エンカウント ライブラリー

第五話 「のぞみと『のぞみ』」
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今日ののぞみの勤務時間は朝と夕方に分かれているシフト。このシフトの時は午後一時まで仕事をして、夕方のシフトまで茉理の働く喫茶店で昼食を食べながら本を読むのが習慣となっている。しかしいつもなら一時半頃にはこの喫茶店に着いているのだが、今日は二時半になってしまった。夏休みに入ってから急に来館者が増えたからだ。
学生が勉強をするために利用する場合が多い。他にも小学生の子がおじいちゃんと一緒に来ているケースもある。きっと夏休みの自由研究の資料でも探しているのだろう。この南図書館に関してはおじいちゃんの方が詳しいのか、得意げに孫たちに案内をしていた。
このように来館者が増えると単純に気を配る時間や場所が増えるし、質問や相談をしてくる人も増える。だからのぞみが仕事を切り上げるタイミングも逸してしまったのだ。
ようやく前半のシフトを終えて、二時半に茉理の喫茶店来て遅めの昼食を食べたらもう三時半になってしまった。いつもならここから至福の読書タイムなのだが、今日は読書を楽しむ時間はなさそうだ。
「忙しそうね」という茉理に対して、のぞみも店内を見回しながら「茉理さんも」と返した。この喫茶店も、いつもよりお客さんが多い。特に女子高生が。
後半のシフトは午後四時から。前半のシフトで一時間多く働いたからといって、後半の勤務が一時間遅くなることはない。特に今の時間は佳が働いている。佳はこのあと予備校に行かなくてはいけないため、交代が遅れることは許されない。
喫茶店から南図書館までは自転車で二十分。今から戻ればちょうどいい具合だ。夏といってもまだ暑さの本番を迎える手前。午後三時も過ぎれば風も心地よくなる。信号も待たされることなく、スムーズに図書館へと戻ってきた。

自転車を置いて入口に向かうと、ちょうどひと組の若い男女が階段を登っていた。男性の方は足が悪いのか、杖を突きながら逆側は女性に肩を貸してもらって階段を一歩一歩登っている。この南図書館はとても古いため、階段の一段が少し高い。段数は数段だが、やはり足の不自由な方が登るには一苦労だろう。一応スロープもあって年配者はそちらを使ったりするのだが、後から無理やり作ったものなので幅が狭い。大人が肩を貸しつつ並んで歩けるほどではない。
のぞみは彼らが登り切るまで少し待つことにした。この図書館の者として、彼らの横を通り過ぎて行くのは何となく気が引けた。
女性の方は、大変そうだがなんだか嬉しそうだ。
「ほら、ハルくん。最後の一段」
そう言って二人は息を合わせて最後の段を登った。
「どうしよっか。とりあえず休む?」
「そ、そうだね。マイさんはどこか見てきてもいいよ」
「いいわよ。私もちょっと暑かったし、しばらく涼もうね」
そう言って二人は手を繋ぎ直して図書館へと入っていった。お互いを名前で呼んでいたし、恋人同士だろうか。きっと足の悪い彼を、彼女がずっと介護して支えてきたのだろう。
今日はこの図書館に何を探しに来たのだろうか。
介護の参考になる本だろうか。それとも彼の足をよくする本だろうか。もしかしたら彼が時間のある時に読める小説かもしれないし、彼女が彼と一緒に見たい映画かもしれない。
そんなことを考えながらのぞみはブンブンと頭を振った。他人のことを観察して勝手に妄想を広げるのは悪い癖だ。想像力豊かなのはいいが、他人の背景を勝手に作って楽しむのは失礼だろう。しかし図書館の勤務で暇な時はどうしても妄想にふけってしまう。それが癖になってしまったようだ。

あのカップルが無事に座る椅子を確保できたのを見届けてから、のぞみは受付カウンターに向かった。そこでは佳が座りながら誰かと話している。その相手は北橋大祐だった。
彼は大学生で、やはり夏休みに入ってからこの図書館に来るようになった。佳とは同じ大学同じ学部で授業も同じになる機会があるそうなので、よく来ては授業の参考になる資料はないかと佳に尋ねている。しかし佳はそれをのぞみに回してくる。佳も参考資料を探す時に真っ先にのぞみに尋ねて選んでもらっているので、本の題名まではあまり覚えていないようだ。

「こんにちは」
「あ、のぞみさん。お疲れ様です」
「あ、こんにちは」
のぞみの挨拶に大祐も返事を返す。
「佳ちゃん、すぐ代わるね」
「まだ時間じゃないですから、大丈夫ですよ」
佳の言葉に笑顔を返して、のぞみはカウンターから事務所へ入っていった。佳と大祐は話の続きを始めたようだ。

のぞみは更衣室で鏡を見ながら汗を拭き、ロッカーに上着を掛け、エプロンを着る。事務所に戻ると佳が言っていた通り交代にはまだ数分ある。しかし早めに代わってあげれば佳も助かるだろうと思い、のぞみはカウンターへのドアのノブに手を掛ける。
ドアの向こう側では佳と大祐がまだ話をしていた。
しかしのぞみがドアノブを回す直前に、大祐のとんでもない言葉が聞こえた。
『俺はのぞみが好きですよ』
のぞみは一瞬固まる。そしてドアの前から飛び退く。
(なに?なに?なに?)
のぞみの頭の中にその一言だけが駆け巡る。
一体どういうことだ。大祐はなんでいきなり自分のことを好きだなんて言うのだ。それになんで呼び捨て?
のぞみは飛び出す心臓を抑えながら再びドアに近づいた。盗み聞きするのは悪いことだが、こんな状況では出ていけない。それにもう少し情報が必要だ。
のぞみは二人の会話に聞き耳を立てる。すると再び大祐の声が聞こえてきた。
『やっぱり顔かな』

のぞみは再びドアから飛び退く。そして自分の頬を両手で覆う。自分でも分かりすぎるくらい体温が上がる。きっと顔は真っ赤になっていることだろう。のぞみが頬を両手で覆いながら横を向くと、壁に掛かった鏡に自分の顔が写った。
(この顔が……好き?)
のぞみはフラフラとその場に座り込んだ。
確かに第一印象は良くなかったとはいえ鮮烈だった。それから大祐もよくこの図書館に通うようになって、のぞみもある程度話すような間柄にはなった。しかしそれからいきなり『好き』となるには、いくらなんでも飛躍しすぎではないだろうか。
でも今ののぞみには、出て行って真意を確かめる勇気も、もう一度ドアに近づいて続きを聞く勇気もなかった。

それからどれぐらいの時間が経っただろう。
「のぞみさーん。そろそろ交代して欲しいんですけどー」と言いながら、佳が事務所に入ってきた。しかしそこで見つけたのは床に座ったまま放心状態ののぞみ。
「ちょ!のぞみさん、大丈夫ですか!?」
佳に駆け寄られ、のぞみはやっと我に返る。
「あれ?佳ちゃんどうしたの?」
「あの、交代をして欲しかったんですけど……。のぞみさん大丈夫ですか?」
「あ!交代!佳ちゃん、早く予備校行かなきゃ!」
「え、ええ。のぞみさん、大丈夫ですか?体調が悪いんじゃ……」
「大丈夫よ。はい、いってらっしゃい」
そう言ってのぞみはカウンターに出た。
のぞみは交代をすっぽかしてしまったことで気が動転していたが、カウンターに出てなぜ交代が遅れてしまったのかを思い出した。
また一気に心臓が跳ね上がる。そして反射的に辺りを見回す。どうやら周りには大祐はいないようだ。パソコンの最後の処理を見ても、大祐の貸出処理がなされている。きっと大祐はすでに必要な本を借りて帰ったのだろう。
のぞみは一安心してカウンターの椅子に深々と腰掛けた。何もしていないのに、疲れが一気に押し寄せてきた。


それから三日が経った。
今日ののぞみのシフトは午後二時から閉館まで。そして佳と同じシフトだった。
あの出来事からずっと悶々とした日々を過ごしていたのぞみ。大祐が図書館に来れば隠れ、受付の担当をもう一人の職員に上手く任せたりしていた。それでも気持ちが晴れることはなく、複雑な気持ちは続くまま。
茉理に相談したりもした。しかし馬鹿正直に事情を説明できる訳はなく、小説の主人公が相手の女性をいきなり下の名前で呼ぶ、などという架空の設定を捏造してまで茉理の意見を聞いていた。しかし茉理は『そんなヤツは一発怒ってやればいいのよ』と言われた。お酒が入っていたからかもしれない。もちろんのぞみに大祐を怒ることなどできない。。
そしてついには菜々子にまで相談した。しかし明るくて人懐っこく、交友範囲が広い菜々子にとっては、相手を下の名前で呼ぶことにさほど抵抗はないようだった。あまりのぞみの悩みに対する参考にはならなかった。
そして今日。のぞみはついに直接確認することにした。大祐はどういうつもりで自分を『好き』などと言ったのか。
しかしいきなりそんな勇気が出せるはずもない。いつものように大祐が来たら佳に対応をお願いしていた。しかし佳と大祐が話してる横で作業をしていると、妙なことに気がついた。大祐は佳のことを『武藤先輩』と呼んでいるのだ。なぜ自分は呼び捨てなのに佳のことは苗字なのだろうか。二人の方が断然付き合いは長いはずなのに。
この機を逃したらまた悶々とした日々を過ごすことになる。
のぞみは最後のチャンスとばかりに声を掛けた。

「きたびゃひひゃん!」
しかしあまりの緊張に声が裏返ってしまった。
「のぞみさん、どうしたんですか…‥?」
突然ののぞみの裏声に怪訝な顔をする佳と大祐。のぞみは飛び出る心臓を抑えながらコホンと咳払いをして仕切り直す。
「北橋さん」
「な、なんですか?」
「えーと。北橋さんは相手のことを下の名前で呼ぶことについてどう思いますか?」
「え?下の名前でですか?そりゃ親しくなれば下の名前で呼ぶのもいいんじゃないですか?」
「じゃあ佳ちゃんのことは?」
「え?武藤先輩です」
「呼び捨てとかは?」
「ないない、ないですよ。年上ですし……」
「じゃ、じゃあ……。あの、その、なんで……私のことは呼び捨てなんですか?」
核心に迫り、のぞみも緊張でまた倒れそうになる。
「え?俺が豊崎さんのことを呼び捨てに?」
「北橋、あんた……」
そう言って佳が大祐を睨みつける。お世話になってる先輩に対して自分の後輩が失礼を働けば佳だって怒る。
「してません!してませんよ!」
「のぞみさん。こいつがのぞみさんのことを呼び捨てにしたんですか?」
「う、うん……」
しかしのぞみは怒るのではなく顔を赤くしている。
「いつですか?」
「ほ、ほら。北橋さんと佳ちゃんで話してる時にさ」
「私と話してる時……?」
しかし佳には思い当たる節がない。
「私はその場にいなかったけど。あの、私が佳ちゃんと交代するのが遅れたとき。北橋さんとカウンターで話してたでしょ?」
佳は記憶の糸を手繰る。大祐も記憶を呼び覚まそうとするが、どうにも思い出せない。
「そこで……私を下の名前で呼んで……」
のぞみはますます顔が赤くなる。
「のぞみさんと交代が遅れた時に……、カウンターで北橋と……」
佳がさらに考え込む。最近よく佳は大祐とカウンターで話しているからいつのことだか分からない。
しかしもうのぞみは真っ赤でそれ以上なにも言えない。
「あー!」
いきなり佳が大きな声を出して手を叩く。あまりに大きな声だったので図書館中に響き、みんながカウンターに目を向けた。
「ちょ、佳ちゃん、シー!声が大きい……」
のぞみが人差し指を口に当てて必死に沈める。しかし佳はまったく聞いていなかった。
「ああ、あの時の『のぞみ』。あの時の『のぞみ』ね!」
そう言って佳は盛大に笑いだした。
のぞみの頭の中には再び『なに?なに?なに?』が駆け巡った。
「あの時話してたのはのぞみさんのことじゃないですよ」
「え?私のことじゃない?」
「はい。ね、北橋」
「え?」
「ほら、北橋が今年の夏に帰省するっていう話になってさ」
「あー……、あ!ああ、あの『のぞみ』ね!はいはい」
のぞみだけが訳が分からず二人の顔を交互に見る。大祐の帰省と自分の名前がどう関係するのだろうかと思い巡らしていた。
「のぞみさん、あの時話していた『のぞみ』っていうのは新幹線のことですよ」
「しんかんせん?」
「そうです。会話はこんな感じです」


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あれは三日前の午後。
いつも通り大祐は南図書館で、勉強用の参考資料とSF小説の本を借りていた。そして帰り際に佳と喋っていた。

「今年の夏休みは勉強漬けかな?もう卒論の準備始めてる人もいるし」
佳は大祐相手だからということで椅子に座ったまま。他の利用者からも見られるのであまり好ましい態度ではないが、ここの利用者でそんな苦情を言ってくる人はまずいない。
「大変っすね」
「あんたも来年そうなるわよ」
「じゃあ今年のうちに遊んでおきます」
大祐が意地悪そうに言った。

「こんにちは」
そこへ昼休みから帰ってきたのぞみが声を掛けてきた。
「あ、のぞみさん。お疲れ様です」
「あ、こんにちは」
大祐ものぞみの挨拶に返事を返す。
「佳ちゃん、すぐ代わるね」
「まだ時間じゃないですから、大丈夫ですよ」
その言葉に手を小さく上げて、のぞみは事務所に入っていった。

「いいわね。三年生は気楽で。夏休みは実家に帰るの?」
「はい、チケットが取れたので」
「飛行機の?」
「いえ、新幹線」
「え?実家って九州じゃなかったっけ?電車で帰るの?」
「そうですよ」
「飛行機の方が早くない?それに最近は安い飛行機もあるんでしょ?」
「俺は電車が好きだからいいんですよ、時間かかっても」
「ふーん。物好きね。じゃあ新幹線じゃなくて普通の電車で帰ればいいじゃない。それなら安いしいっぱい乗っていられるでしょ?」
佳は無理難題を大祐に吹っかけるような口調で言った。さすがに佳もそれは無謀だと思っている。さっきの仕返しとばかりに口も意地悪っぽく笑っていた。
「去年やったら流石に疲れました」
「あぁ、そう。やったんだ」
冗談半分で言ったのに、本当にやっていたとは。佳は少し呆れるような眼差しを大祐に向けた。

「ところで新幹線って『ひかり』とか『のぞみ』とかいろいろあるじゃない?あれってどう違うの?」
「停車駅の数で違うんですよ。停車駅が多いのが『ひかり』。少ないのが『のぞみ』」
「へー、じゃあ新幹線でも長く乗っていられる『ひかり』が好きなの?」
「いや、俺は『のぞみ』が好きですよ」
「え。そうなの?」
「やっぱり新幹線は早くてこそなので」
大輔は自分で自分の言葉に納得するように言った。佳にはさっぱり分からない。
「妙なこだわりね。なんでそんなに新幹線が好きなの?」
「やっぱり顔かな」
「顔?」
「はい。あの流線型の顔が最先端技術の結集って感じでいいんですよ」
「へー、よく分からないけど」
中に乗ってたら新幹線の車体なんて見れないじゃないかと佳は思ったが、それを言うと反論が長くなりそうだったから飲み込んだ。
「写真見ますか?」
「いいわよ」
佳は嫌な顔を隠さずに言った。これ以上興味のない話に付き合わされたくはない。
「えー」
「あとで自分で調べるから。ほら、お客さんが来たから」
そう言って大祐を追い払う。
「……そういえばのぞみさん、遅いな」


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「という感じです」
二人の説明に、もうのぞみは何も言えなかった。早とちりもいいとこだ。
「でも二人で話してる時にはまったく気がつかなかったわね」
「まぁ音だけ聞いたら同じですからね。『のぞみ』も豊崎さんの下の名前も」
大祐に再び『のぞみ』と言われてさらに顔が赤くなりその場に座り込む。
「ああ、すみません」
大祐は何をどうしたらいいのか分からず、とりあえず謝った。
「あ、えっと。だから俺ってSF小説が好きなんですよ。出てくる乗り物とかが新幹線と同じで最先端技術の結晶って感じで」
なんとか話題を変えようと試みる大祐。しかし『好き』という言葉に反応して、のぞみはますます小さくなる。
呼び捨てに加えてもう一つの案件。大祐が『好き』と言ったこと。これも自分のことだと勘違いしていたのぞみは、もうここから逃げ出したいと思った。

しかしのぞみがこんな状況になると楽しくなるのが佳だった。他人がのぞみに失礼な態度を取るのは許せないが、自分がのぞみに対してするのはあくまで友情表現だと思っている。
そして佳は今までの展開でのぞみの勘違いをすべて察する。
のぞみが大祐に呼び捨てにされたと思っていたこと。好きと言われたと思っていたこと。そして特に顔が好きだと言われたと思っていたことも。
「武藤先輩、どうすればいいですか……」
カウンターの中で縮こまるのぞみを見ながら、大祐は佳に助け舟を依頼した。しかし今回は発注先を間違えたようだ。
「こうなったらもうしょうがないよ。北橋もこれからは『のぞみさん』って呼ぶようにすればいいじゃない」
「ちょっと佳ちゃん!」

今度はのぞみの声が図書館中に響き渡り、二人から「シー!」と言われた。




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