×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

★ ☆ ★




「う…っう、…」

トイレの床に座り込んだまま、静かに涙を流す。
もうこれ以上何も出てこないのに、まだお腹の中が気持ち悪い。
さっき頭に流れてきたあの記憶は一体何だったのだろうか。
自分は記憶喪失で、何も知らないはず。
あれが本当に現実の出来事だったのかどうかも確信がない。
それなのに男の人に掴まれた感覚が腕に残っているような気がして、それを振り払うように首を振った。
視界がぐらぐらする。
ここに座っているのも辛いくらいに、世界が回り続ける。
そろそろ外に出ないと彼に心配をかけることはわかっている。
でもあんなに取り乱してしまって、一体どんな顔をして彼に会えばいいのか。

「晶太くん…」
「はい…」
「大丈夫ですか?…開けますよ?」

働かない頭で後悔していると不意に後ろのドアがノックされた。
それから俺の名前を呼ぶ、大好きな彼の声。
揺れる視界と戦いながら濡れた頬を拭っていると、鍵の回る音がして控えめに開いたドアが背中に触れる。
逃げていても仕方がない。ダメだ。もう、覚悟を決めないと。
ゆっくりと振り返るとドアの隙間から顔を出した彼が俺の様子を心配そうに確認していた。

「ぁ…あ、むろさ…」

きっと俺は酷い顔をしているのだと思う。
彼は不安そうな顔から一転、俺を見ると辛そうに眉を寄せた。
やっぱり。どうしてそんな顔をするの。
ふらふらと立ち上がると、廊下に出る。
動けるとは思わなかったのか、彼は俺の行動に驚いた顔をしていた。
それからトイレのドアを閉めてそこに寄りかかりながらなんとか足に力を入れた。
力を抜いたらすぐに倒れてしまいそうだ。

「晶太くん…顔色が」
「あ、むろさ…ごめんなさい」
「え?」
「俺…安室さんに酷いこと…それに、ハムサンド…せっかく作ってくれたのに…」

俯きながら絞り出すように謝罪の言葉を漏らす。
服の裾を思い切り握りながら、また泣きそうになる自分を抑えようと必死になった。
彼の顔が見られない。
視界が回り続ける。でも、苦しいのは俺じゃない。

「酷いことしたのは僕の方だ」
「あむ、ろさん?」
「…僕が怖くないんですか?」
「…え…?」

彼が何を言っているのか分からなくて、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げた。
相変わらず辛そうな顔をする彼の綺麗な瞳の中で、俺はとても酷い顔をしていた。
彼は俺の反応を確かめてからこちらに向かってゆっくりと手を伸ばした。
もう体が震えることもなくて触れてもらうのを期待するように彼のその手を静かに見つめた。
けれど自信がなさそうにこちらに伸びてきた彼の手は、俺の頬に触れる直前に動きを止めた。
それから何かに迷うように空中を彷徨う。

「安室…さ、ん?」
「ごめんなさい…早く休みましょう。…歩けますか?」
「…い、やです…行、きたくない」
「何言ってるんですか。そんな顔色で」

彼は最近、いつもこうやって俺から離れようとする。
いつも言う通りにしていたのは、食い下がったら嫌われてしまうと思ったから。
でも今日は逃げてはいけない。赤井さんと約束したんだ。
彼の言葉にやんわりと首を振ると、驚く彼に自分から近づいた。
冷えたままの体が彼のぬくもりを求めている。
触って欲しい。
俺は自分の欲望のままに空中で停止したままの彼の手に擦り寄った。
あたたかい手の温もりが冷たくなった頬を温めていく。
彼から息を呑む音が聞こえた後、頬に触れていた指が動き出して涙で濡れた目元を拭った。

「俺…怖くない…し、辛くない…から、もっと…」
「…っ…」
「お願い…」

彼の服を掴んで懇願すると言葉を詰まらせた彼の眉が寄せられた。
それから長い指に顎を掬い上げられる。
視線が絡み合うと彼の瞳がゆっくりと細められて、形の良い唇が微かに動いた。
頭を固定していた指が首を撫でるのと同時に整った顔が少しずつ近づいてくる。
それを眺めていると、近づくにつれてやがて彼に焦点を合わせられなくなった。
吐息が混ざり合うほどの距離にいるのに緊張どころか何も考えられない。
彼からこちらに近寄ってくれるのが嬉しい。
甘い香りに、少しずつ思考が溶かされていく。

「…っ…、ごめんなさい…僕…」
「…あ、むろさ…?」

良く見えない程すぐ近くにいた彼の動きが止まって、戸惑ったように息を吐いた後、頭が肩に乗せられた。
その重みですぐに我に返った。
キス、されるかと思った。
思い出したように心臓が煩く動き出して、少しだけでも期待してしまった自分が恥ずかしくなった。
自分は所詮、彼にとって友達でしかないのだ。そんなことされるはずがない。
視界の端で彼の柔らかそうな髪が小さく動いて、控えめに背中に回された腕に抱きしめられる。
密着した体から彼のぬくもりが伝わってきて、空っぽだった心が少しずつ満たされていく。
堪らなくなって小さく息を吐くと、彼の腕の力が強くなった。

「体、冷たいですね」
「…うん」
「ごめんなさい晶太くん…僕のせいで…さっき」
「ち、がう…違います…あむろさんは、何…にも、してな…」

あれは、自分の知らない記憶のせいで、安室さんは何もしていない。
不安そうな安室さんがいつもよりも小さく感じて、そんな彼を安心させるように一生懸命抱きしめ返した。
一定のリズムで動く彼の心臓の音が、ゆっくりと体に染み込んでいく。
温かい。
安心した途端、一気に体から力が抜けていって、抗う暇もなくその場に座り込んだ。
俺の体を支えていた彼も、動きを追いかけるようにその場に膝をつく。

「わっ…!晶太くん…!?」
「も、限界…です…」

とくん、とくん。と耳元で鳴り続ける彼の鼓動。
それをもっと近くで感じたくて、力の抜けた足を必死に動かして密着した体を更にすり寄せた。
目を閉じているのに視界が揺れ続ける。
もう離さないで欲しい。もっと強く抱きしめて欲しい。
安室さんと一緒じゃないと、もう安心できない。

「晶太くん…大丈夫?…つらいですか?」
「ち、がう…違う…寂しかった…!」
「…っ…」

俺を見るたび辛そうな顔するから。抱きしめてくれないから。
何も覚えていないのが怖くて、ずっと寂しかった。
腕の中で我慢できずに子供みたいに泣きだした俺を、彼の腕が痛いくらいに強く強く抱きしめた。
泣き止まない俺の背中をさすったり頭を撫でる彼の手が優しくて、ずっとこの時間が続いて欲しいなんて我儘を本気で考えた。


「泣き止みました?」
「うん…」
「晶太くんごめんなさい…何かして欲しいことありますか?」
「…、…」
「ん…?」
「ぁ…えと、一緒に…いてください」

一体どれくらい泣いていたのか分からないけれど、気持ちがだいぶ落ち着いた。
胸に縋る俺の耳に顔を近づけた彼が、優しい声で囁いた。
吐息と共に鼓膜が揺れるのが少しくすぐったくて身じろぐ。
俺の答えを聞くとすぐに頷いて、すっかり力が抜けた俺の体を抱き起こした。
軽々と俺を持ち上げた彼がひんやりとした廊下をゆっくりと歩く。
さっき走った時にはあんなに長く感じた廊下があっという間に終わって、冷え切った体がベッドに優しく下ろされた。

「晶太くん…寝られそうですか?」
「…ん」

小さく頷いて、ベッド脇に立つ安室さんの服を引っ張った。
ちゃんと眠れる。安室さんがいてくれれば。
俺の返事を聞くと、彼も同じようにベッドに入って俺の横に寝転がる。
優しく抱きしめてくれる彼の体温が嬉しくて、見られないようにちいさく微笑んだ。
強引だけれど、一歩前進することができた。
彼はまだ笑ってくれないけれど、幸せだ。
しばらく夢のような幸せを噛みしめていると、俺の体を抱きしめている彼の力が少しずつ弱くなっていった。

「…あ、むろさ…?」
「…」

気が付くと彼は、俺を抱きしめながら眠ってしまっていた。
小さく身じろいだ彼の動きに合わせて金色の髪が流れて、まだ明るい室内で煌めいた。
今は閉じられた目の下に隈があるのを見つけて、途端に胸が痛んだ。
本当は全部、知っていたんだ。
俺がベッドを取ってしまったせいで、安室さんがソファーでしか眠れていないこと。
彼が今の俺じゃなくて、昔の俺を見ていること。
それに気が付いているのに離れることができないのは、心に生まれてしまった邪魔な感情のせい。
羨ましかった。こんなに彼に大切にされている自分のことが。

「安室さん…ごめ、なさ…」
「…」
「ごめ、…なさ…俺、もう…、友達じゃ…嫌だ。すき…好きです…」

頭を擦るたびに髪の毛が乱れて、息を吸うたび彼の香りで胸がいっぱいになる。
こんなこと言ったら安室さんは俺のこと、嫌いになるだろうか。
これは、赤井さんにも言えなかった俺の本当の気持ち。


クリームソーダの夢 

▲前 / ▼次