前で醜態ばっかり晒してしまっている気がする。こんなんだから、こないだのインタビューの時だってからかわれるようなことを言われてしまったんだ。でも、ほんとうにほんとうに心配で仕方がなかったのだ。

「ホントに大丈夫ですよ。それに、名前さんに心配してもらえてうれしいし」

 なんてね、と冗談めかして言う仙道さんに促され、並ぶようにして歩き始める。いつもと変わらない彼の様子に少しだけ安心したけれど、あの瞬間の恐怖とどうにもならない不安感はやっぱりまだ、どうしても拭うことが出来なかった。

「あの、私、仙道さんがお部屋に戻るまでついて行ってもいいですか?」

 そう言うと、仙道さんは眉根を寄せて足を止めた。これは私がただ心配性なだけで、ただ自己満足でそうしたいだけで、仙道さんがちゃんとお部屋に戻るのを見届けたら安心できるって思っただけなんです、と告げる。
 すると、彼は少しだけ思案するように斜め上に視線を向けたあとで「……うーん、じゃあ甘えさせてもらおうかな」と私の提案を了承してくれた。女の子に送ってもらうなんて変なかんじだな、と仙道さんは小さな声で呟く。

「ね、名前さん。いっこだけお願いしてもいいですか?」
「はい、なんでしょう」
「オレが部屋に入る時、おやすみなさい、って言ってほしいな」

 そしたらぐっすり眠れる気がする、と仙道さんがあまりにもかわいらしいことを言ったものだから、私は一瞬だけ思考を止めてしまっていた。相田くんの「仙道さんはようモテてはったんですわ」という言葉が蘇る。うん、そりゃそうだ、この笑顔に、この言葉に撃ち抜かれない女子はたぶんいない。

「も、もちろんです、お安いご用です!」

 私が固まってしまっていたせいだろうか。不安げにこちらを覗き込んでいた仙道さんはふにゃりと表情を緩ませながら「やった、安眠確定」と笑った。果たして、その笑顔と言葉で何人の女子をおとしてきたのだろう。
 マンションのエントランスを抜けて、エレベーターのボタンを押すと、ちょうど一階に降りていたエレベーターの扉が開く。それに乗り込み、仙道さんの部屋がある七階を押した。

「私、実は週バス編集部に回された時どうなっちゃうんだろうって不安だったんです」

 首を傾げてこちらを見ている仙道さんの視線を感じる。こんなこと、本当は人に話すべき事じゃないかもしれない。ましてや目の前にいる彼はそれに関わる人物である。
 それなのに、私の口から出てくる言葉は止まらなかった。さっきの試合みたいな事がまた起こってしまったら。もう会話ができないような事になって、感謝を伝えたくても伝えられなくなってしまったら。
 頑張らなきゃと押しつぶされそうな中で、自分で自分を追い詰めてブレーキがかからなくなっていた私を止めてくれたのは仙道さんだった。何も知らない世界で最初に素敵なものを見せてくれて、その世界を広げてくれた。
 エレベーターが七階に到着して、フロアに降りる。

「今こうして頑張れてるの、仙道さんのおかげだなって思ってるんです。仙道さんがデビューした試合を観戦して、すごいな素敵だなって思って、それから仕事がすごく楽しくなって、バスケをもっと知りたいって思った。すごく好きになれたの」

 もしかしたらちょっぴり、いやかなり恥ずかしいことを口走っているかもしれない。それでも、伝えないでおくよりも、どんなに恥ずかしくてもちゃんと言葉にして伝えないといけないと思ったのだ。
 仙道さんはびっくりした様に目を丸くしてから、後頭部に手を当てて何やら思案する様に視線を泳がせると、小さく息を吐いた。

「もしかして私、変なこと言いました?」
「うん、言ったね」
「え、あ、あの、お気に触ること言っちゃってたらその」
「……参ったな。名前さん、かわいすぎるでしょ」

 彼が発したその言葉の意味を理解する前に、続けて聞こえてきたのは「ごめんね」という一言。私の口からは「え?」という間抜けな声が出てきたけれど、次の瞬間には柔らかいなにかでその口を塞がれていた。
 なんだこれは、と眉をひそめてぱちぱちと瞬きをする。呼吸ができない。それに、視界いっぱいに仙道さんの顔がある。すごく近い。なんて整った顔だろう。寝顔をじっくり観察した時も思ったけど、やっぱりまつげ長いなあ。

「んんっ……!?」

 声を出そうとしても、口を塞がれているせいで出てくることはない。いつの間にか背中には廊下のひんやりとした壁があって、私の体は仙道さんの体と壁に挟まれる形になっていた。
 そこでようやく理解できた、キスをされているのだと。
 状況を把握すると、一瞬で顔がかあっと熱くなる。押し付けられていた仙道さんの唇が少しだけ離れたと思ったら、今度はぱくっと食べられるみたいに口づけられる。心臓がドクンと鳴って、力が抜けて腰が砕けそうになったけれど、膝の間に差し込まれた仙道さんの長い脚が私の体を支えてくれている。
 呼吸が続かなくて苦しい。酸欠で頭の中が朦朧とする。すがるように仙道さんの腕を掴むけれど、全然力が入らない。
 突然で強引なキスなのに、苦しくて仕方がないのに、それなのにどうしてか抵抗する事ができなかった。だって不思議なことに、そうされていることが嫌ではないと、そう思ってしまったからだ。
 仙道さんの舌先がちろちろとくすぐるみたいに私の唇をなぞるから、背筋がゾクゾクして体が勝手に震えてしまう。口を塞がれているせいで、私から出てくるのは鼻にかかった吐息みたいな掠れた声。
 ぎゅっと閉じていた目を開けると、すっかり蕩けた頭のせいで歪む視界の先、熱を持った仙道さんの瞳と私の視線が絡まった。いつもはすこし気怠げで、そして優しげなその瞳は、いまやその奥を獰猛に鈍く光らせている。
 心臓がものすごい勢いで鼓動を打つから、このまま破裂してしまうんじゃないかとさえ思った。胸から駆け巡った血の流れが頭のてっぺんから足の指先までを駆け巡り、もうすでに硬直している全身を痺れさせている。
 彼の唇が離れて、大きな手のひらが私の頬を包む。まだ脳みそはぼんやりとしたままだ。

「仙道さん……?」

 私と同じく、硬直したままになっている彼の名前を呼ぶ。すると、はっとした様に肩を大きくを揺らして大きく呼吸した仙道さんの伏せていた視線がこちらを向いた。
 ついさっきまで彼に食まれていた自分の唇を指で辿る。なにが起こったんだろう。わかっている、ちゃんと理解もしている。だから心臓のドキドキが治まらないのだ。
 今まででいちばん近い距離、見たことない表情でじっと私を見据えてくるその瞳に、自分の視線を絡ませる。仙道さんは目を見開いて狼狽したように視線を泳がせると、私から体ごと勢いよく離れた。

「……ごめん、我慢できなくて」

 珍しく気まずそうな表情で背を丸め、心許なげに後頭部を掻いている。

「ちょっと頭冷やします」

 名前さん、部屋まで戻れる? と私の様子を伺うように問うてきた仙道さんの言葉にこくんとひとつ頷く。私がそうしたのを認めると、彼は困ったように眉尻を下げながら、もう一度小さく「ごめんね」と言ってドアを閉めた。
 仙道さんの姿が閉じられた扉の向こうに消えてから、私は唇に当てていた手のひらを胸に当てる。おやすみなさいって、言えてない。
 いまだにドクドクうるさくなり続ける鼓動と、熱を持った体が落ち着いてくれるまで、私はこの場所から動くことが出来なかった。


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