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★ ☆ ★




「安室透」

たくさん聞いた、知らない言葉達。
その中でもその名前は俺の耳に残って離れない。
それは決してその名前を憶えていたわけではなく、綺麗で儚い彼から目が離せなくなったから。
いったいどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。
固まる俺の視界の中で、彼の宝石のような瞳が細められて眩しいくらいに輝いた。

「安室です」
「へ…?」
「僕の名前」

安室さん。それが床に座り込んだ彼の名前らしい。
何度も心の中で呟いてみたけれど、やっぱり記憶にはない。
そのはずなのに、何故だろうか。
何かが引っかかる気がして、心臓の辺りがもやもやと疼いた。

「あむろ…さん」
「うん。晶太くん」

口に出してみてもやっぱり思い当たらない。
けれど彼は俺が名前を呼んだその瞬間、本当に嬉しそうな声を出すものだから、なんだかこちらの方が恥ずかしくなってしまった。
綺麗で、優しくて、眩しい彼が次々と記憶に焼き付いていく。

「あ…の……ぁ」
「うん。ゆっくりでいいですよ」
「安室さんは、俺…と…、ともだち…なんですか?」

俺みたいな暗い人間と、こんなに完璧な人が友達なんてとても思えないけれど。
なんとか絞り出した俺の声をしっかり聴いてくれた彼は、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。
それから、目を細めてふわりとこちらに微笑んだ。

「うん。正解。友達です」
「…そ、か…」

そう言いながら彼が見せたのは、あまりにも完璧な笑顔。
何故だか分からないけれど、その時の彼は今までと少しだけ雰囲気が違う気がした。
何とも言えない違和感。それが何なのかわからない。
でもその瞬間。何か引っかかったのは事実だった。
けれど、「友達」というその甘くて蕩けるような言葉に浮かれてしまった俺には、それを深く考える余裕なんてなかった。

「ぇ…ぁ…俺、知らない人……来たかと思って…ごめ、なさ…」

彼は勝手に家に入ってきたわけではなかったのだ。
安心して息を吐き出すと、無意識に強張っていた体から力が抜けていく。
勝手に勘違いして、怖がって。本当に申し訳ないことをした。
嫌われたらどうしよう。
そう思ったら心臓の辺りがちくちくと痛んできて、水をたくさん飲んだ後みたいに苦しくなった。

「大丈夫。気にしてないですよ」
「でも…俺、なんで…覚えてな…い」

知っているはずなのに、知らない。分からない。
怖い。どうして。
何もわからない。
でも、目の前の彼なら何かを知っているような、そんな気がした。

「あ、むろさ…」

混乱したままふらふらとベッドから立ち上がって、床に足を付ける。
そしてそのまま部屋着の裾を握りながら彼の傍まで歩いた。
静かな部屋の中で、ぺたぺたと歩く俺の足音だけが聞こえる。
縋るように彼の前に膝をつくと、顔を見ないで俯いた。

「もう怖くないですか?」
「ん…ごめ、なさい…」

冷たいフローリングと、座ったままの彼の足が視界に入り込む。
安室さんは、俺が怖がらないようにかその間もずっと動かないでいてくれた。
優しくて、自分には勿体ない人だ。そう思った。

「…、…」
「晶太くん?」
「こ、わくないです…」

動こうとしない彼の手に、自分の手を伸ばして恐る恐る触れてみる。
やっぱり大丈夫だ。
この人は、怖くない。
冷え切った指先に温かいぬくもりを感じて、それと同時に彼が息を呑む音が聞こえてきた。

「晶太くん」

名前を呼ばれて反射的に顔を上げようとしたその時、不意に手首が掴まれて彼の方に思い切り引き寄せられた。
思わず思い切り目を瞑る。

「わっ…」
「無事でよかったです」

驚く暇もないくらい、突然の出来事。
俺の体を優しく、でも力強く両腕で抱きしめた彼は、本当に安心したように俺の耳元でそう囁いた。
その消え入るような声はきっとこの近さでなければ聞き逃してしまったに違いない。

「あ、むろさ…?」

存在を確かめるみたいに、彼の手が俺の頭を撫でる。
温かくて優しい体温が、冷たい体に染み渡って馴染んでいくようだ。
何だか気持ちが良い。幸せ。
とくとくと一定間隔で聞こえてくる彼の心臓の音が心地よくて目を細める。
安室さんのスーツからは自身の香りに混ざって、ほんの少しだけ煙草の匂いがした。

「良かった…」

今にも泣きそうな声を出す彼に、心臓が潰されてしまいそうになった。
忘れてしまったのか、それとも本当に知らないのか。
それは分からないけれど、彼は俺の知らない俺の記憶を持っていて、俺の知らない俺を知っている。それは事実だ。
冷たい床の上で抱きしめられたまま、彼のシャツを握りしめる。
彼のことが知りたい。素直にそう思った。


ほろ苦い感情 

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