9.

「うーん、あえて言うならクールで冷静な感じとか、物事に動じなさそうな人ですかね。落ち着いてる人のそばにいると、なんか安心できるかも」

 イヤホンから聞こえてくる彼の声を聞きながら、私は両手で頬杖をついたままため息をついた。今日こうしてため息をついてしまうのは何度目だろう。数えてなんていられないぐらいだということだけはわかる。
 仙道さんと流川さんにさせてもらったインタビューを聞きながら、私は先ほどからじわじわと鈍く痛み始めたこめかみを親指でぐりぐりと指圧した。はやく書き起こさないといけないのに、雑念が邪魔をして全く捗らない。
 クールで冷静で物事に動じない落ち着いた人。それって、私とは何もかもがまるっきり正反対じゃないか。
 止めどないため息のあと、私は無意識に自分の唇に触れていた。なんで彼は、仙道さんはあんなことをしたのだろう。怪我をしてむしゃくしゃしていたからとか、衝動的に人恋しくなったとか、そんなところだろうか。好きでもない、そういう対象でも、ましてや全く好みでもない女にあんなことを出来てしまうことに驚いて、そしてちょっとだけ悔しかった。
 私はあの出来事を忘れようと、むしろそもそも無かったことにしてしまおうと意識しているのに、そうすればするほどあの時の感情が、感触が、そして彼の表情が頭の中に蘇る。
 彼にとってはなんてことのない、ちょっとした弾みでしてしまった単なる接触だったのかもしれないけれど、私にとってはそうではなかったわけで。それがひどく悔しくて、何故だかどうしようもなく切ない。
 それじゃあ、どうして私は悔しいとか切ないだなんて感じているのだろう。自分で自分がわからなくて、ただひたすらに自問自答を繰り返す。あの出来事を、そのままそっくり忘れてしまえたらどんなに楽だろう。
 仙道さんの朗らかな笑顔とか、いつも纏っている穏やかな雰囲気とか、普段とは全く違う試合中の真剣な眼差しとか、抱えられた時の手のあたたかさだとか、そんなものがどんどん頭の中に浮かんでは思考を圧迫していく。
 強く目を瞑り、ふるふると首を振った。まさか自分で自分の業務妨害をするなんて。仕事が捗らないどころじゃない、今の私は完全に給料泥棒だ。とにかく早急に気持ちを切り替えなくては、と小銭入れだけを手に持って自席を立つ。頭の容量はもうとっくにパンパンどころか超過している状態で、立ち上がるとなんだか体も重かった。
 執務スペースを出て、フリースペースにある自販機で何の変哲もない微糖の缶コーヒーのボタンを押す。ガコン、という音がしてから腰をかがめて熱を持った缶を取り出す。
 いくつか設置されているテーブルにその缶を置いて、椅子に腰掛けてからプルタブを開けた。そして、ひとくち口をつけてから思う。外に出てカフェでコーヒーを淹れてもらった方が、外の空気も吸えて良い気分転換になったかもしれない。

「あーあ……」

 正午を過ぎてだいぶ経つ変な時間帯のせいか、私がこうして情けない声を上げながらぐーっと背伸びをしていても誰の目にも止まることはない。

「苗字さん、また体調悪いんちゃいます?」

 訂正させてほしい。誰の目にも止まることはない、はずだったと。
 上を向いてぐーっと腕を伸ばしながら呻いていた私の視界に、突如としてひょっこり現れたのは相田くんの姿で。耳に届いたのは私を気遣う彼の言葉だった。

「わ! び、びっくりした!」
「なんや煮詰まってます? 無理せんといてくださいね、また苗字さんに無茶振りしたんかーって怒られちゃいますわ」

 仙道さんに、と続けられたその言葉を聞いた瞬間、私は思わずむせこんでいた。
 このタイミングでその名前を聞くなんて。もしかして、相田くんって実はものすごく勘が鋭いタイプだったりするのだろうか。それとも、私の顔に「仙道さんのことで悩んでます」とでも書いてあるのだろうか。そんなありもしないことを考えてしまうほど私は動揺していた。

「そういえば仙道さんですけど」
「……ち、ちがう! ちがうちがうちがう!」
「へ? もっかい検査受けたけど問題ナシ、って連絡さっき入りましたよって伝えとかなと思っただけなんやけど」

 もしかしてもう聞いてはりました? と問うてくる相田くんに向かってぶんぶんと首を振る。
 だめだ、このままじゃどんどんダメな方向に行ってしまう。自分でずんずん墓穴を掘っちゃう。相田くんには申し訳ないけれど、とにかくさっさとこの場を切り抜けたい。この会話を終えたい、その一心だったのに。

「ほ、ほんとう……!?」

 この話題を切り上げたいと思っていたのに、私の口から飛び出してきたのはそんな言葉だった。どうしてか、喉の奥がぎゅっと詰まる。
 あの試合があって、あの出来事が起こったのはもう三日も前。
 試合後に受けた検査では問題ないという結果が出ていたけれど、念のためにこの二日間はチーム練習には参加せず、軽い調整で済ませていたらしい。らしい、というのは私と彼があれ以降顔を合わせておらず、聞き及んだのみの情報であるからだ。
 頭を打っていたので経過観察と、念のためにもう一度精密検査を受けたということだろう。特に異常がなくて良かったと、心の底からそう思った。きっと明日からはいつも通りにチームへ合流して練習に戻るのだろう。また彼がバスケをする姿を観られるのだということがなによりもうれしい。
 眼底が熱くなって鼻がツーンとしたけれど、自分が何故そのような状態になってしまうのか、それはやはりまだわからないままだ。

「ね、ボクも安心しましたわ! とにかく苗字さんにはよ教えなアカンと思って」

 連絡受けてダッシュで戻ってきたんですよ、と朗らかに笑う相田くんにつられて、自然と私の口角も上がってしまっていた。
 私はそこでやっと気がついた。このモヤモヤをなんとか消し去るための方法は、最初からたったひとつしかないのだということに。記憶を消すことなんてできないんだから、別の方向から解消するしかないんだ。
 そう思ったら行動あるのみである。立ち上がり、まだ一口しか飲んでいない缶コーヒーを一気に流し込む。まるでビールを飲み干すかのように喉を鳴らし、ぐいっと手の甲で口元を拭った。いきなりどうしたんだ、という驚きの表情でこちらを凝視している相田くんに「教えてくれてありがと!」と簡潔に感謝の意を伝える。
 そっか、なんだ。簡単なことだったじゃない。
 急に頭が軽くなった気がして、私は駆け足で自席へと戻った。


***


 あの試合から三日が経った。つまり、オレが名前さんに衝動的で自己満足な行為をはたらいてしまってから三日経ったということである。
 なぜあんなことをしたのかなんて、そんなの衝動的に、そして完全に魔が差した以外の理由はない。どうしようもなさすぎて、自分への言い訳さえも思いつかない。
 思い出すだけで頭が痛くなってきたけれど、あの試合のあとすぐに受けた検査結果は問題なし。なので、この頭痛の原因はこないだの試合での接触ではない。自分が起こしてしまった行動のせいである。
 自分で自分の制御が出来なくなるなんて事態に見舞われたのは、たぶんおそらく今までの人生において初めてだと思う。
 彼女の言葉が耳から入って、胸にすとんと落ちるたび、ドクンドクンと心臓が大きく鼓動した。ゴクンと息を飲んでからその腕をひっ掴み、そのまま背後の壁に押し付けていた。状況が理解できずにきょとんとした表情でこちらを見上げてくる名前さんの少しだけ開いた唇に、自分の唇を押し付ける。
 思い出すだけで自分に呆れすぎて気が遠くなって、思わず手のひらで自分の顔を覆った。この手のひらの下にある自分の表情は、直視できないどころか想像するだけで情けなさすぎて絶対に見たくないし、もちろん人にも見せられない。
 あっちは仕事で、こっちも仕事で顔を合わせる機会はこれからだってあるのに。しかも同じマンションで、彼女は上の部屋に住んでいて。
 なにやってんだオレ、と後悔してみても時間が戻ることはない。
 あの場では謝ったけれど、逃げるみたいに部屋に引っ込んでしまった。名前さんが今後まともに会話をしてくれなかったとしても仕方ないと思う。
 この二日は念のためチームの練習には参加せず、軽い調整で済ませるように言われていたが、今日再度受けてきた検査でも異常は見つからなかった。というわけで、晴れて明日からはチームに戻れることになる。無我夢中で体を動かして頭の中をバスケでいっぱいにしたら、ちょっとは気が紛れるだろう。
 無心になってボーッと過ごすのが好きなはずなのに、逆に今はそうするとらしくなく思いつめてしまうであろうことがわかっていた。
 ありえないことだとは思いつつ、あの時のことは無かったことになんねーかなとか、名前さんの記憶からあの部分だけ消えてたりなんかして、と考えてみたりしたけれど、そんな都合のいい展開が起こるはずも無く。とにかく、次に顔を合わせたらもう一度ちゃんと謝ろう。

「ランチは二時までだぞ」

 そう声を掛けられてハッとする。いつの間にか自分が目的地にたどり着いていて、そしてぼんやりとその店の暖簾を眺めながら立ち尽くしてしまっていたことにやっと気がついた。
 腕時計を確認すると、時刻は二時半を回っている。暖簾の奥から現れた調理着姿の人物は高校時代の先輩である。相変わらず少々威圧的な、そして無骨な印象を受けるその姿を認めて、少しだけほっとしている自分がいた。

「魚住さん、お久しぶりです」

 魚住さんはおう、と短く相槌を打つと、店内の方にクイッと親指を向けて「まかない程度の物しか出せないからな」と言った。

「……え、いいんですか?」

 今日だけだ、と言ったその人の姿が暖簾の奥に消える。そう言えば、時間のことが頭からすっぽ抜けていた。いそいそと誰も居ない店内に入り、促されるままカウンター席に腰を下ろす。
 高校時代のたった三年間ぽっちの時間を過ごしただけのこの辺りを訪れるのは、決まって滅多なことじゃ思い詰めたりしないタイプのオレが珍しく頭を悩ませている時だ。

「顔出すの、こっちに帰ってきてから初めてだな」

 そう言えば、日本に戻って来てから魚住さんと会うのは初めてだった。大学を出てからプロにそのまま行くか、もっと世界を見てくるか悩んでいた時も、そういえばこんな感じでカウンター席に座った気がする。
 出されたトレーの上には煮魚、それにお浸しなんかの小鉢がびっちりと乗せられていた。まったくランチメニューと遜色のない、魚住さん曰く「まかない程度」のそれを前にして、思わず「おお、すっげえ」と感嘆の声をあげてしまった。

「やっぱ魚住さんの出汁巻き最高、嫁に来ません?」
「気色悪いことを言うな」

 軽い調子で言ったそれをいつものノリで返される。

「で、どうした。怪我の調子でも良くないのか?」
「あ、知ってました? そっちは全く問題無いですよ、ここだけちょっと縫ったけど」

 そういって瞼の上を指さすと、魚住さんは目を細めながら「そっちは、ってことは何か別にあるんだな」と言った。なんと鋭いことか。
 相談をしたいとか懺悔を聞いてほしいとか、そういうつもりで足を運んだわけではない、なんて今更言っても言い訳っぽさしかない。ただ久々に高校時代の先輩のところに顔を出して、都合がよければちょっと近況報告がてら会話が出来ればと思っていた。それから懐かしい海岸沿いを散歩でもしたら、少しは気持ちの整理がつくんじゃないかと考えていたのだ。

「ちょっとやらかしたというか。魚住さんは己を律しきれなくて失敗したってこと、ありますか? ……あ」

 それだけ言ってから気がついた、思いっきり目の前にいる先輩の古傷を抉ってしまったということに。
 いつの間にか魚住さんの眉間にはくっきりとしたシワが深々と刻まれていた。オレや当時のメンバーがどう思ってるかとかは関係なく、おそらく魚住さん本人の中では苦い経験として残っているであろう試合の事だ。
 試合で熱くなってファール、それに抗議して累積で退場なんて、今オレが大後悔に大反省を重ねに重ねているどうしようもない出来事に比べたら英雄譚に聞こえるほどかっこいいと思う。

「おまえ、わざと言ってんだろ」
「いやスミマセン、今のはえーと……その」
「……まあ、あの時はもちろん沈んだけどな。あれがあったからオレのするべき事を理解できたというか、失敗して学んだというか」

 言いながら、トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。夕方からの営業のために仕込みをしているのだろう。その心地よい音を聞きながら、カウンターに突っ伏して「オレのはもう、反省しても取り返しつかねーな」とぼそりと自嘲気味に呟く。
 明日からはチームの練習にも戻れることになった。せっかくいい感じにスタメンで出る機会が増えていたところだったので、間が空いてしまったのは悔しいが頭を切り替えるしかない。
 それに、名前さんの件も、だ。
 魚住さんはそれ以上追求してくることもなく、近況報告を交えながら他愛もない会話をした。
 そろそろ仕込みの邪魔になるだろうからと席を立った時「また話し相手ぐらいにはなってやるから、怪我には気をつけろ」と背中を軽く拳で叩かれた。なんとなく人と会話がしたいと思ってたの、やっぱりバレてたかと思いながら「頼りにしてます」と言うと、魚住さんは口元に笑みを浮かべてこくんとひとつ頷いた。先輩という存在はいつだって偉大だ。
 ほんの少しだけ海岸を歩いてから、小一時間電車に揺られ、電車を降りていつもの道を歩いて帰る。
 マンションのエントランスでオートロックを開けて、自分の部屋のポストを覗く。入っていた興味のないチラシにさっと目を通して、管理人室前に置かれているチラシ廃棄用のボックスにまとめて捨てた。エレベーターに乗り込み、七階を押してひとつ息を吐く。
 明日の練習は昼からだったっけ、あとでちゃんと確認しないと。そんなことを考えていたら、すぐに部屋がある階に到着していた。
 エレベーターを降り、顔を上げると自分の部屋の前にしゃがみこんでいる人影が見える。
 鍵を取り出そうと羽織っていたジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、オレは思わず「なんでここに」と声を漏らしてしまった。だってそれが、名前さんだったからだ。


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