★ ☆ ★
記憶喪失。
強すぎる衝撃に、一瞬思考が止まった。
久しぶりに会った彼は僕のことだけではなく、ここ数か月の出来事をすべて忘れてしまっていた。
腕の中にいる彼の、いつもと変わらない香りや仕草、体付き。
不安そうに彷徨わせる視線も、身を守るように胸の前で握られた両手も、確かに僕の知っている晶太くんのもので。
夢でも見ているかのような感覚に、うまく頭が回らない。
「あ、の…俺…」
「…どうしました?」
消え入りそうな彼の声で現実に戻された。
存在を確かめるように頬に手を添えると、いつもと変わらない低い体温が伝わってくる。
それに応えるように、彼は僕の服を掴む力を強めながら不安そうにこちらを向いた。
腕の中で震えている彼は、確かに僕の恋人。
森山晶太だった。
それなのに、彼の中に自分はいない。
「あ、の…俺、冷たい…から…」
「大丈夫ですよ。ほら…」
「あ、…ぅ…」
二度目の出会い。
僕のことを先程まで初めて会ったと認識していた彼は、まだ怯えが抜けきらない様子だった。
友達だと伝えてはみたものの、何も覚えていない彼にとってはほとんど他人に変わらないのだろう。
きっと、ポアロで店員として接してきた時よりも。
やんわりと僕から離れようとする彼の手を優しく握る。
なるべく怖がらせないように声をかけながら目を細めれば、相変わらず冷たいその手が控えめに僕の指を握り返す。
それからしばらくすると、ぬくもりに安心したのか先程までのような怯えた表情は見せなくなった。
彼の警戒心の強さに安心する反面、その対象に自分も入っていることにちくりと心臓が痛くなる。
「ほら、風邪引きますよ」
「、ぁ…」
「ちゃんと温かくしてください」
「…うん…あ、りがと…」
近くに置いてあったひざ掛けを、彼の細い肩にかけながら微笑む。
心なしか血色の良くなった頬でこちらを見上げた晶太くんは、嬉しそうにぎこちなくはにかんだ。
何が嬉しかったのかは分からないけれど、それは彼が今日初めて見せた笑顔。
長い睫毛が頬に影を落とす。
驚いて固まった僕を見た彼はハッとしたように笑うのをやめて、首を傾げながらこちらを見上げた。
まるで深海を注いで閉じ込めたかのような濃紺の瞳が、不安そうに揺れる。
「あ…の…俺…やっぱり…」
「すいません。もう少しだけ」
「…あの…」
「僕がこうしていたいんです」
彼の背中にまわした手に力を込めて、胸に抱き寄せた。
まだ冷たいままの彼に自分の体温を分けるように。存在を確かめるように。
密着した体から少し早くなった心臓の音が伝わってきて、晶太くんの緊張がうつってしまいそうだった。
「もう少しこのままでもいいですか?」
「だ、いじょうぶ…です…」
本当に、無事でよかった。
もっと早く会いに来たかったけれど、結局遅くなってしまった。
混乱する彼を前に、後悔が頭を支配する。
彼が倒れたと聞いたのが数日前。
それをたまたま見つけてくれたのがコナンくんで、そのまま病院に連れて行ってくれたらしい。
どうして傍にいてあげられなかったのだろうか。
何故だか目が覚めない彼のことが心配で、そんな時に限って仕事を切り上げることができなくて、何とも言えない不安が胸を支配した。
それから、病院で目を覚ました晶太くんは医者の話を聞いた後、自分の足で家に帰った。そう聞いていたのだ。
でも、僕の目の前にいる彼はそれすらも覚えていなくて。
「あ、の…俺達…ほんとに…友達…?」
「はい。本当ですよ」
「そ…か…」
僕の返事を聞いた晶太くんは、目を伏せて僕のシャツを握った。
嘘をついたのはただでさえ混乱している彼をこれ以上追い込みたくなかったから。
演じるのは、慣れている。
それでも、腕の中で大人しく身を委ねる彼を見ていたら、いつまでこの関係が続くのか分からなくて怖くなった。
冷たい床の上。
2人で座り込みながら見たのは、透明な未来。
甘いだけでは終わらない
▲前 /
▼次