エンカウント ライブラリー

第四話 「のぞみと脚立」
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この日、豊崎のぞみが市立南図書館に着いたのは午前九時二十分だった。当然一番乗りだが、もしかしたら今までで一番ギリギリの出勤かもしれない。いつもなら遅くとも九時には来て開館作業をしている。本来の出勤時間である九時半より前に来ても時給は発生しないが、十時の開館時間までに準備を終わらせるには三十分では時間が足りないのだ。作業マニュアルによれば、十時までに終わらせるべきなのは入口の開錠、夜間返却ボックスの確認と閉鎖、空調の調整、必要であればテーブルと椅子の整頓などがある。この中に返却された本の返却手続きと本棚へ戻す作業は含まれていない。それらの作業は開館中にも常に行う業務だから、どうしても開館前に終わらせなければならないというものではないのだ。しかしのぞみとしては、朝から来てくれる来館者のために落ち着いた雰囲気でもてなしたい。だから開館前に返却作業も終わらせるため、出勤時間の三十分前に来て作業を始めるのだ。

いつもなら……。

でも今日は出勤時間ギリギリに到着。パートの人も、開館作業が全然進んでいないのを見てビックリしたほどだ。もちろん怒られはしない。逆にいつもやってもらってるからゆっくりしてて言われるぐらいだ。
のぞみがここまで出勤が遅れたのは二度寝したせい。それもこれも、原因はやはり昨日の夕食だ。のぞみ、神下茉理、武藤佳の三人で久しぶりにお酒を飲んだ際、のぞみは少し飲みすぎてしまった。記憶を無くすほどではないし二日酔いでもないが、体のダルさや重さがベッドから起き上がるのを遅くさせた。本来テーブルの上にあるはずのスマホが枕元にあること、寝る前に止めた扇風機が動いていることで二度寝に気づく。そして歯磨きもメイクもそこそこに、慌てて着替えて家を出た。それでもいつも寄るカフェには寄っていく。図書館の休憩室でもインスタントコーヒーぐらいは飲めるが、のぞみはこのカフェのコーヒーで朝を始めるのが日課になっている。それにこんな朝は美味しいコーヒーを飲ん で頭をシャッキっとさせたい。しかし着いてからマイタンブラーを忘れたことに気づいた。落ち込みにさらに拍車を掛けながら仕方なく店のテイクアウト用のカップで頼む。これだと保温が効かないから不便なのだが。さらに朝食をと思ったが、昨日の今日で胃がもたれていたためドーナツ一個にしておく。あとお昼用に軽めのサンドイッチを買う。そして急ぎたいのにコーヒーが溢れないようにいつもより慎重に自転車を漕いだせいで、こんなギリギリの時間になってしまったのだ。
急いで更衣室に入りエプロンを着たとき、改めて自分の服装を確認した。白い生地で胸元に英語でメッセージが書かれているTシャツに、下はデニムのパンツ。エプロンを着れば英語のメッセージは隠せるが、これでは傍から見れば大学生のようだ。そのことにさらに落ち込みながらも、エプロンと社員証を付けて開館準備を始めた。パートの人と協力して急いで準備したが、やはり本を棚に戻すところまでは終わらなかった。

バタバタした時間も終わり、常連のおじいちゃんおばあちゃんも一通り来てそれぞれ読みたい新聞や本を選び終わった午前十一時半。十二時過ぎに昼の来館者が増えるまでの束の間の時間。図書館が少し落ち着く瞬間。のぞみはドッと疲れを感じていた。いつもなら何かしら仕事を見つけて動いているのだが、今日は椅子に座っている時間が多い。しかも今日は先日のように間に空き時間はなく、夕方まで続けて仕事をするシフトの日だ。その分早く帰れるが、今日ばっかりは間に空き時間があったほうが気持ちをリフレッシュ出来たかもしれない。そんな感じでどんよりとした空気を醸し出していたのか、見かねたパートの人が早めに昼休憩を取らせてくれた。昼休憩は一時間だし、トラブルがあれば すぐに行かなければならないので茉理の喫茶店まで行っている時間はない。ただ気分が落ち込んでる時や嫌なことがあった時のために、お気に入りの文庫本をいつも鞄の中に入れてある。それを読んで元気を出すことにしよう。短編集だから、昼休みにご飯を食べながら読むにはちょうどいい。読みかけの新刊もあるが、それは展開が少し退屈な感じになってきていたし、今は気分転換をさせるほうが先決だ。そう思ったのぞみは、サンドイッチとぬるくなったコーヒーを飲みながら本を開いた。

やっぱり本は素晴らしい、物語は素晴らしい、ということで気分爽快で仕事に戻ったのぞみが最初に発した言葉が「うっ……」というものだった。
返却カウンターに立ったのぞみの最初のお客は北橋大祐。昨日の騒動の元となった人物だった。騒動と言っても、のぞみが勝手に騒いでいただけだが。
「ご返却でしょうか?」
自分の動揺を悟られまいとマニュアル通り丁寧に対応する。それにもう年下に見られたくないという思いもあった。
「はい。あと、これの続きはありますか?」
北橋大祐が返却したのは、アルフレッド・マーキュリー著、古川淳訳のSF小説『紅の海』。これは上・中・下巻からなる長編小説で、彼が読んだのは上巻だった。昨日借りて行ったはずなのにもう読み終わったのだろうか。よっぽど気に入ったのだろう。
「取り扱いはありますが、貸し出し中かどうかお調べいたしましょうか?」
「あ、いや、いいです。自分で調べますので」
そう言って北橋大祐は本を置いて行ってしまった。

のぞみは『紅の海』の返却手続きをしながらふと考える。今日の北橋大祐は敬語だ。昨日は初対面なのにタメ口だった。
考えられるケースは二つ。一つはのぞみに気づいていないというケース。北橋大祐は二十一歳で、その彼がのぞみを年下の大学生だと思っていたとしたら、当然この時間は学校に行っていると考えるだろう。だからこの時間にのぞみが図書館にいるはずはないと考えて、まったく気づいていないのかもしれない。
もう一つはのぞみが年上だと気づいたというケース。それなら敬語になっていてもおかしくない。しかし昨日の今日でのぞみが年上であるという情報がどこから得られるだろうか。
考えがまとまらないまま昼の来館者が増える時間を迎えた。午後の十二時から一時の間は返却と貸し出しが集中する。主に働いている人が昼休みの時間に本を返却し、ついでに借りていく。古く寂れた図書館だから作業に忙殺されるほど沢山の人は来ないのだが、それでも一応この時間は二人で作業することがマニュアルに定められている。

そして1時も過ぎ、来館者も減り、パートの人が休憩に入った。のぞみは昼の間に返却された本を棚に戻しにいく。カウンターに呼び出し用の卓上ベルを置いて。まずは二階の棚に戻す分を抱えて階段を上る。本の背表紙に付いているラベルからどこの棚に戻せばいいか分かるため、のぞみは効率よく棚を回って本を戻していた。十数冊の本をブックトラックに乗せて端の本棚から回っていく。そんな少しの忙しさにかまけて、ある重要なことを忘れていた。
のぞみが三列目の本を戻し終わり、四列目に行こうとしたら、その棚に北橋大祐が立っていた。大祐は棚の上の段の本を見ている。のぞみは思わず「あ……」と声をもらす。すると大祐ものぞみに気づいた。
「あ、昨日の……」
「あ、はい。一応……」
『一応』とはなんだ……と心の中で自分に突っ込みながら、のぞみはとりあえず平静を装った。
「なにかお探しですか?」
話を変えるためにのぞみが尋ねる。
「ああ、あの上の段の本をね」
この棚は海外作家の棚。『紅の海』も海外作家だった。大祐は海外作家が好きなのだろうか。でもなんで手に取らないのかと大祐を見たら、すでに五冊ほどの本を抱えて両手が塞がっている。その中には『紅の海』の中・下巻も含まれている。なるほどそれで本を見上げて立っていたのか。
「いいですよ、私が取ります。どれですか?」
そう言ってのぞみはブックトラックのキャスターにロックをかけて本棚に近づく。しかしその言葉に大祐は「え?」というような表情をした。
「あの、『セイレーン』ってやつだけど……」
キャシー・ローレンス著、坂本めぐみ訳の戦争小説『セイレーン』。確かにこの小説はのぞみもオススメだ。是非読んでもらいたい。でもその本は本棚の最上段にあった。いくらのぞみが背伸びしようとも一番上の段に届かないことは明白だ。大祐は両手が塞がっていたから取れなかったのではない。手が届かなかったから取れなかったのだ。それを自分より身長の低いのぞみが「取ります」と言ったので驚いたのだろう。
「あ、えーと……。じゃあ脚立を持ってきますね……」
のぞみは恥ずかしさのあまり、逃げるように脚立を取りに行った。

ここの図書館は古いからか棚がとても高い。そしてその最上段まで本が並んでいる。利用者が少ないのだから本も減らせばいいのではと言われたこともあるが、のぞみにとってはどれも大事な本だ。簡単には処分できない。それでも新刊が入れば追いやられる本もあるわけで、考え抜いた末にいくつかの本を駅前の新しい図書館に寄贈したりもした。あとはのぞみが引き取ったり。
またここまで高いところに本があると安全面でも気を使わなければいけないが、最近は便利な対策グッズがあるもので、地震が来ても本が棚から滑り出さないようにするシートを後付けで簡単に付けることができる。
ただ大変なのは本の返却だ。高いところに本を戻すのは一苦労。いちいち脚立を上り下りしなくてはならない。キャスター付きの可動式階段もあるのだが、タイヤのロックが壊れているために必ず一人が下で支えて使わなければならない。これは職員の安全面もそうだし、勝手に動いて来館者にぶつかったら大変だからだ。だから可動式階段は普段は倉庫に仕舞ってあり、来館者に貸し出すのは禁止とされている。最近は人が乗ると台座が沈んでしっかりブレーキがかかる可動式階段もあるようだが、予算が少ないこの南図書館ではそれを購入する余裕はない。だから来館者に貸せるのは脚立のみ。

のぞみは図書館の隅から脚立を運んできた。しかし最上段まで届かせる脚立はそれなりにでかい。身長の倍はあるのではないかという脚立を、のぞみが一生懸命運んできた。大きな脚立を持つと、のぞみがますます小さく見える。そしてそれを見てなぜか大祐がはにかんでいた。気にせずのぞみは梯子に登って『セイレーン』を取る。
「どうぞ」
「ありがとう」
大祐はのぞみから受け取った本を自分が持っていた本の上に重ねる。これで六冊目。
「一応お伝えしておきますが、こちらの図書館では借りられる本は最大五冊までですので」
「ああ、分かった。これを全部借りるわけじゃないよ。何冊かはここで読んでいくから」
そう言って大祐は窓際のテーブルを指さした。ということは午後はずっと図書館にいるつもりだろうか。
「午後は休講ですか?」
「そう、よく分かったね。君も大学生?」
そうだった。のぞみには確認しなければならないことがあった。最初にカウンターで会った時になぜ大祐が敬語だったのか。でもここで答えが判明した。あの時はただ単にのぞみに気づいていなかっただけなのだ。
そしてもう一つ、最大の疑念があったが、それもここで確信に変わった。大祐はのぞみを大学生だと思っている。そしてきっと年下だと思っている。今、このタイミングではっきりさせとかなければならない。そうしないとこのままズルズル年下扱いされてしまう。
「私は学生じゃありません。ここの職員です」
「あ、そうなの?」
大祐がビックリした。
「ついでに言うと、あなたの先輩です」
「えっ、そうなの!?」
大祐がどこの大学に通っているかをのぞみは知っている。昨日貸し出しカードを作った時に身分証明を大学の学生証で行なったと佳が言っていた。そして佳が自分の後輩だと言っていたのだ。佳の後輩ということはのぞみの後輩でもあるということだ。
祐介は驚きのあまり固まっていた。
「え?君いくつ?」
「女性に年齢を聞くのはどうかと思いますが、少なくともあなたに『君』と呼ばれるような歳ではありません」
「あっ、す、すみません……。ちょうど妹が君……あなたと同じぐらいの身長だったもので、つい……」
その言葉でのぞみの眉がピクリと動く。
「その妹さんが大学生なんですか?」
「いえ、高校生です……」
さらにのぞみの眉が動く。
「すみません!」
そう言って大祐が頭を下げた。
『高校生』という言葉に落ち込みそうになったが、きっと今日は着ている服がいけないのだ。エプロンの下はTシャンツにデニムのパンツ。これなら高校生はなくても大学生に間違えられても文句は言えない。のぞみは心の中でそう自分に言い聞かせた。それに、初対面の女性にいきなりタメ口でしゃべるような男の子だが、素直に謝って頭を下げられる礼儀は持っているようだった。
「別にいいですよ。そんなに怒るようなことでもないですし。それに大事な利用者さんですからね」
「ありがとうございます……」
「南図書館は昨日が初めてだったんですか?」
「はい。いつもは駅前の図書館に行っちゃうんですけど、昨日は雨だったので雨宿りついでに寄ったら意外と品揃えが良かったので」
『意外と』は余計だとは思ったが、確かに言いたいことは分かる。駅前の図書館は新しいものがどんどん並ぶ。それに対して南図書館は新しい本の入荷が少ない分、古い本やマイナーな本があったりする。大祐にとっては南図書館の方が自分に趣味に合ったようだ。
「これからもどうぞご贔屓に。ゆっくりしていってくださいね」

それから何事もなく夕方になり、バイトの佳が来た。引き継ぎも終わり、あとは着替えて帰るだけ。
「のぞみさん、なんか嬉しそうですね」
「え?分かる?」
確かに今、のぞみは上機嫌だった。朝は気分も優れなかったのに、終わるころにはなんだかスッキリしている。
「何かいいことあったんですか?」
「昨日来てた北橋大祐さん、いたでしょ?その人が今日も来てるんだけど、ちゃんと私が年上だって説明できたんだよ」
「え?ああ、良かったですね」
佳は「そんなこと?」と思ったが、昨日の絡み酒を思い出して寸でのところで言葉を飲み込んだ。
「話してみると割といい人そうだったよ。海外小説に興味があるみたい。うちの図書館も気に入ってくれたみたいだし、怪我の功名ね」
佳は「そうかな?」と思いつつうんうんと頷いていた。
するとそこへ大祐がやってきた。かれこれ三時間ぐらいいる。そこまで読書に熱中していたのだろう。いいことだ。
「すみません。ちょっとお願いしたいことが……」
しかし大祐はカウンターの中央に座っている佳ではなく、横で立っているのぞみに声をかけた。
「え?私に?」
「はい。また高いところの本を取って欲しくて」
「ああ、分かりました」
「のぞみさん、私が行きましょうか?のぞみさん、もう上がりの時間だし」
「いいわよ。最後にひと仕事していく」
そう言ってのぞみは大祐について行った。場所はさっきと同じ海外作家の棚。
「あれなんですけど」
そう言って大祐が指さしたのは最上段より一段下にある本。のぞみは、あれぐらいの高さなら背伸びすれば届かないだろうか?と思ったが、来館者にそんなことを言うのは失礼だし、それにこちらがお願いした結果バランスを崩して転んで怪我でもさせたら大問題だ。
「分かりました。また脚立を持ってきますので少々お待ちください」
そう言ってのぞみはまた二階フロアの隅から脚立を持ってきた。この脚立はのぞみには大きすぎる。重いし、持ち運ぶときに本や本棚、また人にぶつからないかと色々なところに気をつけなきゃいけないから大変なのだ。それにこの脚立を運んでいるのぞみを見た茉理に、学祭の準備をしてる高校生みたいと言われたことがある。そんなことはないはずだが、脚立を運んでいる姿が写ったガラスで自分の姿を見たのぞみは、茉理に反論できなかった。その時一緒に仕事をしていた菜々子が一生懸命フォローしてくれてた気がするが、のぞみは何を言われたか忘れてしまった。

「ふー」と目的の場所に脚立を立てる。
「すみません」と、大祐は言った。しかしやけにニコニコしていた。何かいいことでもあったのだろうか。
「いいですよ」
そう言ってのぞみは脚立に登って本を取ろうとする。
「あれ?」
しかしその本を見てあることに気づく。背表紙のラベルを見ればそれがどこの棚のどの段に置かれるべきかが分かるのだが、それを見ればその本は本来真ん中あたりにあるべき本だ。
「どうしたんですか?」
「あ、いえ。この本は本来この棚の真ん中あたりの段にある本なんです。きっと誰かが読んだあとに適当に戻したんですね」
そう言いながらのぞみは本を取って脚立を降りる。
「そうなんですか」
「ちゃんと真ん中にあればお客様もすぐに取れたのに。はい、どうぞ」
「ありがとうございます。そうですね」
そう言ってはにかみながら大祐は本を受け取った。さっきから何を……。と思ったところでのぞみは違和感に気づく。
以前にこの本を読んだ人も、なぜあんな高く戻しづらいところに本を入れたのだろうか。きっと最初はこの本を真ん中の段から取ったはずなのだ。それを適当に返すにしてもあんな上の方、成人男性が背伸びをしてやっと届くような高さの段に戻すのはおかしい。そしてもう一つ。大祐はこの脚立の存在を知っている。それに三時間も図書館内をウロウロしてたのだ。二階フロアの隅にこの脚立があるのを見かけたことぐらいあるはずだ。そしてのぞみがこの脚立を使って高い段の本を取ったのだって見ている。取れない本があればこの脚立を使って取ろうと思うはずだ。わざわざ一階のカウンターに来てお願いする手間を考えても、どうにも大祐の行動がおかしい。
のぞみは大祐の顔を見る。
「ね。本当に困ったものです」
犯人は目の前にいた。

「あ、のぞみさん。もう帰りますか?」
「もう帰る!じゃあね!」




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