Main|Fallout | ナノ

MAIN


Amor magister est optimus.

※夢主=運び屋
※HH終了後

 


 ナマエはザイオンへと続く山道を一人で歩いていた。
 岩場を縫うように足を進めながら、迫りくる夕闇の寒さに身震いをした彼女は、遠くに見えたデッドホースの斥候に手を振る。未だ各地に潜伏しているホワイトレッグスの生き残りを警戒して、デッドホースの民はまだザイオンに留まっているが、彼らは徐々にこの地に馴染みつつある、とナマエは思う。
 ナマエからの挨拶に応じた斥候は素早く踵を返し、飾り羽根の揺れるその後ろ姿は瞬く間に見えなくなった。族長を務めるジョシュアの元へ、ナマエの訪問を伝えに行ったのだ。
 そうして一報を受け取ったジョシュアは、ナマエを出迎えに現れる。
 いつもそうだ、とナマエは思う。いつも必ず、ジョシュアは出迎えてくれる。……彼は、私の訪問を歓迎してくれている。
 そう考えるとつい頬が緩んでしまうのを、ナマエは抑えきれなかった。ナマエはジョシュアのことが好きだった。彼の憎しみと怒りの炎に触れ、それを鎮めて以来、彼の苦悩を少しでも和らげることができればと考えない日はなかった。

 そして実際のところ、ナマエの存在はジョシュアに安らぎを与えていた。

 だが今、当のジョシュアは近くへ誰も寄せ付けぬ程の苛立ちと殺気を、隠そうともしていなかった。彼は地面へ跪かせたホワイトレッグスの男をどう処分しようかと考えを巡らせていた。
 彼は、あの戦いのあと身につけた寛大さを育てようと常々努力してはいたものの、時には上手くいかないことがあった。例えば、今のように。
 ジョシュアの目の前で恐怖に慄き、今にも失神しそうになってる男は、ナマエの寝床を、ジョシュアにとっての聖域を、荒らしたのだった。ナマエがザイオンでの棲家にしている小さな洞窟を、好奇心、あるいはより酷い考えを持って、踏み荒らしたのだ。
 この男を見つけたデッドホースの者が言うには、これは食べ物や彼女の服を荒らし、寝室の一番奥、外の光の届かぬところに潜んでいたらしい。獲物を待ち構える獣のように。もしもナマエがこれと鉢合わせていたら、と考えると、ジョシュアは一刻も早くこれを殺してしまうのが正しいことのように思われてくるのだった。
「私がお前を殺さないで済む理由があるか?」
 ジョシュアの話す英語を、ホワイトレッグスの男が理解しないのを分かりつつも、彼はそう問いかけた。
 どう殺してやろうか、とジョシュアは考える。ただ撃ち殺すのでは呆気なさ過ぎる。目隠しをして、崖の縁を歩かせようか。足を踏み外して落ちるまでに、自身の犯した罪について考え、悔やむ時間ぐらいはあるだろう。
 デッドホースの者たちはそれを遠巻きに眺めていた。ジョシュアの怒りは激しく、恐ろしい。彼が無関係なものへそれを向けることはないと分かっていても、火の中へ手を突っ込むようなまねは避けたいと誰もが思っていた。
 が、そこへ斥候の一人が息を切らせて駆け込んでくる。彼は目前の光景に一瞬たじろいだものの、自身の報告が族長へもたらす効果をよく知っていたので、ためらわずに口を開いた。
「モハビからの客人が、谷の入口に――」
 彼が全て言い終わるよりも早く、ジョシュアが尋ねる。
「ナマエか?」
 周りで見守る者たちは、斥候がそれに頷きを返すことを期待している。その願いの通り、斥候は頷く。
「彼女が」
「そうか」
 そんな短い返事と共に、ジョシュアの纏っていた殺伐とした雰囲気が和らぎ、部族の者たちはほっと胸を撫でおろした。もしも余裕があれば彼らは、ジョシュアの口元へ浮かんだ笑みすらも見ることができただろう。
 そしてジョシュアはそのホワイトレッグスの罪人を捕らえたままにしておくよう命じ、いつものようにナマエを迎えにいくのだった。


 ナマエはザイオンに家を持っていた。小さな洞窟であるそれは文化的な家とは言えなかったが、ナマエはそこをノバックのアパートメントよりも気に入っていた。なぜならその洞窟はジョシュアが手ずから棲家へと仕立ててくれたものだからだ。何度目かのザイオンの訪問の際にナマエが言った、「このままここへ住めたらどんなにいいか」という言葉を聞き逃さなかった彼が、ナマエへ贈ってくれたのだ。
 しかも、ジョシュアはナマエの為に寝台までも拵えた。文明的な物を忌避し、部族たちのやり方に倣おうとしている彼が、ナマエには例外を許したのだ。それは、彼女が部外者だからではない。彼女が、地面で寝るのは寒いからなるべく避けたいと言ったからだ。たった一度口にしただけのことを、ジョシュアは覚えていた。
 ナマエは時折その時のことを胸のうちから取り出しては眺め、幸せな気持ちを楽しむ。あの日、ナマエの言葉を聞いたジョシュアは、暫し考え込むような素振りを見せ、「そうか」と言った。そして数ヶ月後ナマエが再びザイオンへ来ると既にその家も、寝台もあった。「いつでもここへ来るといい」と言うジョシュアが何を思っていたのか、ナマエは今でも時々考える。
 ――彼はもしかすると、私の定住を望んでいるのかもしれない、とナマエは願うように思う。そうだったらどんなにいいか。

 そんな気持ちで足取りも軽く家へ着いたナマエは、戸口の前にデッドホースの戦士が佇んでいるのを認めて足を止めた。流石にもうジョシュアがいるだろうとは思ってはいなかったが、ウォークラブを身につけた場違いな彼はここで何をしているのだろうとナマエは訝しむ。そんな視線に気が付いたデッドホースの戦士は恭しくナマエに挨拶をしてきたので、ナマエも警戒心を手放さずに挨拶を返した。
「ここで何を?」
 彼に英語が通じるだろうかと思いながら、ナマエは簡単な単語を並べる。男は一つ頷いてから注意深く答えた。
「ここ、荒らされた。私、それを伝える。あなたに」
「荒らされた?誰に?」
「ホワイトレッグス」
 その単語に、ナマエは男の脇を抜けて室内へ入る。男の言葉通り、室内は荒らされていた。貯蔵していた食べ物は殆ど食い荒らされ、衣服は引き裂かれている。男から聞いていなければ、ヤオグアイでも潜り込んだのかと思ってしまうような様相だ。中でも寝室は酷い有様で、寝台脇の窪み――洞窟故のものだ――に部屋中からかき集められたらしい布切れたちが積み上げられている。中心の凹んだそこは、まるで動物の寝床だ。
 目前に広がるそんな光景に、ナマエは酷く衝撃を受けた。
 だが、同時にナマエは言葉には言い表せない切実さのようなものを感じ取っていた。ここへ侵入したホワイトレッグスはかなり追い詰められていたようだ、と。彼は目に付いた食べ物を片っ端から食べ、寒さを凌ぐために寝床を作って眠った。部屋の片隅の奥まったそこの方が、中央に置かれた寝台の上よりも安心できたのだろう。
 族長を失った彼らホワイトレッグスは散り散りになり、略奪しか知らぬ彼らはこうして、人のものを盗むより他に生き延びる方法を知らない。そして、文明にも疎い……。
 消えゆく部族の辿る暗い道を案じながら寝台へ腰掛けたナマエは、ふと若干の違和感を抱き、改めて室内を見渡した。
 洞窟内には、彼女が半ば趣味で集めている武器が置かれている。主人に数週間放置されていたそれらには薄っすらと埃が積もっているが、傷一つ、指紋一つない。なにもかもひっくり返され踏み荒らされた部屋の有様とは対照的だ。
 ――そうだ、これは私がザイオンを発った時のままなんだ。
 気付きを得たナマエが改めてそれらを点検しようと立ち上がったその時、戸口に人影が現れた。


 ぱっと振り返ったナマエが、反射的に腰の銃へ手を伸ばすのを見て、ジョシュアは胸の内に二つの感情が湧くのを感じた。一つは、ナマエへ申し訳ないと思う気持ちだ。彼女がここ、ザイオンではそんな警戒心を抱くことのないようにとジョシュアは願っていたし、そのために常に気を配っていた。彼女にはザイオンで安心と安全を感じてほしかった。いつかこの地へ、ジョシュアにとっての第二の故郷へ、留まってもよいと、彼女が思ってくれるように。なのに、今回は一番犯してはならない失態を――家、それも寝室内に敵を侵入させるという取り返しのつかない失態を――犯してしまった。これは全て自分の責任だと、ジョシュアは思っていた。
 そしてもう一つは、ナマエの家を踏み荒らしたホワイトレッグスへの怒りだ。これは初めてジョシュアが家の有様を見たときから彼の心に燻っていた感情だが、改めてナマエがその荒らされた場に佇んでいるのを見て、それらがまた燃え上がるのをジョシュアは感じた。
「ナマエ」
「ああ、ジョシュア」
 名を呼ばれた彼女は、ほっとした様子で手を降ろす。それが更にジョシュアの罪悪感を刺激した。
「……こんなことになってしまって済まない」
 開口一番にそんなことを言うジョシュアに、ナマエは眉尻を下げて微笑む。
「あなたのせいじゃないのに、謝らないで」
「だが、もう少し警備を増やすべきだった」
「ドアと鍵をつけなかった私も悪いよ」
 デッドホース達は、彼らの畏怖するジョシュアが自ら手掛けた住居に、それも、彼の最も愛する女が住む場所に、軽率に足を踏み入れるほど命知らずではない。ジョシュアはそういった意味でデッドホースの者たちを信用していたが、ナマエは純粋にデッドホース達が自分の財産以外のものに手を出すような人々ではないと思っているのだろうな、とジョシュアはため息をついた。彼にしては珍しく気落ちした様子なのをナマエは少し面白く思っているらしく、彼女の唇は弧を描いたままだ。
「君の信頼を裏切ってしまったな」
「でも、デッドホースの人達のせいではないんでしょう?」
「……ああ、そうだ」
 ジョシュアはホワイトレッグスへの怒りと嫌悪を思い出す。
 一転して、ぞっとするほど低く、冷たくなった声に、ナマエの微笑みは消える。
「ホワイトレッグスの残党がここを穢した。その者はもう捕えてある。処罰はまだだが」
「そうなの……それは、よかった」
 それは吉報であるはずなのに、言葉に反してナマエの表情は暗い。彼女は地面へ視線を落とし、尋ねる。
「今回のことで、誰か怪我はしなかった?」
「それは問題ない。デッドホースの戦士は優秀だからな。一人のホワイトレッグスなど取るに足らない存在だ」
「みんなが大事ないならそれでいいんだけど……」
 どこか戸惑っている様子のナマエにジョシュアは内心首を傾げたが、すぐにもっともらしい理由に思い当たった。彼は口調を和らげる。
「心配するな。今夜はエンジェル洞窟に泊まるといい。あそこならば私もいるし、デッドホースの者たちも多数いる。君の安全を脅かすものは何もない」
「え?ああ、そうね。ありがとう、今日はそうさせてもらうことにする」
 そうして申し出への感謝を口にするナマエは依然として浮かない表情のままで、いつもの温かな笑みを求めていたジョシュアは困惑を深めた。




 男は冷たい地面に跪いていた。裁きの行末を見届けようと、男の周りをデッドホースの者たちが遠巻きに取り囲んでいる。だが、憎しみの言葉や、怒りの声を上げる者はない。皆静かに、そしてどこか男の身を案じるかのように、不安げな表情を覗かせている。
 裁きの場へジョシュアと共に出向いたナマエは、そんな予想とはかなり異なる雰囲気を訝しんでいたが、囲む人々の輪を抜け、中央で項垂れる男の姿を見て全てを悟った。
 一方ジョシュアは、横に立つナマエの息を呑む音に、彼女が恐怖を感じたのだろうと思い、そうさせた存在――ホワイトレッグスの男への怒りを更に募らせた。
「……ナマエ、大丈夫か?」
 しかし、ジョシュアからの気遣いの言葉にナマエはなにも返さず、ただ男の方へ歩み寄り、しゃがみ込んで、視線を合わせた。
 そしてしばらくの沈黙の後、振り返ったナマエはジョシュアを見たが、その瞳には哀れみがあった。ナマエも当然ホワイトレッグスを嫌悪するものと思っていたジョシュアは、その意外な反応にたじろぐ。もっとも、それに気が付くものはいなかったが。
「ジョシュア、こっちへ来て」
 彼女は静かな声でジョシュアを呼び、身を屈めてホワイトレッグスの男を見るよう促す。他の者にそう命じられても、ジョシュアは決して従わなかっただろうし、そもそも彼へ何かを命じる者はいないだろう。だが、今の相手はナマエだ。ジョシュアは大人しく指示に従った。ナマエが尋ねる。
「彼、どういう風に見える?」
「……ホワイトレッグスの男だ」
「それ以外には?」
「薄汚い罪人だ」
 首を横に振ったナマエは、ジョシュアの腕にそっと手を乗せて何かを乞うような目で見上げてくる。別の答えを求められているのだということは、ジョシュアにも分かった。何かに気が付いてほしい、それに自ずからたどり着いてほしい、という無言の訴え。ジョシュアは一度深く息を吸って、己の心でざわめく様々な感情を宥め、男と向き直った。
 ジョシュアに真正面から見据えられた男は恐怖のためか震え始めた。自分の身体に腕を回し、視線から身を守るかのように縮こまる。あばらの浮いた、痩せこけた身体だ。手足の先は荒れ、爪が割れている。ホワイトレッグス特有のボディペイントはほとんど落ちかけていて、特に目の周りの赤色はほとんど残っていない。怯えた瞳は潤んでいて、痩けた頬には幾筋も涙の流れた跡がある――。
 ジョシュアは、ホワイトレッグスへの憎しみが自身の目を曇らせていたことを悟った。顔を背け立ち上がるジョシュアへ、ナマエが囁くように言う。答え合わせをするかのように。
「彼、まだ子どもじゃない」
「……だが、人を襲うには充分な歳だ」
 裁きを下す族長としての立場が、ジョシュアにそう安易に男――少年を許させはしなかった。ジョシュアは心へ芽生えつつある戸惑いを押し流すかのように言葉を継ぐ。
「それに、これぐらいの男は、好奇心で、善悪の区別なく人に危害を加えるものだ」
 そう言って、ジョシュアはナマエを見据えた。ジョシュアが最も懸念し、最も恐れていることを伝えるために。
「……君を襲っていたかもしれない」
 だが彼の意図に反して、ナマエはふい、とそっぽを向きジョシュアの視線を断ち切る。
「でも私は襲われていないし、襲われても返り討ちにできたでしょうね」
 少年の枝のように細い腕を見ながら、ナマエは言葉を重ねる。
「私の家の中には武器が置いてあった。見えるところにね。その中にはホワイトレッグスの物もあった。彼にも使い方が分かるような物が。でも、彼はそれに触れなかったし、誰も傷付けなかった」
「だが――」
「まだ犯してもいない罪のことで人を裁けるほど、あなたは偉いの?」
 ジョシュアはもう、何も反論できなかった。反論するつもりもなかった。彼は素直に自分の過ちを認めた。
「ここに私は族長としている。皆が私の意見を求め、時には人を裁くこともある。……それが私を思い上がらせていたようだ。こうした過ちが……いずれ私の罪となることを忘れていた。リージョンにいた頃のように……」
 小さな部族だったブラックフット族がいかにしてリージョンとなるに至ったかを思い返し、ジョシュアは首を左右に振った。
「リージョンの二の舞になるところだった」
 彼の言葉に、ずっと険しい顔をしていたナマエもようやく微笑みを取り戻す。
「でも、ならなかったし、これからもきっとならないよ」
 つられて、ジョシュアも微かに口角を持ち上げる。
「君のおかげだ。ナマエ」

 少年が許されたことを証明するために、ジョシュア自らが彼に掛けられていた縄を解いた。ナマエが手を貸して少年を立ち上がらせると、待ちかねた様子で数人のデッドホースが歩み出て、ジョシュアへ話しかける。彼らの言葉が分からないナマエはそれを眺めていたが、一人の女性が何かを熱心に頼み込んでいるということだけは分かった。
 しばらく会話は続き、完全に蚊帳の外のような気持ちになりつつあったナマエをジョシュアが呼ぶ。
「彼らがこの者を家族として迎えたいと。彼女は先日息子を病で喪ったばかりで、この者を息子として育てたいと申し出ている。……ナマエ、君はどう思う」
 意見を求めるジョシュアへ、ナマエは優しく目を細めた。
「いつかホワイトレッグスの生き残りの人たちが和解を求めてきた時に、この子が架け橋になってくれるかもしれないね」
「和解か……」
 その後に続く考え込むような沈黙を、ナマエは気をもみながら見守った。ホワイトレッグスに家族を殺されたジョシュアが彼らを憎むのも仕方がないことだとナマエは考えていたが、今ここで変わらなければ、先程彼自身が言った通り、デッドホースが第二のリージョンと化してしまうかもしれないとも思っていた。
 ジョシュアはふっと息をつく。その時の彼にはなにか、重圧や束縛から解放されたような雰囲気があった。
「思いつきもしなかった。ホワイトレッグスと……和解するなどと」
 そしてジョシュアは、肯定の言葉らしきいくつかの単語を女性へ返す。女性は喜び、数人の若者と共に未だ怯えた様子の少年に肩を貸して歩き去って行った。
 その背を見送ったジョシュアは、ナマエを見て目元を和らげる。
「我々も、もう行こうか」
「うん」
 事の成り行きを見届けたデッドホースの面々も、安堵した様子で捌けていく。ナマエは差し出されたジョシュアの手を取り、今宵の宿まで並んで歩いた。


 夕食の場は始終和やかだった。エンジェル洞窟の前で焚かれた炎を部族の者たちと囲んでいたナマエは、欠伸を一つこぼすと立ち上がった。
「私はもう失礼しようかな」
 退席を告げる彼女に、その旅の話を聞いていた若者たちは名残り惜しそうな声を上げる。英語を理解しつつある彼らは、いつもこうしてナマエがもたらす外の世界の話を楽しみにしていた。
「今日はもうクタクタなの。また明日ね」
 ザイオンへの旅路で疲れた身体が悲鳴を上げているのをナマエは感じながら、若者たちを宥めるが、誰かが「もっと」と言ったのを皮切りに、他の者たちも「もっと」「もっと」と騒ぎ始める。ナマエは困ってしまってその場に立ち尽くした。
 だが、ナマエの背後から掛けられた声が、鶴の一声ごとくその場を瞬く間に治めてしまう。
「学ぶ意欲があるのは良いことだが、彼女をあまり困らせないでやってくれ」
 声の主は当然、ジョシュアだ。しばらく席を外していた彼が戻って来たのだ。諌められた若者たちは、決まり悪そうに口を噤んだ。
「さあ、ナマエ」
 ジョシュアは優しくナマエの肩へ触れ、焚火から離れるよう促す。そしてエンジェル洞窟の奥へナマエをいざないながら、彼は改めてその日のことを振り返り始めた。
「今日、私は判断を誤るところだった。憎しみと、怒りに我を忘れて」
 淡々とそう言うジョシュアに、しかしそこへ潜む後悔を感じ取ったナマエは、彼の懺悔を黙って聞く。
「捕らえられた者が、デッドホースの孤児であったなら、私は彼をその場で赦し、再び家族として迎え入れただろう。だが同じ孤児――両親を、拠り所を喪い、餓えて途方に暮れた者であっても、それがホワイトレッグスであるというその一点で、私の目は曇り、気遣いは残酷さへと転じた。コインが表から裏へと変わるように」
 ジョシュアの声は苦悩に満ちていた。ソルトを赦した時と同じ雰囲気が今の彼にはあった。足を止めるジョシュアに、ナマエは優しく寄り添う。
「どちらも私なのだ。私は常に回り続けるコインだ。表と裏、どちらが上を向いて止まるのか、分からない」
 一度言葉を切ったジョシュアは深いため息をつき、続けた。
「今日のことは、デッドホースの民に恐怖を与えたことだろう。彼らには正しいことが見えていた。……私とは違ってな。彼らは族長が明らかに間違った判断を下そうとしているのを、止められなかった。だが悪いのは彼らではない。そうさせた私だ」
 己に対して、余りにも冷ややかな結論を下したジョシュアは、じっと気遣わしげに見つめてくるナマエから目をそらし、再び歩き始める。横へ並ぶナマエは、彼へかけるべき言葉を探す。

 いつもジョシュアが使っている一室の奥に、更に部屋が設けられていた。ナマエの記憶にはないその空洞は、最近掘られたものらしい。ジョシュアに促されてそこを覗き込んだナマエは、意外な物を見つけて、喜びの声を上げた。
「ベッドだ!」
 今日は固くて冷たい地面へ毛布を敷いて寝るのかと内心肩を落としていた彼女は、その文明的な存在に駆け寄って眺める。
「一体これ、どうしたの?」
「作ったのだ。君の為にな。ここは君の部屋だ」
「……私の、ために」
 復唱するナマエに、なぜ?という疑問を受け取ったジョシュアは、理由を告げる。
「君がいつかここへ泊まることがあっても、不自由な思いをしてもらいたくなかったからだ。ここに、ザイオンに、……私の側にいる間は、君に快適でいてもらいたい」
 藁と毛皮の積み重ねられたその寝台に手をうずめていたナマエは、その告白を聞き、自分の言うべき言葉を知る。
「ありがとう、ジョシュア」
 ナマエは緊張を和らげるために深呼吸をし、言葉を続ける。
「さっき、あなたが言ったことだけど……。私は、あなたは変わったと思う。もちろん、いい意味でね。今日だって、あなたは自分の過ちに自分で気が付いた」
「それは、君の助けがあったからだ。君がいなければ、誰も私を止めず、私は気が付く機会を逃していただろう」
「私がしたのは促すことだけ。……だけど、その、あなたがもしも……」
 口籠るナマエを不思議に思ったジョシュアは、その表情を伺う。彼の注目を不必要に集めていることを察したナマエは少しためらったが、言葉を続けた。
「助けを必要としているなら、私はいつでも助けになりたいと思ってる」
「……いつでも?」
「ええ」
 頷くナマエを前に、ジョシュアは逸る気持ちを無理矢理押さえつけていた。彼女の言う“いつでも”が彼の思うものと同じとは限らない。だが身体の中心から勝手に湧き上がってくる喜びが、言葉を押し上げてしまう。
「それは君が……ここに留まる、という意味か」
「あなたが、望むのなら」
 突然、ジョシュアが跪いたのでナマエは驚いた。そのままナマエの手を取ったジョシュアは、まるで祈りを捧げるかのように両手で包み込んだその手へ額を寄せる。
「君は私にとっての光だ。君は私を導く松明であり、不動の北極星だ。私には山を移すほどの強い信仰がある。だが、もしも愛がなければ、私は無に等しい」
 思わずジョシュアが口にした“愛”という単語に、ナマエの心臓は一つ大きく跳ねた。ジョシュアは顔を上げ、言葉を続ける。
「どうか、私から言わせてくれ。……この地に、私の隣に居てほしい。私がこれ以上、道を誤ることのないように」
 告白を受け取ったナマエは、膝をついてジョシュアの深い青色の瞳を覗き込み、その中に静かな炎を見た。ジョシュアを導くなどという大それたことを、ナマエはするつもりはなかった。ただ、見るべきものを見るように、聞くべきことを聞くように促し、彼を支えたいと思っていた。
「私は神でも御使いでもないけど、あなたの横を歩くことはできる」
 彼女の返事の謙虚さに、ジョシュアはより一層、愛と喜びの炎が燃え上がるのを感じた。今ではナマエの言葉一つ一つが、動作が、視線の動きすらも、炎へと投じられる燃料となり得た。
 じりじりとした熱に身を焼かれながら、ジョシュアは握ったままのナマエの指先へ口付けを落とし、立ち上がる。同じように立ち上がったナマエは頬を赤くしていて、ジョシュアはそこへも口付けたいという衝動を抑え込まなければならなくなった。
「……ここに、」
 あまりにもジョシュアが見つめてくるので、ナマエは気恥ずかさを覚えて視線と話題を逸らす。
「私の物をいくつか、持ち込んでもいい?」
 ジョシュアは微笑む。
「無論だ。ここは――いや、ザイオンのいかなる地も、もはや君のものだ。君の求めるものも、望みも、全て私が叶えよう」
 大げさな、とナマエは思わないでもなかったが、彼のことだから、本当にそうするつもりなのだろうとも思った。彼は既にいくつかを叶えてくれたのだから。
 大切な寝台を、ナマエは撫でる。
「ありがとう、この部屋も――このベッドも」
「気に入ってくれたのならば、喜ばしいことだが」
「もちろん、気に入った。あの洞窟の家も好きだけど……ここは、もっと、あなたに近いから――」
 ナマエは言葉を継げなかった。なぜなら唇を塞がれたからだ。衝動的なそれは唇同士が微かに触れ合うだけの短いものだったが、十分な熱さがあった。
 唇を離したジョシュアは、さっと視線を逸らす。
「……すまない」
「……ううん。びっくりしたけど、嬉しい」
 こういった感情の伝え方には不慣れらしいジョシュアが微かに照れているように見え、ナマエは少しばかり面白くなった。それを察したジョシュアは軽く咳払いをする。
「さあ、君はもう寝るべきだ」
「もう少し、起きていたいな」
 言葉でじゃれつくナマエに、ジョシュアは包帯の下で口角を持ち上げ、胸の内で思う。これ以上、私の中の炎を煽らないでくれ、と。
「明日から忙しくなる。そうだろう?」
「そうだね」
 渋々、ナマエは同意を返し、同じぐらいの名残惜しさを抱えながら、二人は短い別れを甘受する。
 部屋を出る時、一度振り返ったジョシュアへ微笑みを返し、ナマエは寝台へ横たわった。そして数秒後、洞窟の入口辺りで歓声が上がる。ジョシュアがデッドホースの若者たちに、ナマエがこれからはここへ住むのだと伝えたのだ。
 それに続く賑やかな話し声を遠くに聞きながら、ナマエは幸福な眠りに落ちていくのだった。


[ 11/11 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -