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短編|もうぼろぼろにはならないコナーの話

*『ぼろぼろ(じゃない)コナー』の続き
*リクエストを頂いて書いたものになります




 小さな液晶画面に表示されている数字が、ひとつずつ減っていく。身体に感じる僅かな振動。それらがなければ、今エレベーターに乗っているのだということを忘れそうになる。側面には透明なガラスが使われているものの、地上階が近付くまで、そこは灰色の壁しか見せてはくれない。
 そんな宙釣りの小さな箱は、最上階のメンテナンスフロアから一階のエントランスへと、滑るようにして降下する。コナーを乗せて。
 ほぼ無音の籠の中で、コナーは自身の新しい腕を点検する。軽く振って手を開き、握る。自他の境界を見極めようとする赤子のように、周囲の物へ触れる。
 肩の部分から総入れ替えになった腕は全てが正常だという信号を返してくるが、コナーは何かが足りていないような気持ちを手放せないでいた。再び手を握り、開く。いつもの、彼女へ触れる時の感覚を思い出しながら――。
 ――思い出せない。
 コナーは新しい腕の全ての数値がデフォルトに戻されていることに気が付いた。
 再度、腕に設定してあるはずの数値を確認し、彼は顔をしかめる。想定できたことだ。出荷時の数値に戻されることは。サイバーライフにとっては、デフォルトの状態こそが正常なのだから。アンドロイド――変異体がそれぞれでオリジナルのカスタムをし始める、などというのは思ってもみなかったことだろう。当然のことながら、配慮もなにも、あるはずがない。
 想定できたことのはずなのに、対策を怠ったことをコナーは悔やんだ。
 ――あの腕は、彼女のために色々と、調節してあったのに。
 手のひらの表面温度はいつも彼女が好む数値に設定してあったし、手を取る時の力加減や、握り方だって、何度も調節を重ねた。
 もちろん、もう片方の腕も同じように調節してある。だが、右手には右手の、左手には左手の役割があり、それぞれ独立したプログラムを持つものだ。どちらも同じものではない。
 蓄積されている記憶だってそうだ――。

 コナーは、初めて彼女の腕を握った時のことを思い出す。彼女の手首に痣を付けてしまった時のことを。
 まだ彼女と組んで数日も経たぬ頃の話だ。逃げるアンドロイドを追う際に、彼女を急かそうとその細い手首を掴んだ。それまでコナーの相棒を務めていたのはハンクだったから、コナーは彼女の手首をハンクの腕を握る時と同じ感覚、同じ出力で掴んだのだった。
 握る手のなか、薄い皮膚の下に細い骨があった。圧迫された血管が、早い脈を伝えてくる。これ以上力を込めるとそれが折れるのではという恐怖が湧くのと、『人間へ危害を加えている』という警告文が現れるのはほぼ同時だった。コナーは慌てて手を離したが困惑に何も言えず、彼女は驚きと共に自身の手首を一瞥したものの、「行こう」と短く彼を促しただけだった。
 その後も彼女はコナーの行いについて口にすることはなかったが、ブラウスの袖口から覗く白い手首には、くっきりと赤い痣がラインのように刻まれていて、しばらく残るそれを目にする度、コナーはひどい罪悪感に襲われたものだった。

 ――それ以来だ。彼女へ触れる時には慎重に慎重を重ねるようになったのは。
 回想を終えたコナーは、複雑な感情を押し出すかのようにゆっくりとため息をついた。あの時のことは嫌な記憶だが、同時に特別な記憶でもあった。彼女に傷を残した最初で最後の経験なのだから。もちろん、彼女に危害を加えるなどというのは、考えたくもない行いだ。だが、彼女に自分の痕跡を残せるというのは――。
 あの頃は罪悪感ばかりを抱いていたが、今ならばもう少し違う感情を得ることができていただろうな、とコナーは思う。後ろ暗い喜びを。
 しかし、あの時の感触は壊れた腕と共に失われてしまった。それは今まで蓄積されていた彼女の記憶を失うに等しいことだ。
 当然のことながら、“データ”としては残っている。触れた時の彼女の体温、弾力性、摩擦係数……。だがそれらはただの数値であって、感覚ではない。
 数値はコナーの記録デバイスに残されているが、彼女に触れた時、どんな“感じ”がしたのか覚えていたのはあの腕だったのだ。
 その事実に少しの喪失感が芽生えるのを感じたコナーは、あの腕にも一応、愛着のようなものがあったのか、と一人苦笑した。
 機械の体は簡単に替えが効く。パーツごと取り替えてしまえば、傷すら残らない。だから愛着心などとは無縁の存在だったのに。

 さっと視界が開け、ガラス越しの眼下にエントランスフロアが見えてきた。人間にとっては数秒の時間で着くであろう場所だが、光の速さで思考できるアンドロイドにとっては、まだまだ遠い。
 エントランスにぽつぽつと見える人影をコナーは眺める。まだそれらが人間かアンドロイドか判別できるほど籠は降下してはいない。
 ――破損箇所が大きくて修理に半日もかかってしまったから、彼女は署へ戻ってしまっただろうな。……戻っていてほしい、と言ってしまったし。
 そう思いつつも早くエントランスにいる人間たちの顔がスキャンできるようにならないかと、コナーは気を揉む。
 ――彼女はまだ、気落ちしているだろうか。彼女はあの日の僕のように、罪悪感を覚えてくれているだろうか。もしも、もしも自分が人間で、今回の傷が残ったのなら……彼女はそれを目にする度、哀れんでくれただろうに。
 コナーはついそんなことを考えてしまう自分を止められない。

 ――修復不可能だった腕は取り替えられた。傷など当然残るはずもない。……残るものがあるとするならばそれは、彼女の心の傷だけだろう。
 今回のことは、どのぐらい彼女の心に傷を付けただろう。どのぐらいの深さでそれは残っているのだろう。いつまで彼女は覚えていてくれるだろうか。
 彼女が忘れた頃に、もう一度同じことをしようか。
 彼女の心に癒えない傷を付けて、付けて、付けて。きっと彼女の心は、波に洗われたシーグラスにようになるだろう。きっと綺麗だろう。

 コナーのアイセンサーが、エントランスに佇む人影の中によく見知った存在を捉え、オートでピントを合わせる。彼は胸の内に渦巻く暗い考えを振り払った。

 ……でもその度に、この身体が覚えている彼女の記憶を失っていくのは、嫌だ。




「……署に戻らなかったんですか」
「一旦戻ったけど……何も手に付かなくて」
「ずっと待ってたんですか?」
 エレベーターから降り立ったコナーを迎えた彼女は、バツが悪そうに視線を逸らし、何も答えない。きっと、署に戻っていてほしい、という頼みを反故にした後ろめたさがあるのだろう、とコナーは考え、彼女が握っているペットボトルへ視線を移す。近くの自販機で買ったらしいそれの中身は、微かに底へ残るのみだ。いったいどれほどの時間を、ここで過ごしたのだろう。
「ずいぶん、待たせてしまいましたね」
「ううん。私が勝手に、待ってただけだから」
「……嬉しいです」
 え?と彼女は顔を上げてコナーを見る。彼女の目元はまだ赤い。彼は微笑む。
「帰りは独りかと思っていたので」
 行きの道では、彼女に身を寄せ、自分のために流される涙を見た。それと同じ道を今度は独りで辿るのだと思うと、少しの寂しさが湧き上がってくるのをコナーはずっと感じていたのだ。
「だから、嬉しいです」
「よかった」
 彼女は肩の力を抜き、コナーと同じように微笑みを浮かべる。そしていくつかの質問――調子はどうか、もう大丈夫なのか、なにも問題はないか――などを交わした後、彼女は「じゃあ行こうか」と外へ向かって歩き出す。そしてコナーはいつものように横へ並び、いつものように彼女の手へ、微かに触れようとした。お互いに一定の距離を保ちつつも、同時に、お互いに許容している距離。
 だが、難しい。あの腕では難なくできていたことが、この腕では難しい。基本的な動作は難なくできるはずなのに、そっと彼女の手に触れる、それだけが、この新しい腕では難しい。
 “そっと”ということを理解していないのだ。触れる、触れない、のTrueとFalseしか存在しないアンドロイドの腕には、その中間という概念がない。触れるような、それでいて触れていない、あいまいな距離。まるで今の二人の間柄のような距離を、この腕では保てない。
 ――そうだ、もう、保てないのだ。
 突如響いた心の声に背を押されたコナーは手を伸ばし、彼女の腕をとった。あの日のように、驚いた顔の彼女がコナーを見る。だが前回と違うのは、コナーが腕の出力を最小限に留めたことだ。あの赤いリングをもう一度刻みたくないと言えば嘘になるが、やはり彼女を傷付けるのは気が進まない。
 彼女が動くと、ほとんど添えられていたような状態のコナーの手は、簡単に解けてしまう。それを見た彼女が「あ、」と小さくこぼした声に潜む惜しむような響きを、コナーは決して聞き漏らさない。
「掴んだつもりだったんですが、まだ調整がうまくいっていないようですね」
「……それって、大丈夫なの?もう一度、診てもらったら……」
 コナーは首を振る。
「大丈夫です。ただ色々と……リセットされてしまっただけなので。通常の動作には問題ありません」
「でも今、」
「“特別な”動作が難しいだけです」
 彼女の言葉を遮ってコナーがそう言うと、彼女は「特別?」と首を傾げた。コナーは頷きを返す。
「言い換えるのなら、“あなた用の”です」
 その言葉の真意を測りかね、視線を彷徨わせる彼女の腕をもう一度、コナーは掴む。今度は少し、力を込めて。
「調節するので、触れていくうちに元に戻ると思います。……だから触れさせてくれませんか。もう一度覚えていきたいんです。あなたのことを」
 そしてコナーは心の中で言葉を続ける。もしも全てのデータを失ったとしても、触れた時の感覚だけであなたのことが分かるように、と。その温もり、柔らかさ、薄い皮膚の下にある、確かな彼女の存在、その全てを。
 ふと、なにかがコナーの手を包む。知っている体温、知らない温かさ。見れば、彼女がコナーの手に自身の手を重ねていた。
「私もコナーのこと、覚えていきたいな」
 はにかみながらもそう伝えてくる彼女を見つめながら、コナーは誓う。
 この身体のいかなる部分も、それに宿るいかなる記憶も、これからは決して、失いはしない。


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