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★ ☆ ★




「…僕のこと…覚えてないんですか?」

やっと絞り出したみたいな掠れた声で、見知らぬお兄さんは俺にそう質問した。
その様子に思わず何度も瞬きを繰り返す。
覚えていないも何も、流石の俺もこんなに綺麗な人を忘れるとは思えないのだけれど。
何も答えられないまま固まる俺を見た彼は、一瞬だけ見せた傷ついた顔を隠すみたいに目を伏せた。
長い睫毛に光が当たる。
まるで俺からの返事を聞くのを怖がるみたいな彼の表情や動作に、こちらも少しずつ不安にされていく。

「ご、め…なさ…」

人と会話をするのは、怖くて慣れない。
それだけじゃない。
こんなに悲しそうな顔をされるのだって、目を見られるのだって、全部全部。
苦手だ。
それがどんなに優しそうで、綺麗な人でも。
俯きながら、毛布を握る手に力を入れた。

「そんなに怯えないで」
「え…?」

何かに怯えたような顔をしていたのはそっちだったじゃないか。
そう思って顔を上げると、彼の長い指がこちらに伸びてくるのが見えて、反射的に肩が震えた。

「僕は君を傷つけたりしません。信じてください」

そう言いながら彼は困ったように眉を下げてこちらに微笑む。
彼のことを見るのに夢中で、自分の状態に気が付かなかった。
目の前の見知らぬ彼が動くたびに、壁に押し付けたままの自分の体が震えている。
しきりに視線を彷徨わせる俺を安心させるように、彼の優しそうな瞳が細められた。

「ぁ…、こ、わくない…です…」

すぐにばれる嘘をついた。
これ以上怖がったら、傷つけてしまう。
彼のことは絶対に傷つけてはいけない。
何故だかそう本能が告げるのに、どうしても体が言うことを聞いてくれない。
何故だかお互いに傷つけ合う俺たちは、一体どういう関係なのだろうか。

「あ…の…、怒…」
「怒ってないですよ。大丈夫」

先程から一定の距離を保って接してくれる彼に縋るように視線を向ける。
ふんわりと微笑んだままの彼は、敵意がないことを示すようにその場にゆっくりと腰を下ろした。

「…どこまで覚えてますか?」
「俺、…なんにも忘れてな…」
「…」

俺の答えを聞いた彼は長い指を口元に当てると、何かを考え込むように俯いた。
動くたびに彼の明るい髪の毛がさらさらと揺れて光る。
それを見ると、なんだか胸の奥がざわざわと騒ぐ。
やっぱり、綺麗。
何だろう。こんな気持ち、初めてだ。

「名前は?」
「へっ…?」
「君の、名前」
「ぇ…ぁ…森山、…晶太」

唐突にされた、その簡単すぎる質問に小さな声で答える。
見とれていて反応が遅れたのが恥ずかしくて、少しだけ頬が熱くなった。
俺の答えを聞いた彼は意外そうに目を真ん丸にした後、また少しだけ考え込む。
それから、俺の方をまっすぐ見ながら一言だけ呟いた。

「ポアロ」
「…?」

それは、初めて聞く言葉だった。
呪文のようなその言葉に首を傾げた俺を気にかけることもなく、彼はそのままたくさんの言葉を呟いていく。
物の名前、場所の名前、人の名前も混ざっていたかもしれない。
聞き覚えのない単語たちが次々と現れては消えていく。
その行為は、俺の返事を聞くことなく繰り返されて、終わりが見えない。
彼に俺が見えていないのではないかと錯覚してくるほどだった。

「江戸川コナン」
「ぁ…っ…ぅ、」
「…赤井秀一」

怖い。
聞き覚えのない言葉達に恐怖が募って、今すぐ耳を塞いでしまいたくなった。
じわじわと目の奥が痛くなってきた頃、彼の口が動くのをやめた。
狭い部屋に、静寂が戻る。

そして彼は、その長くて綺麗な指を口元から離すと、しばらく黙り込んだ。
それからゆっくり息を吐き出してから真っ直ぐこちらを見る。
目が、離せない。
彼の持つその瞳は一瞬だけガラス玉のように透き通った後、先程までの紺碧に姿を変えていった。

「安室…透」

彼の放った言葉に応えるように、カーテンが一度だけ揺れた。


ミルクティーブラウン 

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